香月院 浄土文類聚鈔講義 第5巻の3(4の内の3) 正説分の信釈 『大経』と『如来会』の文によって 信心の利益を表す |
浄土文類聚鈔講義 第五巻之三 |
香月院深励講師述 宮地義天嗣講師閲 松内上衍校訂 ◎獲真実浄信、得大慶喜心。得大慶喜心、 ◎(真実浄信を獲れば、大慶喜心を得るなり。大慶喜心を得るというは、) 「獲真実浄信」等。二示獲信益二。初標得大慶益〈二に獲信の益を示ぐるに二。初に得大慶の益を標す〉。上来信心の得難き事を悲嘆したまいて、これより下は、そのかかる得難き信心をうれば広大なる益をうると、信心を得た得益を述べたまう所故に、科文に標得大慶益と云うなり。KG_MRJ05-26L 「獲真実浄信〈真実浄信を獲れば〉」とは、これは成就の文の信心歓喜の心なり。我祖、真実信を明かすには願成就の文を離るる事はない。即ち「信巻」現生十種の中では「心多歓喜の益」に当たる。時にそれならば獲真実浄信心得歓喜〈真実浄信心を獲れば歓喜を得〉とあるべきに「得大慶喜心〈大慶喜心を得〉」とあるは云何と云うに、これは成就の文の下の三十行の偈に「見敬得大慶〈見て敬い得て大きに慶ぶは〉」等の文あり。この「得大慶」とあるのが、信心の行者の大慶喜心を得る益を、仏直ちに称讃したまう御言なり。そこで今成就の文の信心歓喜を明かし乍ら、三十行の偈を熊〈?〉と切り合わせてのたまうなり。KG_MRJ05-26L,27R 時に成就の文「信心歓喜」に慶喜の信を引き付けたは『讃弥陀偈』の指南なり。成就の文を述ぶる所に「信心歓喜慶所聞〈信心歓喜して聞く所を慶び〉」とあり。「慶」の字「大慶喜心」なり。故に『讃弥陀偈』に依りて成就の意を述ぶる讃に「一念慶喜するひとは」等とのたまう。そこで今も成就の文の「信心歓喜」を述べ乍ら「得大慶」を述べたまう。KG_MRJ05-27R 時に我祖は歓喜と慶喜をを分けたまう。歓喜は当得を念じて喜ぶ故に、得べき事を今から念じて喜ぶなり。又慶喜は『御消息集』に「慶喜と申し候ことは」等とあり。同じ喜びなれども往生を一定して我が身に已にえたるここちにて喜ぶが慶喜なり。『唯信文意』に「慶はうべきことを得て」等とあるに依りて、慶喜の心は信后相続の喜びに限る事のように思えども、さようではない。我祖「一念慶喜するひとは」とものたまいて、信の一念同時に早この大慶喜を得る。然るに「信心をえて後に」とのたまうは云何と云う。これは慶喜の相〈すがた〉を顕すなり。信心を得ざる先の喜びではない。我が身に信心をえたる后の喜びとのたまう意なり。『御消息』に明らかなり。「往生を一定してんずと、喜ぶ意を申すなり」と在るを、都て往生を吾身に取り得た心地にて、我が往生は一定と喜ぶが慶喜なり。KG_MRJ05-27R,27L 時に同じ喜びなれども、慶喜は我が身に得たるを喜ぶと釈したまうは何ゆえぞと云うに、「信巻」の信楽の楽の字の字訓に「賀也。慶なり」の訓出る、それをこの慶の字は賀慶の義で、已に目出度き事のありたのを慶と云う。賀慶は『周礼』の中に「以賀慶之礼、親異性之国〈異姓か? 賀慶の礼を以て、異性の国に親しくす〉」文。それを註して「諸候国、有喜可賀、王使太夫、以物慶賀之也〈諸侯か? 諸候国、喜の賀すべきあり、王、太夫をして、物を以てこれを慶賀せしむるなり〉」。「信巻」の字訓に「賀慶」とあるは、この意なり。諸侯方の互いに賀慶のあるは目出度き事の在った事なり。今は極悪深重の衆生、末来永々劫〈未来永々劫か?〉の苦患を免れて、浄土に往生して仏になる事をば「聞其名号、信心歓喜」の一念に早、手に得たる心地にて喜ぶ、これ程の喜びはなき故、そこで「獲真実浄信、得大慶喜心〈真実浄信を獲れば、大慶喜心を得るなり〉」とのたまう。これ世尊の「得大慶」と称讃したまう経文故、爰に挙げたまうなり。KG_MRJ05-27L,28R ◎経言。其有至心願生安楽国者、可得智恵明達功徳殊勝、取要。 ◎(経に言く。それ至心に安楽国に生んと願ずることあれば、智恵明らかに達し功徳殊勝なることを得べしと、取要。) 「経言其有」等と。二引経顕益相二。初大経〈二に経を引きて益の相を顕すに二。初めに大経〉。これより下は『大経』并びに『如来会』を引きて、上に標する所の「得大慶喜」の利益の相〈すがた〉を顕す一段なり。経は『大経』下の悲化段の文なり。KG_MRJ05-28R 「其」とは、それ衆生ありてと云う事なり。「至心」等は十八願の文なり。爰に信楽の一つを略したまうは、次の文の「智恵明達功徳殊勝〈智恵明らかに達し功徳殊勝なること〉」とあるが直ちに信楽の相〈すがた〉なり。それ故初めに「至心願生」のみを挙ぐ。KG_MRJ05-28R 時にこの文を古来多く当益とみる所なり。『大経会疏』抔には六度の行を勤めたまう利益と云う。「智恵明達」と云うは智恵波羅密の事なり。「功徳殊勝」と云うは前五波羅密の事じゃと解してあり。『文類』の末書も古はみな会疏の意のようにみえる。今祖御引用の思し召しはさようなる事であろう筈なし。『義讃』の中に当益・現益の二義を弁じたも、又不可なり。これは現益なり。当益に非ず。「可得」と云うは、えらるると云う事。宿善開発の行者は至心願生の短的に「智恵明達功徳殊勝」なる事をえらるると云う事なり。もし当現〈当益か?当来か?〉ならば当得とあるべき筈なり。「知恵明達」と云うは、これ智恵段に説いてある。「明信仏智」の信心の智恵なり。愚痴無智の凡夫なれども、今仏智の不思議に疑い晴れて決定明了に信ずる所を「智恵明達」と云うなり。「達」は通なり。通りぬける事で少しも滞りのない事なり。もし毫髪ばかりも若存若亡の疑いあれば明達とは云われぬ。KG_MRJ05-28R,28L 今他力回向の信心は露塵程も無疑無慮、往生一定と決定する故なり。この信心の智恵を「功徳殊勝」とのたまうは、これは流通の文の「無上功徳」なり。上から毎度出る通りに『浄土論』の「功徳宝海」とあるを吾祖は「功徳と申すは名号の功徳」としたまう。今この功徳も名号の功徳なり。聞其名号の信心を得る時は不可称不可説不可思議の名号の功徳を行者の我が身に満足するを「功徳殊勝」と説く。「殊勝」と云うは、今迄は曽て無一善の凡夫なりしが、俄に功徳が勝れて来て、名号の海の功徳を悉く吾身に満足すると云う事なり。『大経』の古今の諸師にこの文をかく解するものなし。我祖はかく御覧なさるる故に『広』『略』の文類、信心の下にこの経文を引きたまう。「取要」とは、かの延書には要を取るとよみてあり。今上下二巻の『大経』の中より只この一文を引きたまうに由りて「取要」とのたまう。KG_MRJ05-28L,29R ◎又経言。是人即是大威徳者。亦説広大勝解者、已上。 ◎(又、経に言く。この人は即ちこれ大威徳の者(ひと)なり。亦、広大勝解の者なりと説けりと、已上。) 「又経言」等。二如来会。これ『如来会』を引きたまうならば、如来会に言くとあるべし。又「経言」とあるは如何と云うに、これは『広文類』にこの一格あり。『如来会』なれども『大経』の異訳なる故に、『大経』を引く次にこれを引くに、「又言」として引きたまうなり。KG_MRJ05-29R この文は下(十九)文なり。「阿逸多。かくの如き等の類は大威徳の者」とありて、弥勒菩薩に告げたまうは、我滅度に於いてこの法を信受し奉行する者は大威徳の者なりと説きたまう。爾れば『大経』の教えの通りに信心を得た者の事を「大威徳の者」なりと釈尊の讃えたまう言なり。「是人」と云う事は『如来会』にはなけれども、これは『観経』の「是人名芬陀利華」の「是人」の言を爰に加えたまう。「大威徳」と云うは即ち名号の功徳なり。「威徳」というは威神功徳なり。上に引く第十七成就の文に「威神功徳」等とあるは、即ち名号の功徳なり。上に弁ずる如し。今は他力の信心の吾身にその名号の功徳を悉く具足する故に、他力の行者を大威徳者と名づけたまう。KG_MRJ05-29R,29L 又「説広大勝解者〈広大勝解の者なりと説けり〉」と云うは、これは『如来会』には前に名づけてある文なり。今は後に回したまう。「勝解」と云うは殊勝の解了と云うなり。倶舎・唯識の性相では勝解の心所と云うものあり。決定の境に於いて起こる心所を勝解という。今迄は有事・無事がこれじゃ。悲しやと云う。猶予しておりたのが弥々にこれに違いないと解了した所故、勝れた解了と云う事にて勝解という。今他力の信心の行者が如来の智恵海に向こうて毫髪計りも猶予する心なく、御助けは一定、弥々違いないと殊勝の解了を起こす。これを勝解と名づく。それが常並の解了に非ず。等覚の大士なりとも量り知られん仏智不思議をおぢげなく〈恐ぢ気なく か?〉明了に決断決尽して信ずる故、これ程大きなる勝解はなき故、爰を仏は「広大勝解者」と讃めたまう。他力信心の行者を讃めたまう。『[シン09]記』に引く「行願品」の文は『四十華厳』に出る偈文なり。深く信ずると云うは、弥々違いないと云う。広大勝解でなけねば信ぜられぬなり。KG_MRJ05-29L,30R 時に今『如来会』の文を引くに経文と前后になると云うは云何というに、これは全体『如来会』を引きて、初めの『大経』の文を助成したまう。『広文類』にこの一格あり。経文をいくつも并べ引きて、后の経文を以て前の経文の意を顕す。経を以て経を釈する例あり。これ文類ゆえ御引文が直ちに吾祖の思し召しなり。そこで引文にて引文を釈してあり。別して『大経』と異訳とを引くは、後の異訳の経文にて初めの『大経』の文を助成するなり。願成就の文を引くにいつでも『如来会』の文を并べて引いてあり。『大経』の文をば「乃至一念」とありて、信やら行やら知れぬ。后に引く『如来会』「一念浄信」とあり。前に引く『大経』の「一念」は信の一念なる事を后に引く『如来会』にて顕したものなり。今もその意なり。KG_MRJ05-30R,30L 初めの『大経』の文に「智恵明達」とあるは信心の智恵の事なり。その信心の智恵明らかなる所の『如来会』には「広大勝解者」と説くゆえ、『如来会』の「勝解者」を以て前の『大経』の「智恵明達」を助成したまう。又「殊勝功徳」とあるは名号の功徳を満足する事ゆえ、それを『如来会』には「威徳者」と説き、これも『如来会』を引きて『大経』を助成するなり。時に後に引いたを前に釈すると云うが御定なり。経にも論にもこの格あり。今『如来会』の文を前后にするはその心あり。『大経』の文に「功徳殊勝」の文、后にあり。それを先に助成する。爰に「大威徳者」の文を前に引きたまうなり。兎角『広』『略』の文類は御引文に一々精密なる定格あり。ここにて文は解し畢わる。KG_MRJ05-30L ここに合点の行かぬ事あり。この御引文の初めに「得大慶喜心〈大慶喜心を得るというは〉」と標してあり。爾るに引く所の文の中に大慶喜心の相〈すがた〉なし。これ何の為に引きたまうぞと云うに付いて『蹄[シン09]』に問答して、その答に喩えを挙げ、信心は木の根の如く、智恵功徳は枝の心や葉の如し。次に「慶喜」の「喜」は植木の華の如し。時に根や葉さえあれば、自ずから花の咲いたは知れた事なり。今は信心の根から智恵功徳の葉や心の出る事を説く経文故、慶喜心とあるは知れた事、故に証になると云う事なり。日渓の才子〈?〉に似合わん鑿説なり。KG_MRJ05-30L,31R 又『義讃』には、信心の智恵明らかになりた所で不思議の功徳を得る故に、そこで有り難しと云う慶喜が起こる故に「得大慶喜」の証になるというなり。『義讃』者の如く云わば、我が身に功徳を得た事を喜ぶ大慶喜になるなり。そうではない。往生をしてんずと喜ぶ大慶喜なり。我が身に功徳を得たらば喜びもあるべけれども、それ位の事ではない。未来往生をえてんずと喜ぶ心なり。故に『義讃』の釈も用いられぬ。これは諸註ともにこの御引文は大慶喜の相〈すがた〉を説きたものと見る故、この引文が一向に合わぬなり。KG_MRJ05-31R これは大慶喜の心を得たるものを讃える仏称讃の言を引きたる文なり。標文の「得」の字を忘るるべからず。大慶喜心を得たるものを説きたるものを説きたる経文とは云うべし。大慶喜心を説きたる経文には非ず。先ずこの文、仏の称讃を説く経文と云うは、この所の「信巻」に引き合わして見るべし。KG_MRJ05-31R,31L 「信巻」の初めには爰と同じく「是心不顛倒」等の文ありて、その次に「極悪深重(止)重愛也〈極悪深重の衆生、大慶喜心を得、もろもろの聖尊の重愛を獲るなり〉」とあり。大慶喜心をえたるものを大聖世尊の重愛して称讃したまう。今この『略文類』にはその大聖世尊の重愛して他力の行者を称讃したまう文を引きた文なり。爰の引文はみな仏称讃の文なり。最初『大経』の文「可得智恵明達功徳殊勝〈智恵明らかに達し、功徳殊勝を得べし〉」と讃め、次の『如来会』の文は勿論の事、仏称讃の文なり。これに違いなき証拠は「信巻」末、現生十種の益を列ね、それより下に十益の証文をを引きたまう文をみるに、即ち爰に引きてある『大経』并びに『如来会』の文なり。『広文類』の御引用をもって知るべし。KG_MRJ05-31L 爰に引く経文は仏称讃の文なる事、爾るに又標文に得大慶喜心と標するは如何と云うに、これは爰に引く称讃の文は外の事を讃めるではない。今日の衆生、大慶喜心を得た者を讃えたまえるなり。爰が有り難き所なり。大慶喜心は往生を一定して手に得たる意にて喜ぶなり。我々かようなる愚痴之衆生は、みぬ極楽を慥かに思うさえあるまじき事じゃに、「信巻」の御言の如く、我が身は極悪深重の衆生それが直ちに界外の浄土に往生して、直ちに仏になると云う事を、手に握りたる如く喜ぶは智恵明達の人でなけねば喜ばれぬ。都て愚なる者は世間の事を現に目にみた事でなけねば決定は出来ぬ。今決断決尽の広大勝解の人なればこそ報土の往生を決定して、やれやれ有り難しと大慶喜心が起こる。そこで大聖世尊称讃して「智恵明達」等、「大威徳者」等と讃じたまう。爾れば引く所の文外の事を讃ずるに非ず。大慶喜心を得たる事を讃むる。そこでこの文、大慶喜心を得たる相〈すがた〉を顕すなり。故に上に「得大慶喜心」と標したまうなり。KG_MRJ05-31L,32R |