香月院 浄土文類聚鈔講義 第5巻の4(4の内の4) 正説分の信釈 真実信の徳を結嘆する 真実行・真実信を総結する |
浄土文類聚鈔講義 第五巻之四 |
香月院深励講師述 宮地義天嗣講師閲 松内上衍校訂 ◎誠是除疑獲徳之神方、極速円融之真詮、長生不死之妙術、威徳広大之浄信也。 ◎(誠にこれ除疑獲徳の神方、極速円融の真詮、長生不死の妙術、威徳広大の浄信なり。) 「誠是除疑」等。二結嘆。この一段は真実信の徳を結嘆する文なり。KG_MRJ05-32R 『広文』「信巻」には最初に真実信の徳を嘆ずる文十二句あり。今この『略本』では真実信を明かし畢わる所に、この嘆徳の文あるが故に、これは結嘆なり。即ち略して四句を挙ぐる中に、この『略文』は真実信を明かす章甚だ短い。これも『略文』故、略して明かすのじゃと申して通ずる所なれども、唯そう計りは申されぬ。『広文類』では「行巻」は一巻、「信巻」は二巻なり。それからみればこの『略本』は略して明かすにも、行を明かす章よりは信を明かす所長くなけねばならぬ。爾るに短い。これは先達て云う通り、この『略本』の体勢、行に信を摂して明かしたまう故の事なり。KG_MRJ05-32R,32L 先ずこの『広』『略』の文類は御引文重なり、そこで「信巻」には真実信の御引文、仏経并びに師釈を引く間が十四・五枚あり。爾るにこの『略本』は都て真実信の御引文はなし。無引文なれば文類の相〈すがた〉なし。これ信を明かす章は明らかに上の行を明かす下に収めてある。これがこの『略文類』の御体勢なり。古来みな上に引きてある『大経』并びに『如来会』を真実信の証文とみる。『[シン09]記』并びに『義讃』の科もこの『大経』并びに『如来会』の信を明かす章の御引文とみる。これ甚だの疎慢なり。KG_MRJ05-32L 昨日弁ずる如く、『大経』并びに『如来会』の文は仏の称讃の御言なり。それは大慶喜心を得る相〈すがた〉を明かす為に引きたまうなり。そこで初めに「得大慶喜心」と標してある。これ真実信の証文に非ざる事を顕す文、昨日弁ずる如く、この『大経』や『如来会』や『広文』では「信巻」末の御自釈の内で現生十種の益の中、「諸仏称讃の益」の証文に引きてあり。これ亦『広本』の一格にして引文の中の私釈と私釈の中の引文とがある。この『大経』并びに『如来会』は『広本』にて私釈の中の引文になりて在りて、真実信の引文に非ず。又この『略本』の格は一章一章の御引文の畢わりに「聖言明知」と云う言あり。上の行を明かす下でも御引文の畢わった所に「聖言」「論説」とあり。この引文ある時は必ず次にこの受言あり。今信の章にはこの受言なし。旁以てこの真実信を明かす章には真実信の御引文ないと私には定むる。爾れば真実信の証文は何れにあるといえば、上の明行の下の『大経』の十八願の文、并びに『十住論』『浄土論』の起こりは上に弁ずる通りなり。KG_MRJ05-33R 爾れば右弁ずる如く、この一章には御引文なきゆえ直ちに結嘆の文に移して「誠是除疑」等とのたまう。この結嘆の文、四句あり。元照の『観経疏』序に「誠是捨障之神方。長生不死之要術〈誠にこれ捨障の神方。長生不死の要術〉」とあり。今の四句の中、第一・第三、この元照に依りたまう事明らかなり。「除疑」と云うは疑い深い凡夫、他力回向の信を得る時、無始已来の疑いを初めて離れる。これ他力の信心には疑いを除く徳あり。即ち「信巻」御引用の『華厳経』の文に、信心の徳を讃嘆する文に、「断除疑網出愛流〈疑網を断除して愛流を出でて〉」とあり。これより見れば、信には断除疑網の徳ある故に、今それを讃じて「除疑」という。KG_MRJ05-33R,33L 「獲徳」とは、「選択本願信ずれば 不可称不可説不可思議の 功徳は行者の身にみてり」。本願を信ずる一念に名号中の功徳を身に得る。そこで「獲徳」と云うは、これは『浄土論』に「遇無空過者〈遇うて空しく過ぐる者なし〉」等による。「遇」は信ずる事。その信ずる所に「大宝海」を得るとあるが論の意なり。これを『広本』総序には「除疑獲証」とあり。尤も『広本』には違本あり。御相承の御延書には皆爰と同じく「獲徳」とあり。その「獲証」に作る本にて云わば、涅槃の証を得る事なり。当益に約しめたまう。「涅槃之城以信為能入〈涅槃の城には信を以て能入とす〉」〈『選択集』〉と、信心には涅槃の証を得る徳あるゆえに、それを「獲証」と云う。あの『広本』の総序の文抔、人の誤る所にて、稍〈やや〉もすれば一益の証りにしてならぬ所なり。決して左様ではない。「獲証」は当益に約してのたまうなり。「獲証」の言つかいは元照の疏にある。今爰は現益に約して信の一念に無量の徳あると云う事なり。KG_MRJ05-33L,34R 「神方」は、「神」は不測に名づく。はかられぬこと。「方」は方法にして、薬方の方と同じ。これは「信巻」には「長生不死」の所に「神方」の言をつかう。それよりみればこの「神方」と云う言は、もと世間で仙人抔が伝える所の薬の名方の事をば神方と云う。その言を取って来て信心を讃歎する。そこで「信巻」では「長生不死の神方」と云う。今はその神方の言を最初につかって「除疑獲徳之神方」と云う。この意は人の病を除き命を延ばす徳を具えて居るのは世間の薬の神方、今はそれではない。他力回向の信心は衆生の除疑、無量の功徳を得しむる神方じゃと云う事にて、「除疑獲徳之神方」とのたまう。KG_MRJ05-34R 「極速円融之真詮」とは、この第二句は他力の信心には極速円融之利益のあると云う徳を挙げ、この一句は「本願円頓一乗は」等の『和讃』を引き合わせて心うべし。『和讃』の第二句に「逆悪摂すと信知して」とある。五逆も十悪も本願力で御助けと信じる。これが先ず信心の相〈すがた〉を第二句に挙げたものなり。さて第三句に「煩悩菩提体無二」とあるは、円満の利益を挙げたものなり。さて第四句に「速やかにとく証らしむ」とあるは、極速の利益を挙げたものなり。これ他力の信心には極速円融の利益を備える故に、それを今「極速円融之真詮」と云う。KG_MRJ05-34R,34L 時に「円融」を『蹄[シン09]』に釈して、円の字を十界円具にて釈す。この信心に地獄等の十界を円具す。十界を一つも欠かさずに具するが円の字の意なり。融の字を機法一体にて釈してあり。頼む機と助けたまう法とが生仏不二でとろけ合う所を融と云うの釈なり。これはどうも『[シン09]記』の釈なれども、浄土真宗の円融の釈ではありそうもない事なり。かように釈する時は、行者の一念の信に十界三千の諸法に円かに具して、弥陀も我も同じ一体。この身即ち仏なりと云わねばならぬ。どうやらこのような釈はみるもこわいようなり。この方の先輩は常に爰の所、軌徴を乱さぬように呉々弁ぜられた事なり。一寸計り華天の一乗家を学んで、それから先輩の指南も受けずに、直ちに宗学にかかると、ついこのような事を云いたがる。何程学者らしくありても浄土真宗の法門、こう扱うてはならぬ。KG_MRJ05-34L,35R 今家の円融の釈は『一多証文』に祖釈あり。「円融と申すは、よろずの善根功徳みちみちてかくることなし。自在なる意なり」とあり。円は円満の義なり。万の功徳満ち満ちてかくることなきを円と云う。我祖は已に天台山にありて四教円融の義は明かしたまえども、浄土真宗の円融を釈するに至りて、天台宗の釈か何ぞのように十界円具にて釈したまう道理なし。これは先達も引く『如来会』の「円満善法無等倫〈善法を円満して等倫なけん〉」の意なり。名号の中には万善万徳欠け目なく具えてあるを円と云う。今爰では他力の信の徳故、信心のその体、名号なり。爾ればこの信心は名号の万善万徳残さず備えるが円の字なり。融の字は、又『一多証文』に「自在なる意なり」とのたまうが融の字の釈なり。融は融通無碍の義にして、障りなく融け合って無碍自在なり。冬氷固まりて解けずにいる間は融すると云うものではない。氷が解けて無碍自在に水になる所が、これが融するなり。そこで融の字を無碍自在の義にして釈したまう。KG_MRJ05-35R,35L この円融の利益を今引く讃に引き合わする時は、第三句に「煩悩菩提体無二」とある他力信心の行者が今にも命畢わりて真実報土に往生すれば、「罪障功徳の体となる 氷と水の如くにて」、今迄ありつる八万四千の煩悩が、その儘菩提の証となる。丁度氷が解けて水となる如く、煩悩即菩提、生死即涅槃と無碍自在に証る所が円融の利益なり。「涅槃之城以信為能入〈涅槃の城には信を以て能入とす〉」。この信を獲得したものは今命終わっても「煩悩菩提体無二」の証を開く。爾らばこの信心には円融の利益を備えて居る。KG_MRJ05-35L この讃の「煩悩菩提体無二」を秘事法門では現益とするそうな。爾れども浄土真宗には都て「煩悩菩提体無二」を現益にする事はなき事なり。先輩は「本願円頓一乗」の讃を『正像末』の「弥陀の智願海水」の讃に引き合わせて弁ぜられたり。「煩悩菩提体無二」は当益ゆえ『正像末』では心得そこなわぬように「真実報土のならいにて 煩悩菩提一味なり」とのたまう。娑婆にて得る益に非ず。浄土にて得る益ゆえ、「真実報土の習いにて」とのたまう。又『二門偈』には「不断煩悩得涅槃 則斯安楽自然徳〈煩悩を断ぜずして涅槃を得しむ。則ちこれ安楽自然の徳なり〉」とあり。煩悩具足の凡夫が今にも報土に往生すれば、この煩悩その儘転じて涅槃の証りをえる。これは安楽の自然の徳故「則斯安楽自然徳〈則ちこれ安楽自然の徳なり〉」とのたまう。爾れば円融の利益は浄土に生じて得る利益なり。KG_MRJ05-35L,36R 偖、讃の第四句に「速やかにとくさとらしむ」とある。これは極速の徳なり。頓極・頓速と速やかに利益をうる。華厳も円頓と称すれども、見聞・能行・証入の三生をへねば仏にはなられぬ。天台も円頓と称すれども、この上もない最上の頓機と云うが、一生の内に十地の位に登ると云うが頓の最上なり。爾るに今浄土真宗の円頓は極悪深重の衆生が逆悪摂すと信知する信心を得る計りなり。その座で命畢わっても、早第二念には報土に往生して「煩悩菩提体無二」と証る。これ程早い速やかな利益はない。爾れば今他力の信心にはこの極速円融の利益あると云う事を讃歎して「極速円頓〈融か?〉の真詮」と云うなり。KG_MRJ05-36R 「真詮」と云うは人の解し兼ねる所なり。真は真実、詮は詮表にして能詮の教の事なり。所詮の義を詮じ表す能詮の教なり。それでは合点行かぬ。教行信証の四法の中で教の一つは能詮にして、余の三つは所詮の義なり。今他力の信心を讃歎する所に能詮の教を出すべき筈なし。それで爰らはみなこの詮の字を所詮と云う事にみる。『[シン09]記』抔も爾り。なれどもこれは恐らくは爾らず。只詮とあるのが所詮になると云う事はない。只詮とあれば能詮なり。或いは一寸申さば見の字一字ある所ではいつも能見なり。所見の境をみるとはいわれぬなり。丁度その如く詮の一字を所詮の義の事じゃとはみられぬ。これらがみな聖教を解するに、ろくに解せぬ所でハヘクシヤニ〈?〉して、底に入れて置くなり。KG_MRJ05-36R,36L 「信巻」畢わり〈「後序」か?〉に「真宗詮」とあり。あれは四法を説き顕す経論釈を「真宗の詮」とのたまう。これ只詮とあれば能詮の経の事なり。『義讃』は『大乗義章』を引きて、信心を能詮として、涅槃の証りを所詮とするの義とみられたれども、これは『大乗義章』の意にも叶わぬ。又今家に於いて、信を能詮として涅槃を所詮とするはない事なり。KG_MRJ05-36L,37R 爾ればいかが心得るやと云うに、これは我祖常に極速円融の真実教の利益とのたまう。「本願一乗は頓極・頓速・円融・円満」とのたまう。何でも本願一乗の真実教の利益なり。爾るにその真実教の利益はなんでその利益あるぞと云うに、他力の信心を得るに依ってその利益ある。そこで今爰は他力の信を讃嘆して「極速円融」の真実教じゃとのたまう。都て讃歎にはこう云う事常にあるなり。KG_MRJ05-37R この手代は白鼠じゃという。この手代は鼠にあらねども、手代を手代なりというては讃言にならぬ。手代を押さえて白鼠という故に讃言になるなり。上の行の所に、行を押さえて選択本願なりと讃ずるが讃言なり。KG_MRJ05-37R 今もそれと同じく、この他力信心は真実教に非ず。経は能詮、信は所詮なり。能所詮の事なりと云えども、その真実教の極速円融の利益は何であるぞと云えば、他力の信を得る利益なり。そこで今、極速円融の真実教は外にはないぞ、他力の信心これなりと云う意にて、信を讃じて「真詮なり」とのたまう。KG_MRJ05-37R 「長生不死之妙術」とは、この句、元照の疏に依りたまう事、前に弁ずる如く、長生不死と云うは仙術の事なり。唐土で仙人が伝える仙術を学べば命長くなりて不老不死故、それを「長生不死の妙術」と云う。今はそれを取りて他力の信心を讃歎する。都て讃嘆の言は皆こうしたものなり。KG_MRJ05-37R,37L これは『続高僧伝』の曇鸞の伝記の意を含んでのたまう。曇鸞、三蔵に逢うて仏法にもこの法の仙術の如き長生不死の法ありやと問う。流支、答えて云わく。これ何の謂いぞや。これ何れの所にか長生不死の法あらん。実の長生不死の法というは、弥陀の浄土に往生して無量寿の証りを開くより外はない迚〈とて〉、『観経』を授く。今その意なり。実の長生不死の方は、外には浦嶋太郎が八千歳も、八千年目には死なねばならぬ。信を得て浄土に生ずれば無量寿を得る。爾れば実の長生不死の妙術は外にはない。この信心の事じゃと讃めたまうなり。KG_MRJ05-37L 「威徳広大之浄信なり」とは、「行巻」に引く『如来会』にこの言あり。他力の信心にいかなる威神力ありや、いかなる功徳ありやというに、「願力不思議の信心は 大菩提心なりければ 天地にみてる悪鬼神 みな尽く恐るなり」。又この信心を得ればあらゆる罪障尽く滅す。これは信心の威神力なり。又功徳は名号の過恒沙の功徳、信の一念に得るなり。爾れば他力信心はかくの如く威神功徳広大なりと讃歎したまう。爰が信を明かす畢わりの言故に、最初に標する「浄信」の言をも取りて「浄信」とのたまう。誠に巧妙なる御言つかいなり。KG_MRJ05-37L,38R ◎爾者、若行若信、無有一事非阿弥陀如来清浄願心之所回向成就。非無因他因有也。応知。 ◎(爾れば、もしは行、もしは信、一事として阿弥陀如来の清浄願心の回向成就したまう所に非ざること、あることなし。因なくして他の因のあるには非ざるなり。知るべし。) 「然者〈爾者か?〉、若行若信」等。三総結。この文は信を明かし畢わりてあるとも、義は真実行・真実信を一所に結ぶ総結なり。これは『広文類』では「信巻」の真実信の御引文の畢わった所にあり。爰と全く同じ。KG_MRJ05-38R 時に信を明かす畢わりに行信の二法を一所にして結ぶは云何というに、これは四法の中にて行と信とはともに衆生往生の因なり。愛離れぬものなり。それ故『広文類』では「行巻」の最初に「有大行、有大信」と行信二法を一所に挙げる。そこで真実信の証文を引き畢わった所で、その大行・大信を一所に結ぶ。これ行と信とは一具の法、相離れぬという事を顕したものなり。今この『略文類』は行信不離を顕わすは勿論の事なり。全体行に信を摂して明かす。最初からが行と信とを一所に明かしたまうが『略本』の体勢故、そこら今行と信とを結び止めて「若行若信」とのたまうなり。KG_MRJ05-38R,38L 「一事」と云うは『倶舎光記』四(四十五左)「事之言体なり」と註してあり。事とは物柄を指す言なり。今は行と信との二法の物柄を指して「一事」とのたまう。KG_MRJ05-38L 「阿弥陀如来」等とは、この文は『論註』下の浄入願心の文を切り出して爰にはめたまう。活套と云うは古人の言をはめ句にする事なり。『唐詩礎』『明詩礎』にて詩を造るが即ち活套なり。今『論註』の言を取り来たりて、御自身の言にして爰にはめたまう。「阿弥陀如来清浄願心」とは弥陀の因位法蔵の無漏清浄心より起こしたまう本願故「清浄願心」と云う。『論註』で云えば、法蔵は八地已上の菩薩、純無漏清浄心より四十八の本願を起こしたまう故に「清浄願心」という。「回向成就」とは、これはその清浄の願心を以て衆生往生の因たる行も信も仏の本願にて成したまう。それを今「令諸衆生功徳成就」と、衆生に回向したまう。その御回向を仏の方に成就したまう所が、「弥陀の回向成就して 往相還相の二つなり」。衆生の因も果も本願力にて成就したまう所が弥陀の方の回向成就なり。その御回向が行者の方に行き届いて、今衆生往生の因たる真実行・真実信となりたのじゃに依りて、「若行若信」等とのたまう。KG_MRJ05-38L,39R 「非無因他因」等とは、『論註』では「非無因と他因とに有るなり〈無因と他因と有るには非ざるなり か?〉」とよむ所なり。「無因」とは天竺の無因外道なり。これは一切の諸法は因なしに自然に生ず。漢土の老荘の教え、万物みな虚無自然より生ずるは、みなこの無因外道の計に収める。「他因」とは天竺の大自在天外道の計なり。これは天地万物みな大自在天より生ずると云う。そこでこれは一切万物みな此方に因あるではない。他の大自在天が因となりて生ずる故に他因の計なり。KG_MRJ05-39R 嘉祥の『三論玄義』(五右)已下に天竺の九十六種の外道、要を取りていえば四宗と分かる。これは嘉祥の手前了簡にて言う事に非ず。三論の中の『中論』の初めに天竺の外道を挙げてあり。その意にて云うのなり。曇鸞師も本は三論宗故、鸞師もこの意にてのたまうなり。KG_MRJ05-39R 扨その四宗とは、一には邪因邪果の宗。これはこの大自在天の計なり。天地万物みな大自在天を因とすると立てるのは我が仏法の正因果に背く故、因も邪なり、果も邪なり。これを邪因邪果の宗と名づく。二には無因有果の宗。これは無因外道なり。一切の諸法現前にある故に、果はあるに違いないけれども、因はない事と立つる。三に有因無果宗。これは無の見の外道の内に、この一計あり。今日現在の諸法があれども、未来はなきものなり。現在の因はあれども、未来の果はないと立つる。四には無因無果宗。これは因果撥無の外道なり。これに今「非無因他因有」と簡びたまうは、無因とは無因有果の計の事。他因と云うは邪因邪果の計の事。それを簡びたまう。然れば今『三論玄義』に挙げてある四宗の中の后の二計は簡ばぬはどうした事ぞと云うに、この后の二計の、初めの二計と違うのは、果はないものじゃと立つるのが違うなり。KG_MRJ05-39R,39L 今『論註』でも、この『略文』でも、因を明かすに付いて外道の計を簡ぶのじゃに依りて、果の事は選ぶには及ばぬ。果は有る事と立つるは勿論ゆえ、彼の果はないものと立つる邪執を選ぶに及ばぬ。因を明かすに付いてかの邪宗に濫してはすまぬ。故にそこで無因と他因とを選びたまう。これで九十六種の外道を皆選び尽くしたまう。そうなくては、これを態々出したまう所、詮なし。KG_MRJ05-39L 時に『論註』は浄入願心の章にして弥陀の浄土の荘厳は因があるかないかと云えば、無因外道のように因なしとは云わぬ。又因ありて大自在天外道のように、他の因より生ずるとは云わぬ。今安楽浄土の荘厳は、三種の成就の願心の荘厳は、この浄土を建立せんとて五劫に思惟したまう弥陀因位の選択の願心を因とす。そこで無因と他因とのあるには非ずと簡びたまう。これが『論註』の意なり。今この『略文類』は真実行信を総結する所にて、この真実行信は衆生往生の因なり。KG_MRJ05-39L,40R 時に今家に於いて「願力成就の報土には 自力の心行いたらねば」とのたまう。自力の心行では報土の往生は遂げられぬとのたまう。そこで難あり。自分が浄土に往生するのに、その自分の因では往生はならぬと云わば、因なしに往生すると云うもので無因外道の計なるべきと云う難あり。今それを会通して「阿弥陀如来の清浄願心」とのたまう。この清浄願心を因とするが故に無因に非ずと選びたまう。時に爾らば自分が浄土に往生するに他の阿弥陀如来の本願を因とするといわば、それでは大自在天外道の計の如く、他因の計なるべしと云う難あり。そこでそれを会通して「所回向成就」とのたまう。阿弥陀如来御自身の成仏の因、それを衆生の往生の因にしたらば他因の計であるまいものでもなけれども、そうではない。衆生の往生の因たる行と信とを弥陀の本願にて成就して、それを衆生に回向したまう。回向したまう故その如来回向の行信を行者の方に獲得して我が行信になりて、その行信の因で浄土に往生する故、他因の計に非ず。KG_MRJ05-40R,40L これは今家平生の御教化なり。行者自力の信心ではない。他力信心、他力信心とのたまうけれども、それを行者の方に得ねばならず。故に取れよ、得よとのたまう。本願成就の信心なれども得てからは我が信心なり。故に「我が信心、人の信心」とのたまい、「自身の往生極楽の信心獲得」とのたまう。これ皆無因と他因との計に非ざる所なり。KG_MRJ05-40L 地体今家の信心を他宗より難ずる事なり。その難とは『大乗義章』九(四右已下)「仏法無有自作他人受報。他亦無他作自己受果〈仏法、自の作り、他人の報を受くることあることなし。他も亦、他の作り、自己の果を受くることなし〉」と云うてあり。自分造った善根を他人が受けると云う事はなし。他人が造った善根を自分が受けると云う事はない。これはこうありそうなもので、親は随分善根者にして、息子は悪徒ものあり。親の善根貰うなら結構なものなれども、そうは出来ぬ。これは仏法の通例なり。そこで他宗より今宗を難じて、弥陀の本願に依りて浄土に往生すと云わば他作自受なり。それでは仏法の大道理に背くと云う難あり。KG_MRJ05-40L,41R そこで今我祖それを通釈する思し召しある故に、初めから「清浄願心」等と云うなり。『義章』に他作自受、自作他受なしとは通仏法の道理なり。故に『義章』にも「於仏法」の字加えてあり。今は阿弥陀如来の選択の願心の致す所、それじゃに依って通仏法の道理とは違うとのたまう意あり。これは聖道門でも一乗縁起の法門は他作自受の道理を守りはせぬなり。元暁の『遊心安楽道』に文あり。華厳一乗の意を述べたり。この意は、一切衆生各々の善悪業によって各々の善悪の果を感ずると云うは通仏法の法門なり。今一乗縁起の法門では一微塵の所に法界海を具足する。爰は凡慮では量りしられぬ難思の法門なり。この一乗縁起の法門は縁起難思の力なり。依りて他作自受はないと云うような狭い事はないと云う元暁の通釈なり。KG_MRJ05-41R,41L 今我祖は弥陀別意の弘願にてのたまう。人の功徳が我が功徳になる事はない筈なり。ない筈なれども阿弥陀如来には因位の別願あり。「為衆開法蔵 広施功徳宝〈衆の為に法蔵を開きて 広く功徳の宝を施さん〉」。衆生へ回向して、それで衆生を助けんと云う本願を起こし、不可思議永劫の修行をもって、その回向を成就したまう。それ故その回向に依りて衆生が行信を得て浄土に往生すると云う事を明かしたまうなり。それならば弥陀の別願なりと云う時は外道の無因・他因に同じからずやと云うに、爾らず。弥陀の清浄願心は衆生往生の因とする故に無因に非ず。又その弥陀清浄願心を以て衆生の行信を成就して、それを衆生に回向したまう。それを行者に得て、行者の我がものになりて浄土に往生する故、他因でもないとのたまう。これで他宗からの難は会通し畢わりたまう。KG_MRJ05-41L 時に爰の御点『論註』にて読むとは違うて「非無因他因有也〈因無くして他の因の有るには非ざるなり〉」とあり。ここを『蹄[シン09]』『義讃』みな御点を付けかえてあり。御真本の点、この通りなり。これを付け替えると云うはあろう事に非ず。全体この文は『論註』でもこの『文類』でも、上の「非」の字は下の「無因」と「他因」との二つにかかる「非」の字なり。そこで「非ず」と云う文字は二度読む意なり。「無因に非ず、他の因に有るには非ず」と読む意なり。『論註』なれば、無因に非ず、他因に非ずと読む意なり。爰もその意なり。「因なき無に非ず」と選ぶは無因外道を選び、「他の因に有るには非ず」と云うは他因外道を選ぶなり。KG_MRJ05-41L,42R 時に吾祖の御点は「他の因の有る」とよむは、上の「因無くして」の「なく」と云う字に対してよみたまうなり。無因なれば因なし。他因なれば因あるなり。故に「他の因のある」とよみたまうなり。又『論註』ではどうして点が違うなれば、『論註』は浄土の荘厳を明かすゆえ、下の「有」の字が浄土の荘厳の果が有る事なり。その荘厳の果の有る事は無因と他因とにしてあるにも非ずと云う事なり。今爰は浄土の果を明かす所に非ず。因を明かす所なり。そこで『論註』の如くよめば、下の「有」の字余るなり。爾るに我祖は爰で「有」の字を用いたまい、無因外道の如く因なきにも非ず、又他因外道の如く他の因有るでもないと云う事にて御点を付けたまう。それを『蹄[シン09]』『義讃』には猥りに末学の分として点を付け加えて『論註』と同ずるは、豈誤りに非ずや。KG_MRJ05-42R 「応知」の二字は行信不離、信を摂する等を知るべしとのたまうなり。KG_MRJ05-42R,42L 浄土文類聚鈔講義 巻五 終 KG_MRJ05-42L |