香月院 浄土文類聚鈔講義 第6巻の1(3の内の1) 正説分の証釈 正しく証を顕す |
浄土文類聚鈔講義 第六巻之一 |
香月院深励講師述 宮地義天嗣講師閲 松内上衍校訂 ◎言証者、則利他円満妙果也。 ◎(証と言うは、則ち利他円満の妙果なり。) 「言証者」等。四明証四、初正顕三、初標章挙体〈四に証を明かすに四、初は正しく顕すに三、初に標章し、体を挙ぐ〉。これより下は四法の中の第四の真実証を明かす。教行信証の四法、能詮・所詮の二つに分かれて、教の一つは能詮なり。行信証の三つは所詮なり。その所詮の三法、又二つに分かれて、行信の二法は衆生往生の因なり。証果の一つは往生の果なり。今上来、能詮の教から所詮に移りて、それから行信の因を上の章迄に明かし畢わらせられた故、この一章では証果を明かす。爰が正説分已来、文の次第なり。KG_MRJ06-01R 最初に「言証者」と牒し挙げるは、これより上に「言行者」「言浄信者」と同じように牒し挙げて教行証の三法を明かし畢わりて、今又同じように「言証者」と牒し挙げて真実証を明かしたまう。これ教行信証の四法の次第、自然と分かる。これは開いて四法とする事を顕す説相なり。又上に弁ずる如く、最初の序文の真宗の教行証とあるを牒し挙げて釈するのじゃとみる時は、「言浄信者」の一つは出所なし。これ信の一法は行の中に収めてしまう故、略して教行証の三法となるの説相なり。又上の行を明かす初めに往還二種の回向を標して、その往相の中から行信証の三法を説き出したり。爾れば信も証もみな真実行より開き出したのじゃとみる時は四法を略して教行の二つになるなり。これが玄談已来弁ずる『広』『略』文類の御体勢なり。かくの如く略する時は二法となり、三法となれども、爾れども教行信証の四法判然として次第して明かしてある。そこで略して二三とすと云えども、而も四法判然たりと申すがこの『略文』の御体勢なりと存ぜらるる。KG_MRJ06-01R,01L 「則利他円満」等、これは『広文』「証巻」には二つになりて「利他円満の妙位、無上涅槃の極果なり」とある。それを今は略して一つとす。これをば『正像末の連環解』に解して、利他円満の妙位と云うは、浄土の菩薩の普賢、大悲の利他教化地の果を挙げたものじゃと云う。又、無上涅槃の極果なりと云うは、願土に至りて速やかに証る所の無上涅槃の果を挙げたものと云う。これでは利他の還相回向を衆生済度の事とす。成る程「証の巻」の文にてみれば二つになりてある故に、願土に至ればすみやかに無上涅槃の証するを「無上涅槃の極果」と云うは、即ち大悲を起こすなり。これを回向と名づけたりと云う所で「利他円満の妙位」なりとのたまうと分けて見まいものでなけれども、外の文に照らしてみれば、さようにはみられぬ。KG_MRJ06-01L,02R この『略文類』では行を明かす最初にも「利他円満の大行」とあり。信を明かす最初にも「利他深広の信心」とある。今又証を明かす最初にも「利他円満の極果〈妙果か?〉」と云う。上よりの例にてみる時はこれを利他教化地の還相の果とはみられず。還相回向の利他教化地の果はこの次の還相回向の下に明かしてある。爾らばこの「利他」の言は他力を明かす言なり。通途の自利利他とは異なり、全体『論註』の「他利利他」の御釈より出た名目にて、我祖はこの「利他」の言を他力の事にする。今、衆生往生の因果、行信証の三法ともみな他力回向なりと談ずるが今家不共の所談なり。そこで他力回向を表して「利他」の言を初めに付けたまうと伺うが穏やかなり。『[シン09]記』もこの利他の言に猶予して、この下に五義を挙げたれども、その五義の中では第五の義を以て正義とすべし。前四義はみな穏やかならず。KG_MRJ06-02R,02L 「円満」と云うは、上の行の下にも「利他円満」とあり。円満の言は全く同じ事なれども、義は大いに異なりてあり。上の行を明かす所に「利他円満」とあるは『如来会』の「円満善法無碍倫〈無等倫か?〉〈善法を円満して等倫なけん〉」の「円満」の文字にして、南無阿弥陀仏の大行に万善万徳欠け目なく具足してある事を円満と云う。そこで「利他円満の大行」と云う。今爰は、「利他円満」と云うは吾祖の思し召しはこの円満は仏果円満の事なり。『三経文類』に「念仏往生の願因によりて、必至滅度の願果をうるなり」とのたまう。上の十八願成就の信心を涅槃の因なりと云う。これ常に我祖ののたまう「信心の智恵なかりせば いかでか涅槃を証らまし」。第十八願成就の信心でなければ無上涅槃の仏果はえられぬ。そこで十八願の三信は論主の合一にして、一心の仏因なり。KG_MRJ06-02L 偖この十一願成就の真実報土の証りは、その仏因によって得る所の仏果なり。弥陀の妙果の無上涅槃と、その体一味なり。そこで今「円満」と仰せられたは無上涅槃の仏果円満なり。無上涅槃の仏果を円満と云う事ありやと云うに、『唯識述記』一本(三十一右)煩悩障を断じて大涅槃を得ると云う所を釈して、旧訳の梵語では涅槃と云い、新訳では波利[ニチ01]縛[ナン06]と云い、爰に円寂と翻ず。円満寂静の義なりと釈してある。これ仏果の大涅槃には無量の功徳を円満して、爾も有為生滅を寂滅したのが涅槃の果ゆえ、円満寂静を円寂と云うと釈してある。今爰には「利他円満」とのたまうがその大涅槃の円満なり。『讃弥陀偈』には「二智円満道平等」とある。又「自利利他円満」とものたまう。爾れば智恵功徳悉く欠け目なく円満したまう。「自覚覚他覚行窮満」の仏果を指して円満と云う。そこで今「利他円満の妙果なり」とのたまう。KG_MRJ06-02L,03R ◎即是出於必至滅度之願。亦名証大涅槃之願、亦可名往相証果之願。 ◎(即ちこれ必至滅度の願より出たり。亦、証大涅槃の願と名づく、亦、往相証果の願と名づくべし。) 「即是出於」等。二示能出願〈二に能出の願を示す〉。KG_MRJ06-03R 扨、第十一願三名挙げてあり。初めに「必至滅度の願」と云うは、これは『大経』の十一願の文に「必至滅度」の言あり、直ちにその文を願名としたまう。滅度は涅槃の異名なり。『唯信文意』(十七右)に「涅槃をば、滅度と云う、無為と云う、安楽」とのたまえり。この滅度の名を釈するは僧肇の『涅槃無名論』に「大患永滅。超度四流〈大患永く滅して四流を超度す〉」とあり。生死の患いを滅した所を滅と云うなり。煩悩の流れを渡りおおせた所を度という。『[シン09]記』に引くが如し。この十一の本願は真実報土に往生するものは現生に於いては正定聚に住せしめ、命畢わらば必ず滅度に至らしむと誓いたまう故、「必至滅度の願」と名づく。そこでこの第十一願に正定聚に住すると、滅度に至るとの二つの願事あり。これらみな願体と心得る故に、正定願体か滅度願体かと論あり。この方の先輩は願体の論なし。願事と云うものとす。KG_MRJ06-03R,03L 時に願事の二つの中、諸師は正しくは正定聚を誓い、兼ねては滅度を誓うとみる。『大経』の望西に出てある通り、義寂・法位・玄一等皆、住正定聚の願とは名づけれども、必至滅度の願とは名づけず。鎮西抔もその意なり。即ち『大経』望西にその問答を設けて必至滅度の願とは名づくべからずとは弁じてあり。吾祖の思し召しは大違いにて、先刻弁ずる如く、念仏往生の願因によって必至滅度の願果を得る。第十八の信心は涅槃の因なり。それに対してこの十一願には涅槃の果を成じ給う。爾るに涅槃の果に至るものは、現生に於いて正定聚に住したものでなけねば涅槃の果に至られぬ。そこで兼ねて正定聚に誓いたまうがこの十一願としたまう。そこで二つの願事あれども、正しくは必至滅度を誓いたまう。そこでこの願に三名を立てたまえども、皆滅度の果にて願名を立てたまう。KG_MRJ06-03L,04R 偖「必」と云う言の当たり前は諸師の意なり。他流の義では浄土に往生したものは、先ず最初正定聚なり。正定聚に住したものなれば、遂に一度は必ず滅度に至るとみるなり。今家吾祖の意は爾らず。真実信心の行者は現生に於いて正定聚に住するが故に、命終われば必ず滅度に至る。これ必至滅度と云うとある思し召しなり。『論註』の巻末に十一願を引きて「正定聚に住するがゆえに必至滅度」と云う言あり。これを我祖は常に用いたまう。『三経文類』(初右)に「現生正定聚の位に住して、必ず真実報土に至る」。これ我祖の必の字の御覧なされようなり。必と云うは必ず真実報土に至りて滅度を証る。必至滅度の願名を解する事、諸師の心は大違いなり。KG_MRJ06-04R 「亦名証」等。これよりは我祖己証の願名ゆえに「亦」の字を用い、最初の必至滅度の願名は直ちに願文の言を取りたまう故、諸師共許する所なり。即ち望西に出る智光・慈恵はこの十一願を「必至菩提の願」と名づく。それなれば「必至滅度の願」と云うは諸師の共許する所なり。后の二名は我祖己証の願名にして、先ずこの「証大涅槃」の願名は異訳の『如来会』に依る。上(十右)十一の願名に「証大涅槃」とあり。大涅槃と云う名は天親の『法華論』の疏中(五十六左)に御釈あり。即ち(十七左)文あり。都て大乗論では大涅槃と云うを大切に釈してあり。KG_MRJ06-04R,04L 只涅槃と云う時は小乗の灰身滅智の涅槃に濫する。灰身滅智は体〈からだ〉より火を出して、体を滅してしもうた涅槃なり。今仏果の涅槃は常楽我浄の四徳をを備えたる大涅槃なり。それを『法華論』に釈してあり。『大経』には只「滅度」とあるに依りて諸師の中にこれを小乗の涅槃に濫じさせるものなり。即ち『大経』義寂の疏には、この十一願の必至滅度は小乗の涅槃にも通ずる、それはなぜなれば極楽には声聞もあり、菩薩もあり。爾れば菩薩なれば遂には大涅槃を証る。声聞なれば小乗の涅槃を証る。両方に通ずると判ぜられたり。KG_MRJ06-04L これらの異解を選ぶには『如来会』の文に如くはない。依りて我祖更に『如来会』に依りて「証大涅槃の願」と名づく。真実報土は大乗善根界の土にして、二乗は名もない。それ故往生する程のものみな悉く大涅槃の妙果を証ると云う事にて「証大涅槃の願」と名づく。KG_MRJ06-04L,05R 「亦可名」等と。この願名は「証巻」になきを、この『略本』に加えたまう。この願名は先に弁ずる如く往相回向の願、三願あり。十七は「往相正業の願」、十八を「往相信心の願」、それに対して十一願は往相回向の証果を成ずる願故「往相証果の願と名くべし」とのたまう。KG_MRJ06-05R ◎即是清浄真実、至極畢竟無生。 ◎(即ちこれ清浄真実、至極畢竟無生なり。) 「即是清浄」等。三略顕真証〈三に略して真証を顕す〉。この文『[シン09]記』にも『義讃』にも、略して釈すと科す。これは上の行を明かす章にも御引文の前には真実行の相を釈してあり。そこで今御引文の前に略して真実証の相〈すがた〉を釈すると云うよりは、顕すと云う方がこの文には叶うと存ずる。KG_MRJ06-05R 文は短けれども真実証の相を顕し尽くす一段なり。即ちこれは上の段に真実証は十一願成就じゃと云う事を明かし畢わる故、今それを受けてその十一願成就の真実証は「即是清浄真実」等とのたまう。真実報土の涅槃の証の相を顕す御言なり。涅槃の証りは銘々証りてみぬ事故、兎角涅槃の相を説く所は合点行かぬものなり。KG_MRJ06-05R 先ずこの文の拠は『論註』下(十四右)「夫法性清浄畢竟無生〈それ法性は清浄にして畢竟無生なり〉」等あり。この文が土台の拠なり。初めに「清浄」とのたまうは『論註』に「法性は清浄にして」とあるは真如法性の清浄なり。真実報土の大涅槃は下に御自釈のある如く、大涅槃は「即法性、即是真如〈即ち法性なり、即これ真如なり〉」。法性と云うも真如と云うもみな涅槃の異名なり。時にその真如法性はそれ自体清浄なるものにして、『起信論』には、大摩尼宝のその体明浄なるが如くと喩えてある。今初めて生ずるの、又滅するのと云うような事はない。本来自性清浄なものじゃ。真実報土に往生して初めて証る大涅槃なり。往生するものの方よりいえば初めて証る大涅槃なれども、証ってこれは本来清浄なり、夢の醒めたは初めて醒めたようなれども、その醒めたは本来清浄と云う。KG_MRJ06-05R,05L 「真実」と云うは、真の言は偽に対し、実の言は虚に対す。虚偽ならざる所を真実と云う。これは『論註』上に真実功徳相を釈する。その真実の釈に「云何不虚偽〈云何が虚偽ならざる〉」とあり。これは涅槃の証を「畢竟浄」とのたまう。これは『大方等大集経』に涅槃を「畢竟浄」と説きてあり。KG_MRJ06-05L 今は清浄でも、后に不浄になるではない。何々迄も清浄故畢竟浄なり。その畢竟浄の相を顕す為に真実と云う。後から化けるは虚偽なり。今は早、随分学問しましょう、道落は致さぬと涙こぼして云う後から化けるなれば、虚偽の相〈すがた〉なり。KG_MRJ06-05L,06R 今大涅槃の悟りは今は清浄なれども后に不浄になると云うような、后から変ずる虚偽の相はない。畢竟清浄なるが涅槃の悟りなり。この義を顕わさん為に「真実」の言を置く。爰では真実と云うが、いつも替わらぬ常住なる事なり。これは「真仏土」(『会本』七 九右)『涅槃経』を引きて云く。これ常住にして、いつまでも替わらぬ仏を真実という。そこで今初めに本来自性清浄を挙げて「清浄」といい、虚偽ならざる事を顕して「真実」と云う。爾れば大涅槃に四徳ある中で、浄と常との二法を挙げて「清浄真実」とのたまう。これをみな安楽浄土の大涅槃の相を顕してみせたまう。KG_MRJ06-06R 「至極畢竟無生」というは、無生を先に解せねばならぬ。無生とは無生無滅なり。生ずる事ある故に滅する事もある。そこで不生不滅の大涅槃の証で、爰では無生と云うなり。無生と云うが涅槃の異名なり。これは「真仏土」に『涅槃経』を引きて涅槃の異名を明かす所に、又は涅槃と名づけ、又は無生と名づく。KG_MRJ06-06R,06L さてこの異名の言を末書に色々解してあれども、このような言はみなこれ経論の言つかいなり。古徳の釈に依りて云うのでなけねば取れぬ。『維摩科註』十(十二左)「畢竟滅」と云うがあり。それを釈するに羅什の釈と道生の釈と二釈ある。その羅什の釈では、畢竟滅と云うは、もし今は滅せざれども后に滅すると云うのなれば畢竟滅とは云われぬ。初めから畢わりまで常に滅するに依りて畢竟滅と云う。この釈では畢竟と云う言、いついつ迄も替わらぬ常住な事を畢竟と云う。先刻申した『方等大集経』の「畢竟浄」抔もこの義なり。又道生の釈では、畢竟滅と云うは、今はあるまいけれども、終には必ず滅すると云う事と解す。これでは畢竟は遂には遂にはと云う事なり。これ羅什の釈とは大違いなり。KG_MRJ06-06L 時に今爰に「畢竟」とあるのは、『論註』に「畢竟無生」とのたまうは、今羅什の釈の意なり。安楽浄土の不生不滅は、今は不生不滅すれども后には生滅があるではない。いついつ迄も生ずる事、滅する事なく、故に「畢竟無生」なり。浄影『涅槃疏』八上(四十八)「望小大極故曰畢竟〈小に望むれば大は極なる故に畢竟と曰う〉」あり。『涅槃経』の文に、小乗に望めて大乗の事を畢竟と説きたる所の釈なり。俗語に云う畢竟する所はと云うと同じ。もうこの上のない、おんつまりた至極した所を畢竟と云う。これは畢竟は至極した事になる。今爰の「畢竟」もその義にして、真実報土の証りは無上涅槃の極果、最もこの上のない至極畢竟の大涅槃故に「畢竟無生」と云う。そこで我祖は論主の「畢竟無生」の上に「至極」の二字を加えたまう。この一文は文字の数僅かに十字なれども実に大涅槃の相〈すがた〉を顕し尽くしたまえり。KG_MRJ06-06L,07R 時にこの文「畢竟無生」とのたまうは、思し召しのある事、この『論註』の拠の文に「畢竟無生」の次に「言生者是得生者」等とあり。これは「畢竟無生」と云えばとて往生ならんと云う事では更々ない。その本来清浄畢竟無生不生不滅の浄土に思いの儘に往生させるが弥陀別段の利益なり。それを今「畢竟無生」と談ずる。三有虚妄の迷いの生を選んだものなり。KG_MRJ06-07R 三界の間は此に生じ、彼に死す。有漏虚妄の生は生ずる初めあるに依りて、滅すると云う畢わりありて、輪回無窮なり。今真実報土の往生はその三有虚妄の生とは違う。如来清浄本願の無生の生なり。それじゃに依りて、往生するや否や直ちに本来清浄の大涅槃を証ると云う事を「即是清浄真実〈即ちこれ清浄真実〉」等とのたまうなり。KG_MRJ06-07R,07L |