香月院 浄土文類聚鈔講義
  第6巻の3(3の内の3)
正説分の証釈
私釈・総結


浄土文類聚鈔講義 第六巻之三
  香月院深励講師述
  宮地義天嗣講師閲
  松内上衍校訂

◎聖言明知。煩悩成就凡夫、生死罪濁群萌、獲往相心行、即住大乗正定之聚。住正定聚必至滅度。
◎(聖言、明らかに知りぬ。煩悩成就の凡夫、生死罪濁の群萌、往相の心行を獲れば、即ち大乗正定の聚に住せしむ。正定の聚に住すれば必ず滅度に至る。)

 「聖言明知」等。三私釈二。初明住正定聚〈初に正定聚に住することを明かす〉。これは証を明かす中、これより上は引文、この下は御自釈なり。それ故、科文云々。又『広本』では御引文解けて御自釈の初めには多く「爾者」の言を置く。この『略本』は御自釈の初めに多く「聖言明知」の言を置きたまう。これが御引文終わりの御自釈の御言つかいの定まりなり。KG_MRJ06-18R
 「煩悩成就」等。これより下の造語みな御拠あり。「煩悩成就の凡夫」とは、『論註』下(七左)清浄功徳を釈する所に「有凡夫人煩悩成就〈凡夫人の煩悩成就せるありて〉」とあり。この煩悩成就と云うは末書の内、私記〈圓空『浄土論註私記』か?〉の中に、今日の凡夫は煩悩暫くも間断なし。成就は間断なき事と解するは宜しからず。成就と云うは具足の事なり。『龍樹の伝』に、南天竺の婆羅門共を降伏したまう。その時みな屈伏して一々かの婆羅門束髪を捨て成就戒を受くとあり。束髪を捨つるは頭の髪を剃り捨てた事。受成就戒と云うは具足戒を受けた事なり。比丘の戒は二百五十戒なり。その具足戒を成就戒と名づけてあり。爾らば成就は具足の事なり。依りて元照の『弥陀経疏』の「具縛の凡夫」とあると同じ事。縛は煩悩の異名故、即ち「信巻」本(会本四 三十四左)に戒度の『聞持記』を引きてあり。「具縛の凡愚とは二惑全くあるが故なり」と註してあり。二惑とは煩悩所知障なり。この二障残らず具足して欠ける事なきを「具縛の凡愚」という。今「煩悩成就の凡夫」とのたまうはこれなり。KG_MRJ06-18R,18L
 「生死罪濁」とは、これ又『論註』下(十六右)「無量生死の罪濁」とあり。罪濁は衆生の罪業を濁水に喩えたまう。『論註』の意は、法性は清浄なるものなり。本来法性は清浄なれども、凡夫の意は造りと造る罪業に汚されて濁りはててある故に「罪濁」と云う。「無量生死の罪濁」とある。無量劫の間、生死に随在すべき罪咎を抱かえて居る事なり。今それを爰の挙げたまう。KG_MRJ06-18L
 今、浄土真実証を釈する最初に「煩悩成就の凡夫、生死罪濁の群萌」と云う。凡夫の機相を挙げたは何故ぞと云うに、かかる悪凡夫が現生に正定聚に住し、命畢わりて大涅槃を証ると云う事を述べん為なり。これは『論註』にも、煩悩成就の凡夫と云う言の出所は、清浄功徳を釈する所を、煩惱成就の凡夫が今にも浄土に往生すれば、清浄功徳の土徳として「不断煩悩得涅槃分〈煩悩を断ぜずして涅槃分を得〉」。今迄ありつる煩悩がその儘転じて大涅槃を証ると云うてあり。今もその意なり。KG_MRJ06-18L,19R
 かような悪凡夫が往相回向の心行を獲得すれば、その時直ちに正定聚に住し、その座にて命終わっても、煩惱成就の凡夫がその儘煩悩即菩提の妙果を証る。生死罪濁の群萌がその儘生死即涅槃の証りを開く。これが即ち本願力回向の真実証じゃと云う事を明かさんが為に、最初に煩悩成就の凡夫とのたまう。KG_MRJ06-19R
 「獲往相心行〈往相の心行を獲れば〉」とは、この下の文の「証巻」の最初と同じ。少々ずつ具略あり。見合わして拝見すべし。「証巻」には「往相回向の心行」とあり。今は回向の二字を略す。これは上の信の一念の御釈に「往生の心行を獲得する」とのたまうと同じ事なり。信の一念に往生回向〈往相回向か?〉の大信大行一時に獲得するに由りて、そこで「獲往相心行〈往相の心行を獲れば〉」とのたまう。KG_MRJ06-19R
 「即住大乗」等。「証巻」には「即時入大乗正定聚〈即の時に大乗正定聚の数に入るなり〉」とあり。これ全く論註の上の(初丁左)の文なり。「仏力住持」等、この言を取りたまう。我祖、常にのたまう。「龍樹大士曰即時入必定。曇鸞大師曰入正定聚之数〈龍樹大士は即時入必定と曰えり。曇鸞大師は入正定聚之数と云えり〉」とのたまう。現生正定聚を述ぶる時はいつでもこの二祖を拠とす。『御文』には「一念発起入正定之聚とも釈し」とあるは「証巻」を相承したまう。八十通の『御文』は誠に『広』『略』の文類の精要を得たまうなり。どこが「証巻」やら、「信巻」やら知らねども、悉く『広』『略』の文類を移したまう。即ちこの「即」の字、現生正定聚の拠なり。龍樹の「即時」、曇鸞の「即入」、この信の一念に往生浄土の心行を獲得する。それ故その時、同時に往生が定まる故に、往生が定まる位に、正定聚に住すると云う事なり。KG_MRJ06-19R,19L
 この『論註』の文では正定聚の事を「大乗正定之聚」とあり。これは小乗に選ぶなり。小乗でも正定聚・不定聚と云う事は申すなり。近くは『倶舎』抔に明かしてあり。無漏の聖者に成りて、必定して涅槃を証るべき身となるを正定聚と云う。又五無間業を造った悪人を邪定聚と云う。その外の凡夫を不定聚と云う。これは毘曇・成実共にこれを立つるなり。今はその小乗の正定聚を選んで、大乗の大般涅槃を証るべき身に定まった位を云うなり。KG_MRJ06-19L,20R
 「住正定聚」等。「証巻」には「住正定聚故」と「故」の字あり。これ全く『論註』下(三十二右)文を爰に切り入れたまう。現生に正定聚に住するが故に、命終われば「必至滅度〈必ず滅度に至る〉」。我祖はこの「必ず」と云う言を、必ず真実報土に往生する義に見たまう。その義は上に『三経文類』を引きて弁ぜり。KG_MRJ06-20R
 時にこの「住正定聚故必至滅度〈正定聚に住するがゆえに、必ず滅度に至る〉」の言は拠の『論註』の文からが第十一願成就の相を説く言なり。現生正定聚と彼土滅度とを一所に述べたまう御言なり。これはどこにありてもさようなり。爾るに今爰には「証巻」でも『略文類』でも「必至滅度」の言が二つ重ねてある。これらはみな人のみて通るは、次の「必至滅度」の言は滅度を転釈する言とみる。なるほど滅度は「即是常楽」等と、滅度を転釈する文に違いはなけれども、転釈計りなれば「必至」の言は入用にない。除くべし。「必至滅度」の言を二つ重ねるは如何と云うに、爰が不審なる所なり。みな「証巻」の文もこの『略文類』の文も、次の「必至滅度」に点を付けずに直よみにする所なれども、真本は然らず。「証巻」にも『略本』にもみな点を付けてあり。これは御相承の御釈より窺うに、我祖の必至滅度の言を両様とみえる。KG_MRJ06-20R,20L
 一つには必至滅度の言、もし因の位から果を説く言と見る時は、必至滅度の言が即ち現生正定聚の事になる。それはなぜと云うに、必と云うひつの字、必定の義にして、末にある事が今から定まる事。そこで滅度に至ると云うは、命終わらねば滅度に至られぬ。命終わって真実報土に至る事が今から定めてある事故にそこで「必」という。「住正定聚必至滅度〈正定の聚に住すれば必ず滅度に至る〉」と云うは、信の一念に正定聚に住した故に、決定必定、命終われば滅度に至る身となりなりたる事をば「必至滅度」と云う。この時には必至滅度が現生正定聚の事になる。KG_MRJ06-20L
 二つには、必至滅度と云うは因の位に対して果を説く言と見る時は、命畢わって真実報土に往生した所で、正しく滅度に至る事を必至滅度という。これは第十一願の必至滅度の言はこの義なり。KG_MRJ06-20L
 爾れば必至滅度の言は右の通り両ようにつかう言故に、そこで今この言を二つ重ねて「住正定聚必至滅度〈正定の聚に住すれば必ず滅度に至る〉」と云うは、正定聚の位に住した時、決定必定滅度に至るべき身になる。そこで命畢わった時に必至滅度に至りて大涅槃を証す。それを次に「必至滅度、即是常楽」なりとのたまう。右の通りに伺うは御相承の御釈に由る。KG_MRJ06-20L,21R
 この正定滅度は大切なる所にて、末学の沙汰のなる所ではない。蓮如上人ののたまう、子供に剣を持たせる如くとのたまう。ついに怪我をしそうなる所なり。そこで相承の御釈と云うは覚如上人の『本願抄』(二左)に「一念歓喜のおもいおこるにつきて、往生立所に定まるを、正定聚の位に住すともいい、必ず滅度に至るとも云い、摂取不捨の益に預かるとも云うなり」とのたまう。これ信心歓喜の一念に往生の定まる時を正定聚の位に住するとも云い、又滅度に至るとも云うとのたまう。これが必至滅度の言をば因の位から果を説く言と見たまう御相承なり。KG_MRJ06-21R
 偖この趣き近くは『御文』にありて「自問自答」の第三の問答に祖師の御言を引きて「真実信心の行人」等と。この文は不来迎の義を明かしたまう所にして、信の一念の利益を述ぶる所故、摂取不捨の故に正定聚に住すとのたもうてよき筈なり。爾るにその次の「正定聚に住するがゆえに、必ず滅度に至る」と。これ入用にない御言を引きたまうようにみえる。そこで爰を『御文』の末書には同文故来ると解すれども、これ甚だ不可なり。これを同文故来る抔と云わば、今引く所の『本願抄』の文に、往生の定まる時をば「正定聚の位に住すとも云い、必ず滅度に至るとも云い」とのたまうは云何通釈するや。この「自問自答の御文」に引く御言を〈は?〉、覚如上人の『執持抄』に御引と同じことなり。住正定聚の故、必至滅度と云うを、覚如上人は必至滅度の言を因の位より果を説く言とするなり。それを『御文』に相承したもうて、「多屋内方の御文」に「この位を」等とあるも『本願抄』と同じ事なり。KG_MRJ06-21R,21L
 先年、西六条にて一益二益の対論のとき、一益方よりの証文にこの「多屋内方の御文」を引きたり。二益方より返答に、「滅度に至る」の「至」の字は必至滅度の「至」の字故に、必ず至ると云う事なり。それ故、滅度に至るとは正定聚の事なり。正定聚即ち滅度の一益にあらずと返答せり。私ども若い時分に親り〈まのあたり か?。したしく か?〉聞きたり。実に『御文』じゃと云いて心易い様なれども、『御文』の御文相さえろくに解されずして、その意を得よう分はない。結句一文不知の尼嫁、何の分もしらずに『御文』を聴聞して居る者は『御文』の心をよく得て居る。文字でも読めるもの、自分の了簡にて『御文』を取り扱う故、遂には御安心にまで異解を起こすなり。「自問自答の御文」の同文故来るとし、「多屋内方の御文」を一益の証拠とする位では『御文』の文相は解されぬ。篤と研究して当流の正意を得たきものなり。KG_MRJ06-21L,22R

◎必至滅度、即是常楽、常楽即是大涅槃、即是利他教化地果。是身即是無為法身、無為法身即是畢竟平等身、畢竟平等身即是寂滅、寂滅即是実相、実相即是法性、法性即是真如、真如即是一如也。
◎(必ず滅度に至れば、即ちこれ常楽なり。常楽は即ちこれ大涅槃なり。即ちこれ利他教化地の果なり。この身即ちこれ無為法身なり。無為法身は即ちこれ畢竟平等身なり。畢竟平等身即ちこれ寂滅なり。寂滅即ちこれ実相なり。実相即ちこれ法性なり。法性即ちこれ真如なり。真如即ちこれ一如なり。)

 「必至滅度即是」等。二明至滅度相〈二に滅度に至る相を明かす〉。KG_MRJ06-22R
 「必至滅度」とは、これは正しく当益を説く言なり。命畢わりて必ず滅度に至る。その滅度は「即是常楽」なり。これより下に滅度を転釈したまう。即ちこの転釈、真実報土の必至滅度の証の相を顕す。「即是常楽」とは下の偈文、善導の章に「即証法性之常楽」とあるよりみれば、今も善導の御釈に依りてのたまう。これは「玄義分」(三右)「捨此穢身即証彼法性之常楽〈この穢身を捨てて即ち彼の法性の常楽を証すべし〉」とあり。拠の文に「法性之常楽」とあり。爾らば大般涅槃に具わる所の常楽我浄の四徳の中の常楽なり。即ち「真巻」に『涅槃経』を引きて「善男子」等とあり。菩提涅槃の妙果のいつ迄も常住にして替わらぬ所を常と云う。同「信巻」に『涅槃経』を引きて「善男子。有大楽故名大涅槃〈善男子、大楽あるが故に大涅槃と名づく〉」とあり。涅槃の大楽の事を楽と云うなり。KG_MRJ06-22R
 ときに滅度は「即是常楽」と滅度より常楽に移る訳は云何と云うに、只滅度と云わば、かの小乗の灰身滅智の滅度と思うが、今滅度はそうではない。常楽にして無変易・寂静・無為にして、大楽を受けると云う事にて「必至滅度」等転釈す。KG_MRJ06-22R
 「常楽即是大涅槃」とは、これ大涅槃の言は『如来会』故に、今爰も『如来会』に移りて転釈したまう。予て「真巻」の『涅槃経』に「有大楽故名大涅槃〈大楽あるが故に大涅槃と名づく〉」とあり。心を取合して転釈したまうなりと。この心は常住にして大楽ある滅度なり。爾らば二乗の涅槃とは違う。二乗の涅槃は身智ともに滅す。今は常住にして大楽を受ける涅槃なれば、二乗の小涅槃では、これは只仏如来の証したまう大涅槃じゃと云う事にて「常楽即是大涅槃」とのたまう。KG_MRJ06-22R,22L
 「大涅槃即是」等と。この后の「大涅槃」の三字は真本にないと云う事なり。再治校合の時加えたまうとみえる。「利他教化地果」とはこれ『往生論』(九左)果の五門の中の第五の園林遊戯地門の明かす所に「至教化地」と云う言あり。それを『註』下(三十二右)釈して「教化地の果」と云うてある。これは果の五門を論じては自利利他と分けて、前の四門は自利円満の果、第五の園林遊戯地門は利他円満の果なり。浄土の菩薩、利他の大悲を以て衆生を教化したまう所故「利他教化地」と名づく。「地」は住所の義なり。その場所に住する事なり。今浄土の菩薩の自利を円満して、その自利門を出でて衆生教化の利他門の場所に至りたもうた所故に、そこで論文に「至教化地〈教化地に至る〉」と云う。「果」は果の五門の中の利他円満の果故に利他教化地の果故に「利他教化地の果」とのたまう。KG_MRJ06-22L,23R
 「大涅槃即是」等と。この后の「大涅槃」の三字は真本にないと云う事なり。再治校合の時加えたまうとみえる。「利他教化地果」とはこれ『往生論』(九左)果の五門の中の第五の園林遊戯地門の明かす所に「至教化地」と云う言あり。それを『註』下(三十二右)釈して「教化地の果」と云うてある。これは果の五門を論じては自利利他と分けて、前の四門は自利円満の果、第五の園林遊戯地門は利他円満の果なり。浄土の菩薩、利他の大悲を以て衆生を教化したまう所故、利他教化地と名づく。地は住所の義なり。その場所に住する事なり。今浄土の菩薩の自利を円満して、その自利門を出でて衆生教化の利他門の場所に至りたもうた所故に、そこで論文に「至教化地〈教化地に至る〉」と云う。果は果の五門の中の利他円満の果故に利他教化地の果故に「利他教化地の果」とのたまう。KG_MRJ06-23R
 時にそれならばこの文に不審あり。この利他教化地は次の還相回向の利益なり。今明かす所は真実報土に参るや否や、自ら無上涅槃を証る自利円満の果なり。その自利円満の無上涅槃を明かす所に利他教化地を挙げて転釈するは何故ぞと云うに、これは訳のある事なり。爰らは転釈と云うて、只同じものをいくつも並べてみせるではない。この転釈にて大涅槃の相を顕す。これが直ちに我祖の御指図なり。KG_MRJ06-23R
 これは小乗教ならば涅槃は断徳故、ただ煩悩を断じて涅槃を談じ尽くした所を涅槃と云う。大乗でも『唯識論』あたりでは煩悩障を断じて涅槃を得、所知障を断じて菩提を得ると分かる。涅槃と云うものをば只煩悩を断じて得ると説くは大乗真理の説に非ず。一分小乗に同じて説く所なり。実大乗に説く涅槃は爾らず。『北本涅槃経』五(七右)已下、仏の大般涅槃等の文あり。仏、衆生済度するに何くに至りても障りなし。地獄に入りて度するも、火に焼かるる事もなく、餓鬼道に入りて飢渇の苦を受くる事もなく、諸の障を離れて、思いの儘に衆生を済度するが解脱なり。これは章安の『涅槃疏』の意にて、『涅槃経』の意を弁ぜり。KG_MRJ06-23R,23L
 解脱と云うは只悪業煩悩を離れたる所を解脱と云うように思えども、この『涅槃経』の説では諸の障を離れたる所にて衆生済度に付きて少し計らいも障なきように成りた所が大般涅槃の解脱なり。これは天台に常に申す事で、四明はこの『涅槃経』の文に依りて性悪を立つる。仏は衆生済度の為に悪造りて見せたまう。凡夫の造悪とは違うなり。仏の悪は性悪なり。終日悪を造りても悪の為に障を受くることなきが仏の解脱の徳なり。凡夫は膠を塗った手の如く、当たり障る所手がひっつくなり。思う事、云う事、悪の為に煩わされぬ事は一つもない。仏の意は丁度奇麗に洗った手の如く何を捕らえても付くと云う事はない。仏の衆生済度の為に煩悩を現じても、悪を造りても、それが為に少しも障る事のなきが仏の解脱なり。爾れば自由自在に済度する処を大涅槃と云う。今爰に大涅槃は利他教化地の果とのたまうがその意なり。KG_MRJ06-23L
 爰の転釈の意は小涅槃の灰身滅智とは違う。常楽の大涅槃なり。爾らば自分計り楽を受くるかといえば、そうではない。諸の障を離れて自由自在に衆生を度するが大涅槃の解脱なり。故に真実報土の菩薩は無上涅槃を証る所に即ち大悲を起こし、諸有海に回入して普賢の徳を修する、これが実大乗の大涅槃の相〈すがた〉じゃと云う事にて、「大涅槃即是」等とのたまう。この「果」の字、爰では入用なり。浄土の果に二つはない。無上涅槃なり。KG_MRJ06-23L,24R
 「是身」とは、上の経文の「虚無之身」の「身」と同じ、大涅槃を証った身の事なり。「即是無為法身」とは、これより下は『浄土論』にてのたまう。「無為法身」と云うは、『論』(七左)「真実智恵無為法身」とあり。それを『註』下(二十四右)釈して「無為法身」は「法性身」の事とす。法身と云う言も報身応身にも通ずる事あれども、爰は「無為法身」とありて、「為」は為作造作の義にして、為作造作を離れた本来本有の法身を無為法身と云う。爾らば本来清浄の涅槃の異名なり。KG_MRJ06-24R
 「無為法身即是畢竟平等身」。これは論文(六左)あり。或いは地前の菩薩、或いは地上の菩薩、弥陀の浄土に往生して、八地已上の菩薩と同じく畢竟じて平等法身を証る。「平等」と云うは法性平等の事なり。法性は法界に周遍して平等なり。その法性平等を証った体故に「平等身」と云う。「畢竟」の言は『論註』(十九左)二釈あり。その后義は大師の正義として取る処なり。その后義で云うときはこの「畢竟」と云うは、先日『維摩註』を引きて弁ぜし僧肇の釈と同じ。畢竟はいついつまでも替わらぬ、常住なる事なり。今爰はいつ迄も替わらぬ平等身を証りたると云う事なり。KG_MRJ06-24R,24L
 「畢竟平等身即是寂滅」これは今の論文に「得寂滅平等故」とあり。「寂滅」の言にて転釈したまう。浄土の菩薩は何故平等身を証りたまうぞと云うに、浄土に参るや否や、同じく寂滅平等を得るが故にと釈したる論文なり。寂滅とは『智論』七十四(三十一左)「寂滅者不増不減不高不下。滅諸煩悩戯論〈寂滅とは不増不減、不高不下にして、諸の煩悩の戯論を滅す〉」とあり。法性の真理は仏にありても増えず、凡夫にありても減らず、証ったとて高くもならず、迷うたとて卑しゅうなるにも非ず。諸有煩悩を断じ、諸の分別戯論を離れたる処を寂滅と云うと釈してあり。爾れば諸法従本来常自寂滅相〈諸法は本よりこのかた常に自ずから寂滅の相〉の法性の理を寂滅と云う。能所証不二故〈能所の証、不二なるが故に か?〉に平等身即是寂滅なり。これで無為法身も平等身もみな大涅槃の異名となるなり。平等身・法身等といえば菩薩の躰〈すがた か?〉なしと云う。能証所証二つはない。如々の智と如々の境と二つはない。境智亡じた所が法性なり。今もその如く境智寂滅を証った所が平等身。その平等身寂滅なりと明かしたまう。KG_MRJ06-24L,25R
 「寂滅即是実相」。これより下、実相と法性と真如と一如と、これはみな大乗教、処々に説く処の涅槃の異名なり。『唯信文意』(十七右)涅槃の異名の下十名出たり。ときに経に処々に説きてあることなれども、それを今は『論註』にてのたまう。恐れ乍ら、この我祖の何をのたまうにも御精密なる処なり。上来「利他教化地」より下は『浄土論』にて転釈したまう。これより下は諸大乗教の名目を『論註』に移して『論註』にて転釈したまう。KG_MRJ06-25R
 「実相」とは『註』下(十八)、同(二十八右)等にこの言出たり。『法華経』では「諸法実相」と説きてあり。実相の言は処々に説きてあれども、先ず『華厳』では法界、『法華』では実相なり。『文句』三の三(七十五右)「実相者是実智境。一理非虚故言実相〈実相とはこれ実智の境なり。一理、虚に非ざるが故に実相という〉」とあり。実相を除きて余はみな摩事〈魔事か?〉なり。KG_MRJ06-25R
 「実相即是法性」とは、法性の言『註』下(十九右)に出たり。法性は『大乗義章』に釈して、性は体なり。一切諸法の体となる故に法性と名づく。「法性即是真如」と云うは『註』下(二十二右)「真如即是諸法之正体也〈真如は即ちこれ諸法の正体なり〉」と、真如の名出たり。真如は真実如常の義。虚偽ならず、真実にして、而も常住なるを真如と名づく。「真如即是一如」とは、一如の言は『文殊般若経』(十九右)「皆乗一如成最正覚〈皆一如に乗じて最正覚を成ず〉」とあり。一如と称する釈は『維摩経』「菩薩品」の初めに説いてある。一切衆生も皆如、一切法も亦如、凡夫も弥勒も如なりとあり。その処に至りては[ヨク03]播でも[X43]子(杓子か?)でも如ならざるものは一つもない。森羅万象只一如にして外のものなきを一如と云う。これは『註』下(二十二右)この言出たり。KG_MRJ06-25R,25L
 上来みな大涅槃の相を顕す転釈なり。その転釈の終わりに一如にて止まりたまうはどうした事ぞというに、「証巻」ではこの次に「弥陀如来従如来生」と云う文あり。阿弥陀如来もこの一如の性より形を顕して、この一如を証りて無上涅槃の果位に住したまう。十方衆生、生ずる程の者がみな悉く若不生者の願力に乗じて往生する故に、悉く弥陀の正覚の花より化生す。弥陀の無上涅槃と同一味の証を開く。弥陀の証も、衆生の証も一如にして二如なし。十方の衆生みな報土に往生して証る処の涅槃は只一如にして二如なしと云う義を成立せん為に、真如即ち一如にして結びたまうなり。KG_MRJ06-25L

◎爾者若因若果、無有一事非阿弥陀如来清浄願心之所回向成就。因浄故果亦浄也。応知。
◎(爾ればもしは因、もしは果、一事として阿弥陀如来の清浄願心の回向成就したまう所に非ざることあることなし。因浄なるが故に果亦浄なり。知るべし。)

 「爾者若因」等。四総結。KG_MRJ06-25L
 この文の拠は『註』下(三十二右)に文あり。爾るに『註』では「若因」と云うは因の五念門の中の第五の回向門なり。「若果」と云うは果の五念門の中の第五の園林遊戯地門なり。今は爾らず。行信証の三法の総結にして、「若因」とは衆生往生の因にして、上に明かす行信の二法なり。「若果」とは衆生往生の果にして今の証なり。「阿弥陀如来」等。文の拠は上の真実信の終わりの総結の文の拠と同じ。『註』下(二十三左)浄入願心章の釈に依る。「非無因他因有也」の文は爰に入用なし。上の行信を結ぶ処は往生の因を結ぶ処ゆえ、あそこに入用ゆえに、あそこに出したまえり。爰は往生の因と果とを総じて結ぶ処ゆえに「因浄故果亦浄也。応知」と爰に出したまう。『論註』の一文を切り分けて両方に出したまう。爾もその処により叶うように『論註』の文は御自由に御自身の御言にしてしまいたまう。爰らが実に鸞師の再誕との仰せ奉る謂われ処なり。その処は理実に思議し難し。KG_MRJ06-25L,26R
 時に「因浄故果亦浄」は『註』では菩薩の荘厳を釈する処なり。三種荘厳はみな弥陀の因位願心より起こる。因位の願心、無漏清浄の願心故、果上の浄土も器世間清浄・衆生世間清浄と明かすが『論註』なり。今爰は、因は衆生往生の因、即ち行信の二法なり。果とは往生の果にして真実証なり。時にその往生の因は弥陀の清浄願心より回向する処、往生の果も亦弥陀清浄願心より回向する処。衆生往生の因も果も阿弥陀如来の清浄願心の回施したまう故に、因も果も清浄なり。これ等の義を能く能く「応知〈知るべし〉」の字を置きたまう。KG_MRJ06-26R,26L
 時にこの結文「証巻」にもあり。「証巻」では「夫挙真実教行信証〈夫案真宗教行信証か?〉」と標して四法の総結の文とす。この『略本』はそれとは違うて行信証の三法の総結なり。これは全く四法の中の教の一つ、往相回向に属すると属せざるとの違いある故、そこで今結文の処も、『広本』は四法の総結、『略本』は三宝の総結なり。この三法の総結の処にて行信証の三法は、行の中より開出したるになる。これ略して二とするときに教行の二になるなり。上の行信の結文に四法を略して三法とするの結文なり。今爰に四法を略すれば教行の二となる事を顕す。この両処の結文は、初めの序文の「真実の教行証〈真宗の教行証か?〉」「末代の教行」とのたまうに相応する結文なり。已上、四法を明かし終わる。KG_MRJ06-26L

浄土文類聚鈔講義 巻六 終