香月院 浄土文類聚鈔講義 第7巻の2(4の内の2) 正説分を総結して信を勧む 仏祖の悲引を結す |
浄土文類聚鈔講義 第七巻之二 |
香月院深励講師述 宮地義天嗣講師閲 松内上衍校訂 ◎是以浄土縁熟、調達闍王興逆害、濁世機憫釈迦韋提選安養。 (ここを以て浄土の縁熟して、調達闍王をして逆害を興こす、濁世の機憫 〈あらわ〉れて釈迦韋提をして安養を選しめたまえり。) 「是以浄土」等。三総結勧信三。初結仏祖悲引三。初明真宗教興二。初正明教興〈三に総結して信を勧むるに三。初に仏祖の悲引を結するに三。初に真宗の教興を明かすに二。初に正しく教興を明かす〉。KG_MRJ07-15R,15L これより下、偈前の文迄が甚だ文段の分かち悪い処なり。古来注家の多く見誤まる処なり。古い末[X45]〈ちゅう か?〉の『私記』『直解』等には、これより下の文をば皆還相回向の下に属したりする。これ甚だ不可なり。誰がみても知れた事にて、還相回向は已に明かし畢わりて、次上の文、上来明かす処の往還を総結する文なり。それじゃにこれから又あとへ戻りて還相回向を明かすべき筈なし。爰を還相とみるから起こって提婆も阿闍世もみな還相回向、今日の七平も八平もみな還相回向と云うような事を云い出す。皆爰等を誤る故なり。浄土に一辺行きて来たでなけねば還相とは云われぬ。又浄土から娑婆に出るのに弥陀の化身抔は還相とは云われぬなり。釈迦・韋提・調達・闍世抔も娑婆から浄土に参りた菩薩が顕れるなれば還相なれども、浄土から弥陀来が遣わしたまうならば還相ではない。御一人御一人に札が付けてあるではなし。どうしれるものぞ。KG_MRJ07-15L それはともあれ爰の文段は『[シン09]記』に、上とは別段にして結勧の文としられたが甚だよきなり。この『略文』一部の正処明はこの上の段迄に明かし畢わりたり。四法に回向を明かし畢わるゆえ、そこでこれより下は総じて結勧する文とみるが甚だよきなり。爾るに『義讃』にはもう爰からを偈前の文にして、述造偈意と科するは甚だ不可なり。成る程余り段々考えると、しまいにはどうもない行き過ぎた解の出るものなり。これは何も造偈の心を述べたものではない。下に『論註』を引く処より下は造偈の意なり。それより前はみな上に属して総結し、その中に今は『観経』に依りて浄土真宗の教奥を弁ずる処なり。これらは古来『観経』の機の真実を明かすと見る時は、上は別段になる。上は法の真実、已下は機の真実となるなり。こう云う処は聖教を伺う大切なる処なり。これは『広文』総序にもこの文あり。この前に難思弘誓の文あり。総序もみな初めに『大経』に依りて法の真実、次に『観経』に依りて機の真実とすれども、宜しくない。茲もさようなり。機の真実を明かしたる文には非ず。KG_MRJ07-15L,16R なるほど『口伝鈔』の御相承の如く、『観経』は機の真実、『大経』は法の真実。これは勿論の事なり。又爰に出したまう提婆闍世等も機の真実の役人に違いない。今爰に提闍韋を出すは、全体この『略文類』は『大経』所説の浄土真宗の教行信証を明かす処にして、この浄土真宗の教は已に仏在世『観経』の時起こった教なり。弥陀釈迦二尊の方便に依りて提闍韋等が指添えせられて、この浄土真宗の教は已に仏在世起こったと云う浄土真宗の教興を明かすのなり。外の事を云うのではない。KG_MRJ07-16R,16L 上来明かす処の往還二回向、教行信証の四法、浄土真宗の教はこれより外はない。依宗教別の時は二回向・四法は浄土真宗の教相なり。その浄土真宗の教を総結勧信したまうに付いて、先ず初めに浄土真宗の教の興りを弁じたまうのなり。上来明かす二回向・四法、今初まった法門ではない。「末代教行、専応修此〈末代の教行、専らこれを修すべし〉」と勧むるに依りて、今始めての教じゃと思うまいでものもないが、そうではない。如来の在世に已に起こった弥陀釈迦二尊、この法門を興したまいたが本なり。今末代の修するぞとのたまう意なり。KG_MRJ07-16L 「是以」とは上を承ける言なり。『後漢[X45]』十二(五右)朗鞅朝廷に用いらるるゆえ、是以山東頗此朗鞅に帰するとあり。爾れば今爰に「是以」の言を置きたまうゆえ弥々上を結するの文なる事明らかなり。「是以」とは何を受くるぞと云うに、次上の文に、上来明かす処の往還尽く如来清浄願力の回向する処と結びたまうあの結文にて四法も二回向もみな阿弥陀如来の願心より回向する処と結びたまう。今初めて起きた二種回向四法ではない。本を尋ぬるに、弥陀因位の願心回向する処と結びたまう。それを承けてこれを以て如来在世に弥陀釈迦二尊方便してこの浄土真宗の教を起こしたまうと云う意なり。今末代に初めて出来たるに非ず。全体は弥陀因位の願心の回向する処、これを以て仏在世の二尊の方便して提闍韋等と、大聖方が指添えせられてこの真宗の教を興し度しと四法二回向を総結する文なり。KG_MRJ07-16L,17R 「浄土縁熟」とは、この言は一寸聞こえ悪い言なれども、「観経讃」に「浄土の機縁熟すれば」あると同じ事なり。浄土の教を受くる処被の機縁熟する事なり。説時を論ずれば『大』前、『観』後なる事明らかなれども、『大経』の法は『観経』の機に依りて起こしたるものなり。薬は先達てより拵えてあれども、大病人のありたる時、その薬の功能顕わるるが如し。今浄土真宗の教は『大経』なり。その『大経』真実教の仏在世に起こりたる時はいつじゃと云えば『観経』の時なり。提婆闍世の逆悪を起こした処が正しく浄土の機縁熟した処なり。その時がこの浄土真宗の教の起こった処じゃと云う事にて、浄土の機縁とのたまう。KG_MRJ07-17R,17L 時にこの縁は機縁なり。それを讃に「機縁」とあり。所被の機が縁となりて能被の法起こる故に、所被の機を機縁と云うなり。今は機縁の二字を分けてつかいたまう。これは元照に依りたまう。元照『観経疏』の上(三右)「韋提機発して浄土の縁興る故」とある。これに御依りなされたに違いない。爾るに「縁」の字を前に出したまうは浄土の一教の起こる縁と云う処に機をのたまう故に初めに出したまう。末[X45]〈ちゅう か?〉にこの縁の字を色々に解すれども、全体元照の疏に依りたまう事をしらぬ故、みな当たらぬ。KG_MRJ07-17L 時に今浄土真宗の教興を弁ずるに『観経』に依りてのたまうはどうした事ぞと云うに、凡そ仏経は皆所被の機が縁となりて、その教が起こる。『維摩経』では宝積長者が宝の金蓋を仏に献じた処が『維摩経』の機縁の熟する処なり。『勝鬘経』でなれば波斯匿王の勝鬘夫人へ[X45]翰うぃ送る処が『勝鬘経』の機縁の熟する処なり。これらは皆善事が縁となりて仏教が起こる。今浄土真宗の教は阿闍世の悪事が縁となりて起こる。[X47]〈夫[それ] か?〉も常并の悪に非ず。殺父殺母の悪逆が縁と成りて起こる。爰が外にならびない極悪最下の機の為に起こる極善最上の法なりと顕す為なり。KG_MRJ07-17L,18R 調達・闍世とは『観経』には調達と説き、又提婆達多と説く。これは『涅槃経』でも『法花』でも皆提婆達多と云うてあり。爾るに『涅槃経』三十七(二左)「調婆達多」とあり。これは提婆達多と同じ。これは梵語の違転なり。餅をぼちと云うが如し。その調婆達多を略して調達と云う。提婆達多を略して提婆と云う。みな梵語なり。時に天熟と翻ずる義は常に出る如し。KG_MRJ07-18R 時に爰は次の「釈迦韋提」等の文と対の文なり。「調達」の下に教の字を入れてみる意なり。調達、阿闍世を教えて逆悪を興ぜしめたまう。そこを『観経』の文に「随順調達悪友之教」とあり。「大経讃」の前に「提婆尊者」と「釈迦如来」が同様に大筆で書いて、提婆は逆悪の魂たるものなり。爰を今、調達は闍王をして逆悪を興ぜしめ、釈迦は韋提をして安養を選ばしめたまうと云う事なりけれども、爰の読み癖は調達闍王と読むべし。真本・御延書等にみな「しめ」の仮名なし。近くは『御文』に「提婆阿闍世の逆害をおこして」等とのたまう。誦みぐせは大切なるものなり。KG_MRJ07-18R 「興逆害」とは「序分義」に「横加逆害〈横ざまに逆害を加う〉」とあり。これは『涅槃経』十九(十一)「横加逆害」とあり。即ち「信巻」末(会本五 三十一左)御引用なり。爾らば『涅槃経』に依りたまう事治定なり。「逆」は違逆なり。大恩を受けた父母の恩田に違害する害は殺害なり。実に闍王、母を殺しはせねども、刃を抜いて向かう。これ意業の殺害なり。「興」は興起なり。今我祖の思し召しは浄土教を興する処に掛けてのたまうなり。和歌の言に掛けて云う処多し。漢文にもその事あり。吾祖には別してそれが多きなり。闍王の逆害が浄土の一教を引き起こすと云う処に掛けてのたまうなり。KG_MRJ07-18R,18L 時に人々思う事にて、提婆達多は『観経』にて浄土教の起こる所の因縁になりたり。爾らば迚〈とて〉もの事に『観経』に於いて提婆闍世が得度する相〈すがた〉を説きてあらば宜しかるべし。爾るにこの経では提婆も闍世も逆害を造りたばかりで法に摂せられた相〈すがた〉は説きてなし。提婆は『法花』に於いて大王如来の記別を授かり、闍世は『涅槃経』で改悔懺悔して得度する。これは云何と云うに、爰が『観経』での説相の有り難い処なり。『観経』では提婆も闍世も実業の凡夫なり。『観経』では提も闍も韋も逆害を造りて地獄に落ちる。これは闍世は『普超三昧』に説く如し。頻陀羅地獄に落ちる提婆も今日の凡夫の通り替わった事はない逆悪を造るなり。その逆害に依りて地獄に落ちると示したまう。韋提一人は末代の凡夫の替わりに成りて浄土門を開く。爾らば逆罪を造るものは地獄に落ちるに違いなく提婆等の如し。韋提もその同類なれども逆罪を造るものは地獄に落ちるものなれども、『観経』で無生忍を得て浄土に往生すると示したまうなり。「濁世機憫」とは「機を」と誦するが真本の点なり。「憫」は愍と相通ず。「濁世の機」とは「序文」の終わり(三十五右)に「若仏滅後諸衆生等、濁悪不善〈もし仏滅後のもろもろの衆生等は、濁悪不善にして〉」等と説く。『観経』では仏、韋提を対告衆として浄土の一教を説くは全体末代濁世の機を哀れみての事なり。KG_MRJ07-18L,19R 時に『広文』「総序」に「浄業機顕〈彰か?〉れて」とあり。これは先輩の弁に、爰は『広』『略』二本対映して、義の顕わるる処なり。『広本』に「浄業機顕れて」とは浄土の業を修する機顕れたる事にて、即ち韋提の事なり。韋提、我が身の苦に詰められて「不楽閻浮提」等と浄土を願うは浄土を修する機の顕れた処なり。爾れば『広本』にて機と云うは韋提夫人の事なり。韋提は別選浄土の機なり。爰が正しく浄土教の起こる事を述ぶる処ゆえ、そこで正しく浄土の門を叩く韋提を挙げて「浄業機顕〈彰か?〉れて」とのたまう。KG_MRJ07-19R,19L 今又この略本には未来濁世の機を挙げたまう。これ何故ぞといえば、仏の本意は、韋提は重の相手にはなされぬ。その証拠は夫人より教我思惟正受〈「我に思惟を教えたまえ、我に正受を教えたまえ」〉と我が為に、我が為にと願うのに、仏の方よりは「亦令未来世一切凡夫」と説き、いっち終わりに韋提より、我ら仏事を以て浄土を見たてまつる。爾るに仏滅後濁悪不善の機は云何して極楽をみるべきやと願う処に、初めて『観経』の正宗起こる。韋提の我が為、我が為と願う内はまだ経の正宗は起こらぬ。「若仏滅后」の請に応じて説くが『観経』の正宗分なり。KG_MRJ07-19L 爾れば仏の本意は濁悪世の機を愍れみて説く故に、今『略本』に「濁世機憫」とのたまう。これは両方乍ら挙げねばならぬ。「為未来世」の后なれども、仏在世に未来の衆生に代わりて安楽を選ぶ選択浄土の機の韋提も挙げねばならぬ。されども仏の本意にて云えば、韋提は招伴、未来世の衆生は正機故にこれ亦挙げねばならぬ。『広』『略』二本対映して見るべしと云う事、香厳院の婁〈しばしば〉弁ぜられたと云う事、理綱院より聞けり。KG_MRJ07-19L 「釈迦韋提」等。これは『観経』の「序分」にて、韋提、安楽をを選択する処なり。これを善導は韋提別選処求とするなり。韋提我が意より選んだではない。仏の密意の勅命を受けて選んだのじゃに依りて、爰を「序分義」に「如来密意〈遣か?〉夫人」等とのたまう。爰が正しく浄土真宗の一教の興る処なり。爾らば提婆闍世の逆害を起こしたは浄土の機縁の熟する処、韋提の安養を選ぶのが浄土一教の興りなり。提婆闍世は逆発起、韋提は順発起。順逆の二発起相依りて浄土真宗の教の起こる相〈すがた〉を述べて、浄土縁熟して「調達」等とのたまうなり。KG_MRJ07-19L,20R ◎倩思彼静念此、達多闍世博施仁慈、弥陀釈迦深顕素懐。 ◎(倩〈つらつら〉彼を思い、静かにこれを念うに、達多闍世博く仁慈を施し、弥陀釈迦深く素懐を顕わせり。) 「倩思彼」等。二顕聖権化〈二に聖権化を顕す〉。KG_MRJ07-20R 上の段に達多闍世韋提等相寄りて浄土の一教の起こる相〈すがた〉を述べる。この一段では、その提婆も闍世も韋提もその実は大権の聖者にして弥陀釈迦二尊の方便より相を替え、形をやつして衆生を済度したまう御化益と云う事を顕す一段と云う。科云々。そこでこの一段は和讃にて云うときは「弥陀釈迦方便して」等、「大聖おのおのもろともに」等と二首の和讃の意を爰に述べ、上の段では提婆も闍王も実業の凡夫なり。実に逆害を造りて地獄に落つる。又韋提は宿善ありしゆえ『観経』の利益は受けたれども、これも提婆と闍王と替わらぬ実の凡夫故、釈尊、韋提に対して「汝是凡夫心想羸劣〈汝はこれ凡夫なり。心想羸劣にして〉」とのたまう。他経の説とは爰が大違いなる処なり。『心地観経』一(九右)韋提等の十六大国の夫人を列ねて、その嘆徳の文に「為度衆生示現女身。(乃至)無縁大慈無礙大悲。憐愍衆生猶如赤子〈衆生を度せんが為に女身を示現し(乃至)無縁の大慈、無礙の大悲をもって衆生を憐愍すること、猶し赤子の如し〉」と説く。爾るにこの『観経』では、韋提、最初七重の牢に、身に酥蜜を塗りて行きたまうからが皆末代の凡夫と同じ事なり。実の凡夫女人の相〈すがた〉なり。それを仏も、汝はこれ「是心想羸劣」とのたまう。KG_MRJ07-20R,20L 爾れば提も闍も韋も『観経』一部の説相では実業の凡夫でなければ末代の凡夫を導く事はならぬ。それ故に善導の疏四帖の間に一言半句も韋提闍世等を大権の聖者とのたまう処はない。爰が諸師の釈に異なる善導の御判釈、妙に経意を得たまう処なり。依りて今家の吾祖も『観経』一部の説相で浄土の一教の起こる相〈すがた〉を述ぶる時は善導の御釈の通り、即ち上の段に述ぶる処がその義なり。提婆闍世は逆悪を造り、韋提は安養の往生を願う。ともに実業の凡夫なれども、その凡夫の処作が、或いは逆発起となり、或いは順発起となり、浄土の一教はこれが為に起こると云う事を述ぶるが上の段の趣きなり。爾るにこの一段では開迹顕本にして、その本門を打ち出してのたまう。爰が正しく浄土真宗の二回向四法の法門の起こる由来を述ぶる処なり。KG_MRJ07-20L,21R 上来明かす処の二回向四法はその本を尋ぬれば、阿弥陀如来の清浄願心の回向したまう処、その回向をば娑婆界の今日の凡夫へ送り届ける為に、釈迦御在世に当たって、弥陀釈迦二尊方便して大権の聖者方が相〈すがた〉を替えて、提婆闍世と顕れ、韋提夫人と成りて、末代凡夫の為に浄土真宗の教えを開き起こさせられたのじゃと云う事を述べ、これ我祖『観経』一部の説相のその起こりの処を弥陀の清浄願心よりあばき出してみせるがこの一段なり。この二段をかようにきっぱり分けて伺わねば善導の疏と我祖の御釈とが違うようになるなり。KG_MRJ07-21R 「倩」と云うは、せんの音にて、今爰では「浄土縁熟」の「熟」の字と同意なり。「倩思」と云うは卒忽に思う筈ではない。篤と考えてこれを思うと云う事なり。この「倩」の字は我祖の御時代の文章に能くつかう文字とみえて、先ず元祖の『選択集』末(十六左)「倩尋経意」等あり。又聖覚法印の言にも「倩思教授恩徳」とあり。『銘文』にこの言挙げてあり。又『摧邪輪』上(五十左)に「倩案文意」とあり。KG_MRJ07-21R,21L 時にこの文字の事をば貝原篤信が『和爾雅』の中に弁じてあり。初めにこの文字の字註を出して、この倩の字は人の顔形の美しい事を倩と云う。依りて『詩経』には「巧笑倩兮」とある。又この倩の字、「仮借使人也」と註する時は人を雇って使う事なり。これより外にこの倩の字につらつらと云う義なし。和俗誤りて熟の字と同義につこうたは非なりと破す。去り乍らこれを熟の字と同義につかうも、日本にては古い事じゃとて、源の時綱が詩に「倩看新体嬌宮月」とあるを引きてあり。貝原の弁に、倩をつらつらとするは和俗の誤りと云うてあり。理綱院もこれを引きて弁ぜられたばかりなり。近来の末[X45]にも、字[X45]の中に、倩は熟なりの訓は未見とあり。爾るにこれは南郭が『遺契』三文の部に、[ユ01]肩吾、詠桂樹詩〈桂樹を詠む詩〉に「倩視今移処何如月裏生」とあり。『佩文韻譜』にこの詩出たり。南郭これによるか、桂樹をつらつらみるに、実に月宮殿の桂と何れならんと云う意なり。倩視熟視と同じ事なり。南郭この詩を引きて、字書に熟なりの訓はなけれども、この詩にてみれば、つらつらと熟する事、必ずしも拠なきに非ず。日本に伝わる古い字書にはこの訓ありとみえる。KG_MRJ07-21L,22R 「静念此」とは、この「静」の字をしずかと云うは『選択集』に例あり。この「彼」「此」の字に付きて末書に大騒動なり。彼は還相を指すと云うもあり。「此」が還相を指すと云うもあり。これはみな不可なり。爰は還相回向ばかりに限る事に非ず。爰は二相四法を結ぶ処なり。『[シン09]記』には、「彼」とは『観経』を指し、「此」とは『大経』を指す。これも不可なり。『義讃』に弁ずるも亦不可なり。これは諸末註とも爰は何を明かすと云う[シュ04]は付けずにあるのなり。KG_MRJ07-22R これは昨日弁ずる如く、今爰はこの『略文類』に上来明かす処の末代の教行たる二回向四法の教の興る初めて語る処なり。そこで「彼」と云うは上の段に述ぶる処の二千余年の昔、『観経』の会座に於いて調達闍王等相寄りて浄土の一教の興った事、それを「彼」という。「此」と云うはこの『略文類』に上来明かす処の末代の教行、二回向四法の法門の事なり。KG_MRJ07-22R 今我祖つらつら二千余年の昔の『観経』の会座の事を思い、又静かに末代にこの教行の盛りに弘まる処を思うてみるに、その昔の『観経』の会座の提婆闍王韋提、只人ではない。末代の只今迄この教盛んに伝えんとて、弥陀釈迦二尊の方便にて、大権の聖者方が寄り集まりて、衆生済度の化益をなしたまいたと云う事、「倩思彼」等とのたまう。達多闍世とは上の段では実業の凡夫にして出し、今爰では大権の聖者にして出す。そこで今爰では大権の聖者なる事を知らねばならぬ。提婆の権化は方々に説きてある事なれども、『法花文句』八の二(初丁)『報恩経』を引きて「若提婆達多実悪人入阿鼻獄者。無有是処〈もし提婆達多の、実の悪人にして阿鼻獄に入るといわば、この処あることなし〉」と説いてあり。今『報恩経』とは『大方便仏報恩経』四(二十左)の文なり。その次に『大雲経』を引くに、一(五右)の文なり。「提婆達多不可思議。所修行業同於如来〈提婆達多不可思議にして、所修の行業、如来に同じ〉」説いてある。爾らば提婆権化なる事明らかなり。KG_MRJ07-22R,22L 闍世とは、これ又『法花文句』二の二(四十六右)『普超三昧経』を引く。「阿闍世従文殊懺悔。得柔順忍(乃至)彌勒出世時復来此界。名不動菩薩。后当作仏号浄界如来〈阿闍世、文殊に従いて懺悔し、柔順忍を得。[乃至]彌勒出世の時、復この界に来たりて不動菩薩と名づく。后に当に仏と作らんとするに浄界如来と号す〉」とあり。爾れば提婆闍世は悪人かと思えば悪人ではない。大権の聖者なり。KG_MRJ07-22L 時にこの文は上の段を受けてある。先ず上の段の「調達闍世〈調達闍王か?〉」等の文を受けて「達多闍王〈達多闍世か?〉」等と云う。「転施仁慈〈博施仁慈か?〉」とは、この造語は『大経』に依る。上の[X46]に「慈恵転施〈慈恵博施か?〉」と説き、下巻の五悪段の末では「仁慈転変〈仁慈博愛か?〉」とあり。それを一処に寄せて語を造りたまう。末世濁世の諸有衆生に広く仁慈を施したまうと云う事なり。KG_MRJ07-22L,23R 「仁慈」の仁の字、仁義の仁の字にして、儒者共が色々に解を付ける文字なれども、仏教の言文字を解するには、先ず『玄音』『琳音』の註に依るがよし。仏学をするに最初に儒学をせねばならぬ事なるが、一生儒で果てると、又仏者にならねばならぬと思うて学すると、学び方が違うものなり。『左伝』に三年かかりた抔と云う。そのようなもろい事ではその内に日が暮れて仕舞う。儒者抔は文字の古い事でなければならぬと云う。仏経の文字はその古い事は間に合わぬ。仏教は后漢の明帝の時に渡り、故に仏教の文字は後代の字書でなければならぬなり。この「仁」の字も色々に儒者抔は云えども、それは間に合わぬ。これは『玄応音義』七(十八右)「法花の音義」に『周礼』の鄭玄が註に「鄭玄曰。愛人以及物曰仁。上下相親謂之仁。諡法曰、貴賢親親曰仁。殺身成人曰仁〈鄭玄曰く。人を愛し以て物に及ぶを仁と曰う。上下相親しむ、これを仁と謂う。諡法に曰く。賢を貴び親親なるを仁と曰う。身を殺し、人を成ずるを仁と曰う。〉」この註、能く爰に合うなり。KG_MRJ07-23R 今提婆闍世の御化導は、人を愛し、物に及ぶの仁故、遠く五濁悪世に及ぶ大慈悲の行なり。又自ら父を殺し母を殺し等の悪人の名を取りて、今の世迄も釈迦に提婆と云う実に悪人になりて衆生に替わりて地獄に落ちる、これが身を殺して人をなすの仁慈を、末代の衆生に博く施すと云う事なり。KG_MRJ07-23R,23L 「弥陀釈迦」等。これは上の段の「釈迦、韋提をして安養を選ばしめたまえり」の文を受けたる言なり。「素懐」と云うは、素は本なり。この字は飾りを付す生地の事なり。素懐も同じ。これは今韋提の別選所求にして安楽世界を選ぶ処は、弥陀如来、因位菩薩たりし時の選択の本懐を顕したまう処なり。又釈迦如来この娑婆世界に出世の本懐を顕したまう処じゃと云う事なり。KG_MRJ07-23L これは何に依りてのたまうぞと云うに、『[シン09]記』には花座観を出して弁じてあれども、爰は爾らず。浄土の一教の興由を述べる場処ゆえ、『観経』でも序分の説相にてのたまう。これは「序分義」(二十六左)釈迦如来の即便微笑の釈に「見夫人」等とあり。この善導の御釈に二尊を並べ挙げてあり。これに依りたまうなり。これは韋提の「我今楽生極楽世界〈我、今、極楽世界の阿弥陀仏の所に生ぜんことを楽う〉」と願うは別処求なり。それよりまた「教我思惟」等と、私にどうぞこの極楽に生ずる行を教えたまえと願うが別去行なり。この韋提の別所求・別去行が末代濁世の衆生の為に広く浄土の門を開く処なり。そこで釈迦出世の本懐に叶うたれば、爰では釈迦も「即便微笑」したまう。釈迦の本意に叶うた処が弥陀選択の願意を顕す処じゃとのたまうが善導の御釈なり。KG_MRJ07-23L,24R これを我祖の「化巻」御自釈(四十三右)に「因韋提別選正意〈韋提別選の正意に因りて〉」等とのたまう。釈迦の本懐に叶うたのが直ちに弥陀選択の本願を開闡する処なり。今その意を述べて「弥陀釈迦」等とのたまう。爾らばこの一段の意は弥陀釈迦方便して達多等の大聖おのおのもろとも末代濁世の凡夫を救わんが為に『観経』の会座にて浄土の一教を引き起こす。これが今この『略文類』にて上来明かす処の二回向四法の法門の起こり初めじゃと云う事を述ぶる一段なり。KG_MRJ07-24R ◎依之論主、宣布広大無碍浄信、普遍開化雑善堪忍群生。宗師顕示往還大悲回向、慇懃弘宣他利利他深義。 ◎(これに依りて論主、広大無碍の浄信を宣布し、普遍く雑善堪忍の群生を開化せしむ。宗師は往還大悲の回向顕示して、慇懃に他利利他の深義を弘宣せり。) 「依之論主」等。二明宗祖弘伝〈二に宗祖の弘伝を明かす〉。KG_MRJ07-24R これは上の段に浄土真実の法門の起こる初めを述ぶる故に、この一段ではその仏在世に起こった処の法門をば、三国伝来の浄土真宗相承の祖師たる天親・曇鸞、瀉甁伝灯して末世弘伝したまうと云う事を明かす一段なり。能く文の次第せり。故に初めに「依之」と、上を承ける言を置き、已に仏在世に大聖権化はこの法門を起こす。「依之論主宣布広大無碍浄信〈これに依りて論主は広大無碍の浄信を宣布し〉」と移る意なり。故に『広文類』では「教巻」より「証巻」迄に二相四法を明かし畢わりて、その畢わりにこの文あり。KG_MRJ07-24R 「論主」とは『浄土論』の主と云う事なり。我祖爰に委しき事あり。龍樹を論主とのたまう事なし。天親菩薩でも多くはこの論の一心を明かす処にて、この論主の言をつかいたまう。このような事もみな拠あり。これは『註』下(三右)「如実修行相応」を釈し畢わった処に「此故論主建言我一心〈この故に論主、建[はじ]めに我一心と言えり〉」とあり。恐れ乍らこれが我祖の御気に入った処なり。鸞師より天親を我一心の処に論主の言を出す。それに我祖は依りたまう一寸した御言つかいにも拠あり。油断はならぬなり。KG_MRJ07-24R,24L 「広大無碍浄信」とは「証巻」には一心とあり。爰には浄信と云う。これは『広本』では「信巻」に本願の三信を論主合して一心とした事を、一々問答して委しく釈してある。それを受けて「広大無碍の一心」とのたまう。この『略本』では三信一心の問答は下に出てある。これより上には三を合して一とする御釈なし。これに上の信を明かす章にこの論主の一心の事を浄信とのたまう。それを受けて今浄信とのたまう。矢っ張り浄信と云うは論主の一心を『略本』の言使いにて浄信とのたまうと伺うべし。KG_MRJ07-24L 「広大」とは、上に「威徳広大の浄信」とのたまうと同じ威神功徳の広大なる信心と云う事なり。「弥陀回向の御名なれば 功徳は十方に充ちたまう」と云うが如く、今この論の一心は弥陀回向の信心なり。他力回向の一心なる故、威神功徳の十方に充ちたまうと云う事にて「広大」とのたまう。依りて我祖は威徳広大の信抔とあるに付きて、他力の信は凡夫の胸の内には得られぬものじゃ抔と云う惑が付いてはならぬ。その惑を解く為に二河白道の喩えあり。KG_MRJ07-24L,24bR 我祖「信巻」に中間の白道を釈して「本願一実の直道、大般涅槃無上の大道」とのたまう。その仰山なる大道なれども、凡夫の胸の内に置く時は有や無にもみえる故に、四・五寸の白道とのたまう。四・五寸とは『禿鈔』に四大・五蘊に喩うるとあり。凡夫の四大・五蘊の胸の内に置く故に有や無やの細道なれども、仏辺ではその四・五寸の白道が取りもなおさず大般涅槃の無上の大道なり。これが他力の信に違いなき証は、その有や無やの白道なれども、貪欲の水にも溺れず、瞋恚の火にも焼かれず。爰を我祖は「本願力回向(乃至)如金剛〈本願力回向の大信心海なるがゆえに、破壊すべからず。これを金剛のごとしと喩うるなり〉」とのたまう。庭にあるちりちり草の露までも影をみそめては月は宿れる。五十由旬の月も草葉の露に置く時は僅かに見られども、五十由旬の月影も草葉の露の月影も、月の体に二つはない。それ故草葉の露の月影取りもなおさず五十由旬の一大四海に輝く月影なり。KG_MRJ07-24bR 今も凡夫の胸の内に弥陀を頼みたてまつる行者帰命の一心と云う処では実に幽かなる一心なれども、これ即ち「広大無碍の一心」故に、これ即ち功徳は十方に充満る一心なり。それを今「広大」と云う。こう云う分があればこそ、この凡夫がこの一心を得るばかりで、速やかに涅槃の都に入る。「無碍」とは『[シン09]記』には信と行と不二なる故無碍と云うと釈するは爾らず。信行不二を以て無碍を釈するはありそうもなき事なり。又『義讃』には、処讃の仏が無碍光如来ゆえ無碍と名づくると云う。これも不可なり。このような御言を解するにも、我祖の同文同軌を尋ねてそれを伺うべし。これは『禿鈔』上(七右)「金剛真心、無碍信海、応知〈金剛の真心は、無碍の信海なりと、知るべし〉」とあり。金剛の処に無碍の言を出したまう。今も「無碍の浄信」とあれば「金剛真心」の事なり。時に金剛の信を無碍と云うは如何なる訳ぞと云うに、これは『一多証文』(十九左)の御釈に「無碍と申すは」等とあり。この御釈を『禿鈔』に引き合わして拝見すべし。他力回向の一心はこの凡夫の煩悩悪業の中にあり乍ら、金剛の如く堅固にして、その煩悩悪業の為に障えられぬ破られぬ処を無碍とのたまう。「宣布」と云うは宣説流布なり。天親論主、この広大無碍の浄信をば普くこの娑婆に宣説流布するなり。KG_MRJ07-24bR,24bL 「普遍開化」等と。この「雑善」等は『称讃浄土経』(十二左)に文あり。羅什訳の『小経』には「娑婆世界」とある処を『称讃経』では「雑染堪忍世界」とあり。爾らばこの娑婆世界の事なり。娑婆は梵語にして、爰に堪忍と翻ず。『悲華経』等の説にもこの訳は出てあり。「雑染」とはこの『略本』の現本にこの「善」の字に作れども、御自釈(三十六左)「証巻」に『称讃』の通りに「染」の字に作る。又『略本』御延書にもみな「染」の字なり。真本は私の伝わる本には爰が直してない。理綱院の弁には真本も染の字なりと弁ぜられたり。爾らば染の字を以て正本とすべし。KG_MRJ07-24bL,25R 雑染とはと云うは有漏法の事なり。染は汚穢れの事なり。都て有漏と云うは善も無記も皆悪の為に穢され、悪雑ざりに穢されておる故に雑善と云う。もし善悪の善に造る本、又祖師の真本にあるものではない故に、善の字にて解せば悪無記と雑ざった善の事を雑善と云う。そこで善悪無記相雑ざった処を雑善と云う。これは『論注』下(十二左)「三界雑生」とも「雑生世界」ともあり。これはこの世界は善悪有漏の雑業より生ずるゆえ、雑生世界と云う。今もその如く善悪無記の相雑ざる雑業依りて生じて居る世界と云う事故、雑善と云うなり。何れにもせよ「雑善堪忍の群生」と云うはこの娑婆世界の衆生の事なり。「開化」とは開楽化度なり。KG_MRJ07-25R,25L 時に娑婆世界と云うは娑婆三千大千世界なり。今爰に娑婆世界の衆生を出すは、恐れ乍ら余り仰山なる仰せられようではないかと云うに、この「雑善堪忍」の言の拠は、今申す通り『称讃経』に釈迦如来この娑婆世界に出現して極難信の法を説きたまう処にこの言あり。今釈迦二千余年の昔この娑婆界に出現して弥陀の本願、極難信の法を宣説する時に、その釈迦処説の弥陀の本願の文に至心信楽欲生の三信と説いてあるのを、仏滅后九百年に当たりて天親菩薩出世して、愚鈍の衆生を解了し易しめん為に三信を合して一心としたまい、これを普く娑婆世界に宣布して、群生を開化したまうと云う事なり。KG_MRJ07-25L 仏の化を継ぐものは菩薩なり。この娑婆世界は釈迦仏の化境なり。もし天親論主の御出世なくば仏滅后の衆生はこの信心を得る事は叶うまい。爾るに論主、愚鈍の衆生をして易く解了せしめん為に、三を合するこの一心で普くこの娑婆世界の衆生を開化したまうと云う事なり。KG_MRJ07-25L 「宗師」等。この「宗師」と云う言は『釈氏要覧』上(十一右)「伝仏心宗之師〈仏心宗を伝える師〉」なる故に宗師と云う。これは禅宗の宗師の言を釈するのなり。今宗では浄土真宗を伝える師なる故に「宗師」という。依りて「正信偈」に「弘経大士宗師等」とのたまうは曇鸞已下の五祖を指す。又別しては善導の事を宗師と云う。今爰では鸞師の事を「宗師」とのたまう。KG_MRJ07-25L,26R 「顕示往還」等。回向とは『註』下初に因の五念門の中の第五の回向門を釈する下に「回向有二種相〈回向に二種の相あり〉」等と釈して、それを終わりに『浄土論』の「回向為首成大悲心〈回向を首と為して、大悲心を成就することを得〉」の文に引き合わしてあり。爰が我祖の『論註』を伺いたまう大切なる処なり。具には『論』并びに『註』の顕文では往還は願生の行者の利他の回向なり。行者が娑婆にて衆生を済度するが往相なり。浄土より還りて衆生を度するが還相なり。そこで五念門の第五の回向は往相の方なり。爾れば還相回向は願生の行者が浄土へ往生した后の園林遊戯地門の回向故に果の五門の下に至りて挙げたまうべきに、今この『論注』には因の五念の回向門の下に二種の回向を一処に挙げて、それを「回向為首」等の論文に引き合わせてある。爰が『論注』で合点の行かぬ処なり。KG_MRJ07-26R 爾るに今家の我祖を以て『論注』の巻末「他利利他の深義」の御釈より振り返りてみれば、この因の五念門は法蔵処修の五念門なり。故に回向門は法蔵の回向なり。そこで衆生の往相も還相も法蔵菩薩の因の回向より回向したまうのじゃと云う事を顕して、因の回向門の下にて往還を一処に明かす。それを「回向為首」等の文へ引き合わせたまう。あらば往還は弥陀の大悲心より回向したまうと云う事を顕す『論註』の御釈なり。それを今爰へ挙げて「顕示往還」等とのたまうなり。行者の回向ではない弥陀大悲の往還回向と云う事。「顕示」と云うは隠れてある事を表に顕し示す。往還二種の回向と云う事は『浄土論』の文面にはみえぬ事をば、曇鸞大師、『論』の蘊奥を探りて、きっぱりと顕してみせたまう。KG_MRJ07-26R,26L 「慇懃」は『字彙』に委曲の貌と注す。丁寧にねんごろなる事なり。故に我祖処々にねんごろと左訓を付けたまえり。「他利利他深義」とは、これ委しく弁ずる時は、一座には弁ぜられぬ。今極略して弁ずべし。『論注』の巻末文あり。他利と利他とは経論に使ってあるは一体異名なり。『論注』「他利之与利他談有左右。若自仏而言宜言利他、自衆生而言宜言他利。今将談仏力、是故以利他言之〈他利と利他と談ずるに左右あり。もし仏よりして而も言わば、宜しく利他と言うべし。衆生よりして而も言わば、宜しく他利と言うべし。今将に仏力を談ぜんとす。この故に利他を以てこれを言う〉」。経は『薩遮尼乾子経』、論は『梵天処問経』、論は『大乗荘厳論』『持地論』『瑜伽論』等みな自利利他とも自利他利ともあり。そこで他利と云うも、利他と云うも、一つなれども、右より云うと、左より云うとの義の左右あり。東家の西は西家の東と云うが如し。KG_MRJ07-26L,27R そこで『論注』に「他利と利他とを談ずるに左右あり」とのたまう。それは云何と云うに、先ず他利と云うも利他と云うも、他は衆生をさす言なり。利は仏の利益の事なり。そこで利他とは仏、他の衆生を利益と云う事。又他利と云うは、他の衆生が仏に利益せらるると云う事なり。そこで他利も利他も共に仏の衆生済度の事にして、体は一つなる故、経論では一体異名に使うてあり。爾るに、文字の上下にて義の左右あり。その左右と云うは、先ず利他と云う言は、仏の利益の利の字を先に出して、他の衆生の他の字をあとに置きて、利他と云うは仏の方から他の衆生を利益すると云う事にて、仏の事は先に出して云う言じゃと云う事にて、「自仏而言」等とのたまう。又他利と云う言は、他の衆生の他の字を先に出して、仏の利益の利の字を後にす。これは前の衆生が仏に利益せらるると云う事にて、他の衆生を先に出す言じゃと云う事で、「自衆生而言」等とのたまう。義の左右とはこれなり。KG_MRJ07-27R そこで利他の言は仏力を顕す言なり。利他は利の字をさきに出して他を利するので、能利益の仏力を顕すなり。酒を呑むと云うは呑みての力を顕す。酒に呑まるると云うは、あの奴も弱いものじゃと、呑む人の力のなきことを顕すなり。今その如く他利の言は他の衆生が利益せらるると云う事にて、仏力を顕す言ではない。又利他と云う言は、仏、他の衆生を利益すると云う事にて、酒を呑むと云うが如し。能利益の仏力を顕すになる。今この論文に自利利他と云わずに他利利他と説くは仏力を顕すのじゃと云う事にて「今将談仏力〈今将に仏力を談ぜんとす〉」等とのたまう。KG_MRJ07-27R,27L 時に『論』の五念門の自利利他の行の明かし方は、『論』の最初からが行者の自利利他なり。爾ればこの『論注』の御釈は全体五念門の自利利他を仏の自利利他とす。これに依り『論』に明かす五念門は法蔵菩薩処修の五念門なり。この論の文面には見えねども、『論』の深義を顕す御釈じゃと云う事にて「慇懃弘宣」等とのたまう。和漢両朝に『論注』を扱うものも多けれども、これを讃歎するものは我祖より外はない。KG_MRJ07-27L 時に我祖上来明かす二回向四法の法門は全くこの『論』『論注』の一心二回向を伝えてのたまう。それゆえ爰に『論』『論注』を讃歎して結びたまうなり。如来滅后に天竺では天親菩薩。漢土では曇鸞大師、日本では我祖聖人、三国伝来して伝わるものは我が真宗に限るなり。KG_MRJ07-27L,28R ◎聖権化益偏為利一切凡愚、広大心行唯欲引逆悪闡提。 ◎(聖権化益、偏に一切凡愚を利せんが為、広大の心行、唯だ逆悪闡提を引かんと欲すなり。) 「聖権化益」等。三総示化益意〈三に総じて化益の意を示す〉。爰は上の二段を一処にして結びたまう処なり。KG_MRJ07-28R 「聖」は大聖。弥陀釈迦二尊なり。「権」は権化。提婆闍世なり。「化益」はその大聖権化の化益なり。「偏に」と云うはかたてうちと云う事。「凡愚」と云うは凡夫にして而も愚なるものなり。上に述ぶる処の仏在世の大聖権化の御化益は偏にこの末代今日の凡愚底下の罪人を逆悪もらさぬ誓願に引入したまわん為と云う事なり。「広大の心行」は次上の天親曇鸞を爰に挙げたまう。『高僧讃』に「他力広大威徳の心行」とのたまうと同じ一心と五念の心行なり。『浄土論』『論注』の本意は唯この「他力広大威徳の心行」を伝えたまうばかりなり。「逆悪闡提」は五逆十悪闡提なり。「引」は引導なりこれは『論注』上畢わりに『浄土論』の普共衆生〈「普共諸衆生」か?〉を釈するに『観経』下下品を引く意にして、論主は一心を顕し、宗師は往還二回向を顕示する。只五逆十悪闡提を引導するが御本意じゃと云う事なり。最初の一段には仏在世の教奥を述べ、次には論主宗師の弘伝を述ぶ。その二段を爰にて結びたまうなり。KG_MRJ07-28R |