香月院 浄土文類聚鈔講義
  第8巻の2(3の内の2)
念仏正信偈
西方不可思議尊・法蔵菩薩因位中
満足本誓歴十劫~智恵円満如巨海
集仏法蔵施凡愚
譬猶如日月星宿~信知超日月光益
如来本願顕称名


浄土文類聚鈔講義 第八巻之二
  香月院深励講師述
  宮地義天嗣講師閲
  松内上衍校訂

 「西方不可思議尊」等。二挙偈文二、初帰処讃仏〈二に偈文を挙ぐるに二、初に処に帰し、仏を讃む〉。
 これより六十行の偈文、先ず仏経には経論を初め、人師の釈に至る迄、巻の最初に仏菩薩に帰敬する、或いは法界の三宝に帰敬すると云うが天竺以来の格式なり。仏門の通軌とも云うべし。爾るに浄土門に於いては一向専念の義を標して、余仏余菩薩に帰敬すると云う事はない。それ故『讃弥陀偈』並びに元祖の『選択集』には巻の初めに「南無阿弥陀仏」と云う仏名を置きて帰敬したまう。今家の我祖、その轍を践みて『浄土和讃』四十八首の初めなどには「南無阿弥陀仏」と云う仏名が標してある。それからみれば、今この六十行の偈文の最初に「西方不可思議尊」と云う仏名を置くは、先ず偈文の初めに仏に帰敬する義を標す。又この一句は一部処讃の体を標すと云うものなり。依りてこの一句、時に御真本には巻の終わりに三名号を挙げてあり。真ん中に十字の名号、右に六字の名号、左に西方不可思議尊とあり。爾れば六字十字の名号と同じく西方不可思議尊と云う七字の名号になさる思し召しとみえる。KG_MRJ08-13R,13L

◎西方不可思議尊

 ○「西方」等と云うは、これは心も言も絶え果てた「不可思議尊」と云えば、色の形もない、心言の絶えた周遍法界の仏身なりと思わん。今「不可思議尊」と云うは、そうではない。五劫に思惟し、永劫に修行して十劫正覚と云う初めのある事にて、因位選択の別願に酬い顕れ、西方十万億の彼方に浄土を構えていたまう真報身の弥陀じゃと云う事にて「西方」の二字を加えたまう。爾れば無辺際に即して辺際のある西方の弥陀尊なり。その西方の辺際に即して無辺際の不可思議尊なり。KG_MRJ08-13L,14R
 時に今不可思議尊と称するに付きて『弥陀偈』並びに『讃』の意より伺えば、二利円融の果徳を不可思議と称する事聞こえたり。この下を『[シン09]記』に十不可思議を立ててあれども、その云う処、何を拠として云うと云う事なし。これが例の拵え事なり。依りて依用し難し。今祖釈を定量として伺うに、この「不可思議尊」に五不思議を具する。それはその次の偈文より下「集仏法蔵施凡愚」と云う迄に顕れたり。KG_MRJ08-14R
 先ず一つに「誓願不思議」。これは我祖の常にのたまう「仏法不思議」と云うは弥陀の弘誓に名づけたり。法華の妙も、華厳不思議乗も、弥陀の本願に比すれば不可思議ではない。不可思議の一乗と云うは只弥陀の誓願に限るなり。この誓願不可思議を第一句より第五句迄に讃ず。二つには弥陀の果体の不可思議なる事を次の「菩提妙果」より「智慧円満」の句迄に讃ずるに、三つには弥陀の「仏土不可思議」なり。もと『大経』に「行業不可思議」等とあり。それを『浄土論』に分けて依報十七種を総じて明かす処に「成就不可思議が故」とのたまう。その「仏土不可思議」の相〈すがた〉を「清浄微妙」より下の句に讃ず。四つには弥陀の光明が不可思議なり。これは十二光の中に「難思」「無称」の二光ありて、曇鸞は「南無不可思議光」と称したまう。「真仏土巻」御引用の『如来会』には「不可思議光」とあり。その光明不可思議の相〈すがた〉を「普放難思」以下の三句に讃ず。五つには「名号不思議」。これは第十七願の名号なり。これ名号不可思議なり。依りて我祖常に「名号不思議」とのたまう。これを「名声靡不聞十方」より「集仏法蔵」迄の三句に明かしたまう。KG_MRJ08-14R,14L
 この五不可思議は俄に拵えたるものに非ず。「誓願不思議」「仏智不思議」、光明不思議、「仏土不思議」「名号不思議」、この五つは我祖常にのたまう。今は後に明かしてある故に、その称讃の体は初めに挙げて「西方不可思議尊」とのたまうなり。KG_MRJ08-14L

◎法蔵菩薩因位中

 「法蔵」等、この法蔵の名を釈するに、古来の一義に法性蔵の事にして一切衆生の仏性如来蔵の事として本来法蔵と云うような理を立つ。これ甚だの不正義なり。又『[シン09]記』などは爰の法蔵を「為衆開法蔵」の経文を引きて解す。これは宗義に害なき故に用いても佳けれども、私にはこの義は取らぬ。先ず法蔵の名を釈すると云う事は『大経玄一疏』(八左)「処聞教法護持不失故名法蔵〈聞く処の教法、護持して失せず。故に法蔵と名づく〉」とあり。これ正義なり。『嘉祥疏』これと同じ。この玄一の釈は『大経』の法蔵の名の出る所に「聞仏説法、心懐悦予」とあり。この経文は法蔵の名を釈したる文なり。異訳の経文より梵語を吟味するにこの法蔵の蔵は、ギャラバ蔵なり。同じ蔵の字でも梵語では大いに違うなり。ギャラバは母胎に物を収める如きなり。又ギャタ蔵〈?〉は蔵中より物を出し与える義なり。今法蔵の蔵は『大阿弥陀経』に「曇摩迦」とある故、ギャラ蔵〈?〉なり。「為衆開法蔵」の義なればギャタ蔵でなけねばならぬなり。KG_MRJ08-14L,15R

◎満足本誓歴十劫 寿命延長莫能量
◎(本誓を満足して十劫を歴たまえり 寿命延長にして能く量ることなし)

 「十劫」と云うは、古来より諸流の違義あり。先ず十劫を実説とするものは久遠の弥陀を立てぬ。これ鎮西の単の十劫なり。又久遠の弥陀を立つるものは十劫を仮説方便説とする。それは赴機の十劫じゃの、常演の十劫じゃのと云うが皆これなり。釈尊の機に赴きて説くが赴機の十劫、又三世諸仏の十劫と説く等が常演の十劫なり。KG_MRJ08-15R,15L
 今家では久遠と説くも実説。十劫と説くも実説なり。故に弥陀の仏辺より云う時は、久遠も体に二つはない。仏境界は念劫融即する故に、久遠の弥陀即ち十劫なり。さりとも今『大経』に於いて、釈迦、浄土真宗を説きたまう時は久遠の弥陀を影にして、十劫の弥陀を以て本願一乗を開宣せり。故にその真実教の『大経』にきっぱりと「凡歴十劫」と説く。そこで我祖真宗を興行する時は十劫の弥陀に付いて明かしたかう。その赴きは「真仏土巻」に顕れたり。KG_MRJ08-15L
 聖道門では法華の開迹顕本で仏の一代の玄祕とする。それは聖道門の一乗では一切衆生の無始本有の仏性を直ちに開覚せしむるが教の全うする処なり。今真宗の弥陀は別願酬報の故に悪人凡夫を直ちに仏になす。今日の我々に無始本有の仏性を開覚せしめんとしては百千万劫を経るとも叶わぬ。この名号は真如一実の功徳宝海なり。依りてその謂われを信ずれば、具縛の凡夫とこの下類刹那に超越する。これ別願一乗の利益なり。依りて久遠の沙汰せず、十劫の弥陀に付きて建立するが浄土真宗なり。KG_MRJ08-15L,16R
 時に爰の偈文を諸末註共に間違えり。『[シン09]記』『義讃』は「満足本誓」の一句は弥陀成仏の久遠を明かし、次の「寿命延長」の一句を弥陀の無量寿を明かす。これ爾らず。都てこの一段は弥陀の二利円融の覚体を無量寿の徳にて明かしたまう。依りてこの「満足」の句から弥陀の無量寿を説くなり。それは『和讃』の「弥陀成仏のこのかたは 今に十劫をへたまえり」と。これ無量寿を明かす事明らかなり。KG_MRJ08-16R

◎慈悲深遠如虚空 智恵円満如巨海
◎(慈悲深遠にして虚空の如し 智恵円満にして巨海の如し)

 扨「慈悲深遠」の二句、悲智の二門を出す。今爰の前后の文に大悲も光明も出たり。爾れば繁重なりや。これを『義讃』に考えたり。この二句に悲智を挙げるは無量寿の体を出すといえり。これ甚だ宜しきなり。KG_MRJ08-16R

◎集仏法蔵施凡愚
◎(仏の法蔵を集めて凡愚に施す)

 「集仏法蔵」とは、『大経』の『述文賛』上(十二左)「入仏法蔵」の言を釈して、仏の法蔵とは仏自利々他の功徳の事に解す。爰によく合うなり。法は功徳法なり。蔵は含摂の義にして、仏自利々他の功徳を具してある処を仏法蔵と云うなり。爾れば「集仏法蔵」は因位の功徳を集むる事なり。「為衆開法蔵」は果上に於いて名号の蔵を開きて衆生に施す事なり。KG_MRJ08-16R

◎譬猶如日月星宿 雖覆煙霞雲霧等 其雲霧下明無闇 信知超日月光益
◎(譬えば日月星宿の煙霞雲霧等に覆わると雖ども、その雲霧の下明にして闇なきが如し。信知するに、日月の光益に超えたり。)

 「譬猶如日月星宿」とは、「正信偈」には「日光」とある。これは何に喩えたものじゃと云うに、古来信心と光明との二義なり。この方先輩にも光遠、香厳の二師は仏光に喩う。理綱、開轍の二師は行者の信心に喩う。私には仏光の義を取る。それは上に光明を日輪に喩う。「正信偈」では「摂取心光」とある。今「信心天」と行者の信心を天に喩う。結文には「日月光益」とあり。これ仏の光明に比べた一段なり。爰は喩えのもの柄二つ日光と天となり。爰は弥陀の光明を日月に喩う。それゆえ結文に「信知超日月光益〈信知するに、日月の光益に超えたり〉」とあり。天にはもと色はない。日月の光によりて蒼々たる天の色あり。今得たる信心も、我思い堅めた信心ではない。金剛の信心と云うも、真実の信心と云うも、摂取不捨の故に申すなり。仏の光明に摂せられて、行者が清浄の信心を得たのなり。依りて『唯信文意』無碍光仏の心中に摂め取りたまう故に金剛の信心となるなりとのたまう。今爰に仏光を日月に喩えたまえども、天と日光と相離れぬ。信心と仏の心光と相離れず。依りて煩悩の雲霧にて信心を覆うのが即ち摂取の光を覆うのなり。摂取の光を蔽うのが即ち信心を蔽うのなり。KG_MRJ08-16R,16L

◎如来本願顕称名
◎(如来の本願、称名を顕す)

 「如来本願顕称名〈如来の本願、称名に顕す〉」。この一句、古来、本願と云うは四十八、称名と云うは十八の称名。如来の本願は四十八なれども、別して十八の称名肝要とする意に解す。『蹄[シン09]』などもその意なり。成る程、善導なれば「弘誓多門」等とのたまう。鸞師にかよう仰せられた事なし。爰は真本には「如来の本願称名に顕す」とあり。この御点よりみれば、この称名と云うは『論』の讃嘆門の「称彼如来名」なり。即ち『二門偈』に「称彼如来名」を明かし畢わりて「則斯無碍光如来 摂取選択本願故〈則ちこれ無碍光如来の、摂取選択の本願なるが故に〉」とあり。それを今爰に「如来の本願、称名に顕る」とのたまう。「如来の本願」とは摂取選択の本願なり。「称名」は讃嘆門の「称彼如来名」なり、知るべし。余はみなこれを略するなり。KG_MRJ08-16L,17R