香月院 浄土文類聚鈔講義
  第9巻の1(3の内の1)
三心一心問答
三信即ち一心を略答
信楽・欲生の字訓
三心即一心を会す


浄土文類聚鈔講義 第九巻之一
  香月院深励講師述
  宮地義天嗣講師閲
  松内上衍校訂

◎二者信楽、信者真実誠満極成用重審験。楽者欲願慶喜楽。
◎(二には信楽とは、信とは真なり実なり誠なり満なり極なり成なり用なり重なり審なり験なり。楽とは欲なり願なり慶なり喜なり楽 (たのしむ) なり。)

 「二者信楽」等。二信楽字訓。KG_MRJ09-01R
 本願の三信を一字一字御字訓を挙げたまう。至心の字訓は挙げ畢わりて、次に信楽の字訓なり。この「二者信楽」の四字は上の標列の所の「二者信楽」を爰に写したまう。これは善導の三信釈〈三心釈か?〉の例じゃと云う事、昨日既に弁じた如し。「信者真也、実也」等、「信巻」にこの信の字に都て十二訓挙げてあり。今その中の十二訓を略して十訓を出す。『広』『略』の文類を対映して見ると、『略文』の方が少しばかり字訓少し。その略したまうのは、皆義の自ら籠もるのをば略す。爰等も十二訓を十訓出すのは残りの二訓は自ずからこの十訓に籠もる。KG_MRJ09-01R
 初めに「真也、実也」とは、これは信楽の信の字の心の当たり前なり。これを字書にて云う時は『礼部韻』に云わく、信は「信誠愨実也」とあり。信の字、正しき訓は「実也」の訓なり。時にこの字訓を解するに字書を引かねばならぬに付きて『広韻』などは我祖の依りたまう事明らかなり。爾れば字書を引きて字訓を伺うべきなり。字書になき所は「至者真誠〈至とは真なり誠なり〉」等の如きは善導に依るようにと、それぞれの拠あり。爾るにその字書を引くに末書の内に、真解などは多く『字彙』を引く。これは先輩の弁に、梅誕生が『字彙』は我祖より遙か後に出来たり。それを我祖の拠として引くは、道風の朗詠の如しと弁ぜられたり。爾れば『正字通』『康煕字典』『字彙』の如きは我祖の拠にはならぬ。依りて先輩は『爾雅』『玉篇』『唐韻』『広韻』『礼部韻』等を引き、別して我祖は『広韻』を用いたまう。故に右等の字書も御所覧の筈なり。KG_MRJ09-01R,01L
 今この「信楽」の信の字の「実也」の訓は『礼部韻』に出たり。「真也」の訓は字書にはなけれども「実也」の訓あれば、「真也」の訓あるは治定なり。これは昨日弁ずる如く、「誠は実也」とあれば、「至」に「真也」の訓ある如く、「実也」の訓ある故に「真也」の訓あるは治定なり。KG_MRJ09-01L
 時に我祖爰に十訓出したまうは、多くは『広韻』に依り十訓の中では初めの「真也、実也」の訓を主として、先ず『広韻』四(去声震韻)にこの信の字の訓出たり。曰く「信、息普切〈息晋切か?〉忠信也、又験也、極也、用也、重也、誠也」とあり。今ここより下にその五訓を列ねたまう時に、「真也、実也」は『広韻』には初めに忠信と註したる意なり。それはそれはなぜなれば、忠義の臣下、君に仕えて実とのあると云う信の字なり。そこで虚偽りなく、誠の心と云う事にて、「真也、実也」とのたまう。この下では『広韻』五訓の中の一なり。虚偽りなき誠ゆえ「誠なり」の訓あるなり。KG_MRJ09-01L,02R
 次に「満也」とは、これは『広韻』ではこの訓はなけれども、『広韻』五入声質韻の下に、実の訓に満なりの訓あり。この上の「実也」の訓よりこの訓を産み出したものなり。所謂転訓なり。転訓といえば、喩えばあれとは一家じゃ。こちの婿、こちの嫁の親の弟じゃに依りて一家じゃと云うが如し。回り遠い事のようにあれども、嫁の親の弟なれば叔父なり。爾れども肉縁の一家ではない。信は「実也」と、その実の字に満なりの訓ある故、信の字にも満なりの訓あり。満とは、からでなく充満して充ち充ちた事なり。そこで「実也」の訓あれば満なりの訓は是非あるべき事なり。KG_MRJ09-02R
 次に「極也」。『広韻』五訓の一つなり。我祖の字訓は唯滅相に文字の訓あり。それを出したまうと思うは誤りなり。字訓を出したまう迄の次第に一々御意あり。時に「信」に「極なり」の訓あるは何故ぞと云うに、爰らは字訓の御出しなされようの次第を見るべし。これより下の六訓を見るべし。これより下の六訓はみな、信は疑う心なきなりの字訓なり。これより上の四訓は信心は誠の心と読むるなりの字訓なり。故に今「極なり」とは、極は至極なり。都てものを信ずると云うは、至極した所でなければ信ぜず。十の物、七つ八つ迄は違いはなけれども、まだ二つ三つは心得難い云う所では信じはせぬなり。こちの内の御所化も学問は情出とももそっと夜遊びが過ぐると云う所ではまだ信ぜず。何でも十は十乍ら至極した所でなくては信ぜぬ故、信に「極なり」の訓あるなり。KG_MRJ09-02R,L02
 時に我祖は「極也」を極成の義としたまう。極成とは信ずる事なり。例せば因明にて極成・不極成の言を使う。因明で極成と云うは許す事なり。立者も敵者も許す事を相符極成と云う。自ら許し、他を許さぬを他不極成と云うなり。許すは請けがう事故、そこで信の字の極成の訓を我祖は極成の義としたまう。次に「成也」の訓は『広韻』にはなし。それを我祖『広韻』の「極也」の訓は極成の義なる事を顕わさん為に『広韻』の「極也」の次に「成也」の訓を外から持って来て加えたまう。爾ればこの「成也」の訓は何に依りたまうぞと云うに、先輩の弁に『楽邦文類』三の十一『浄土院記』陳[カン19]作と云う。「誠者成也。成自成他。唯此而已〈誠とは成なり。自を成じ、他を成ず。唯これのみ〉」とあり。『楽邦文類』は我祖常に御依用故、これに依りたまうとみえる。これ信の字に成也の訓はなけれども、上の誠の訓にこの成也の訓ある故に、転訓にて爰に成也の訓を出したまう。これは全体は『浄土院の記』にて云う時は、誠と成とは同韻なり。その同韻相通じて「誠は成なり」とあるなり。我祖では同韻仮借で云うには及ばぬもの『楽邦文類』が証拠なり。そこで「極也」の訓に一処にして極成すると云う義なり。成る程違いないと、極成する心となされたものなり。KG_MRJ09-02L,03R
 次に「用重」の二訓は『広韻』の五訓の中なり。これを真本に「用也」と読んであり。仏書では体相用などとて、よう〈ゆうか?〉とよむ。その時は力用の義にて働きの事になる。今はその義ではない。もちゆる事なり。信ずるに依りて用いるなり。そこで信用と熟す。次に「重也」の訓は、敬重の義なり。敬い重んずるなり。あの人は徳のある人じゃと信ずる所で、その人を重んずるなり。あの御所化は夏中ござったが、学問もあり徳もあると信ずるによって重んじて、菜でもある時は進上するなり。それで信ぜねば是非軽んずるなり。KG_MRJ09-03R
 次に「審也」とは、これは『広韻』字訓にはなし。これは『広韻』二 平声清韻に云わく、「誠は審也」とあり。これ亦転訓にて爰に「審也」の訓を出したまう。審はつまびらかにする。はっきりと審らかにする事なり。信はいよいよ違いないと、疑い晴れる事故に「審也」の訓なけねばならぬなり。KG_MRJ09-03R,03L
 次に「験なり」とは、これは『広韻』五訓の中の一なり。この験の字は、証の字と熟する時は、証験と云うはそれに違いないと証拠に立つ事なり。又この験の字は考えみるなりとも註す。証拠を吟味して糺して見る事にもなる。それから転じて違いないと明らめる事も験と云う。これは色々に使う文字なり。即ち上の審の字と熟して審験と云う時は慥かなる証拠のあるからは違いないと審らかに明らめる事なり。そこで我祖、信の字に「験なり」の訓あるは審験の義なりと云う事を顕す為に上に「審也」の訓を加えたまうとみえる。この十訓、多くは『広韻』に依り、その外よりも加えたまうなり。KG_MRJ09-03L
 「楽者欲」等。これは楽の字訓。「信巻」には八訓あり。今爰は五訓出したまう。先ず「欲願」の二訓は楽字の当たり前なり。楽は楽欲と熟するゆえ「欲也」の訓ある筈の事なり。『大経』に「願楽欲聞「とありて「願楽」と熟するからは「願なり」の訓あるべき事なり。これは字書を吟味するには及ばぬ事乍ら、若し字書を出さば『玉篇』に「楽は魚教切、欲なり」とあり。又「欲は願なり」とあり。又「願は欲なり」とある。そこで今は「欲也、願なり」とのたまう。KG_MRJ09-03L,04R
 次に「慶なり、喜なり、楽也」と云うは、この三訓は楽の字の訓に非ず。なぜなれば楽の字をぎょうと読む時は去声にして、たのしむ義はなき筈なり。入声にてらくと読む時こそ、たのしむ義なり。爾るに今爰にこの三訓を出すは云何と云うに、入声にてらくと読む時でなければ、この三訓なき事は本より御存知なれども、そのらくと誦む時の訓を爰に挙げたまうなり。『広韻』入声欽韻に「楽は喜楽なり」とあり。その上に慶の字を加えたまうは、『大経』には「見敬得大慶〈見て敬い得て大きに慶ぶ〉」とあり。『讃弥陀偈』には「歓喜慶所聞〈歓喜して聞く所を慶び〉」とあり。慶と喜とは熟するなり。又「二河白道」では「慶楽何極〈慶楽無已か?〉」とあり。そこでこの三訓を出したまう。この慶の字は賀慶の義じゃと云う事は「大慶喜心」の下にて弁ずる如し。「信巻」には爰になき三訓の中に「賀なり」と訓あり。又「悦也、歓也」の二訓あり。これは御出しなされずとも、この「慶也」の訓に自ずから「賀也」の訓は具わる。KG_MRJ09-04R
 「悦」「歓」の二訓は爰の「喜也」の訓の中に備わりてある。書に楽の音の時に慶喜の楽の三訓あるは聞こえたり。今は信楽の楽はぎょうの音なるに、この三訓を出したまうは云何と云うに、この「慶なり」等の訓を出したまわんとて、信楽の楽の字をらくの音にしてこの三訓を出したまうのではない。信楽の字はいつまでもぎょうの音なり。そのぎょうの音の註にらくの音の註を出したまうなり。これは例あり。漢、劉熙『釈名』四(六右)喜怒愛楽を釈する下に「楽楽也。使人好楽之也〈楽は楽なり。人をしてこれを好楽せしむるなり〉」とあり。音楽の楽の註と思う人もあらんなれども、これは言語篇に出たり。即ち喜怒愛楽を釈する下に哀の字を釈し畢わりて、この楽の字を釈するなり。これは入声の時の楽の字を去声の時のぎょうの字にて釈するなり。なぜなれば、らくなる事を願わぬものは一人もなし。そこでらくに願う義あるなり。大勢の大衆に葛切り饅頭を振る舞いて否な事じゃと立腹するものはあるまい。劉熙『釈名』に入声の楽を去声のぎょうにて釈したからは、去声のぎょうを入声の楽にて釈する事がない筈ではない。故に我祖、今入声の時の訓を出したまうなり。KG_MRJ09-04R,04L

◎三者欲生、欲者願楽覚知、生者成興也。
◎(三には欲生、欲とは願なり楽なり覚なり知なり、生とは成なり興なり。)

 「三者欲生」等。三に欲生の字訓。上の標列の文を移して「三者欲生」と云う事、知るべし。KG_MRJ09-04L
 「願楽覚知」の四訓は「信巻」にもこの四訓あり。「楽は欲なり」の訓は『玉篇』にあるからは、欲は楽なりの訓有うちなり。転訓なり。「覚知」の二訓は『広韻』一 平声支韻に「知は覚也欲也」とあり。知の字に「欲也」の訓あるからは、欲の字に知なりの訓ある筈なり。又『広韻』入声覚韻に覚は「知也」とあり。第一に「知は覚也」とあり。五に覚は「知也」とあり。今、欲の字に「覚也」の訓あるからは「知也」の訓もあるべきなり。「覚也」と出さねばならぬ所なれども、我祖は覚知の義としたまうゆえに「覚也、知也」と次第したまう。それなれば字書になき事かと云えば、今『広韻』を引きが如く、これは転訓の例なり。KG_MRJ09-04L,05R
 「生者成興也〈生とは成なり興なり〉」とあるは「信巻」にはこの外に「作也、為也」の訓を加えて都て四訓あり。時に初めに「成也」と云うは、この訓は字書にはなき事なり。字書では生は起なり。『広韻』等皆起也の訓が重なり。時に仏書ではこの欲生の生の字、生成と熟する事あり。『仁王経』に「諸法因成ず」と説く。それを良賁疏中之二(三十八右)「言成者是生成也〈成と言うはこれ生成なり〉」と釈す。これは成の字を生身の義とする例なり。今この御字訓に正しく合う例は『唯識述記』一末(二十九右)「説言生者。成生之生。非生起生。此生起生後有滅故〈説きて生と言うは、成生の生なり。生起の生に非ず。この生起の生は後に滅することあるが故に〉」とあり。これは数論外道の計述を云うのなれども、爰に入用なり。これは生起の生ではない。生成の生の義じゃと簡ぶ事なり。今我祖も生起の義を簡びて「成也」とのたまう。KG_MRJ09-05R
 次に「興也」とは、これは「信巻」では「作也、為也」の訓を挙げて、次に「興也」の訓を挙げ、これでこれでこの訓が出さずに知れたり。これは『広韻』五 入声薬韻に「作は為なり、生也」とあり。作の字に「生也」の訓あるからは、生の字にも作也の訓あるべき故に、これを出したまう。時に「作也」の訓ある時は、その作の字に、今引きたる『広韻』に「為也」の訓あり。又『礼部韻』に、作は為也興なりとあり。然れば転訓の例にて「為なり、興也」の訓を出したまう。KG_MRJ09-05R,05L
 時に今欲生の生の字に「成興」の訓を出したまうには、甚だ思し召しあり。欲生は生ぜんと欲すると云う事なり。どこに生ぜんと欲するなれば、第十八願の真実報土の往生なり。真実報土の往生の生は生起の義に非ず、生成の義じゃとのたまう心なり。生起の義を簡んで生成の義を出したまうは、真実報土の生は無生の生なり。即ち今引く『述記』の釈にある如く、生起の生なれば後に滅する事ある。滅に対する生なり。今報土の生は滅に対する生ではない。往生即ち成仏の無生の生なり。と云う義を顕す為に「成なり」の訓を出したまう。「成也」の訓は即ち成仏の義なり。今、娑婆即寂光の如く法性の理仏になる事かと云えば爾らず。弥陀因位の願に酬うて弥陀と替わらぬ仏となり、作仏する事故「作也、為也」の訓を出したまう。『論注』に「早作仏〈早く仏と作る〉」とあり。「興也」の訓は、弥陀因位の本願に酬い顕れて興った事なり。今に訓を挙げて四訓の義籠もる。「成なり」の訓にて無生の生の義を顕す。「興也」の訓にて法性の理仏になるではない。弥陀因位の本願に酬い顕れ興った利他円満の妙果の仏になると云う事を顕すなり。KG_MRJ09-05L,06R

◎爾者至心即是誠種真実之心、故無有疑心。信楽即是真実誠満之心、極成用重之心、欲願審験之心、慶喜楽之心、故無有疑心。
◎(爾れば至心は即ちこれ誠種真実の心なり、故に疑心あることなし。信楽は即ちこれ真実誠満の心なり、極成用重の心なり、欲願審験の心なり、慶喜楽の心なり、故に疑心あることなし。)

 「爾者至心」等。二釈正会〈二に正会を釈す〉。KG_MRJ09-06R
 これより正しく三信即一心を会釈したまう。甚だ有り難き事なり。爰は皆腫れ物に当たるようにして、ずっと通る処なり。篤と伺えば思し召し明らかに知れるなり。『義讃』には爰に御相伝があると云うて弁ぜずにある。これが何も知らぬからなり。御相伝も何も入らぬ事なり。御相伝と云うは知らぬ者の癖なり。KG_MRJ09-06R
 爾れば「至心」等。これは上の字訓を始終忘れぬようにして、爰に合釈を伺わねばならぬなり。上に至と心とに四訓あり。それを爰に一所に合して至心の二字を丸乍ら真実の義としたまう。常の者ならぬ事なり。「誠」は誠実にして誠〈まこと〉の事なり。「種」とは種実にして柯〈えだ〉でない実のある事。そこで種も虚でない実なる事なり。爾れば四訓合して云う時は虚偽不実に非ず、真実を至心と云う事にて「至心即是」等とのたまう。そこで文字の次第を見るべし。上の字訓次第で云わば真誠種実の心なりとなければならぬ。今爰では真実の二字を熟せさせて、四訓ありと雖も、義は真実の義じゃ。至心の二字丸乍ら真実なる事じゃと云う事を顕わさん為に「真実」の二字を熟せさせてのたまうなり。故に「無有疑心」とは、爰の御釈、常とは違う。我祖常に至心を真実信と釈する時は、凡夫の心は虚偽不実故、真実心に非ず。如来の御誓の真実なるを至心と云うと釈したまうが常の事なり。爾るに今はその沙汰なしに真実の心なり。故に「無有疑心」とのたまう。「無有疑心」とのたまう無有疑心は行者の心に疑いのない事なり。KG_MRJ09-06R,06L
 この一段は論主合三一としたまう相〈すがた〉を釈する故、これ丸乍ら行者の機の上に受けた相〈すがた〉を釈するなり。そこで至心は真実信、如来の御誓の真実なると云うは勿論の事なり。それは爰ではのたまわず。それは次の御釈にあるなり。次の段では至心を丸に如来の真実心とす。今行者の方に受けた処の至心も即ち如来の真実が行き届かせられて真実になりた至心は勿論の事なり。爰は行者の約機三信をのたまう故、真実信は他力を顕すと云う事は爰ではのたまわぬ。今爰では真実心とは行者が本願を信ずる信に二心なき誠の心と云う事なり。KG_MRJ09-06L
 次の信楽の信は真実と同じ。忠信は君につかえて二心はない。敵よりどのようにすかしても二心なく、躰は戦場に晒すとも二心なき誠を云う。今も如来の真実は行者の方に顕れて、余行余善に心を寄せず、余仏余菩薩に思いを係けず、一心一向に弥陀一仏に帰する心の二心なき、虚偽不実を離れたる心、それを「誠種真実之心」と云う。爾れば今至心と云うも外の心ではない。疑い深い凡夫が今疑い晴れて真実に成ったのが至心じゃと云う心にて「無有疑心」とのたまう。KG_MRJ09-06L,07R
 時に至心を行者に約して釈する時は一心一行の誠心じゃと云う事は定まり事にて『和語灯録』七(五左〈六右か?〉)「一向に帰すれば至誠心なり」とあり。「散善義」に「至者真也、誠者実也」の釈を、元祖は忘れたまわぬ。爾れば一向に弥陀に帰するを至誠心と云うと釈したまうはどうじゃと云うに、爰がこれ行者に約して釈したまう故なり。如来の真実が行者の機に移った相〈すがた〉は一心一向に弥陀に帰する心になり。忠臣の二心なきが真実なり。一心一向に弥陀に帰する心になりたのが真実心になりたのなり。KG_MRJ09-07R
 時に今三心乍ら皆「無有疑心」と云うに帰結す。これ三信を行者に約して釈し、而も三信を信楽の一つに収むる御了簡なり。欲生にて浄土に参りたいと願うも、至心の一心一向に弥陀に帰する心も残さず、皆本願を信ずと云う信楽の一つに収むると云う御了簡なり。KG_MRJ09-07R,07L
 時に今二心のなき真実がこの疑いのない相〈すがた〉じゃとのたまうは、どう云う訳じゃと云うに、『善見律』十三(十九左)「狐疑者於見聞狐疑疑者二心也〈狐疑する者は見聞に於いて狐疑す。疑とは二心なり〉」とあり。疑いと云うが二心の心なり。なぜならば、ある事かと思うたり、ない事かと思うたりするが疑いなり。このある事かと思う心が一つ、ない事かと思う心が一つ、この疑いは直ちに二心なり。そこで「至心即是」等とは、一向に弥陀に帰する心、二つなき誠心なり。その二心なき誠心が直ちに疑いのなくなりた処じゃと云う事にて、故に「無有疑心」とのたまう。KG_MRJ09-07L
 「信楽即是」等。これは信の字十訓、楽の字五訓、合して十五訓あるを分けて四句とする心にて、四句にする為に上にて十五訓をば、或いは『広韻』に依り、外書に依り、或いは仏書に依りて十五訓としたまうは、爰で信楽を四句にて釈する為ばかりなり。第一句に「真実誠満之信〈真実誠満之心か?〉」とは、これは信楽の上で至心と同じく真実信にしたまうなり。「真実誠満」は虚偽不実に非ず。柯〈えだ〉でない、実が充ち充ちたる、実なる事なり。今信楽を「真実誠満」とするは、彼の『広韻』に信は忠臣の心にて、忠臣の二心なきが如く、一向に本願を信じ、一心に弥陀に帰して二心なき心じゃと云う事にて「真実誠満之信〈真実誠満之心か?〉」とのたまう。二心なきが直ちに疑いを離れた所ゆえ、下に「無有疑心」とのたまう。四句に分けてとも、一句一句を皆「無有疑心」に収まってしまう事なり。KG_MRJ09-07L,08R
 次に「極成用重の心」とは、これは上の四訓を一所にして立てたまう。この句を立てて信楽を疑い晴れて信ずる心にしてしまうなり。「極成」は、因明にて極成と云うは成る程そうじゃと許す事なり。その許すは受けるなり。今善知識の御教化の聞き開かれ、頼む者を助けんとある本願の謂われを成る程そうじゃと受けた所が極成なり。「用」は信用なり。「散善義」(五右)「深信仏語」等とあり。御教化をその儘受けるのは信用するのなり。「重」は敬重なり。先達て恭敬信の下にて弁ずる如く、敬う心にて法を信ずるなり。爰の「重」は敬重にして「吾身は悪き徒〈いたずら〉ものなり」と嫌うた意にして、助けたまう如来は弥陀一仏なりと、法を敬い信ずる心故「重」と云う。爾れば「極成用重の心」なれば疑いなく信ずるのじゃと釈したまう意なり。KG_MRJ09-08R
 「欲願審験之心」とは、「欲願」の二字は楽の字訓。「審験」は信の字訓なり。爰は十五訓を一処にしてのたまう。故にこの四訓を合して一句を立つ。「欲願」は浄土往生を願う事なり。「審験」とは慥かなる証拠ある違いない明きらめる事なり。時にこの「欲願審験」は疑い晴れて信ずる事なり。唯識の法相で申す時は、欲の心所は信が同時の果にて心に信じた事でなければ欲願の心は起こらぬなり。爾れば今往生に疑い晴れたればこそ往生したしの欲願ある故、この欲願も疑い晴れた心なり。又唯識の法相で云う時は、審験すれば疑いは晴れる。彼仏本願重願不虚と審験するが信心を得た所なり。それが直ちに疑い晴れた所なり。KG_MRJ09-08R,08L
 「慶喜楽之心」とは『一多証文』(十一右)に『大経』の踊躍を釈した文あり。爾れば疑い晴れて天に躍り地に踊る心にて喜び楽しむが「慶喜楽」なり。『愚禿鈔』下(二十一)「慶言印可之言也〈慶の言は印可の言なり〉」とあり。往生に間違いないと印可したればこそ、喜ぶ心の「慶喜楽の心」起こる。目にみず、手に取らぬ事を、何故喜び楽しまんや。往生決定の心を得たればこそ、この「慶喜楽の心」起こる。爾れば信楽の十五訓を残さず、疑い晴れて信ずる心に収めてしまいたまう故「無有疑心」とのたまう。KG_MRJ09-08L

◎欲生即是願楽之心、覚知成興之心。故三心皆共真実而無疑心、無疑心故三心即一心。
◎(欲生は即ちこれ願楽の心なり、覚知成興の心なり。故に三心皆共に真実にして疑心なし、疑心なきが故に三心即ち一心なり。)

 「欲生即是」等。これは欲生の字訓の欲の字の四訓、生の字の二訓合して六訓を二句に分けたまう。「願楽之心」と云うは往生を願う事なり。往生に疑い晴れたればこそ往生を願う心になりたのなり。この「願楽之心」即ち疑い晴れて信ずる心なり。「覚知成興の心」は、覚知の二字は欲の字の字訓、「成興」の二字は生の字訓なり。別に成されそうなものじゃに、一つに合わせてのたまうは、これは否と云えぬ。今第十八願の欲生は、欲の字、生の字、離れ離れではない。生の字ばかり離す事はならぬ。生ぜんと欲すると云う事なり。生の字ばかりでは云われぬ故、そこで一所にして「覚知成興之心」とのたまう。これは「覚知」と云うは心に合点する事なり。「成興」は無生の生の往生なり。軈〈やが〉て浄土に参りて仏になる事なり。今軈て命終わりて浄土に往生して、無生の生の仏になる事を、今から早心に合点して往生一定と覚知したる事にて「覚知成興之心」とのたまう。爾ればこの心を疑い晴れて信ずる心なり。KG_MRJ09-08L,09R
 上来、至心の四訓、信楽の十五訓、欲生の六訓、合して二十五訓、皆疑い晴れて信ずる心にしてしまうのなり。そこで今「三心皆共に真実にして」等とのたまう。「皆共に」と云うは上の二十五訓の事なり。「真実」と云うは、別して云う時は、最初の「誠種真実」の信と「真実誠満之心」となり。通して云う時は、三信共に一心。その一心皆弥陀に帰する誠は離れぬ故に「皆共真実」と云うなり。KG_MRJ09-09R
 「無疑心故」等。爰が正しく三心一心の御会釈なり。上来に明かす如く三心皆無疑一心となる。爾れば三心委く疑い晴れて弥陀に帰する一信心じゃに依りて、天親論主この三を合して一心と成されたる事なり。KG_MRJ09-09R

◎字訓如是、可思択之。
◎(字訓にかくの如し、これを思択すべし。)

 「字訓如是」等。三に結字訓釈〈字訓釈を結す〉。この一段、標・釈・結と分けて、第三の結なり。そこで上来の字訓を総結して「字訓如是」とのたまう。KG_MRJ09-09R
 「思択〈釈か?〉」の釈は、真本には択に作る。この択を正とす。択は簡択なり。心に思い分別して考える事を思択と云う。上来の字訓克克心に思い簡択せよと云う事なり。KG_MRJ09-09R,09L