香月院 浄土文類聚鈔講義
  第9巻の2(3の内の2)
別して三心を釈す
至心を釈す


浄土文類聚鈔講義 第九巻之二
  香月院深励講師述
  宮地義天嗣講師閲
  松内上衍校訂

◎復言三心者、一者至心、斯心即是如来至徳円修満足真実之心。阿弥陀如来、以真実功徳回施一切。即以名号為至心体。
◎(また三心と言うは、一には至心、この心即ちこれ如来の至徳円修の満足真実の心なり。阿弥陀如来、真実の功徳を以て一切に回施したまえり。即ち名号を以て至心の体とせり。)

 「復言三心」等。二約回向会二、初別釈三心三、初釈至心三、初正釈二、初至心体相〈二に回向に約して会するに二、初に別して三心を釈するに三、初に至心を釈するに三、初に正釈に二、初に至心の体相〉。これより上は三心の字訓を以て三心一心を釈す。これより下は如来の回向に約して三心一心を会釈する。故に已下科に二約回向会〈二に回向に約して会す〉とす。KG_MRJ09-09L
 『広本』「信巻」には、爰に別の問いの文ありて、上の字訓釈を以て論主の三を合して一とする論主の意は顕れ解したれども、仏の本願に三信と誓いたまえる意云何と問うてあり。今これより下の御釈、その問いを答える御釈なり。「信巻」では答の初めに「仏意難測」と恐慮の言を置く。上の字訓釈は「論の意を[キ02]〈うかが〉う」とありて、論主の意を明かす。又この一段は仏の願意を述べ、それ故にこの下では至心等の三心共に仏の本願の意にて釈したまう。至心・信楽・欲生と十方諸有を勧めたまう仏の願意に約して三信を釈するゆえ、三信乍ら尽く法に約して釈したまう。KG_MRJ09-09L
 これらは法体募りの者は我得手に取りて三信共に法に約して釈してあるからは、行者の方に信心は得られぬ者じゃと誤る処なり。或いは又この下の三信の御釈を至心の一つは法に約して釈し、信楽と欲生とは機に約して釈すると云う一義もあるとも。これ又不可なり。同じ祖師の御釈でも『銘文』の三信の御釈などは、至心を法に約して、信楽欲生を機に約して御釈成されたようにも見える。KG_MRJ09-09L
 今この下は左右ではない。至心の三信共に法に約するの御釈なり。さり乍ら爰に心得置くべき事のあるは、全体上の字訓釈もこれより下の回向に約する釈も、二段共に『大経』の三信と『論』の一心とを合釈して三心即一心を明かす事は、二段共に同じ事なり。そこでこの一問答の総科を会経論三一〈経論の三一を会するに〉とす。それ故これより下の御釈も先ず初めに三信を釈する所では三信ともに法に約して釈す。『解』に経論の三一を会する所では本願の三信からを一信楽に収めて今日の行者疑い晴れて信ずる信心なり。それを論主一心とのたまうと会釈したまうなり。KG_MRJ09-09L,10R
 何所にありても『論註』の一心は愚鈍の衆生の一心なる故、行者が胸の内に獲得したる信心でなけねばならぬ。それ故この一段でも三信合釈の所に至りては、三信を一信楽にして、行者が得る所の無有疑心の信心にてのたまう。KG_MRJ09-10R
 先ず初めに三信の相を釈するは、三信共に法に約して釈するなり。この趣を心得ぬ時は只文義を誤るのみならず安心迄を取り違える所なり。深く心を止めて拝見すべし。KG_MRJ09-10R
 「復言三心者」等と。「復」は復重の義にして、上に「一者至心」「二者信楽」等と標列して、それをば字訓で釈し畢わり、これより下は復重ねて如来回向に約して釈する故に「復」の言を初めに置くなり。KG_MRJ09-10R,10L
 「一者至心」とは、この言も上の標列の言を爰に移して標挙するなり。「散善義」の三心釈の例なる事、前に弁ずる如し。「如来至徳」とは、阿弥陀如来の果上の方便、即ち『選択集』にこの果上の万徳の相を説きて「四智三身十力四無畏等の内証功徳〈四智・三身・十力・四無畏等の内証の功徳〉」とのたまえり。相を説かばこの通りなり。爾れども実を剋すれば弥陀の果徳は過恒沙とや云わん、微塵数とや云わん。無尽無尽の功徳を備えたまう。故に爰の「信巻」には「円融無碍不可思議不可称不可説至徳」とのたまう。心も言も絶え果てた無量の功徳を、今爰では「如来の至徳」と云う。経徳〈至徳か?〉は至極の功徳と云う事なり。即ち「弥陀偈」〈「讃阿弥陀仏偈和讃」か? 『論註』か?〉の造語なり。「円修満足」とは、その「如来の至徳」は何にて成就したまうぞと云うに、因位の円修を以て円満成されたと云う事にて「円修満足」という。「円修」は上に出る如し。元照『小経疏』にこの文あり。不可思議永劫に万行円に修したまいた事なり。「満足」とはその因位の万行の円修に依りて果上に於いて不可称不可説不可思議の功徳を満足したまう。「真実」と云うはその果上の満徳悉く虚偽ならず、顛倒ならぬ故に真実と云うなり。先ずこれは果上の万徳を挙げて「真実之心」の処にて正しく至心を釈す。至心は真実心なり。真実はさらさら行者の真実に非ず、如来の真実なり。法蔵菩薩清浄真実心が果上の真実の功徳と顕るるその果上の真実功徳を至心と云うなりと云う意なり。この上の字訓釈の至心の釈とは大違いなり。真実心を行者の方に下さずに、只法ばかりにてのたまうなり。KG_MRJ09-10L,11R
 爰にて先輩は『六要抄』を引きて弁ぜられたる事なり。これは今家御相承の大切なる所故、今又繁なることを恐れずこれを弁ぜん。「信巻」(会本四 三十四右)即ちこの至心の御釈の畢わりに『涅槃経』を引きたまう。即ち文に「言真実者即是如来。如来者即是真実」なりとあり。これを『六要』(会本四 三十四右)「真実心は如来の意にて衆生には関わらず。この義を証せんが為に」『涅槃経』を引くと釈してあり。至心の真実は衆生の方にはなきものなれば衆生には関わらず。如来の真実故、そこで『涅槃経』に「真実者即是如来」等と説く。同じく『六要』三〈四か?〉(七右)に「凡心非真実故。依帰仏心真実之徳。為其仏徳得往生益。就其所帰云真実心。依主釈也〈凡心は真実に非ざるが故に、仏心真実の徳に帰するに依りて、その仏徳として往生の益を得。その所帰に就きて真実心と云う。依主釈なり〉」とある。これらの御釈、『広』『略』の文類を御相承成されたのなり。近くは『御文』に「行者のわろき自力のこころにては助からず」等とのたまうは、爰を御相承成されたものなり。KG_MRJ09-11R
 爾れば真実心と云うものは只如来の方にのみありて、行者の胸の内にその真実心を得ると云う事はない事かと云うに爾らず。これは「信巻」本(十二左)「散善義」の至誠心の御釈を引きて「凡所施為趣求亦皆真実〈凡そ施したまう所、趣求を為す、亦皆真実なり〉」とあり。この文、鎮西・西山両家では「所施為趣求〈施為趣求する所〉」と誦す。これらは法蔵因位の行の真実なる事にしてしまうのが西鎮の釈なり。この文では常とは大違い。西鎮ではこの文をば法蔵因行の真実にしてしまう。それを我祖は点を付け替えて「凡所施為趣求亦皆真実〈凡そ施したまう所、趣求を為す、亦皆真実なり〉」等と誦したまう。これを『六要』三本(八左)初めには通途の西鎮などの義を挙げて、次に「今有文点〈今、文点あり〉」とことわりたまう。近来『広文類』を会読する者が滅多に御点を改むると云うは不届きなり。御点が我祖の御相承なり。故に「文点あり」とのたまう。KG_MRJ09-11R,11L
 如来は能施、衆生は所施なり。「趣求」は行者が浄土に参りたい、仏に成りたいと願い求める。今行者の方に真実はなけれども、如来の真実を行者に施したまう故、行者が浄土に参りたい、仏に成りたいと願う心も亦真実なりと云う事なり。爰に「亦」の字を書いてあり。能施の仏が真実なるばかりではない。所施の凡夫の胸の内の浄土を願う心も「亦皆真実なり」とのたまう。行者の方には無始已来真実はなけれども、今「所施」等とありて、如来の真実を行者の胸の内に施したまいてこそ、行者の心が真実になりた、その行者の胸の内の真実じゃとて、外に替わった相〈すがた〉があるではない。一心に弥陀に帰して浄土を願求するばかりなり。この「趣求」の心、全く如来の真実が行者に顕れた相〈すがた〉なり。即ち上の字訓釈の真実信〈真実之心か?〉は、それ如来の真実が行者に顕れた相を釈す。これが今家御相承の御釈なり。KG_MRJ09-11L,12R
 この文ばかりに非ず。善導の御疏に所々にある「須真実」のべしの字、須なり。それを今家では用ゆと点を付けたまう。これを蓮如上人は「須の文点は用の文点」とのたまう。これ今家各別の御相伝なり。真実なるべしとあるを、真実を用いよと誦むなり。用いると云うは、如来の方に置いて詠めて居るは用いると云うものではない。如来の真実を我が方に貰い受けて我が物にして用いると云うが、これが今家の他力回向の宗義なり。これを麁末に心得るから、或いは行者の方には信心はないものじゃと云い、或いは行者の方に真実を拵えて向かうように云うものあり。全体我祖の三心の御釈を心得ぬから、遂には安心に迄取り違えができるなり。弥陀果上の万徳の体、即ち南無阿弥陀仏の名号功徳なり。これを『浄土論』では「真実功徳」と説いてありて、これを『一多証文』(十九左)に釈して「真実功徳と云うは、名号なり」と釈したまう。爾れば如来の不可称不可説不可思議の功徳を名号に封じ込んで与えたまう。故に「真実功徳回施一切〈真実の功徳を以て一切に回施したまえり〉」とのたまう。即ち「三誓の偈」の「為衆開法蔵 広施功徳宝」の意なり。KG_MRJ09-12R,12L
 「即以名号為至心体〈即ち名号を以て至心の体と為せり〉」とは論主の経体の判釈の語勢を取りてのたまうなり。我祖は外の事をのたまうにても七祖の御言づかいを用いたまう。名号を至心の体とするは、如来の真実を行者に与える時は外に与えようはない。如来の果上の諸有は真実功徳を名号に収めて衆生に与えたまう。爾れば至心のその体、名号より外はない。KG_MRJ09-12L
 この下を『蹄[シン09]』に爰等は「信は願より生ずれば」の意にて解して、今日行者が得る所の信心は仏の名号を体とすると云う事じゃと解してあり。爰等が麁漫に聖教を拝見して場所を取り違えて居ると云うものなり。成る程『御文』の信心とて六字の外にあるべからずとのたまうも、爰を相承したまいたのじゃに依りて、今日行者が得る所の信心、名号を体とするは勿論なり。爾れども今はそれをのたまう所ではない。KG_MRJ09-12L
 今爰の御釈は三信を残らず法に約して釈したまう。如来の至心、その体名号とのたまう。その三信釈の心は、至心は名号を体とし、次に信楽はこの至心を体とし、欲生は亦信楽を体とするとのたまう。そこでこれを展転相成する時は、欲生はその体信楽ゆえ信楽に収まり、信楽はその体至心なる故至心に収まり、その至心は名号を体とす。そこで如来の三信、その体一名号なり。これでなけねばならぬ分けは、如来の御方より授けありたる信心と云う事は常に云う事じゃが、その回向はどうしてくださるぞ。鼻より押し込んでくださるるか、頂より入れてくださるか。信心は外に施しようはない。如来の三信を一名号に収めて、その名号を第十七の十方諸仏に讃嘆させて、名号にて回向したまう。それを今日の行者「聞其名号信心歓喜」する故に、その行者の信心即ち名号を体とする故に、そこで『御文』に「信心とて六字の外にはあるべからず」「一流安心の体ということ、南無阿弥陀仏の六字の相〈すがた〉なりとしるべし」とのたまう。『御文』は行者に顕れた所にてのたまう。今爰は如来の回向に約してのたまう。場所を取り違えせぬようにせねばならぬ。末学の聖教を伺うは、盲目が余所の内へ行くようなものなり。探り探りて当たるようにもあれども、場所を取り違えてならぬ。KG_MRJ09-12L,13R

◎然十方衆生穢悪汚染無清浄心。虚仮雑毒無真実心。是以如来因中行菩薩行時、三業所修、乃至一念一刹那、無有非清浄真実心。如来以清浄真心、回向諸有衆生。
◎(然に十方衆生、穢悪汚染にして清浄の心なし。虚仮雑毒にして真実の心なし。これを以て如来の因中に菩薩の行を行じたまいし時、三業の所修、乃至一念一刹那も、清浄真実の心に非ざることあることなし。如来、清浄の真心を以て、諸有の衆生に回向したまえり。)

 「然十方衆生」等。二釈回向由〈二に回向の由を釈す〉。上の段に「以真実功徳回施一切〈真実の功徳を以て一切に回施したまえり〉」とあり。その回施したまう所の由をこれより下に述べたまう。衆生が浄土往生する至心故、衆生の心なるべし。それを如来より回施したまうは何故ぞと伏難あり。そこでこれより下はその所由を釈するなり。KG_MRJ09-13R
 「十方衆生」とは、今爰に釈する所の三信は第十八願の三信なり。十八願にて三信を成就して衆生に与えたまうは何の為ぞといえば、十八は所被の機の十方衆生は我が方には真実心なし。そこで弥陀の方に至心で成就したまう。その十方衆生の我が方に至心なき相〈すがた〉を次に述べて「穢悪汚染」等とのたまう。これは全く善導の至誠心の釈に依りたまう。その根本は『大経』の正行段なり。善導の三信釈〈三心釈か?〉の意を得たものは元祖なれども、元祖も三心〈三信か?〉の事は我祖に譲りたまうと見える。「三心章」の私釈は甚だ短い。三心釈の御相伝は吾祖に伝えたまうと見える。KG_MRJ09-13R,13L
 今この至心の釈は善導の至誠心の御釈にてのたまう。「穢悪」も汚れたる事、「汚染」も汚れたる事なり。それ故「無清浄心」と。至誠心の御釈に「貪瞋邪偽[カン01]詐百端」とあり。凡夫の心、朝夕貪瞋を起こして心を汚して、遇々浄心を起こせども、水に画くが如く、間には世捨て人に成りたいと道心を起こす事もあるとも、実に水に画くが如く、後からは煩悩が染み付いて汚す故に、清浄心は更になし。KG_MRJ09-13L
 「虚仮雑毒」とは「散善義」(三右)に「不得外現賢善精進〈外に賢善精進の相を現ずることを得ざれ〉」等とあるに依る。凡夫心は「内懐虚仮〈内に虚仮を懐き〉」只虚しく偽りばかりなり。遇々善根を修めども雑毒虚仮の行故、真実の心は更になし。この雑毒の事『智論』所々にあり。一カ所出さば六十二(二十七)菩薩有所得の心を以て善根を修め菩薩に回向するは、毒の雑じりたる食の如しと喩えてあり。今「散善義」に「雑毒」とのたまうは凡夫自力の行なり。凡夫自力の行は何程勤めても賢善精進の相〈すがた〉ばかり。内懐虚仮なれば毒雑ざるなり。KG_MRJ09-13L,14R
 今第十八願の三信を釈する初めに、十方衆生、無始已来、無清浄心、無真実心と云い掛けさせらるるが浄土他力の法門を説き出す所なり。聖道自力門ならば今日は劣り果てた者なれども、我が心本来自性清浄と談じて、今日煩悩の泥に染まっているけれども、この心本来清浄心、仏と衆生とこの三無差別、自己の心性の外に仏もなく衆生もなく、我が心、仏なり、衆生なり。爾れば己の心の外に仏の清浄真実を仮る事はないと云うが聖道自力門の見解なり。今浄土他力門はそれとはあちらこちらなり。我が方に無清浄心、無真実心と謙らねばならぬ。聖道門では一念も我は凡夫なりと思わば三世諸仏の仇なり。我は凡夫なりと卑下の心を起こしてはならぬ。釈迦も達磨も押しのける機でなければならぬ。今浄土真宗はそれとは裏表なり。一念も我が心真実なりと思うては信心は得られぬ。我身は悪き徒者と見限り詰めねば、仏の大悲願力には縋られぬ。KG_MRJ09-14R
 今この「至心」の御釈はその弥陀の大悲覩見を明かす所なり。弥陀因位の大悲を以て覩見したまうに、どうしても今日の衆生に清浄真実の心はない。それが為に法蔵菩薩、衆生に成り替わりて清浄真実の心を成就したまう。その赴きを次に明かして「是以如来因中〈これを以て如来の因中に〉」等とあり。これは「散善義」(三右)の釈に「正由彼阿弥陀」等とあり。根本は『大経』の正行段なり。菩薩の行とは、次の経文にある三業二利の行なり。即ち『論』に説く五念門の行なり。「三業所修」とは即ち『大経』正行段の文に法蔵菩薩の身口意の三業の行を説きてある、それを指す。爰に「乃至」の言を置くは不可思議兆載永劫の修行を明かす所故に、その永劫に対して乃至と云う。従多向少の乃至なり。「一念一刹那」とは、時の短い事を云う言なり。KG_MRJ09-14R,14L
 『大乗義章』二(七十一)釈あり。都て仏経の中に時の短い事を説くに、一弾指頃、屈伸臂頃と説くは、色法に寄せて時の短い事を説く。又一念一刹那と云うは心法に寄せて時の短い事を説くとあり。今「一念一刹那」は心法に寄せて時の短い事を顕す。一念はたった一思いなり、これを法に寄せて明かすなり。その一念をまた小分けにしたが一刹那なり。『仁王経』一(五左)「九十刹那為一念〈九十刹那を一念と為す〉」とあり。爾れば今法蔵菩薩は一念の間も、又それを九十に割った刹那の間も、清浄真実ならざる事なしとなり。KG_MRJ09-14L
 時に至心の釈なれば真実心ばかりにてのたまうべきに、清浄心迄を出したまうは云何と云うに、これ『大経』の文にてのたまう故なり。KG_MRJ09-14L,15R
 「不生欲覚」等は清浄ならざる事なき相なり。次の「無有非清浄」等は真実ならざる事なき相を説くなり。「如来以清浄真心」等は、その因位清浄真実の心を果上の名号に収めて今日の衆生に回施したまうなり。文の初めには因願に依りて「十方衆生」と云い、文の畢わりには成就の文に依りて「諸有衆生」と云う。これは因願の十方衆生は云何なるものぞと思えば、成就の文に依りて、これは「諸有衆生」とあり。諸有は二十五有なり。無始より已来清浄真実なき出離の縁尽き果てたる諸有の衆生に清浄真実心を回施したまうと云うことなり。KG_MRJ09-15R

◎経言。不生欲覚瞋覚害覚、不起欲想瞋想害想、不著色声香味之法。忍力成就不計衆苦。少欲知足無染恚痴。三眛常寂智恵無碍。
◎(経に言たまわく。欲覚瞋覚害覚を生ぜず、欲想瞋想害想を起さず、色声香味の法に著せず。忍力成就して衆苦を計からず。少欲知足にして染恚痴なし。三眛常寂にして智恵無碍なり。)

 「経言」等。二引文三、初明清浄心。KG_MRJ09-15R
 この『大経』の文、古来の註解、種種に解する所なり。私には正行段の経文、浄影の科にも依らず、憬興の科にも依らず、正行段の経文を三業二利の経文を明かすと分科す。これ我祖『二門偈』の御指南なり。これより下の文、菩薩、これより衆生に替わりて五念門を修したまう。その五念門は三業二利なり。そこで三業二利にて果を分かつ事、能く経に叶うなり。又この下を、人よく六度の行に配す。私にはこの経文は『相続解脱経』の説相と同じく六度の行を戒定恵の三学と精進の四行にして説く経文と伺うなり。昨年『大経』にて具に弁ずる如し。時に「信巻」にも、爰にも「不生欲覚」より「令諸衆生功徳成就」迄を引きたまうを伺うて見ば、否と云えぬ引文なり。KG_MRJ09-15R,15L
 この引文、三段に分かる。初めの「不生欲覚」等の文は、永劫の間一念一刹那にも清浄ならざることなき清浄心の相〈すがた〉。「無有虚偽」以下は一念一刹那も真実ならざることなき真実心の相なり。「恭敬三宝」已下はその清浄真実を衆生に回向したまう回向の相〈すがた〉を明かす。『広』『略』共にこれ丈を引きたまうは、きっとこの三段に分けたまう御意なり。KG_MRJ09-15L
 「欲覚」の欲は貪欲なり。「瞋覚」は瞋恚なり。「害覚」は悩害の義にして、悪いと思う境界に悪口を云いたり、或いは杖を振り上げて、向かう相手を害ない悩ます心が害なり。『涅槃』二十三(初右)これを三悪覚と説く。信心を起こすと云えども、この三種の悪覚を起こす故に三悪道に堕在すと説きてあり。KG_MRJ09-15L
 覚は、爰は思覚の義にして心に思い回らす事なり。五十一の心所の中にて尋の心所なり。新には尋と云い、旧には覚と云うなり。覚知の義には非ず。凡夫の心に思い回らす度毎に、何ぞと云えば欲瞋害なり。故に覚と名づく。KG_MRJ09-15L
 「不起欲想」等は憬興の釈、可なり。三想は前の三覚の因なり。それはなぜなれば、三想はその体、想の心所なり。想の心所は所縁の境界の形を取る心所なり。見る事、聞く事に所縁の境界の形を取りて、或いはあれは善きものか、悪い者かと、形を取りて縁ずる故に、次に尋の心所起きて欲しい者とか、悪い者とか、三覚の因たる三想迄も起こしたまわず。KG_MRJ09-15L,16R
 時にこの経文『大経』を註する者の不審をする所なり。三覚を起こすの、三想を起こすのと云うは凡夫に在る事なり。今引く『涅槃経』にも「一切凡夫」とあり。大乗の通判にて申しても貪瞋等の煩悩は地前に漸く伏して、地上に断ずるとあり。地上の菩薩に現行すると云う事はない。況んや法蔵菩薩は迹門の手前にて云うても八地以上の菩薩。この八地已上は純無漏にして、有漏心を起こす事はない事なり。爾れば三覚三想は起こすの起こさぬと云う所ではない。それを今「不生欲覚」等と説くは云何。望西などの通釈あるとも、それでは爰は一向動かぬ。KG_MRJ09-16R
今我祖爰に引用したまうにて見ば、上に「十方衆生穢悪汚染」等とありて、あの言直ちにこの経の意を述べたまう。法蔵菩薩大悲を以て観見したまうに、十方の衆生、清浄真実の心なきが故に、それに成り替わりて修行したまう事を説く経文なり。これでなけねばこの経文は動かぬなり。今爰の文は法蔵菩薩、我等凡夫に成り替わりたる清浄心の相なり。故に「欲覚」等は凡夫の穢悪汚染にして清浄なき相〈すがた〉なり。凡夫の心は見聞覚知に所縁の境の形を取りて三想を起こし、それから思い回らして三覚を生じ、心の内は明け暮れこの汚れ果てたる穢悪汚染の心ばかりで居る。それに成り替わりて法蔵菩薩永劫の間、一念一刹那もこれらの心を起こしたまわば、事が無不清浄の相なり。KG_MRJ09-16R,16L
 「不著色声」等と。色想等の六境は所縁の境界なり。三想は三覚の因、又その三想の起こるは六境に依りて起こる。見るは目の毒と云う風情なり。目に見る、耳に聞く、鼻にかぎ、口に味わい、意に思う。この六境に著するから三想三覚を起こす。今法蔵はその六境に著したまわぬ故、三想も三覚も起こらぬ。KG_MRJ09-16L
 「忍力成就」等とは。忍は堪え忍ぶ行なり。忍にも色々あれども、爰は次の句に「不計衆苦〈衆苦を計からず〉」とある故、安受苦忍なり。忍に色々ある事は『義章』などに出る。安受苦忍と云うは寒熱病苦等に逢うてもそれを堪忍して堪える事なり。今日の我々は小暑でさえ、ちっと暑ければ起こりたり。寒ければそれを起こりたり。況んやこの起こる煩悩を慎みたいと思うたとて、寒ければそれが苦になりて慎まれぬ。暑ければそれに依りて慎まれぬ。法蔵菩薩は安受苦忍故、少しばかりも苦とせずに、煩悩を起こしたまわぬなり。KG_MRJ09-16L
 「少欲知足」と云うは貪欲を離れたる相なり。かくの如く三毒を離れたまう事にて「無染恚痴」と云う。染は染著にて貪欲の事なり。これ皆清浄心の相を説きたる者なり。「三眛常寂」とは、三昧は旧訳、爰に定と翻ず。常寂とは、寂とは寂常、常に定に入りて心に寂静に住したまう事なり。「智恵無碍」とは、知恵を以て真俗二諦の境を障りなく照らしたまう事なり。KG_MRJ09-16L,17R
 法蔵菩薩は永劫の間、三覚等の穢れたる煩悩は少しも起こしたまわぬ。その替わりに御心は定と恵との二行に常に住したまうと云う事なり。これ一念一刹那も無不清浄の相〈すがた〉なり。これを六度行に配する時は「不生欲覚」より「無染恚痴」に止〈いた〉る迄は戒波羅密なり。戒の中に不施〈布施か?〉忍辱を収むる、これ『相続解脱経』の説相もこの通りなり。「三眛常寂」等は禅定智恵なり。精進は次文に説くなり。KG_MRJ09-17R

◎無有虚偽諂曲之心。和顔愛語先意承問。勇猛精進、志願無倦。専求清白之法、以恵利群生、
◎(虚偽諂曲の心あることなし。和顔愛語をして意を先にして承問す。勇猛精進にして、志願倦むことなし。専ら清白の法を求めて、以て群生を恵利して、)

 「無有虚偽」等。二明真実信。『大経』正行段の文なり。至心の証文に御引きなされた。KG_MRJ09-17R
 時に爰に御引用の思し召しでは、これより上は清浄心の相を明かせらるる。これより下は真実信の相〈すがた〉を説かせらるる一段で、法蔵菩薩不可思義永劫の間、衆生に成り替わりて一念一刹那も真実ならざる事なき真実信の相〈すがた〉を御説き成された経文なり。故に文の最初に「虚偽諂曲之心」と、虚偽りの少しもない真実信の相なり。諂曲とは『十住論』四(三左)論釈がありて、「諂者心佞媚〈諂とは心に佞媚あるなり〉」と釈して、こびへつらうが諂の字なり。「曲者身口業現有所作〈曲とは身口業に現れて所作にあり〉」て、曲がりなり。悪の中の虚を面に隠して、身心には実とらしく曲がりて見せるなり。今は法蔵菩薩永劫の間その意なく、真実心の御修行なさるるのなり。KG_MRJ09-17R,17L
 「和顔」とはかんばせを和らげ、「愛語」は麁い言でなしに柔らかな言で衆生に向かいたまう。先ず「意」とは『礼記』の文にある。『礼記』では、父母の諭す時、父母は如何思われるやらと、父母の心に背かぬように、段々善道に諭し入れる所なり。今菩薩の衆生を善道に導きたまうも、その如く衆生の機嫌を損せぬように衆生の心を先にして、その心を承けて物を問い掛けたまう故、「先意承問〈意を先にして承問す〉」と云う。KG_MRJ09-17L
 時に「和顔愛語先意承問〈和顔愛語をして意を先にして承問す〉」と云うは即ち虚偽諂曲を離れた真実心の相なり。なぜと云うに、我等凡夫に在りては顔〈かんばせ〉を和らげ、言を柔らかにするは、みな諂諛のへつらいなり。今菩薩は虚偽りへつろう心なきに由りて、真実心より和顔愛語を以て衆生に物を問い掛けたまうにて「無有虚偽(乃至)承問」とのたまう。これは皆真実心の相なり。「勇猛精進」等はその真実心を以て永劫の間勇猛精進に勤めたまう。これは志願慵〈ものう〉き事なしと誦えるが真本の仮名なり。最初起こさせられた衆生済度の志願何迄も倦む事なく、修行したまうとなり。KG_MRJ09-17L
 時に爰に「勇猛精進」を出したまうは六度の行の中の精進波羅密の相なり。上の段に戒定恵の三学の相を説く。この一段にて精進波羅密を説く。これにて六度の行を説き畢わりたまう。これは『相続解脱経』の説相と同じ事なり。今爰に御引用の思し召しでは、この一段真実心の相〈すがた〉を説くのじゃに依りて爰に「勇猛精進」を出すは、不可思義永劫が間、一念一刹那もたゆみなく真実ならざる事なき相〈すがた〉なり。KG_MRJ09-17L,18R
 「専求」等とは、この「清白之法」と云うは都て善法を清白と云い、悪法を黒法と云う。悪は醜きもの故、黒と云う。善は奇麗なもの故、白と云う。爰は法蔵菩薩の積みたまう無漏清浄の善根故、清白と云う。永劫の間真実心を以て勇猛精進に勤めたまうは、外の御修行ではない。唯無漏清浄の善根を求め修して、それで果上の南無阿弥陀仏を成就して衆生に回施したまうと云う事なり。KG_MRJ09-18R

◎恭敬三宝、奉事師長。以大荘厳具足衆行令諸衆生功徳成就、抄出。
◎(三宝を恭敬し、師長に奉事す。大荘厳を以て衆行を具足して諸の衆生をして功徳成就せしめたまえりと、抄出。)

 「恭敬三宝」等。三明回向相〈三に回向の相を明かす〉。
 「恭敬三宝」と云うは、法蔵菩薩永劫の間常に仏法僧の三宝を恭敬尊重す。師長に奉事すると云うは、我が師たる人、我より長たる者に恭い事えたまう事なり。KG_MRJ09-18R
 時にこの経文は正行段の経文を三業二利の行と分かつ時は、これより上は意業の行、「三眛常寂智恵無碍」は作願観察の奢摩他毘婆舎那の意業の行なり。この文は身業の行なり。体に恭敬礼拝する礼拝門の行に当たる。この次に「遠離麁言」等と云う所が口業の行に当たる。KG_MRJ09-18R,18L
 爾るに今爰に御引用の思し召しでは、これより上は清浄心の相〈すがた〉と真実心の相〈すがた〉とを明かしたまう。この文はその清浄真実心を以て積みたまう功徳善根を諸有の衆生に回向したまう回向の相〈すがた〉を明かす。この経文この御引文の前に「三業所修(止)諸有衆生〈三業の所修、乃至一念一刹那も、清浄真実の心に非ざることあることなし。如来、清浄の真心を以て、諸有の衆生に回向したまえり〉」とある御言の通りの経文の意なり。KG_MRJ09-18R,18L
 時に爾らば爰に「恭敬三宝、奉事師長〈三宝を恭敬し、師長に奉事す〉」を出したまうは云何と云うに、吾祖の思し召しは永劫の修行、福智の二荘厳に収まる。六度の行にて申せば、前の五波羅密は福荘厳、第六の般若波羅密は智荘厳なり。そこで永劫の御修行は唯福智の二荘厳を名号に成就して衆生に回向したまう。そこでこの「恭敬三宝、奉事師長〈三宝を恭敬し、師長に奉事す〉」が即ち福智の二荘厳の相〈すがた〉なり。なぜなれば先ず三宝を恭敬する時は、三宝は一切衆生の大福田故に、三宝を恭敬する時は未来の福を成して福徳荘厳を成就する。又師長に奉事するは何の為ぞと云うに、師長より教えを受けて我智恵を生ずる。そこでこれは智恵荘厳なり。爾れば「恭敬三宝、奉事師長〈三宝を恭敬し、師長に奉事す〉」は法蔵の永劫が間、清浄真実心を以て福智の二荘厳を成就したまう相を説くなり。KG_MRJ09-18L
 そこで次の文に「以大荘厳〈大荘厳を以て〉」とあり。福徳智恵の大荘厳なり。永劫が間積みたまう福智の二荘厳なり。「具足修行〈具足衆行か?〉〈衆行を具足して〉」とはこの福智の二荘厳の中に万善万行悉く具足して、偖諸有功徳善根を、これも衆生の為、これも衆生の為と衆生に回向したまうと云う事にて「令諸衆生功徳成就」と説く。爾れば永劫の修行、功徳善根を衆生に回向したまう事は、兆載永劫の御修行の間の事なり。それが今日果上にて南無阿弥陀仏の名号と顕れ、今日の衆生が「聞其名号信心歓喜」と名号の謂われを聞き開きて信ずる時に、初めてこの御回向が行き届いて「不可称不可説不可思議の功徳は行者の身に満」つるようになるなり。この「恭敬三宝」等の二句を福智の二荘厳と見るは憬興『述文賛』中(四十左)の釈、この意なり。この下の憬興の釈は吾祖「行巻」御自釈(七右)御引用なり。爾ればこの一段は憬興の衆〈?〉に依りて解するが祖意に叶いそうな事なり。「鈔出」とは、正行段の文は長けれども、今爰に入用なる文ばかりを抜き出したまう故「鈔出」と云う。KG_MRJ09-18L,19R

◎聖言明知。今斯心是如来清浄広大至心、是名真実心。至心即是大悲心故、無有疑心。
◎(聖言明らかに知りぬ。今この心はこれ如来の清浄広大の至心なり、これを真実心と名づく。至心は即ちこれ大悲心なるが故に、疑心あることなし。)

 「聖言明知」等。三私釈。KG_MRJ09-19R
 これより上は引文。これは御自釈なり。上の四法を明かす。下では行に信を摂して明かしたまう。故に別に真実心の引文なし。そこでこの三信一心の下の御引文、これ皆真実心の御証文なり。それ故一々皆引文、私釈の定格を守りたまう。KG_MRJ09-19R,19L
 「今斯心是如来」等と。この意は今引く所の経文にてみよ。至心は凡夫の少ない至心ではない。如来の広大なる清浄真実の心じゃと云う事、この経文にて明らかに知れたる事なり。「是名真実信〈是名真実心か?〉〈これを真実心と名づく〉」とは、最初に「円修満足真実之心〈円修の満足真実の心なり〉」とのたまう故に、そこで承けて今この引文に説いてある「如来清浄広大至心、是名真実心〈如来の清浄広大の至心なり、これを真実心と名づく〉」と結びたまう所なり。「至心即是大悲心〈至心は即ちこれ大悲心〉」と読むが真本の点なり。KG_MRJ09-19L
 爰に「大悲心」を出したまう事、何故ぞと云う事、合点行かぬ故、爰を『[シン09]記』には「大悲心猶云如来心〈大悲心は猶し如来心と云うがごとし〉」とあり。これは「仏心者大慈悲是」なるが故に、大悲心は如来の心と同じ事と云う了簡とみえる。併しこれは日渓の■子〈?〉。爰では智解が出なんだか、これを如来心としては次上の文と繁重になる。なぜなれば、次上に「今斯心是如来清浄広大至心〈今この心はこれ如来の清浄広大の至心なり〉」と明かし畢わりてある故に、又爰に同じ事をのたまう筈なし。なれども、この云う所にて釈を付けるだけが『[シン09]記』なり。聖教を誦みても合点行かずに釈を付けるもの、世間に多し。爰等は聞こえぬ所じゃと思うて註をしただけが『[シン09]記』なり。爾れども如来心の事とするは祖意を得ぬなり。KG_MRJ09-19L
 これは下の合釈に三信を合して行者の一信楽とする所に「大悲回向の心なるが故に」とのたまうと同じ事なり。KG_MRJ09-19L,20R
 今上来、至心をば尽く法に約して釈し畢わる。爰でこの如来の至心が行者に顕れた所では、疑い晴れて信ずる信心なりと云う事を述べたまうなり。そこで今爰に「大悲心」を出す。上来述べる如く真実信は行者の方にはない。如来の真実心なり。さり乍らこの如来の真実心は外の心ではない。「仏心者大慈悲是」なり。只衆生を助けたいと思し召し、大慈悲心ばかりじゃと云う事にて「至心即是大悲心」とのたまう。時に衆生を助けたいとの大悲心なれば、それが衆生に届かぬ筈はない。それ故これが衆生に届けた所で、「無有疑心」の信心と顕れると云う事なり。「無有疑心」は衆生の信心の相なり。下の合釈に至りて、三信を行者の一信楽としたまう。その為の張本にして伏線なり。KG_MRJ09-20R