香月院 浄土文類聚鈔講義
  第10巻の2(3の内の2)
『無量寿経』の三信と『観無量寿経』の三心とを会釈する
『大』『観』二経の三心と『阿弥陀経』の一心とを会釈する


浄土文類聚鈔講義 第十巻之二
  香月院深励講師述
  宮地義天嗣講師閲
  松内上衍校訂

◎又問。大経三心与観経三心一異云何。
◎(又問う。大経の三心と観経の三心と一異云何ぞと。)

 「又問大経三信〈心か?〉」等。二会大観三心二、初問〈二に大観の三心を会するに二、初に問〉。KG_MRJ10-12R
 これは三番の問答の中の第二の問答なり。『大経』の三心、『観経』の三心、二経の三心一なりと云う事を会釈する問答なり。「又問」とは、上の一問答畢わりて、第二番の問故「又」の言を置きて間を隔てる。「一異云何」とは、一也とやせん、云何ぞと問うたのたり。KG_MRJ10-12R

◎答。両経三心即是一也。
◎(答う。両経の三心即ちこれ一つなり。)

 「答両経三心」等。二答三、初直答。KG_MRJ10-12R
 時にこの問答は「化巻」に『観経』の三心を釈する中に、問の文は爰と全く同じ事にして、その答えに『観経』隠顕あると云う事を釈して、その畢わりに『大経』の三信、『観経』の三心等とあり。これは「化巻」は『観経』を釈する所故、『観経』にすわりて居て『大』『観』二経の三心一異を論ずるのじゃ。故隠顕二義を分かちて弁ぜねばならぬ。今この『略本』は真実方便の選びして、只真実ばかりを述べるがこの『略文類』の一体勢なり。そこで『大経』の三心、論主の一心を会釈して、因みに『大経』の三心の一異を会する故、顕の義は構いない。只隠の義ばかりを会する故に「即是」なりと云う。KG_MRJ10-12R,12L

◎何以得知。宗師釈云。至誠心中云。至者真、誠者実。
◎(何を以てか知ることを得ると。宗師の釈に云く。至誠心の中に云く、至とは真なり、誠とは実なりと。)

 「何以得知」等。二釈由三、初引至誠心釈〈二に由を釈するに三、初に至誠心の釈を引く〉。KG_MRJ10-12L
 「何以得知〈何を以てか知ることを得ると〉」とは、徴起してその所由を釈するなり。「宗師釈云」とは、善導を爰では宗師と名づく。「至誠心の中に云く」とは、「散善義」の至誠心の御釈なり。「至者真〈至とは真なり〉」とは、前に義訓を弁ずるが如きなり。至誠心の下に字訓釈ばかりを引くは、次に『礼讃』を引く下にて思し召しと知る。KG_MRJ10-12L

◎就人就行立信中云。一心専念弥陀名号是名正定之業。
◎(人に就き行に就きて信を立つる中に云く、一心に弥陀の名号を専念する、これを正定の業と名づく。)

 「就人」等。二引深心釈二、初疏文〈二に深心釈を引くに二、初に疏の文〉。KG_MRJ10-12L
 「就人就行の立信」、色々釈あれども「散善義」の深信の釈の第七深信の下にてこの就人、就行分かれる。先年この就人就行の心得損のうた者あり。就人立信は阿弥陀仏の仏体を信ずる事、就行立信は念仏を信ずる事として、当流は就人立信を正とすと云う者あり。迚〈とて〉も先輩折々評破して、只今も田舎々にはさようなる事を云う者がある。今この善導の就人就行はそう云う事ではない。これは元祖の『和灯録』にきっぱりと御釈あり。「散善義」の深信の下の第七深信の下にて就人、就行分かれる。第七深信と云うは如何なる異学意見別解別行の者が云い乱すとも、それが為に云い乱されぬ。信心を堅固に成立する事を明かす一段なり。KG_MRJ10-12L,13R
 そこでこの就人就行の立信を明かす。この「立」の字は建立の義、成立の義なり。云何なる者が来て云い乱してもそれには碍げられぬ信心を堅固にする事を「立信」と云う。その信心を成立するに付きて就人、就行分かれて、就人立信と云うは能説の人に付きて信心を成立するなり。能説の人と云うは釈迦及び十方の諸仏なり。『和語灯』一(三十三右)喩えを設けてあり。喩えば年来付き合う心の程をも能く知って居る、兼ねて虚偽りを云わぬ人が、もし誓言を立てて最もこれに違いない程にと云うた事を、外から心も知らぬ者がそうではないと云うたとて、疑いを起こすべき筈なし。今もそれと同じ事にて、如何なる異学異見の人が云い乱そうとも、一代教主の釈迦の説きたまいた事、その上に十方諸仏舌を舒べ証誠したまう。最もこれに間違いないと釈迦や諸仏の能説の人に付きて信心を成立するが就人立信なり。KG_MRJ10-13R
 就行立信と云うは、それ釈迦や諸仏の説く所説の弥陀の本願の行に付きて信心を成立するなり。異学異見の者来たりて、念仏では往生はならぬ、諸行諸善を修せねば往生はならぬと云い乱そうとも、諸行諸善にて往生すると云う事は弥陀の本願にない。称我名字の者を助けんとあるは、弥陀の本願に誓いて、「彼仏今現在成仏」等々のこれに間違いないと信心を成立するが就行立信なり。何もむつかしき事はない。善導の疏を能く見るべし。『和語灯』や『真要抄』皆この通りなり。KG_MRJ10-13R,13L
 時に今爰に引く「一心専念」等の文は『選択集』「二行章」にも引きてありて就行立信の文なり。それを今「就人就行立信中」とのたまうは何故ぞと云うに、『[シン09]記』は、これは只就行立信の文を引きたまうばかりなり。けれども善導の深信釈では就人就行の二段ある事を知らせん為に就人就行とのたまうと云う。これ甚だ不可なり。我祖の思し召しさっぱり隠れてしまう。今我祖爰に深心釈を引くのは三信即一心の義を述べるに付きて、この一心専念の言甚だ入用なり。時にその入用なる一心専念の文只一所ではない。就人立信の下にもあり。就行立信の下にもあり。両方共にこの一心専念の文あると云う事にて、就人就行立信中とのたまう。これは「散善義」(七左)就人立信の下には「一心専念弥陀名号、定得往生〈一心に専ら弥陀の名号を念ずれば、定んて往生を得ること〉」とあり。同(八右)の就行立信の下は「一心専念弥陀名号、行住坐臥」等とあり。今そこの文を一所に引きて「一心専念」等と云うなり。KG_MRJ10-13L
 一心専念の言はこの次に御自釈あり。「是名正定之業〈これを正定の業と名づく〉」とは、この文は五種の正行に付きて正助二業を分別する御釈なり。五種の正行みな往生の業なれども、前三后一は往生の業に非ず。衆生往生の正しく定まる業因は称名念仏の一行なり。さりながら唯称える称名ならば正定業に非ず。一心の安心の延行の称名を正定業とすると云う事にて一心専念と云うなり。KG_MRJ10-13L,14R

◎又云。深心即是真実信心。
◎(又云く、深心即ちこれ真実の信心なりと。)

 「又云深心即是」等。二礼讃。KG_MRJ10-14R
 これは『礼讃』の深心釈を引きたまう。これ又甚だ爰に入用なる釈故に出したまう。善導已に「至者真也、誠者実也」と釈したまうからは、真実と云うは至誠心の事なり。爾るに『礼讃』では深心を釈して「真実信心」とのたまう。この三信体一にして至誠心も深心に収まる事を顕したまう御釈なり。故に上の至誠心の下では字訓釈ばかり引きて「至者真也、誠者実也」で、至誠心はこの深心に収まると云う事を顕す御引文なり。KG_MRJ10-14R

◎回向発願心中云。此心深信由若金剛。
◎(回向発願心の中に云く、この心深信せること金剛のごとくなるに由ると。)

 「回向発願心中」等。三引回願心釈〈三に回願心釈を引く〉。KG_MRJ10-14R
 「散善義」の回向発願心の釈、二釈あり。それを『愚禿抄』に初めの釈は経の顕義、後の釈は隠の義と分けたまう。今はその隠の義の釈を爰に引く。「此心」とは回向発願心なり。「深信由若金剛〈深信せること金剛のごとくなるに由ると〉」とは堅固不可壊の義を以て金剛に喩う。この文、祖師の御点に二通りあるとみえて『愚禿抄』には「由」を「なお」と読む。その時は猶と同じ言、相通ず。これは疏に所々にこの由の字を使いたまう。今爰では「よる」と誦みたまう。二点共に用いたまうとみえる。KG_MRJ10-14R
 「深心」等は、第二の深心の相〈すがた〉なり。第二の深心の相〈すがた〉を以て第三の回願心を釈す。これ三信体一なる義を顕す。そこで吾祖爰に引きたまうは、第三の回願心も第二の深心に収まると云う義を述べたまうなり。故に下の文に「一心の中摂在」等とあり。これにて見れば『大経』の三信も通通りなり。三を合して一とすると云う時は一信楽に収まると云うが、我祖の思し召しなり。近来欲生頼み起こりてこの祖意隠れるなり。KG_MRJ10-14R,14L

◎明知、一心是信心、専念即正業、一心之中摂在至誠回向之二心。
◎(明らかに知りぬ、一心はこれ信心なり、専念は即ち正業なりと、一心の中に至誠回向の二心を摂在せり。)

 「明知一心」等。二私釈。KG_MRJ10-14L
 「一心専念」の文甚だ入用なり。第二の深心を一心と名づけ、この一心に至誠心も回願心も皆収まる。そこで三心即一の義じゃと云う事を成立したまうなり。KG_MRJ10-14L
 「一心是信心〈一心はこれ信心なり〉」とは『一多証文』(十五右)にこの「一心専念」を釈して「一心は、金剛の信心なり」とのたまう。「専念即正業」とは『証文』に「専念は一向専修なり。(乃至)専修は本願のみなを二心なく専ら修するなり」とあり。善導では、専念と云うは口に名号を称える事なり。今一向専修の称号を専念と云うたので、これが「是名正定之業〈これを正定の業と名づく〉」の念仏じゃと云う事なり。爰にも一心入用なり。故に専念の事は釈せずとも宜しかるべし。爾るに吾祖は専念迄も釈したまうは「真実信心必具名号〈真実の信心は必ず名号を具す〉」なり。他力の信には念仏は離れぬと云う事を示す。何処にありても定格をはずしたまわぬなり。「一心の中摂在」等と第二の深心を一心とし、その一心に至誠と回願とは収まる。KG_MRJ10-14L,15R

◎向問中答竟。
◎(さきの問の中に答え竟りぬ。)

 「向問中答竟」等。三結答問〈三に問に答うことを結す〉。KG_MRJ10-15R
 爰も「又問」等の問なり。爰に聞こえずば「向の問いの中に」とあるは、答えの中にこそ答うべけれ、問いの中に答えると云うは云何と云うに、これは言の略なるのなり。向の問いの中に所答竟と云う事なり。古書にはこの例多し。KG_MRJ10-15R

◎又問。已前二経三心、与小経執持、一異云何。
◎(又問う。已前二経の三心と、小経の執持と、一異云何ぞや。)

 「又問已前」等。三会三経三一二、初問〈三に三経の三一を会するに二、初に問い〉。KG_MRJ10-15R
 これは第三の問答にして『大』『観』の三心と『小経』の一心とを会釈して、三経一致を顕す問答故、そこで会三経三一〈三経の三一を会す〉と云うなり。これ亦「化巻」には『小経』の意を釈する中に爰と同じ問あり。その答えの趣は「化巻」『小経』を釈する所故、初めに『小経』の隠顕に義を立て、畢わりに三経一致を述べてある。今『略文類』は只『小経』の隠の義ばかりなり。これこの本の格にして、方便は根っから明かしたまわぬ。真実ばかりなり。「已前二経」とはこの前に論ずる『大』『観』二経の事故に「已前二経」と云う。『小経』の一心とあるべきに「執持」とあるは何故ぞと云うに、これはこの次の御釈の通り「執持即一心」なり。故に一心の事を「執持」という。KG_MRJ10-15R

◎答。経言。執持名号。執者心堅牢而不移、持者名不散不失、故曰不乱。執持即一心、一心即信心。
◎(答う。経に言く、名号を執持すべしと。執は心堅牢にして移らず。持は不散不失に名づく。故に不乱と曰えり。執持は即ち一心なり。一心は即ち信心なり。)

 「答経言」等。二答二、初引文答釈。KG_MRJ10-15R
 『小経』の文を引きて、それを御釈成されるのが即ち答えなり。『小経』には、初めには「執持名号」とあり、畢わりには「一心不乱」とあり。この「執持」と云う、金剛の信心の事で、それを畢わりに「一心不乱」と説く。爾れば『大経』『観経』二経の三心をこの『阿弥陀経』では「一心」と説く故に三経一致じゃと云う御釈なり。これも「信巻」では「執持名号」にも隠顕の二義を以て釈してあり。今はその隠義ばかりなり。KG_MRJ10-15R,15L
 この「執」の字は聢〈しか〉りと手に捕らえるの形の文字なり。爰の言使いは『群疑論』の執持堅固の意を取りてのたまうとみえる。「持」の字は手に持ちて離さぬ形なり。そこで外に心を散らさず、思いの相続するが持の字故、「名不散不失〈不散不失に名づく〉」と云う。この造語は全く『論註』上(七左)の「偈想持〈偈総持か?〉」の釈を取りたまう。これらの御釈は、執持は金剛の信心の事に成されるなり。「故曰不乱〈故に不乱と曰えり〉」とは経の畢わりの文に引き合わせたまうなり。不乱と脇へ心を乱さぬ事なり。この執持と一心とを一つにする御釈なり。故に「執持即一心」等のたまう。「一心即信心」とは、上の文で『大』『観』二経の三心を一信心とす。今『小経』の「執持」と云うがその『大』『観』二経の一信心。三経一致なりと云う事を釈し顕したまうなり。KG_MRJ10-15L

◎然則執持名号之真説、一心不乱之誠言、必可帰之、特可仰之。
◎(然れば則ち執持名号の真説、一心不乱の誠言、必ずこれに帰すべし、特にこれを仰ぐべし。)

 「然則執持」等。二結歓帰仰〈二に歓帰仰を結す〉。次上に「執持名号」と「一心不乱」とを釈する。それを爰に挙げて結勧する。KG_MRJ10-15L
 「執持名号之真説」とのたまうは、この『小経』は一代の説教筵を捲きし肝要、出世本懐の真実教故、そこで「真説」と云う。「一心不乱之誠言」とのたまうは、別して『小経』では諸仏の証誠を説きて、釈尊も「我見是利故説此言〈我この利を見るが故にこの言を説く〉」と証誠する経故「一心不乱の誠言」とのたまう。「必可帰之〈必ずこれに帰すべし〉」等と、この『小経』の説に帰すべし、この説を仰ぐべしと勧めたまう。KG_MRJ10-15L,16R