香月院 浄土文類聚鈔講義 第10巻の3(3の内の3) 経と論との一心を結して、仏恩を嘆ずる 総じて教行信証を結する |
浄土文類聚鈔講義 第十巻之三 |
香月院深励講師述 宮地義天嗣講師閲 松内上衍校訂 ◎論家宗師、開浄土真宗、導濁世邪偽。 ◎(論家宗師、浄土真宗を開きて、濁世の邪偽を導びかんとなり。) 「論家宗師」等。二結嘆二、初結経論一心〈二に結嘆するに二、初に経論の一心を結す〉。KG_MRJ10-16R 上来三問答を以て三経一論を勧むる所、只信心なり、一心なりと云う事を料簡し畢わる。そこでこれより下は総じて結嘆す。「化巻」も爰と同じく結嘆の文あり。「論家宗師」とは、これを『[シン09]記』には、これは別してこの上に引く天親と善導の事を「論家宗師」とのたまうとす。成る程、この上の文に照らせばそう見れども、「化巻」に照らせば爾らず。「化巻」では爰を「四依弘経」等とあり。爾れば今「論家」と云うは竜樹天親二菩薩なり。「宗師」は曇鸞已下の五祖なり。爰は大切なる所にして、三経の大綱を述べたまう。これを末代に伝わる者は七高僧なり。御一人欠けてもこの三経の大綱が末代に伝わりはせぬ。そこで七高僧を残らず挙げるなり。七祖の正意、皆、弘願真宗を教えるばかり故、浄土真宗を開く者は三国の七高僧と云う事なり。KG_MRJ10-16R 「濁世の邪偽」と云う言は、上に引く善導の至誠心の釈に「邪偽奸詐」とあり。七祖の相手、末法濁世の邪偽奸詐の者ばかりと云う事なり。KG_MRJ10-16R ◎三経大綱雖有隠顕、一心為能入。故経始称如是。論主建言一心、即是彰如是之義。 ◎(三経の大綱、隠顕ありと雖も、一心を能入と為す。故に経の始めに如是と称す。論主建めに一心と言えり、即ちこれ如是の義を彰すなり。) 「三経大綱」等。この三経は文義広博なる事なれども、今は大綱を挙げる。今浄土の三経の大綱を挙げて見せたまう所故「三経大綱」という。「雖有隠顕〈隠顕ありと雖も〉」とは、『大経』に隠顕を立てる者はこの文を証にすれども、これは証にならぬ。「三経の大綱」とあり。この「三経大綱」と云う言は、先ず初めに標する言なり。これを受けて、次に「一心為能入〈一心を能入と為す〉」とあり。三経の大綱と云うて外の事はない。只他力の一心を能入と為すと云う文なり。「雖有隠顕〈隠顕ありと雖も〉」の四字は文章家に云う所の斜挿の文なり。後から間に挿む言なり。三経の内に隠顕あるともと、後から断りたまうなり。細註にして見る意なり。KG_MRJ10-16R,16L 「一心為能入〈一心を能入と為す〉」等とは、これは『論註』下畢わりに文あり。これに依る。根本は『智度論』の「如是我聞」の釈に依る時に、経の初めの如是と云う言はこの通りと云う言なり。この通りに違いないと、阿難おおせられた相〈すがた〉なり。そこで信心を顕す言になる。爾るに今信心と云わずに「一心」とのたまうは云何と云うに、これは上来御釈成される通り三信三心を一信心と成されるが一心なり。一心と一信心と爰では異名に成るなり。KG_MRJ10-16L 「化巻」には「彰信心為能入〈信心を彰して能入とす〉」とあり。『論註』建言一心とは、三経を経の初めの如是の言にて信心一心に結帰し、それを論主の一心にて結び止めたまう。これらは祖釈の大切なる所なり。三経一論の大宗この一心の外はないと、三経一論を只他力の一心にしてしまいたまうなり。KG_MRJ10-16L 「建」を「はじめ」と読むは『論註』の下(三左)にこの字を用いてあり。建は初なり。『維摩の註』にもこの詞遣いあり。古き言なり。KG_MRJ10-16L 「即是彰如是之義〈即ちこれ如是の義を彰すなり〉」とは、この文難解。これは云何と云うに、今引く『論註』の下の畢わりの文に「経始称如是、彰信為能入(乃至)論初帰礼明宗旨有由〈経の始めに如是と称することは、信を能入と為ることを彰し[乃至]論の初めに帰礼ということは、宗旨に由あることを明かし〉」とありて、経の始めと論の初めとを対句にしてあるとも、『論註』の意は論の初めに仏世尊に帰敬するは外道の教えを宗旨とはせぬ。仏法の宗旨なる事を顕して仏に帰敬すると云う事とみえる。それを今我祖では、「世尊我一心」と『論』の初めに置くは、一心を肝要とする事を『論』の初めに断る、この三経の初めに如是と云うのが一心を顕す、その経の始めの如是の義を『論』の初めの「世尊我一心」にて顕したまうと云う事なり。KG_MRJ10-16L,17R ◎今披宗師解云。言如意者有二種。一者如衆生意、随彼心念皆応度之。二者如弥陀之意、五眼円照、六通自在、観機可度者、一念之中無前無後、身心等趣、三輪開悟各益不同也。 ◎(今宗師の解を披きたるに云く、如意と言うは二種あり。一には衆生の意の如し。彼の心念に随いて皆これを度すべし。二には弥陀の意の如し。五眼円かに照らし、六通自在にして、機の度すべき者を観じて、一念の中に前なく後なく、身心等しく趣き、三輪開悟して各の益したもうこと同じからずとなり。) 「今披宗師解」等。二嘆一心仏恩二、初嘆縁仏力獲二、初引釈明仏力二、初引定善義〈二に一心仏恩を嘆ずるに二、初に仏力に縁りて獲ることを嘆ずるに二、初に釈を引きて仏力を明かにするに二、初に定善義を引く〉。KG_MRJ10-17R 『蹄[シン09]』の科は、已下はさっぱり別段にして、文の畢わりに属してあり。恐らくは爾らず。この下矢っ張り一心の仏因を明かしてあり。故に上と一と続きに一心を結嘆する文なり。「宗師解」とは善導の釈なり。「定善義」(三十二左)文は『観経』の名第十三観の「阿弥陀仏、神通如意」の経文を釈したる文なり。仏の意の如くと云う一義にてありそうなものなり。それを今二釈を設けて、初義では衆生の意の如く、后義では仏意の如くと解したまう。これらは人師の釈には余りこう云う事はない。論釈には常にこう云う事あり。論釈などにある釈に依りてのたまう事とみえる。『義讃』に『探玄記』を引きてあり。成る程『探玄記』にこの二釈あり。なれども『探玄記』は善導の拠にはならぬ。これは天親の『涅槃論』(十右)仏法僧「観三宝。猶如天意樹〈三宝を観ずるに猶し天意樹の如し〉と云うを釈する下に「如来如意、衆生如意」と云う事を釈してあり。『探玄記』などもこの『涅槃論』に依るとみえる。KG_MRJ10-17R,17L 「二者如弥陀意」等とは、阿弥陀如来の御心の如く思いの儘に衆生を済度したまうと云う事なり。「五眼円照」等とは、五眼は肉眼、天眼、法眼、恵眼、仏眼なり。『大経』下巻に説きてあり。『大乗義章』では二十本(六右)五眼義委しく明かせり。時にその『義章』(十三右)五眼を具足するは仏ばかりとあり。そこで今「円照」と云う。その五眼を以て普く衆生を照らしたまう。「六通」は六神通なり。これも『義章』二十本(二十七)已下、六通義あり。「一念之中無前無後」とは、爰が正しく仏の意の如くと云う相を述べたまう。十方世界の衆生を五眼を以て照らし見る。六神通を以て衆生を度すべし。あるいは十方世界に同時に顕わるる故に、一念の間に無前無后顕れて済度する。「身心等趣〈身心等しく趣き〉」とは、十方世界何処にも角にも一時に身も心も趣くなり。KG_MRJ10-17L 「三輪」とは仏の身口意の三業にて衆生を化益したまうなり。輪は摧破の義なり。転輪王の輪宝を以て物を摧く如く、不信心の者を打ち摧きて、信心に皆為る事なり。これは『大乗義林章』六末、三輪義林の別章ありて、委しく明かす。この文を引く思し召しは、弥陀の大悲常に衆生済度の善巧方便を為したまう相を述べたまうなり。衆生の意の如く、仏の意の如く、且くも絶え間なしに衆生済度の方便を作したまう。これを次の『般舟讃』では「種々に善巧方便して」とのたまう。KG_MRJ10-17L,18R ◎又言。敬白一切往生知識等大須慚愧、釈迦如来実是慈悲父母、種種方便発起我等無上信心、已上。 ◎(又言く。敬いて一切往生の知識等に白さく。大きに須く慚愧すべし。釈迦如来は実にこれ慈悲の父母なり。種種に方便して我等が無上の信心を発起したまうと。已上。) 「又言敬白」等。二引般舟讃〈二に般舟讃を引く〉。KG_MRJ10-18R これは『般舟讃』の最初の文なり。「一切往生知識」と云うは諸有浄土往生の同行の事なり。知識と云うは善導の常につかいたまう言にて、「散善義」の終わりに真の知識とあり。常に云う知友、知音と同じ事で友だちの事なり。今善導の有縁の道俗を浄土参りの友達と云う事にて「往生知識」とのたまう。KG_MRJ10-18R 「大須慚愧〈大きに須く慚愧すべし〉」とは、この「慚愧」と云うは末書に『涅槃経』を引きてあり。慚愧の二字を分ければ、自らに恥じ、他に恥じ、人に恥じ、展に恥じる。この『般舟讃』の文、常に云う慚愧の事にしては聞こえ難し。これは香酔講師晩年に及んで、これは中夏の俗語にてのたまう。俗語では慚愧と云うは、忝いと、礼を云う事なり。『水滸伝』を引きて弁ぜり。これは『水滸伝』には限らず、古説の者には能くある事なり。この慚愧は常体の恥じ入る事にして解して、解せられぬ事はなけれども、ちと文、通暢せず。KG_MRJ10-18R 釈迦如来種々の方便にて我等が信心を起こしたまう。偖偖恥ずかしき事じゃと云うては詰まらぬなり。これは成る程俗語なるべし。時に慚愧は辱いと云う事になるは云何と云うに、釈牘には辱の字をかたじけのうすと誦むなり。これはどう云うことなれば、此方は不徳の者、中々人の恩を蒙るべき徳のない者じゃに、過分の恩賞に預かるはあるべき事ではないと、我身を恥じ入って喜ぶなり。我々敷がこの御恩を蒙るは身分に過ぎた恥じ入りました事で御座ると云う事になるなり。俗語に遣う慚愧の言もそれと同じ。今爰も我々のような末世の凡夫が中々弥陀釈迦二尊の種々の御方便に遇いそうな者でない。こう云う浅ましき者の為に種々様々に方便して我等が信心に成るようにして下されたは、ありう事ではない。実に辱い事じゃと思えと云う事で「大須慚愧〈大きに須く慚愧すべし〉」とのたまう。KG_MRJ10-18R,18L 爰は文に「釈迦如来」とばかりあれば、我祖は爰に弥陀を加えてのたまう故に、『末灯抄』(二十八左)に、『般舟讃』に曰くと引き乍ら「釈迦如来弥陀仏、我等が慈悲の父母」とのたまう。今爰の文に最初に「定善義」の文を引くがその意なり。初めに弥陀の衆生済度の善巧方便の文を挙げて置きて、それをこの『般舟讃』と一所にする意なり。そこで慈悲の父母と分けて釈迦と弥陀とに喩えたまう。KG_MRJ10-18L 「種々方便」とは、上の「定善義」の御釈の如く、弥陀は神通如意の方便をなし、釈迦は又八千度の種々の方便をなしたまうとなり。「無上信心」とは『唯信抄文意』(七右)に「無上智恵の信心」とあり。弥陀の無上智恵が顕れた衆生の信心故「無上信心」とのたまう。KG_MRJ10-18L,19R ◎明知、縁二尊大悲、獲一心仏因。当知、斯人希有人、最勝人也。 ◎(明らかに知りぬ、二尊の大悲に縁りて、一心の仏因を獲たり。当に知るべし、この人は希有人なり、最勝人なり。) 「明知縁」等。二正嘆仏因獲〈二に正しく仏因を獲ることを嘆ず〉。KG_MRJ10-19R これは一心の仏因を得る事を嘆じたまう一段なり。この上の段に「定善義」と『般舟讃』とを引きて、弥陀釈迦二尊の善巧方便に依りて「我等が無上の信心を発起せしめたまう」事を明かす。今それを受けて「明知」と云う。上の所引の明証を以て「明らかに知りぬ、二尊の大悲に依りて、一心の仏因を得たり」とのたまう。「二尊の大悲」と云うは「散善義」の二河白道の御喩えに「信順二尊之意〈二尊の意に信順して〉」とあり。その言を取りたまう。KG_MRJ10-19R 全体爰は結嘆の文にして上の十四の右より左迄、本願の三信を別釈し畢わり、次に三信即一心の義を明かす所に「散善義」の二河の喩えの文を引きて、「衆生貪瞋煩悩中」に「清浄の願往生心を生ずる」は、全く釈迦弥陀二尊の遣喚に依ると云う事を明かしてあり。今それを受けて結嘆したまうなり。上の段に「定善義」と『般舟讃』を引きて二尊の大悲方便の相を述ぶ。それを今結して「明知」等とのたまう。KG_MRJ10-19R 「大悲」とあるは、爰では次上に引く『般舟讃』に、釈迦弥陀は慈悲の父母等とある。その二尊の慈悲方便の事を「大悲」という。「一心仏因」とは、これは上に長々と明かす本願の三心を論主合して一心とする、その合した一心の事を今「一心仏因」という。仏因と云うは「信巻」(会本四 三十七左)の『涅槃経』三十五を引きて「説阿耨多羅三藐三菩提信心為因。是菩提因雖復無量。説信心則已摂尽〈阿耨多羅三藐三菩提を説くに、信心を因とす。これ菩提の因、また無量なりといえども、信心を説けば、すなわちすでに摂尽しぬ〉」と。元祖『選択集』本(四十二右)に「涅槃之城」等とあり。爾れば無上菩提の仏果の因は只これ三心を合した一心じゃと云う事で「一心の仏因」とのたまう。この一心は二尊の大悲より得る所なり。釈迦弥陀の慈悲の父母、仏に産み付けられた一心じゃから、この一心は仏の種じゃと云う事にて「縁二尊大悲〈二尊の大悲に縁りて〉」等とのたまう。KG_MRJ10-19R,19L 「当知斯人〈当に知るべしこの人は〉」等とは、これは『観経』の「是人中分陀利華」を「散善義」の御釈に五種の嘉誉を挙げてある、その中の「希有人、最勝人」の誉言を出したまう。今「獲一心仏因〈一心の仏因を獲たり〉」と云う処にこの嘉誉を出したまうは如何なる事ぞ伺うに『観経』には念仏の行者を「人中の芥陀利華」と讃めてあり。又『浄土論』にはその行者の得る所の信心を「淤泥華」と名づけてある。『観経』の「芥陀利花」は白蓮花の事にして『浄土論』の「淤泥花」と云うも淤泥より出て淤泥に染まざる蓮花の事にして、この淤泥花を『論註』下(二十五右)に「仏正覚花」と釈してあり。信心の事を「仏正覚花」と云う。軈〈やが〉て浄土に往生して仏正覚の菓を取るべき花と云う事なり。爾れば仏因の事なり。KG_MRJ10-19L 今爰に「縁二尊大悲、獲一心仏因〈二尊の大悲に縁りて、一心の仏因を獲たり〉」とのたまう。この仏因は『浄土論』に「淤泥花」と名づけ、この「淤泥花」は即ち『観経』の「芥陀利花」なりと云う事を顕して、爰に嘉誉を挙げたまう。則ち上に引きてある二河の喩えの中の、衆生貪瞋煩悩中願往生心の意なり。我等貪瞋煩悩の穢れたる胸中に一心の仏因を得れば、実に淤泥花なり。芥陀利花なり。爾ればこれ希人じゃ勝れ人じゃと云う事なり。KG_MRJ10-20R ◎然流転愚夫、輪回群生、信心無起、真心無起。 ◎(然に流転の愚夫、輪回の群生、信心起こすことなし、真心起こることなし。) 「然流転凡夫〈愚夫か?〉」等。二挙難信劫嘆〈二に難信を挙げ劫って嘆ず〉。KG_MRJ10-20R これより下は法の難信なる事を明かし、信心の難得なる事を述ぶ。これは上の段に二尊の大悲に依りて一心の仏因を得る事を嘆ず。これより下はその一心の得難き事を述べ、この得難き一心を得ると云う事は、実に希有最勝なる事じゃと、得難き事を挙げて、却って嘆ずる一段なり。KG_MRJ10-20R 「化巻」に爰と同じ結嘆の文あり。その「化巻」には「大信心海甚以[ハ01]入。従仏力発起故〈大信心海は甚だ以て入りがたし、仏力より発起するが故に〉」とあり。この『略本』は上の段には、仏力に依りて発起する事述べ、これより下は大信心海の甚だ入りがたき事を述ぶ。流転輪回は上に弁ずる如く、仏経では愚夫は凡夫と云うと同じ事なり。『玄音』四(十一右)「正言婆羅必栗託[ゴツ02]那(乃至)此言愚異生(乃至)亦名嬰愚凡夫。凡夫者義訳也〈正しくは婆羅必栗託[ゴツ02]那と言う[乃至]此には愚異生と言う。[乃至]また嬰愚凡夫と名づく。凡夫とは義訳なり〉」とあり。信心即真心じゃと云う事は上の転釈に顕した。最初に「流転の凡夫〈愚夫か?〉、輪回の群生」と言を重ねたる故に、それに応じて「亦」の言を重ねたまうなり。KG_MRJ10-20R,20L ◎是以経言。若聞斯経信楽受持、難中之難、無過此難。亦説一切世間極難信法。 ◎(これを以て経に言く。もしこの経を聞きて信楽受持せんこと、難の中の難なり。これに過ぎたる難なしと。亦一切世間極難信法と説たまえり。) 「是以経言」と。『大経』流通の文を引きたまうなり。KG_MRJ10-20L 時に経文はこの前に「如来興世、難値難見〈如来の興世、値い難く見たてまつること難し〉」とあり。総じて一代教の聞き難く値い難き事を説く。その次の「遇善知識」已下、別してこの経の聞き難き事を説くと云う説もあれども、我祖の思し召しは爾らず。吾祖は爰に引く「若聞斯経」等の文、正しくこの経の難聞難信の事を説く経文と見たまう。そこで「大経和讃」にはこの経文の心を述べて「一代諸教の信よりも」等とのたまう。KG_MRJ10-20L 「信楽受持」とは、心に信受して忘れぬ事なり。章安の『涅槃疏』十(十二右)「信受不忘曰持〈信受して忘れざるを持と曰う〉」とあり。「難中之難」等とは、これより上の経文に一代教の難聞難信の事を説く。今それに対してこの経の難聞難信の事は、それ「難中之難」等と説くなり。「過此」の間に、之の字、余るように見える。『[シン09]記』にこれを考えて、これは写誤なり。乎の字なるべしといえり。これは先輩理綱院の講説には、真本の『略文類』には之の字なしと云えり。爾れば真本は経文の通り「無過此難」と云うなり。KG_MRJ10-20L 「亦説一切」等とは『称讃浄土経』の文なり。羅什訳の『小経』には「一切世間難信之法」とあり。それを『称讃浄土経』には「極難信」とあり。これは「信巻」に引く元照『小経の疏』に釈する如く可有事〈有るべき事〉の有るのなれば信ずれども、一代教に例なき愚縛の凡夫、屠沽の下類、一刹那に刎〈は〉ね超えて成仏する法〈みのり〉、実にあるまじき事の有るのじゃに依りて「至極難信」の法〈みのり〉なり。そこで「一切世間極難信法」と説く。これこの経の一代教に勝れたる所なり。今はその難信の事を信ずるようになりて、一心仏因を得たてまつると云うは、実に有り難き事なり。そこで難信を挙げて、今得難き事を却って嘆じたまうなり。KG_MRJ10-20L,21R ◎誠知、大聖世尊、出興於世大事因縁、顕悲願真利、為如来直説。示凡夫即生為大悲宗致。 ◎(誠に知りぬ、大聖世尊、世に出興したまう大事の因縁、悲願の真利を顕して、如来の直説と為したまえり。凡夫即生を示すを大悲の宗致と為す。) 「誠知大聖」等。大門第三総結二、初結真実教二、初示釈迦本懐〈大門第三に総結するに二、初に真実教を結するに二、初に釈迦の本懐を示す〉。KG_MRJ10-21R これより下は『略文類』の総結なり。『広』『略』の文類は教行信証文類故、所明の法門、何を述べたまうも四法の外はない。依りて今一部の総結の文に四法を挙げて結び止めたまう。先ず初め真実教なり。真実教と云うは即ち出世本懐の『大経』故に今この下にて『大経』の出世本懐を述べる。KG_MRJ10-21R 「大聖世尊」と云う言は諸仏に通ずる言なれども、今爰は次の段に「諸仏」とあり。故に今この「大聖世尊」は釈迦如来なり。即ち『大経』の発起序に、阿難、釈迦如来に対して「唯然世尊」と呼び掛け「今日世尊」と申し上げられたり。その言を取りて釈尊を「大聖世尊」とのたまう。「出興於世」等とは、これは釈迦牟尼如来のこの娑婆に出世したまう大事因縁と云う事なり。これは上にて弁ずる如く『法華』の「方便品」に「一大事因縁故出於世〈一大事因縁の故に世に出ず〉」と説きてあるに依りて、天台宗では『法華経』ばかりか仏出世の本懐とほこる。今我祖これに向対して浄土真宗の教『大経』を如来出世の「大事因縁」とのたまう。「大事因縁」は天台宗にて色々に解すれども、この言の当たり前は、因縁は所以の義にして、如来出世の謂の事なり。何の謂われありて出世したまうぞ。須弥山王無事の小因縁にて動く事ではない。常の山でさえも風は吹くとも動ぜぬ。況んや須弥をや。爾れば大聖世尊の出世は謂われのないわけはない。一大事因縁がありて出興したまうと云う事にて「大事因縁」と云う。即ち『称讃経』(七左)「利益安楽大事因縁」の言に依りたまいたとみえる。KG_MRJ10-21R,21L 時に爾らば釈尊の出世一大事因縁は何ぞと云うに、そこで次に顕して「顕悲願真利〈悲願の真利を顕して〉」と云う。「悲願」とは『大経』所説の弥陀大悲の誓いなり。それを「真利」と名づくるは、『大経』の「恵以真実之利」の言に依りたまう。時に我祖『大経』を出世本懐とするは、発起序の経文并びにその異訳に依ると云う事は、上の『大経』の大意の下にて弁ぜし如し。又「真実之利」と云うは一代教を尽く方便として、『大経』所説の本願一乗を真実と説きたまいたること、皆上に弁ずる如し。KG_MRJ10-21L 今爰では「大事因縁」の言を添えてあり。この言『法華経』の文を仮て来てのたまうに非ず。『称讃経』の文なり。この『称讃経』の利益大事因縁の文は、羅什所訳の「我見是利故説此言」の異訳なり。本浄土の三経は一部教にして『大経』の序文には「真実之利」と説き、それを流通には「無上大利」と説く。その「無上大利」の事を『小経』に「我見是利」と説く。常並の利益なれば釈尊は証誠せぬ。一代教に刎〈は〉ね超えた「無上大利」なる故なり。KG_MRJ10-21L,22R この「是利」と云うのを『称讃経』では「利益安楽大事因縁〈利益安楽の大事因縁を観て〉」と説く。爾れば『大経』には釈尊出世本懐は只本願真実之利を説かん為じゃと説くなり。その「真実之利」の事を『称讃経』に「利益安楽大事因縁」と説きたまいたからは、『称讃経』の言と『大経』発起序の文を一所にして見れば、如来出世の大事因縁外にはない。余は皆聖道権化の方便出世の大事因縁は只この悲願一乗の真実之利を説くばかりじゃと云う事なり。KG_MRJ10-22R 「如来直説」とは、『[シン09]記』などの意は『安楽集』「玄義分」に出てある。『智論』の五説の中にて聖弟子等の説ではない。仏の直説故「如来直説」と云うと解す。常の言にて云わば、直説と云えば伝えてなしに親〈まのあた〉り直ちに説くを直説と云う。その義にて『[シン09]記』などには解するなり。この義恐らくは爾らず。これは先達て二河の喩えの下にて引く『禿抄』に文あり。この『禿抄』の御釈より見れば、如来の直説と云うは正直捨方便但説無上道〈正直に方便を捨て、ただ無上道を説く〉の意で方便仮門を捨てて真っ直ぐに真実を説き抜いたと云う事にて直説と云う。一代教は月待つ迄の手すさみ、方便説なり。この『大経』に来たりて、その方便をさっぱり捨てて真っ直ぐに出世の本懐を顕す。そこで「為如来直説〈如来の直説と為したまえり〉」とのたまう。KG_MRJ10-22R,22L 「凡夫即生」は『法事讃』下(十九左)の「致使凡夫念即生〈凡夫をして念ずれば即ち生ぜしむることを致す〉」の文に依り、『一多証文』(二十二左)この『法事讃』の文を引いて釈あり。「即はすなわちと云う」等とあり。爾れば流転生死の凡夫、信の一念に即得往生の大利を得て、命畢われば必ず大涅槃の仏果を証る。これを凡夫即生と云う。KG_MRJ10-22L 「宗致」と云うは上の宗体の下にて弁ずる如く、我祖は宗の事を宗致とのたまう。今も宗致とするとは旨とすると云う事なり。これは『一多証文』に「諸仏出世の直説」等とあり。「旨とすべし」とあるを爰では宗致とするとのたまう。KG_MRJ10-22L 「大悲」と云うは『大経』に所謂「無蓋大悲」なり。凡夫即生を出世の本懐とする事、心易い事のように思うまいものでもなけれども、これは大切なる事なり。出世本懐を凡夫即生にてのたまう事、浄土門相承の説なり。『法事讃』の「致使凡夫念即生〈凡夫をして念ずれば即ち生ぜしむることを致す〉」の文が、聖道一代の法に対して、浄土念仏の法の勝れたる事を明かす所に「凡夫念即生」とのたまう。元祖も御一代この『法事讃』の文を以て出世本懐をのたまう。『和語灯』に見えたり。依りて我祖『一多証文』にも、この『略文類』にも凡夫即生にて出世本懐をのたまうなり。KG_MRJ10-22L 「高僧讃」にも「如来出世の本意なる」等とあるも、同じ先輩の弁ずる如く、聖道門の一乗は智恵門の顕開、浄土門の一乗は慈悲門の顕開なり。聖道一乗は諸仏智恵甚深無量の智恵門を顕開して、衆生をして仏智見に開示悟入せしむる、そこを愚かな者は仏智見に入る事能わず。智恵門の開顕にては普く諸機を摂する事ならぬなり。今浄土門の一乗は慈悲門にて開顕する故、諸有衆生機を摂する故に、誠の出世の本懐はこの浄土の法〈みのり〉ばかりとのたまうが元祖の思し召しなり。KG_MRJ10-22L,23R 古来より能く論ずる事にて、『法華』に出世の本懐と云う経文あるに依りて、『法華』と『大経』と両本懐にてはつまらぬとて、色々云う事なれども、今我祖、凡夫即生を以て出世本懐としたまうにて、その論は尽きてあるなり。なぜなれば天台にて出世本懐を押し立てる時は花厳を相手にして、『花厳経』では二乗も座に在るとも如聾如唖なり。これ華厳は衆機を摂する事叶わぬ故に出世本懐に非ず。華厳猶爾り。況んや余経をやと云う。今浄土真宗より詠めて見れば、『法華経』出世本懐の文ありても、それは二乗開会の出世の本懐なり。天台より華厳をなじりて、華厳は機を摂する事尽くさず。故に出世本懐に非ずと云う。今元祖の凡夫即生を以て出世本懐を述べたまうは、天台の持ちたる棒にて天台を頓に挫くなり。『法華経』にて二乗を摂すれども、愚鈍下智の凡夫を摂したる相〈すがた〉はなし。爾れば機を摂する事尽くさざる事は汝にあり。今この浄土真宗の『大経』では凡夫即生を示すを大悲の宗致とす。それ故、人天等の五乗の機を残らず摂して一仏果を証せしむ。実に仏出世の本懐を通暢するものはこの法門にありと云う思し召しなり。KG_MRJ10-23R,23L ◎因茲窺諸仏教意、三世諸如来出世正本意、唯説阿弥陀不可思議願。 ◎(茲に因て諸仏の教意を窺うに、三世の諸の如来出世の正しき本意、唯だ阿弥陀の不可思議の願を説かんとなり。) 「因茲窺諸仏教意」等。二明諸仏正意〈二に諸仏の正意を明かす〉。KG_MRJ10-23L この浄土真宗の教を明かす中に、上の段に『大経』能説の釈迦に付きて出世本懐を明かし、これより下はその釈尊の本懐に因順して三世諸仏の経意を伺うにとのたまうなり。教意とは真実教の意なり。三世諸仏の真実教を今明かしたまうなり。「三世諸如来」等というは、これは『法花経』の「五仏開顕」に当たりてのたまう事なり。「五仏開顕」と云うは十方の諸仏、過去の諸仏、現在の諸仏、未来の諸仏、今日の釈迦仏、これを五仏という。釈迦一仏のみならず、一切諸仏皆かくの如き故に出世の本懐と云う事なり。そこで今浄土の『大経』にて云う時は、三世諸仏の正しき本意は唯この弥陀の本願ばかりなり。「正」の字を以て『花厳』『法花』等を簡びたまう。『花厳』『法華』等に出世本意と説く文あろうとも、それは正しい出世の本意に非ず。過去の諸仏已に説き、現在の諸仏今説き、未来の諸仏当に説く出世の本意はこの弥陀の本願にありと云う事なり。KG_MRJ10-23L 時にこれは何に依りてのたまうぞと云うに、これは『大経』の発起序の経文に「如来以無蓋大悲」等とのたまう、あの如来の言を『一多証文』(十八右)に釈して「如来と申すは、諸仏を申すなり」とあり。これ只如来と云うは三世諸仏に通ずる事を顕す。それ故前の文に「去来現仏」等と説く。爾らばこの『大経』は三世の如来の出世の本意なる事、経文分明なり。故に「三世諸如来」等とのたまう。KG_MRJ10-23L,24R 「不可思議願」と云うは、『大経』にて云わば、三十行の偈には「如来智慧海」等とあり。『礼讃』には「弥陀智願海」とのたまう。爾らば弥陀の本願海は等覚の大士と雖も量り知れぬ「不可思議願」なり。『末灯抄』(二十二右)に「思議の法は、聖道八万四千の諸善なり。(乃至)浄土の教は不可思議の教法なり」。愚縛の凡夫、刹那に超越するは不可思議なり。この不可思議は即ち聖道一代に飛び超えたる所なり。KG_MRJ10-24R ◎常没凡夫人、縁願力回向聞真実功徳、獲無上信心、則得大慶喜、獲不退転地。不令断煩悩、速証大涅槃矣。 ◎(常没の凡夫人、願力の回向に縁りて、真実の功徳を聞き、無上の信心を獲れば、則ち大慶喜を得、不退転地を獲。煩悩を断ぜしめずして、速やかに大涅槃を証したまえり。) 「常没凡夫人」等。二結行信証〈二に行信証を結す〉。KG_MRJ10-24R 「常没凡夫人」とは、常没常流転の凡夫と云う事にて、所被の機を挙げる言なり。「願力回向」と云うは上の行を明かす初めに「本願力回向有二種相〈本願力回向に二種の相あり〉」とあり。そこを結びたまうなり。行信証の三法を尽く本願力の回向に依ると云う事を示すなり。「真実功徳」は名号なり。この行信証の三法の中では浄土真実の行、南無阿弥陀仏なり。「獲無上信心」等とは、これは上の信を明かす章に述べてある事で、今真実信を結びたまう言は上に出て弁ずる如し。「得不退転〈獲不退転か?〉」とは、これは上の証の章に述べてある、現生に於いて正定聚不退転の位を得る故に、命畢われば「不断煩悩得涅槃」の妙果を得と云う事を明かす。これは真実証を結びたまう。この総結の文、次での如く教行信証の四法を総結したまうなり。これ「不断煩悩得涅槃」を当益とするが我祖の意なる事、『略文類』その義幽にして私共の計り伺う所に非ず。KG_MRJ10-24R,24L 全く先輩の指南を守り、夏中恙なく旧に依りて今日講了する。先は有り難し。『浄土文類聚鈔』先。KG_MRJ10-24L 浄土文類聚鈔講義 巻十 大尾。KG_MRJ10-24L 明治二十一年十一月十日印刷 同年同月十日出板 発行者 西村九郎右衛門 |