高僧和讃
                                    龍 樹 菩 薩

    本師龍樹菩薩は
         智度十住毘婆娑等
         つくりておおく西をほめ
         すすめて念仏せしめたり


 (意訳)
 本師龍樹菩薩は『大智度論』『十住毘婆娑論』など、多くの論を書かれたが、その中
で何度も阿弥陀仏の西方浄土を讃嘆して、人びとを念仏の道に導かれた。


  南天竺に比丘あらん
         龍樹菩薩となづくべし
         有無の邪見を破すべしと
         世尊はかねてときたまう

 (意訳)
 「南インドに一人の僧が誕生するであろう。その人は龍樹菩薩と名づけられるであろ
う。その菩薩は、物質主義の執着と、虚無主義との誤りを論破して、仏教の正しい道に
みちびくであろう」と、世尊(釈迦)は、すでに『楞伽経』で説いておられた。


   本師龍樹菩薩は
        大乗無上の法をとき
        歓喜地を証してぞ
        ひとえに念仏すすめける

 (意訳)
 本師龍樹菩薩は、この上ない大乗仏教の法を説かれた。そして、菩薩の歓喜地の位に
昇り、我執を離れ、利他の菩薩行をおこなわれるなかで、喜びに満ちた境地を開かれ、
人びとにひたすら念仏をすすめてくださった。


    龍樹大士世にいでて
         難行易行のみちおしえ
         流転輪回のわれらをば
         弘誓のふねにのせたまう

 (意訳)
 龍樹大士はこの世界に現れれられて、難行と易行の道を教えてくださり、流転輪回を
くりかえしている私たちを、阿弥陀仏の弘誓の船に乗せてくださった。


    本師龍樹菩薩の
         おしえをつたえきかんひと
         本願こころにかけしめて
         つねに弥陀を称すべし

 (意訳)
 本師龍樹菩薩の教えを伝え聞いた人は、阿弥陀仏の本願を憶念し、いつも南無阿弥陀
仏と称えなければならない。


    不退のくらいすみやかに
         えんとおもわんひとはみな
         恭敬の心に執持して
         弥陀の名号称すべし

 (意訳)
 不退転の位になって、揺らぐことのない信心の喜びをすみやかに得たいと願っている
人は、つつしみ敬いの心をかたくたもって、南無阿弥陀仏ととなえなければならない。


    生死の苦海ほとりなし
         ひさしくしずめるわれらをば
         弥陀弘誓のふねのみぞ
         のせてかならずわたしける

 (意訳)
 人の苦しみと迷いは、大海のように深く広くて限りがない。私たちはその海にもがき
沈んでいるが、阿弥陀仏の本願の船だけが、私たちをすくい乗せて悲願へと渡してくだ
さる。

  (語句)
 生死=苦悩・迷い。日常生活のすがた。
    生まれ死んでいくこと。生死はもっとも大きな苦悩の根源であるから、人のあ
    らゆる苦しみ迷いを含めて生死という。
    生まれ変わり、死に変わって、変転きわまりなく迷いつづける世界


    智度論にのたまわく
        如来は無上法皇なり
        菩薩は法臣としたまいて
        尊重すべきは世尊なり

 (意訳)
 『智度論』にいわれている「如来は無上の法王のようである。菩薩は如来につかえる
仏法の大臣のようであって、尊び大切にするべき方は釈迦牟尼世尊である。


    一切菩薩ののたまわく
         われら因地にありしとき
         無量劫をへめぐりて
         万善諸行を修せしかど

 10 恩愛はなはだたちがたく
         生死はなはだつきがたし
         念仏三昧行じてぞ
         罪障を滅し度脱せし

 (意訳)
 あらゆる菩薩がいわれた。
 「わたしは仏道に入って、計ることができない長い間、さまざまに自力の修行をおこ
なってきた。
 しかしながら、むさぼりと執着の心を断ち切ることができず、悩み迷うことがつきる
ことがなかった。
 しかし、善き師に出会って、教えられ、一心に念仏の世界にはいることができ、あら
ゆる罪が消え去り、さとりへと解放されたのであった」と。

  (語句)
 恩愛=愛・渇愛ともいう。
    原義は「渇き」という意味。人間の最も根源的な欲望をいう。
    喉の渇いた人が水を欲しがるような激しい欲望。満足するまでやまない激しい
    欲望・妄執をいう。
    広くは煩悩を意味し、狭くは貪欲と同じ意味に用いられる。