高僧和讃
龍 樹 菩 薩
1 本師龍樹菩薩は
智度十住毘婆娑等
つくりておおく西をほめ
すすめて念仏せしめたり
(意訳)
本師龍樹菩薩は『大智度論』『十住毘婆娑論』など、多くの論を書かれたが、その中
で何度も阿弥陀仏の西方浄土を讃嘆して、人びとを念仏の道に導かれた。
2 南天竺に比丘あらん
龍樹菩薩となづくべし
有無の邪見を破すべしと
世尊はかねてときたまう
(意訳)
「南インドに一人の僧が誕生するであろう。その人は龍樹菩薩と名づけられるであろ
う。その菩薩は、物質主義の執着と、虚無主義との誤りを論破して、仏教の正しい道に
みちびくであろう」と、世尊(釈迦)は、すでに『楞伽経』で説いておられた。
3 本師龍樹菩薩は
大乗無上の法をとき
歓喜地を証してぞ
ひとえに念仏すすめける
(意訳)
本師龍樹菩薩は、この上ない大乗仏教の法を説かれた。そして、菩薩の歓喜地の位に
昇り、我執を離れ、利他の菩薩行をおこなわれるなかで、喜びに満ちた境地を開かれ、
人びとにひたすら念仏をすすめてくださった。
4 龍樹大士世にいでて
難行易行のみちおしえ
流転輪回のわれらをば
弘誓のふねにのせたまう
(意訳)
龍樹大士はこの世界に現れれられて、難行と易行の道を教えてくださり、流転輪回を
くりかえしている私たちを、阿弥陀仏の弘誓の船に乗せてくださった。
5 本師龍樹菩薩の
おしえをつたえきかんひと
本願こころにかけしめて
つねに弥陀を称すべし
(意訳)
本師龍樹菩薩の教えを伝え聞いた人は、阿弥陀仏の本願を憶念し、いつも南無阿弥陀
仏と称えなければならない。
6 不退のくらいすみやかに
えんとおもわんひとはみな
恭敬の心に執持して
弥陀の名号称すべし
(意訳)
不退転の位になって、揺らぐことのない信心の喜びをすみやかに得たいと願っている
人は、つつしみ敬いの心をかたくたもって、南無阿弥陀仏ととなえなければならない。
7 生死の苦海ほとりなし
ひさしくしずめるわれらをば
弥陀弘誓のふねのみぞ
のせてかならずわたしける
(意訳)
人の苦しみと迷いは、大海のように深く広くて限りがない。私たちはその海にもがき
沈んでいるが、阿弥陀仏の本願の船だけが、私たちをすくい乗せて悲願へと渡してくだ
さる。
(語句)
生死=苦悩・迷い。日常生活のすがた。
生まれ死んでいくこと。生死はもっとも大きな苦悩の根源であるから、人のあ
らゆる苦しみ迷いを含めて生死という。
生まれ変わり、死に変わって、変転きわまりなく迷いつづける世界
8 智度論にのたまわく
如来は無上法皇なり
菩薩は法臣としたまいて
尊重すべきは世尊なり
(意訳)
『智度論』にいわれている「如来は無上の法王のようである。菩薩は如来につかえる
仏法の大臣のようであって、尊び大切にするべき方は釈迦牟尼世尊である。
9 一切菩薩ののたまわく
われら因地にありしとき
無量劫をへめぐりて
万善諸行を修せしかど
10 恩愛はなはだたちがたく
生死はなはだつきがたし
念仏三昧行じてぞ
罪障を滅し度脱せし
(意訳)
あらゆる菩薩がいわれた。
「わたしは仏道に入って、計ることができない長い間、さまざまに自力の修行をおこ
なってきた。
しかしながら、むさぼりと執着の心を断ち切ることができず、悩み迷うことがつきる
ことがなかった。
しかし、善き師に出会って、教えられ、一心に念仏の世界にはいることができ、あら
ゆる罪が消え去り、さとりへと解放されたのであった」と。
(語句)
恩愛=愛・渇愛ともいう。
原義は「渇き」という意味。人間の最も根源的な欲望をいう。
喉の渇いた人が水を欲しがるような激しい欲望。満足するまでやまない激しい
欲望・妄執をいう。
広くは煩悩を意味し、狭くは貪欲と同じ意味に用いられる。