高僧和讃
                                      天 親 菩 薩 一

    釋迦の教法おおけれど
         天親菩薩はねんごろに
         煩悩成就のわれらには
         弥陀の弘誓をすすめしむ


 (意訳)
 釈尊が説かれた教えは数多く伝えられているが、その中から、天親菩薩はねんごろに
阿弥陀仏の本願を選びとって、煩悩に苦しみ迷うわたしたち凡夫にすすめてくださった。

 (語句)
 釋迦の教法=釈尊が説かれた教え。
 弘誓=阿弥陀仏の本願。

 「釋迦の教法おおけれど」
 釈尊は、道を求めてくる人々と出会うと、それぞれの人々にふさわしい教えを説かれ
ました。人々に説かれた教えがまとめられ、現在まで伝えられているのが「お経」です。
その数が多いことから「八万四千の法門」といわれます。
 天親菩薩は、釈尊が説かれたお経の中から『無量寿経』を選んで『浄土論』を書きあ
らわされました。『浄土論』は『願生偈』といわれるように、阿弥陀仏のもとに生まれ
たいという願いから著されました。その願いは天親菩薩ひとりの願いではなく「あらゆ
る人々とともに阿弥陀仏の浄土に生まれたい」という大乗の願いです。

 「煩悩成就のわれら」
 親鸞聖人は「煩は身をわずらわす、悩はこころをなやます」(唯信鈔文意)といわれ
ました。一般に煩悩は貪欲(むさぼり)・瞋恚(いかり)・愚痴の三毒といわれますが、
「疑惑は一切煩悩の根本なり」ともいわれます。自分自身の立場や道が定まらないとこ
ろから、疑いが起こり、むさぼり・いかり・愚痴が出てくるのではないでしょうか。

 しかしまた「罪障、功徳の体となる 氷と水のごとくにて 氷多きに水多し さわり
多きに徳多し」という『和讃』があります。私たちの心にむさぼりや怒りや愚痴が満ち
ているから、わたしたちの前に道が開かれないのではありません。煩悩があるからこそ
浄土を求め、進んで行く道が開かれてくると教えてくださるのです。煩悩をなくそうと
したり、悪いことをしないでおこうと努力するのが仏道ではありません。煩悩から逃げ
るのではなく、「煩悩成就・煩悩いっぱい」の私と思い定めるところから仏道ははじま
ります。


     安養浄土の荘厳は
              唯仏与仏の知見なり
           究竟せること虚空にして
           広大にして辺際なし

 (意訳)
 阿弥陀仏の浄土の真実の姿は、ただ仏のみが知ることができ、見ることができる。そ
こは極められた世界であり、大空のようにどこまでも、はてしなく広がっている。

 (語句)
 安養浄土=阿弥陀仏のきよらかな世界。安養界ともいう。
      私たちの世界は穢土・娑婆といわれる。
 荘厳=みごとに配置・配列されていること。おごそ
    かに飾られた模様・すがた
    浄土のありさまは阿弥陀仏の本願によって形づくられた世界であり、阿弥陀仏
    の徳が浄土のあらゆるものに表れている。
 唯仏与仏の知見=ただ仏と仏とだけが知ることができ、見ることができる。
     浄土は仏と仏とがあい念じあうところに開かれ、浄らかなゆがみのない目を
     もっておられる仏たちだけが浄土の真実のすがたを知り見ることができる。
 究竟=極み。究極。
 虚空=大空。宇宙。はてしなく広がる世界。


 曽我量深先生は次のようにいわれました。
 浄土とは、俺のもの、お前のものというのでなしに、皆がそれぞれの分を守って、手
をとりあって和合してゆける世界、そしてたがいに心と心と根本的に融けあうことので
きる世界、そんな世界が浄土という世界です。
 それに対して、わたしたちの穢土は娑婆ともいいますが、我他彼此の世界、私と他の
人たちが対立し、あれとこれが対抗しあう世界です。おたがいに感応道交のない世界が
穢土です。
 感応のできる世界が浄土、阿弥陀仏の功徳荘厳が成就している世界を浄土というわけ
です。人と人とがたがいに心が一つであり、そういうことが感ぜられる世界です。こん
な世界が浄土といわれるのです。
 功徳荘厳・・・、たとえば一つの種をまく、イモならイモの種をまく、そうすると種
から根が出、茎が出て、それが上の方にだんだん伸びて、そうして枝が出、葉が出、花
が咲き、実が結びます。
 初めはただ一つの小さい一つであったものが、太陽の光によって、大地から滋養分を
とります。そうして小さいこんなものがだんだん自分を形どっていきます。時々刻々に
自己をかたちどっていきます。
 幹のないものから幹が出てくるのです。そうして葉のないものが葉になり、花になり、
それから実になってきます。荘厳ということは形どるということです。眼に見えないも
のが見えるようになることです。


  本願力にあいぬれば
         むなしくすぐるひとぞなき
         功徳の宝海みちみちて
         煩悩の濁水へだてなし


 (意訳)
 本願力に出会うことができた人は、むなしく日々を過ごすことはない。阿弥陀仏の功
徳が宝の海のように満ちてきて、濁った水のような煩悩が障害になることはなく、煩悩
に苦しむこともない。


 「本願力にあいぬれば」。
 本願力とは、どのような力でしょうか。本願力との出会いとは、どのような出会いで
しょうか。
 天親菩薩や親鸞聖人にとって「本願力にあいぬれば むなしくすぐる人ぞなき」とい
うことばは、ご自身の生活の上の実感だったにちがいありません。
 親鸞聖人のお弟子に明法坊という方がおられました。明法房はもと弁念という山伏で
、常陸の国(今の茨城県)では加持祈祷の第一人者としてたいへん人気のある人でした
。ところが親鸞聖人が関東に来られてから山伏弁念の信者が減ってしまいました。
 親鸞聖人は、病気を治してほしい、裕福になりたいと祈るのが仏教ではない、たとえ
病人でも貧乏人でも、念仏する心が生まれ、心がゆたかになれば充実した生活になると
おしえられました。
 親鸞聖人に信者をとられたと恨みに思った山伏弁念は、親鸞聖人を亡き者にしようと
幾度も幾度も待ち伏せましたが、親鸞聖人はそのたびに人々に助けられて危機を脱する
ことができました。
 とうとう山伏弁念は親鸞聖人が住んでおられる庵におしかけてきました。ところが親
鸞聖人に直接会い、したしく声を聞いた山伏弁念は親鸞聖人に弟子入りしていまい、明
法房という名をいただいたのです。
 弁念は親鸞というひとりの人物に出会ったのではありません。親鸞聖人とともにある
阿弥陀仏に出会ったのでしょう。親鸞聖人を通して本願力に出会ったのです。
 ほんとうの仏の生きた心にふれる、それが念仏です(暁烏敏先生のことば)


   如来浄華の聖衆は
        正覚のはなより化生して
        衆生の願楽ことごとく
        すみやかにとく満足す


 (意訳)
 浄土のきよらかな蓮華のもとにおられる聖人たちは、みな阿弥陀仏の悟りの花から生
まれられた。衆生の浄土に生まれたいという願いを満たされたすがたである。


 「如来浄華の聖衆は」
 「浄土に生まれた方々」という意味のことばですが、親鸞聖人は『安心決定鈔』につ
ぎのようにいわれています。
 他力の大信心を得たる人を浄華の衆という。この人びとはみな同じく阿弥陀仏の正覚
の華より生まれるなり。
 正覚の華とは、「もし衆生が浄土に生まれなかったら、正覚を取ることはない」と誓
われた法蔵菩薩が本願を成就されたとき、正覚を成じられた慈悲の御こころからあらわ
れた蓮華のように花開いた心を、正覚の華という。
 仏心を蓮華にたとえることは、凡夫の煩悩の泥濁に染まらないさとりだからである。
 善人であっても悪人であっても、また、すぐれた人もそうではない人も、ともに他力
の本願念仏をたのむ人であれば、阿弥陀仏に帰命することに違いはない。念仏の道を歩
んでいる人は、みなが平等になることを、曇鸞大師は「同一に念仏して別の道ではない
からだ」といわれた。また「四海みな兄弟なり」といわれた。
 「如来浄華の聖衆」とは、仏の心につつまれて生まれ、仏の心を感じとりながら生き
ている人です。この人は、自分自身が仏教を喜ぶ生活を送っているだけではありません。
まわりの人々も、仏の教えに出会った喜びを感じとっていることでしょう。
 親鸞聖人にとって、天親菩薩をはじめとする七高僧が「如来浄華の聖衆」であったで
しょう。むかしの人々が「妙好人」「念仏者」と讃嘆した人々は「如来浄華の聖衆」だ
ったのではないでしょうか。


   天人不動の聖衆は
        弘誓の智海より生ず
        心業の功徳清浄にて
        虚空のごとく差別なし

 (意訳)
 浄土に生まれて煩悩に動揺することのない人々は、海のように豊かな本願の智恵力に
よって生まれたのである。その心の働きは功徳となって浄らかであり、大空のように平
等無差別に働いている。


 浄土に生まれた人々は不動の心になるといわれています。
 不動の心とはかたくなに固まった心ではありません。どんな苦しみや悩みがあっても
逃げないこと、あれやこれやと迷って流されないことです。
 たとえ困難なことであっても柔軟に向かっていけるということでしょう。何が何でも
自分の力で解決していこうというのではなく、だれのことばも柔軟に聞くことができる
ことです。
 昔から真宗門徒も間で「おまかせする」とよくいわれてきました。どんな時でも本願
から生まれてきた智恵を聞いていくのが真宗門徒の生き方ではないでしょうか。