高僧和讃
天 親 菩 薩 二
6 天親論主は一心に
無碍光に帰命す
本願力に乗ずれば
報土にいたるとのべたもう
(意訳)
天親菩薩は「わたしは、一心に尽十方無碍光如来に帰命したてまつる、阿弥陀仏の本
願の力によってこそ浄土に生まれることができる」とおおせになった。
(語句)
無碍光=尽十方無碍光如来。阿弥陀仏。
報土=阿弥陀仏の浄土。
7 尽十方の無碍光仏
一心に帰命するをこそ
天親論主のみことには
願作仏心とのべたまえ
(意訳)
十方の世界に障りなき光を放っておられる阿弥陀仏に、心を一つにして帰命すること
こそ、かならず仏に成りたいという願いをもった心であると、天親菩薩はいわれた。
(語句)
願作仏心=仏になりたいと願う心。
仏教の根元的な願いは、人々が人間の限界を超えて、仏の穏やかな広いさとり
に到達することです。この願いは生きとし生けるものすべてが根元的に持って
いる願いであったということを釈尊は見いだされたのです。
人は幸せを願いますが、ほんとうの幸せは、どんな状況にあっても生き生きと
した心をもって力強く生きていくことではないでしょうか。
曽我量深先生は「幸福をうることよりも、それにまどわされない信心、幸福と
不幸とをこえてゆける、本願の力をいただくことが、今日の場合大切なことで
あろう」といっておられます。
8 願作仏の心はこれ
度衆生のこゝろなり
度衆生の心はこれ
利他真実の信心なり
(意訳)
かならず仏に成りたいという願いをもった心こそ、生きとし生けるものすべてを救い
たいという心である。すべての者を救いたいという阿弥陀仏の真実の願いから、わたし
たちの心に真実の信心が生まれてきた。
(語句)
度衆生心=度は渡すという意味。人々を救いたいと願う心。人々をこの世界
から浄土に渡らせずにはおかないと願う心。
利他真実の信心=浄土真宗の信心は、阿弥陀仏を信じ、浄土に生まれたいと願う心で
す。
親鸞聖人は「如来、苦悩の群生海を悲憐して、無碍広大の浄信をもって諸有海
に回施したまえり。これを利他真実の信心と名づく」(『教行信証』)といわ
れました。
衆生を救い、浄土に生まれさせようと願われた阿弥陀仏の真実心が、私たちの
心に現れ出てきたのが真実の信心だといわれるのです。
「利他真実の信心」の「利他」とは、普通、他の人々の利益になる行いをする
こと、自分のためにではなく、人々のために努力することであるといわれます
が、浄土真宗では、利他は他力であるといわれます。阿弥陀仏がいろんな人を
通して、あらゆる機会を通して、わたしたちのために働きかけてくださること
が他力です。他人がどう思っていても、自分ががんばらなくては問題は解決し
ないと考えて、自分だけの世界に閉じこもっていては他力の世界は開かれませ
ん。
『蓮如上人御一代記聞書』に「何ともして 人に直されそうろうように
心中を
持つべし。わが心中を 同行の中へ 打ちいだしておくべし。下としたる人のい
うことをば 用いずして かならず腹立するなり、あさましきことなり。ただ人
に直さるるように心中を持つべき義にそうろう」(人の忠告を聞いて、行いや
考え方を改めることができるように、素直な心にならなくてはなりません。念
仏の友のあつまりでは、自分の心のありのままを、飾らず、隠さずに表しなさ
い。ところが、自分より目下だと思っている人から意見されると、そのことば
を聞かずに、逆に腹を立てるものです。なさけないことです。人に直してもら
えるように、やわらかな心でなくてはならないということです)ということば
があります。
この蓮如上人のことばに「なるほど、その通りだった」とうなずけた時、他力
の世界が開かれ、素直な心が現れているのです。
9 信心すなわち一心なり
一心すなわち金剛心
金剛心は菩提心
この心すなわち他力なり
(意訳)
真実の信心とは、一心、ただ阿弥陀仏に帰命するという一道が定まった心である。こ
の一心は金剛(ダイアモンド)のように堅牢な心である。この金剛心は仏道を歩むこと
を決断した心であり、阿弥陀仏からいただいた心である。
(語句)
菩提心=無上の悟りを求める心。
すばらしい仏の教えに出会い、すばらしい師に出会って、その道をぜひとも歩
み進んでいきたいと心に決めた第一歩が菩提心です。仏教では、仏道を歩む者
は、まず菩提心を起こさなくてはならないといわれてきました。人が仏道を歩
みはじめるには、まず仏教に心引かれたからでしょうし、また、よき導師に出
会うことができたからこそ仏道を歩むことができるのでしょう。古来から、菩
提心は仏道の第一歩として大切にされてきました。
しかし、親鸞聖人の師である法然上人は、阿弥陀仏の救いを願う人々にとって、
菩提心はかえってじゃまになるといわれました。なぜでしょうか。それは当時
の仏教界の人々が菩提心の原点を見失い、自分の菩提心がどのようにして生ま
れてきたかということを思い返すことがなかったからでしょう。
『観無量寿経』に「如来はこれ法界身なり。一切衆生の心想のうちに入りたも
う。・・・この心が仏となる。この心これ仏なり」と説かれています。「阿弥
陀仏は世界中あらゆる所に満ちておられる仏であり、わたしたちの心の内にも
入っておられる。・・・阿弥陀仏がおられる私たちの心が仏になるのであり、
私たちの心の中心には仏がおられる」といわれるのです。
当時の人々の多くは「この心が仏となる。この心これ仏なり」ということばだ
けを見て、「如来はこれ法界身なり。一切衆生の心想のうちに入りたもう」と
いうことばを忘れていたのではないでしょうか。
蓮如上人は「弥陀のかたより、たのむ心も、尊や ありがたやと 念仏もうす心
も、みなあたえたもうゆえに」(浄土に生まれたいと阿弥陀仏をたのむ心も、
阿弥陀仏は尊いありがたいと念仏する心も、みな阿弥陀仏から私たちにいただ
いた心です。『蓮如聖人御一代記聞書』)といわれました。
わたしは自分自身の力だけによって仏教に出会い、仏道を歩みだしたのではありませ
ん。わたしたちの背景には、いろいろな人たちの働きがあります。ところがわたしたち
は自分が努力していることにしか気づかないことが多いのではないでしょうか。法然上
人は、自分の努力にしか気づかず、狭い世界に閉じこもっている菩提心を批判されたの
でしょう。
親鸞聖人は大菩提心といわれました。菩提心は自分一人が生み出したのではなく、大
いなる阿弥陀仏の本願がわたしに至りとどいたからこそ、私の第一歩がはじまったのだ
という感動から、親鸞聖人は「大菩提心」と表現されたのでしょう。
親鸞聖人は関東の門徒にしばしば手紙を出されましたが、そのなかに「信心を一心と
いう、この一心を金剛心という、この金剛心を大菩提心というなり。これすなわち他力
のなかの他力なり」と書いておられます。
10 願土にいたればすみやかに
無上涅槃を証してぞ
すなわち大悲をおこすなり
これを回向となづけたり。
(意訳)
阿弥陀仏の本願によって建立された浄土に生まれることができれば、阿弥陀仏と同じ
く無上の悟りをすみやかに開くことができ、あらゆるものを救い恵む心が生まれてくる
。これが回向ということである。
(語句)
願土=阿弥陀仏の本願が成就して建立された国。阿弥陀仏の浄土
回向=回向は親鸞聖人の根本思想です。回向は、釈尊が『無量寿経』『観無量寿経』
で説かれ、それを天親菩薩・曇鸞大師がとりあげられたのですが、親鸞聖人は
回向がたいへん深い教えであることに気づかれました。
天親菩薩は「いかんが回向する。一切苦悩の衆生を捨てずして、心に常に願を
作し、回向を首となす。大悲心を成就することを得んとするが故なり」といわ
れました。
曇鸞大師は天親菩薩のことばを受けて「おのれが功徳をもって一切衆生に回施
して、作願してともに阿弥陀如来の安楽浄土に往生す」といわれました。
親鸞聖人は次のようにいわれました。
慈悲に聖道・浄土のかわりめあり。
聖道の慈悲というは、ものをあわれみ、かなしみ、はぐくむなり。しかれども
思うがごとくたすけとぐること、きわめてありがたし。
浄土の慈悲というは、念仏して、いそぎ仏になりて、大慈大悲心をもって、思
うがごとく衆生を利益するをいうべきなり。
今生に、いかにいとおし不便と思うとも、存知のごとくたすけがたければ、こ
の慈悲始終なし。しかれば、念仏申すのみぞ、末とおりたる大慈悲心にて候う
べきと云々。(『歎異抄 4』)
親鸞は父母の孝養のためとて、一返にても念仏申したること、いまだそうらわ
ず。そのゆえは、一切の有情はみなもって世々生々の父母・兄弟なり。いずれ
もいずれも、この順次生に仏に成りてたすけそうろうべきなり。わが力にては
げむ善にてもそうらわばこそ、念仏を回向して父母をもたすけそうらわめ。た
だ自力をすてて、いそぎ浄土のさとりをひらきなば、六道・四生のあいだ、い
ずれの業苦にしずめりとも、神通方便をもって、まず有縁を度すべきなりと云
々。(『歎異抄 5』)