高僧和讃
                                        曇 鸞 和 尚 二

 17   論主の一心ととけるをば
           曇鸞大師のみことには
           煩悩成就のわれらが
           他力の信とのべたまう

 (意訳)
 天親菩薩が説かれた「一心」は「煩悩成就の私たちの他力の信心」なのだと曇鸞大師
は説きあかされた。

 (語句)
 論主=天親菩薩
 一心=天親菩薩の『浄土論』の冒頭にある「世尊よ、我は一心に尽十方無碍光如来に
    帰命したてまつる」の「一心」。
    天親菩薩は自らの心を一つにすると説いておられるが、曇鸞大師は、その心は
    阿弥陀仏から届けられた心であると感じ取られた。阿弥陀仏に帰命する一心は、
    本願の力によって生まれたと受け止められた。それを他力といわれたのである。
    自分は凡夫だと自覚しておられた曇鸞大師だからこそ「一心」を「他力の信心」
    といわれるのであろう。
 他力の信=「弥陀のかたより、たのむ心も、尊やありがたやと念仏もうす心も、みな
    あたえたもう」『蓮如上人御一代記聞書 三十五』(聖典 東八六二頁三五番)


 18   尽十方の無碍光は
           無明のやみをてらしつつ
           一念歓喜するひとを
           かならず滅度にいたらしむ

 (意訳)
 十方のあらゆる世界に至りとどき、何ものにも障げられることのない阿弥陀仏の光照
は、二心なく阿弥陀仏を信じて、身も心も喜びに満ちている人を、必ずしずかなさとり
の境地に導き入れてくださる。

 (語句)
 尽十方の無碍光=阿弥陀仏の無量光。「南無不可思議光」
 無明のやみ=凡夫の根本的な無智から生まれる闇。
 一念歓喜=「一念というは、信心二心なきがゆえに一念という。これを一心と名づく」
              「歓喜というは、身心の悦予を形すの貌なり」
                           『教行信証』(聖典 東二四〇頁末五行末七行)
 滅度=さとり。涅槃。迷いがすべて断ち尽くされ、永遠の平安なさとりの境地


 19   無碍光の利益より
           威徳広大の信をえて
           かならず煩悩のこおりとけ
           すなわち菩提のみずとなる

 (意訳)
 阿弥陀仏の光照によって、大きな徳に満ちた信心を得ることができれば、日の光に氷
がとけて水になるように、煩悩が解けてさとりの智恵に変わっていく。

 (語句)
 菩提=さとり。さとりの智恵。


 20  罪障功徳の体となる
           こおりとみずのごとくにて
           こおりおおきにみずおおし
           さわりおおきに徳おおし

 (意訳)
 私たち凡夫の罪や障りが転化して、浄土に生まれる功徳の本体になる。それは氷がと
けて水になることに似ている。氷が多ければ、解けてできる水が多くなる。罪や障りは
氷のようであり、功徳は水のようである。罪や障りが多ければ、それから生まれる功徳
も多くなる。

 (語句)
 罪障=罪と障碍。


 21   名号不思議の海水は
           逆謗の屍骸もとどまらず
           衆悪の万川帰しぬれば
           功徳のうしおに一味なり

 (意訳)
 南無阿弥陀仏の信心の世界は大海のようである。仏に逆らい反発する凡夫の身も心も
信心の大海に溶けこんでしまう。海には数限りない川が流れ込んでいる。その川の水も
海に流れ入ると、自然に海の水となる。悪心がどれほどあろうとも、信心の世界、浄土
に入れば、阿弥陀仏の功徳に包みこまれて、障りなく平等一味の世界に入ることができ
る。

 (語句)
 名号=南無阿弥陀仏
 逆謗=五逆・誹謗正法。仏教の大罪。
 衆悪=もろもろの悪。


 22   尽十方無碍光の
           大悲大願の海水に
           煩悩の衆流帰しぬれは
           智慧のうしおに一味なり

 (意訳)
 海に流れ込んだ川の水は、海の水に混ざり溶けこんで、海の水に変わるように、海の
ような阿弥陀仏の大悲と本願につつまれると、煩悩に満ちた凡夫も阿弥陀仏の智恵と一
味になる。

 (語句)
 衆流=無数の川から海に流れ込んでいるの水の流れ。


 23   安楽仏国に生ずるは
           畢竟成仏の道路にて
           無上の方便なりければ
           諸仏浄土をすすめけり

 (意訳)
 阿弥陀仏の浄土に生まれることは、究極的な仏に至る道であって、何ものにも勝る方
法であるから、諸仏は阿弥陀仏の浄土を衆生に勧められるのである。

 (語句)
 安楽仏国=阿弥陀仏の浄土
 方便=手だて。方法。
    仏や菩薩が衆生を救済するためにおこなう活動。


 24   諸仏三業荘厳して
           畢竟平等なることは
           衆生虚誑の身口意を
           治せんがためとのべたまう

 (意訳)
 諸仏は姿もことばも心も光かがやいて、ありとあらゆるものを平等に照らしているの
は、衆生のむなしく悪行に満ちている身口意を治し、阿弥陀仏の浄土に導くためである。

 (語句)
 三業=身業・口業・意業の三業。
    身体・言語・心による行為。
 荘厳=かざり。浄土のあらゆる物や生き物が、浄土を美しく飾って作り上げているす
    がた。
      『阿弥陀経』には浄土の荘厳が、さまざまに説かれている。
 虚誑=虚はむなしい、誑はたぶらかすこと。


 25   安楽仏国にいたるには
           無上宝珠の名号と
           真実信心ひとつにて
           無別道故とときたまう

 (意訳)
 阿弥陀仏の国に至るためには、宝玉のような名号と真実の信心の道ひとつであって、
それ以外には救われる道はない。

 (語句)
 名号=南無阿弥陀仏。
 無別道故=「安楽国土は阿弥陀如来正覚浄花の化生する所にあらざることなし。同一
      に念仏して別の道なきが故なり。遠く通ずるに、四海の内、皆兄弟たり。
      眷属無量なり」『論註』


 26   如来清浄本願の
           無生の生なりければ
           本則三々の品なれど
           一二もかわることぞなき

 (意訳)
 浄土に生まれることは、阿弥陀仏の浄らかな本願の他力によってあたえられることで
ある。人はそれぞれの力や条件が異なっているから、生き方も道も違うけれども、浄土
に生まれる道は変わることがない。

 (語句)
 如来=仏。ここでは阿弥陀仏。如来とは如(清浄なさとりの世界)から来られたとい
    う意味。
 無生の生=「浄土は如来の呼びかけとともに浄土は押し寄せて来る。我々がこっちか
    ら足を運ぶのではない。これを無生の生という。」『曽我量深講義集 7』
 三々の品=上品上生から下品下生まで、大乗の菩薩道を歩む人から、極重悪人までの
    九品。
    九品は『観経』(聖典 東九五頁末1行〜一二一頁 明八四頁末一行〜一〇七頁)
    に説かれている。
    九品は自力定善
    九品往生は臨終来迎往生


 27   無碍光如来の名号と
           かの光明智相とは
           無明長夜の闇を破し
           衆生の志願をみてたもう

 (意訳)
 阿弥陀仏の名号と智恵の光は、長くつづく夜の闇を暁の光が破るように、衆生の心を
闇に閉ざしていた無明を破り、衆生の心の底から生まれ出る願いとこころざしを満たし
てくれる。

 (語句)
 無碍光如来の名号=南無阿弥陀仏。名号は名前のこと。
    『無量寿経』に、諸仏は阿弥陀仏の徳をたたえて阿弥陀仏の名を呼ばれたと説
    かれている。
 光明智相=阿弥陀仏の光明は、阿弥陀仏の智恵のすがたを表す


 28  不如実修行といえること
          鸞師釈してのたまわく
          一者信心あつからず
          若存若亡するゆえに

 (意訳)
 熱心に念仏しても真実の念仏にならないことがある。曇鸞大師はその理由を三つあげ
られた。ひとつは、信心が淳くないこと。ある時には信心があっても、ある時には信心
が消えてしまうことである。

 (語句)
 不如実修行=真実(如実)ではない修行の意味。
    念仏は無明の闇を破るといわれるが、しかし、どれほど励んでも真実の念仏と
    はいえない念仏がある。それを「不如実修行」という。曇鸞大師は念仏が不如
    実修行になる理由を三点あげられた。
 鸞師=曇鸞大師
 若存若亡=ある時には存在し、ある時には消えてしまう。
 信心一ならず=一心一向ではないこと。
   「当流のおもむきは、信心決定しぬればかならず真実報土の往生をとぐべきなり。
    さればその信心というはいかようなることぞといえば、なにのわずらいもなく、
    弥陀如来を一心にたのみたてまつりて、その余の仏・菩薩等にもこころをかけ
    ずして、一向にふたごころなく弥陀を信ずるばかりなり。これをもって信心決
    定とは申すものなり」                『御文 一─十五』


 29   二者信心一ならず
           決定なきゆえなれば
           三者信心相続せず
           余念間故とのべたまう

 (意訳)
 「不如実修行」の二つめは、信心が定まらず純粋でないこと。信心に確信がなく、あ
れこれと迷っているからである。三つめは信心が続かないこと。ほかの思いがまぎれこ
むからである。

 (語句)
 信心相続せず=信心が持続しない。
 余念間故=ほかの思いが間に入り込むから。


 30   三信展転相成す
           行者こころをとゞむべし
           信心あつからざるゆえに
           決定の信なかりけり

 (意訳)
 三つの信心の姿は、たがいに関連し、展開して信心が確立していく。このことを念仏
の行者は心にとどめておかなくてはならない。信心が淳くないから、たしかな信心が定
まらないのだ。

 (語句)
 三信=信心が淳いこと、定まっていること、持続することの三つの信心の姿。
 行者=念仏の行者。


 31   決定の信なきゆえに
           念相続せざるなり
           念相続せざるゆえ
           決定の信をえざるなり

 (意訳)
 たしかな信心が定まらないからこそ、信心が持続しない。信心が持続しないと、また、
たしかな信心が定まらない。

 (語句)
 念相続=心が持続すること。


 32   決定の信をえざるゆえ
           信心不淳とのべたまう
           如実修行相応は
           信心ひとつにさだめたり

 (意訳)
 たしかな信心が定まらないと、信心が淳くはならない。阿弥陀仏の本願にかなうもの
は、信心ひとつであると、曇鸞大師は定められた。

 (語句)
 如実修行相応=真実の修行(念仏)にかなう。
        阿弥陀仏の本願にふさわしい。


 33   万行諸善の小路より
           本願一実の大道に
           帰入しぬれば涅槃の
           さとりはすなわちひらくなり

 (意訳)
 万行諸善の小路を出て、本願他力の大道に入れば、かならず涅槃のさとりが開かれる。

 (語句)
 万行諸善=念仏以外の修行。自力の行。
    親鸞聖人は、本願念仏を正定業とし、それ以外は雑行とされた。
    「恒沙塵数の如来は 万行の少善きらいつつ 名号不思議の信心を ひとしく
     ひとえにすすめしむ」『浄土和讃 阿弥陀経讃』


 34   本師曇鸞大師をば
           梁の天子蕭王は
           おわせしかたにつねにむき
           鸞菩薩とぞ礼しける

 (意訳)
 本師曇鸞大師を、梁の皇帝蕭王は、大師がおられた方向に常に向かって、曇鸞菩薩と
たたえて礼拝しておられた。

 (語句)
 梁=中国南北朝時代の南朝の国。曇鸞大師は北朝の魏におられたから、梁の蕭王は曇
   鸞大師に会うことはできなかった。