高僧和讃
道 綽 禅 師
1 本師道綽禅師は
聖道万行さしおきて
唯有浄土一門を
通入すべき道と説く
(意訳)
今は末法であると実感された本師道綽禅師は、聖道門の善行や難行苦行の教えを捨て
去って、この時代に生まれた人びとにとって、どのような人でも、念仏によって浄土へ生ま
れ、悟りを開くことができると説く浄土門だけが、人々が入っていくことができる教えである
と説かれた。
(語句)
聖道万行=聖道門の教えで説かれているさまざまな修行や善行
唯有浄土一門=ただ浄土の教えの一門だけ
2 本師道綽大師は
涅槃の広業さしおきて
本願他力をたのみつつ
五濁の群生すすめしむ
(意訳)
阿弥陀仏の教えに出会われた本師道綽大師は、それまで熱心に取り組んでおられた
『涅槃経』の講義をやめて、阿弥陀仏の本願他力の救いを求められた。そして、五濁に満
ちた末法の世に生まれた人びとに、ともに阿弥陀仏の教えに帰依するように勧められた。
(語句)
涅槃の広業=道綽禅師は、浄土教に出会われるまで、『涅槃経』の講義を二十数回も
重ねてこられた。
五濁の群生=五つの濁りに満ちている末法の世界に生きている人々
五濁=劫濁(時代のにごり)、見濁(思想のにごり)、煩悩濁(煩悩のにごり)、衆生濁
(人間のにごり)、命濁(命のにごり)。
3 末法五濁の衆生は
聖道の修行せしむとも
ひとりも証をえじとこそ
教主世尊はときたまえ
(意訳)
釈尊から長い年月が過ぎて末法の世となってしまった。五濁にみちた時代に生まれた人
間は、聖者になるために難行苦行の仏道に励んでも、一人として悟りをひらくことはできな
いと、釈尊はすでに説かれている。
(語句)
教主世尊=阿弥陀仏の教えを説かれた釈尊。釈迦。
釈尊は教主。教え導いてくださる方。
阿弥陀仏は救主。本願を立てて救ってくださる方。
4 鸞師のおしえをうけつたえ
綽和尚はもろともに
在此起心立行は
此是自力とさだめたり
(意訳)
曇鸞大師の教えを受け伝えて、道綽禅師は、火宅のようなこの世で、完全な悟りをひ
らきたいと願う心を起こして修行することは、成就しがたい自力難行であると確信された。
(語句)
鸞師=曇鸞大師
在此起心立行は此是自力=「この娑婆世界に生きながら菩提心を起し、修行を修めて、
浄土に生まれたいと願うのは、これは自力である」。
『安楽集』道綽禅師
ここに在りて心を起し、行を立て、浄土に生ぜんと願ずるは、これはこれ自力なり。
命終の時に臨みて、阿弥陀如来光台迎接して、遂に往生を得るを即ち他力と為す。
故に大経に云わく、十方の人天、我が国に生ぜんと欲する者は、みな阿弥陀如
来の大願業力を以て増上縁と為さざるはなしと。
もしかくのごとくならずは、四十八願すなわちこれ徒設ならん。
後学の者に語る。既に他力の乗ずべき有り。自ら己が分を局り、いたずらに火宅
に在ることを得ざれ。
5 濁世の起悪造罪は
暴風駛雨にことならず
諸仏これらをあわれみて
すすめて浄土に帰せしめり
(意訳)
この五濁にみちた世界で、悪行をなし罪を造る人びとのありさまは、暴風や豪雨のよ
うに激しくて定まらない。あらゆる仏は、この人びとを憐れんで、阿弥陀仏の浄土に生ま
れるように願えと勧めておられる。
(語句)
起悪造罪=悪行をなし、罪を作ること。
駛雨=にわかに降る大雨
『安楽集』
もし起悪造罪を論ぜば、何ぞ暴風駛雨に異ならむや。是を以て諸仏の大慈勧
めて浄土に帰せしめたまふ。
6 一形悪をつくれども
専精にこころをかけしめて
つねに念仏せしむれば
諸障自然にのぞこりぬ
(意訳)
たとえ一生のあいだ悪行をつづけても、ひたすらに阿弥陀仏を憶念し、つねに念仏す
れば、あらゆる障害は自然に除かれて、かならず浄土に往生することができる。
(語句)
一形=一生涯
専精=心からひたすらに。「もっぱらよく」。「もっぱら好みて」。
諸障=仏道をさまたげる煩悩やその他もろもろの障害。
『安楽集』
たとい一形悪を造れども、但能く意を繋けて専精に常に能く念仏すれば、一切
の諸障自然に消除して、定めて往生を得。何ぞ思量せずしてすべて去く心な
きや。
『自然法爾章』親鸞聖人
自然というは、もとより、しからしむということばなり。
阿弥陀仏の御誓いは、もとより行者の計らいにあらずして、南無阿弥陀仏とた
のませたまいて、迎えんと計らわせたまいたるによりて、行者のよからんとも
あしからんとも思わぬを、自然とはもうすぞと聞きてそうろう。
7 縱令一生造悪の
衆生引接のためにとて
称我名字と願じつつ
若不生者とちかいたり
(意訳)
阿弥陀仏は、たとえ一生、悪行をつづけてきた者であっても、その人を導きおさめと
るために、我が名をとなえよと願われた。南無阿弥陀仏ととなえても浄土に往生でき
ない者があるようならば、決してさとりを開くことはないと誓われた。
(語句)
縱令=たとい。もし。
引接=「導き取る」「取るというは手に取る心なり」
たとい一期悪を作る者なりとも、弥陀の誓いを頼みまいらせて往生すべきとなり。
称我名字・若不生者=阿弥陀仏の本願の一節。
道綽禅師は本願を要約して「もし衆生ありて、たとい一生悪を造るとも、臨命終
時に、十念相続して我名字を称せん、もし生ぜずば正覚を取らじ」(安楽集)と
説かれた。
我名字=阿弥陀仏の名。南無阿弥陀仏。