高僧和讃
善 導 大 師
1 大心海より化してこそ
善導和尚とおわしけれ
末代濁世のためにとて
十方諸仏に証をこう
(意訳)
大海のように深く広い阿弥陀仏の信心の世界から現れてくださった善導大師は、この
末法の世、濁った時代の人びとを救う念仏の教えを明らかにするために、十方の諸仏の
証明を願い求められた。
(語句)
大心海=親鸞聖人「仏の御心は広く深く、きわほとりなきゆえに、阿弥陀を大心海と
いうなり」。
末代=末法の時代
釋尊が亡くなり二千年すぎると末法に入る。末法の時代には仏教が衰退し、教
えは残っていても学ぶ人もなく、仏道を歩む人もなくなるといわれる。
濁世=五濁悪世
五濁=劫濁(時代)・見濁(思想)・煩悩濁(貪瞋痴)・衆生濁(身体)・命濁(いのち)
『阿弥陀経』
2 世世に善導いでたまい
法照少康としめしつつ
功徳蔵をひらきてぞ
諸仏の本意とげたもう
(意訳)
善導大師の後の世にも、法照法師・少康法師が教えを受け伝え、功徳の蔵を開いて阿
弥陀仏の念仏の道を歩まれた。それは、阿弥陀仏をたたえて念仏を勧められた諸仏の願
いにかなうことであった。
(語句)
法照=中国唐時代、善導大師より約百年後、念仏をさかんに広めた。後善導といわれる。
少康=法照と同じ時代の人で、同じく後善導といわれる。善導大師の『西方化導文』
を読んで感動し、熱心な念仏行者になった。
功徳蔵=名号。南無阿弥陀仏。
南無阿弥陀仏は、善本・徳本といわれ、あらゆる善の功徳、あらゆる徳の功徳
を備えている功徳の蔵である。
諸仏の本意=『阿弥陀経』には「舎利弗よ、わたし(釈尊)が、今、阿弥陀仏の不可
思議の功徳をたたえているように、東方にも 阿仏・須弥相仏・大須弥仏・
須弥光仏・妙音仏など、ガンジス河の砂の数ほどの、数え切れない数の諸仏が
おられ、これらの諸仏は、それぞれ、ご自分の国で、広く長い舌を出して、三
千大千世界を覆っているかのように、まことの言葉を次のように説いておられ
る。汝たち衆生よ、この阿弥陀仏の不可思議なる功徳をたたえ、一切の諸仏に
よって護り念ぜられている教えを信ずべし」と、六方の世界におられる無数の
諸仏が阿弥陀仏の功徳を説いておられる。
『無量寿経』には「十方恒沙の諸仏如来、みな共に無量寿仏の威神功徳の不可思
議なることを讃歎したまう」(第十七願成就文)と説かれている。
3 弥陀の名願によらざれば
百千万劫すぐれども
いつつのさわりはなれねば
女身をいかでか転ずべき
(意訳)
百千万劫という無限の年月をかけても五障から逃れられないといわれる女性は、阿弥
陀仏の名号と本願によってこそ仏となることができる。
(語句)
弥陀の名願=阿弥陀仏の名号(南無阿弥陀仏)と本願
百千万劫=無限ともいえる年月
五障=女性には梵天王・帝釈・魔王・転輪聖王・仏の五種になることができない障害
があるといわれた。
4 釈迦は要門ひらきつつ
定散諸機をこしらえて
正雑二行方便し
ひとえに専修をすすめしむ
(意訳)
釈尊は浄土に入る要となる門を開き、瞑想と善行に励む自力の行者を導くために念仏
と雑行を示し、ひたすら念仏の道を勧められた。
(語句)
要門=かなめとなる門。『観無量寿経』の教えのこと。『観無量寿経』は『無量寿経』
の真実の教えに入るための要(かなめ)となる教えであるから要門といわれる。
定散諸機=定善は瞑想の行、散善は善行。機は人のこと。瞑想や善行などの自力の道
を歩む人びと。
正雑二行=善導大師は仏道を正行と雑行の二つに分類された。正行は念仏などの易行
道・浄土門。雑行は念仏以外の難行道・聖道門。
方便=手だて。真実に誘導するための手段・方法。自力から他力念仏門に導くための
手だて。
専修=ひたすら念仏のみを称えること。
5 助正ならべて修するをば
すなわち雑修となづけたり
一心をえざるひとなれば
仏恩報ずるこころなし
(意訳)
念仏(正定業)をとなえながら、他に助業も行って、正定業と助業を二つとも行ずる
ことを自力の雑修と名づける。その人は一心一向の信心を得ていないから、ほんとうに
仏恩に報じて念仏する心が生まれていないのである。
(語句)
助正=善導大師は正行を正定業と助業の二つに分けられた。正定業は南無阿弥陀仏
(称名念仏)。助業は読誦・観察・礼拝・讃歎供養。二つの中でも、阿弥陀仏
や釈尊が選ばれたのは正定業(南無阿弥陀仏・称名念仏)であった。
一心=親鸞聖人「一心すなわちこれ真実信心なり。」『教行信証』
曽我量深先生「小さい自力の信心はただその時その時に、善い心が起ったら自
分の信心ができあがったり、悪い心が起ると信心がつぶれたりする。」
「我らの心の善悪などを超越した、仏の本願というものがあるということを知
らないで、小さい自分の心をもって仏の広大無辺の仏智の不思議を疑い、小さ
い根性で仏の心を自分のような小さいお心であろうと推しはかっている。」
善導大師「西の岸の上に人ありて喚ばいて言わく、汝一心正念にして直ちに来
れ。我能く汝を護らん。すべて水火の難に堕することを畏れざれと。」
『観経疏 二河白道の譬喩』
蓮如上人「弥陀を一心一向に信楽して、ふたごころのなきひとを、弥陀は、か
ならず遍照の光明をもって、そのひとを摂取してすてたまわざるものなり」
『御文二帖目第二通』
仏恩報ずる=蓮如上人「弥陀をたのみて御たすけを決定して、御たすけのありがたさ
と喜ぶ心あれば、そのうれしさに念仏申すばかりなり。すなわち仏恩報謝なり」
『蓮如上人御一代記聞書 十四』
善導大師「仏世はなはだ値いがたし。人、信慧あること難し。たまたま希有の
法を聞くこと、これまたもっとも難しとす。みずから信じ、人を教えて信ぜし
むること、難きが中にうたたまた難し。大悲弘くあまねく化する。まことに仏
恩を報ずるになる」。(自信教人信)『往生礼讃』
6 仏号むねと修すれども
現世をいのる行者をば
これも雑修となづけてぞ
千中無一ときらわるる
(意訳)
一生懸命に南無阿弥陀仏を称えていても、現世利益を祈る念仏であれば、これも雑修
であるといわれて、このような念仏をしている人は、千人の中から一人としても浄土に
生まれることはできないだろうと、嫌われた。
(語句)
仏号=南無阿弥陀仏
7 こころはひとつにあらねども
雑行雑修これにたり
浄土の行にあらぬをば
ひとえに雑行となづけたり
(意訳)
雑行と雑修とは、行っている人の心に違いはあるけれども、互いに似ている。この二
つは浄土往生の正定業ではないから、ともに雑行と名づけられた。
(語句)
雑行雑修=雑行は自力聖道門の修行。雑修は浄土門であっても、自力疑惑の心があっ
て、念仏とともに他の行を同時にしたり、浄土往生以外の願いを持ってい
ること。
浄土の行=浄土往生の行。念仏(南無阿弥陀仏)。正定業。
8 善導大師証をこい
定散二心をひるがえし
貪瞋二河の譬喩をとき
弘願の信心守護せしむ
(意訳)
善導大師は諸仏の証明にしたがって観経の疏を説き開かれて、自力の定善と散善の心
をひるがえし、二河白道のたとえを説いて本願念仏の信心を守られた。
(語句)
定散二心=定善(瞑想)と散善(悪行をやめ、善行を行う)の自力の信心
貪瞋二河の譬喩=二河白道の譬喩。水の河は貪欲(むさぼり)火の河は瞋恚(怒り)を
表している。
弘願=本願
9 経道滅尽ときいたり
如来出世の本意なる
弘願真宗にあいぬれば
凡夫念じてさとるなり
(意訳)
釈尊がこの世に生まれてくださった意義、釈尊が私たちに伝えようとされた真実の教
えは、阿弥陀仏の本願であった。釈尊の教えも、教えを学んで仏道を歩む人も、すべて
なくなってしまう末法の時代となった今、本願の真実の教えに出会うことができたら、
凡夫といえども、念仏によって悟りを開くことができるのだ。
(語句)
経道滅尽=末法の時代には、教えは残っていても、仏道を歩む人はなくなってしまう
が、さらに時代がすぎると教えさえなくなってしまう。
『無量寿経』はそのような時代になって、人びとを導く教えとして最後まで残
るであろうと、釈尊は説かれた。
『無量寿経』「当来の世に経道滅尽せんに、我、慈悲をもって哀愍して、こと
にこの経を留めて止住すること百歳せん。それ衆生ありてこの経にあう者、意
の所願に随いてみな得度すべし。」
如来出世の本意=釈尊は、阿弥陀仏の本願の教えを説き開くために、この世界に生まれ
られた。
『正信偈』「如来所以興出世 唯説弥陀本願海(如来、世に興出したまう所以
は、ただ弥陀の本願海を説かんとなり)」
10 仏法力の不思議には
諸邪業繋さわらねば
弥陀の本弘誓願を
増上縁となづけたり
(意訳)
仏法の力が不思議といわれるのは、凡夫のよこしまな行いも煩悩も障碍とならないか
らである。だから阿弥陀仏の本願(弘誓)は、凡夫が浄土に生まれるためには何より力
強いご縁(増上縁)であるといわれるのである。
(語句)
諸邪業繋=諸々のよこしまな行いや、身や心が煩悩にとらわれ縛られていること。
増上縁=力強い縁。あることが成立するのを助ける条件、あるいは妨害しない条件。
親鸞聖人「よろずの善に勝れるによりて増上縁というなり」。
善導大師「浄土に生まれる凡夫にとって、阿弥陀仏の大願業力が増上縁になっ
ていないものはない」。
11 願力成就の報土には
自力の心行いたらねば
大小聖人みなながら
如来の弘誓に乗ずなり
(意訳)
阿弥陀仏の本願力によって成就された真実の浄土には、自力の信心や自力の修行では
到り着くことはできない。大乗も小乗も、すべての聖人は阿弥陀仏の本願によってこそ
浄土に生まれられたのである。
(語句)
願力成就の報土=阿弥陀仏の浄土は報土といわれる。報土とは阿弥陀仏の本願成就の
結果として(報いとして)建立された真実の浄土という意味である。
真実ではない浄土は化土といわれる。親鸞聖人の『教行信証』には「真仏土の
巻」「化身土の巻」がある。
自力の心行=雑行・雑修の自力の信心・修行
12 煩悩具足と信知して
本願力に乗ずれば
すなわち穢身すてはてて
法性常楽証せしむ
(意訳)
自分自身は煩悩に満ちて、自分の努力だけでは迷いから抜け出ることができない者で
あったと、信心の眼によって気づき、阿弥陀仏の本願力に任せることができるようにな
れば、現在の疑いに満ちた不浄な身を捨て去って、浄土に生まれて阿弥陀仏と同じく迷
いのない安楽な境地の悟りを得ることができる。
(語句)
煩悩具足=善導大師は深心の第一の機の深信に「決定して深く、自身は現にこれ罪悪
生死の凡夫、曠劫よりこのかた、常に没し常に流転して、出離の縁あることな
しと信ず」と述べられた。
親鸞聖人は関東から訪ねてきた門徒の人びとに向かって、ご自身のことを「い
ずれの行(自力の修行)も及びがたき身なれば、とても地獄は一定すみかぞか
し」(歎異抄 二)といわれた。
信知=信心によって心の底からうなづくこと。
穢身=煩悩に満ちた凡夫の不浄な身。
法性=真実の悟りによって明らかになる物事の本質。事物が有している不変の本性。
常楽=親鸞聖人は「楽しみ常なり」と記されている。
『涅槃経』に「楽に二種あり、一つには凡夫、二つには諸仏なり。凡夫の楽は
無常敗壊なり、このゆえに無楽なり。諸仏は常楽なり、変易あることなきがゆ
えに大楽と名づく」、「四楽をもってのゆえに大涅槃と名づく。一つには諸楽
を断ずるがゆえに。無苦無楽をいまし大楽と名づく。二つには大寂静のゆえに
名づけて大楽とす。三つには一切智のゆえに名づけて大楽とす。四つには身不
壊のゆえに名づけて大楽とす」(聖典 東三〇五頁末二行 明三二〇頁一行)
と説かれている。