高僧和讃
         源 空 聖 人

   本師源空 世にいでて
      弘願の一乗ひろめつつ
      日本一州ことごとく
      浄土の機縁あらわれぬ

 (意訳)
 真実の師である源空上人がお生まれになって、あらゆる人々を平等に救う本願の教えを広められたので、日本全国、どのようなところまでも、阿弥陀仏の浄土が開かれるご縁が現れてくださった。


   智慧光のちからより
      本師源空あらわれて
      浄土真宗をひらきつつ
      選択本願のべたまう

 (意訳)
 人々の心の闇を破りひらく阿弥陀仏の光によって、本師源空上人は現れてくださって、浄土のまことの教えの真髄をひらき、阿弥陀仏が凡夫のために選び取られた本願の教えを述べあらわしてくださった。


   善導源信すすむとも
      本師源空ひろめずは
      片州濁世のともがらは
      いかでか真宗をさとらまし

 (意訳)
 中国では善導大師が、日本では源信僧都が、阿弥陀仏の教えを勧めてくださったけれども、本師源空上人が、だれでも入りやすい念仏を広めてくださらなかったら、この小さな島国日本の濁りきった時代の念仏者は、どうして念仏の真髄をさとることができたであろうか。


   曠劫多生のあいだにも
      出離の強縁しらざりき
      本師源空いまさずは
      このたびむなしくすぎなまし

 (意訳)
 長い長い年月迷いつづけ、何度も何度もこの世に生を受けてきたにもかかわらず、今まで迷いの闇から救ってくださる真実の念仏のご縁に会うことができなかった。もし源空上人がおられなかったら、この一生もむなしく終わることになったであろう。


   源空 三五のよわいにて
      無常のことわりさとりつつ
      厭離の素懐をあらわして
      菩提のみちにぞいらしめし

 (意訳)
 源空上人は十五歳のときに、この世の無常をさとられて、この濁りきった世界を離れ、真実の世界に生まれる願いをいだかれて、さとりをもとめて仏道に入られた。


   源空 智行の至徳には
      聖道諸宗の師主も
      みなもろともに帰せしめて
      一心金剛の戒師とす

 (意訳)
 源空上人は智恵においても、修行においても、たいへんすぐれた徳があったので、聖道自力門の諸宗派の指導者たちも、みなともに源空上人に帰依して、一心金剛戒の戒師に迎えられた。


   源空 存在せしときに
      金色の光明はなたしむ
      禅定博陸まのあたり
      拝見せしめたまいけり

 (意訳)
 源空上人がおいでになったとき、身から金色の光を放たれた。関白藤原兼実はその光明を、まのあたりに拝見された


   本師源空の本地をば
      世俗のひとびとあいつたえ
      綽和尚と称せしめ
      あるいは善導としめしけり

 (意訳)
 本地源空上人の本来のお姿を、世の人々はいい伝えて、道綽禅師の生まれかわりといい、また善導大師であるとも話しつたえていた。


   源空勢至と示現し
      あるいは弥陀と顕現す
      上皇群臣尊敬し
      京夷庶民欽仰す

 (意訳)
 源空上人は、勢至菩薩の姿となってあらわれ、また、阿弥陀仏ともなってあらわれられた。そのために、上皇ももろもろの臣下も上人を敬い尊び、京都だけではなく地方でも、人びとは上人を敬い仰いでいた。


 10  承久の太上法皇は
        本師源空を帰敬しき
        釈門儒林みなともに
        ひとしく真宗に悟入せり

 (意訳)
 後高倉太上法皇は本師源空上人に帰依しておられた。仏門の僧侶も、儒教の学者も、みなともに、念仏の教えに心を開かれ帰依していった。


 11  諸仏方便ときいたり
        源空ひじりとしめしつつ
        無上の信心おしえてぞ
        涅槃のかどをばひらきける

 (意訳)
 諸仏の導きによって時が熟し、源空聖人があらわれてくださり、真実信心を説き教え
て、涅槃のさとりに入る門を開いてくださった。


 12  真の知識にあうことは
        かたきがなかになおかたし
        流転輪回のきわなきは
        疑情のさわりにしくぞなき

 (意訳)
 真実の師に出会う機会をいただくことは、まことに困難である。、迷いの世界にとどまって、苦悩の人生をくり返すのは、自分の執着が捨てられずに、本願を心の底から信じられないからである。


 13  源空 光明はなたしめ
        門徒につねにみせしめき
        賢哲愚夫もえらばれず
        豪貴鄙賎もへだてなし

 (意訳)
 源空上人は念仏の光に輝いておられ、いつも門徒に念仏の光を示し教えておられた。
 それは賢く聡い人も、愚かな人をも差別することなく、身分高く勢力ある人も、地方の身分低い人も、わけへだてされることはなっかった。


 14  命終その期ちかづきて
        本師源空のたまわく
        往生みたびになりぬるに
        このたびことにとげやすし

 (意訳)
 いのち終わるときが近づいたことをさとられて、本師源空上人は弟子たちに語られた。浄土に往生するのは、今回が三度目になるけれども、今回は心残すことなく、浄土に帰っていけると。


 15  源空みずからのたまわく
        霊山会上にありしとき
        声聞僧にまじわりて
        頭陀を行じて化度せしむ

 (意訳)
 源空上人がご自身からおっしゃった。釈尊が霊鷲山で法会を開かれたときには、仏弟子の方がたといっしょになって、修行し托鉢に出ては、人びとを教化していたものだと。


 16  粟散片州に誕生して
        念仏宗をひろめしむ
        衆生化度のためにとて
        この土にたびたびきたらしむ

 (意訳)
 粟粒を散らかしたようなこの国に誕生して、念仏の教えを広めてきた。人びとを導き救うために、この国には何度も来たものであった。


 17  阿弥陀如来 化してこそ
        本師源空としめしけれ
        化縁すでにつきぬれば
        浄土にかえりたまいにき

 (意訳)
 阿弥陀如来が人びとを導きすくうために、本地源空上人となって現れてくださった。教化のご縁が終わったので、浄土に帰っていかれたのだった。


 18  本師源空のおわりには
        光明紫雲のごとくなり
        音楽哀婉雅亮にて
        異香みぎりに暎芳す

 (意訳)
 本地源空上人のご臨終には、光明が紫の雲のようにたなびき、音楽が悲しみに満ちて清らかにひびきわたり、常にない香りが馥郁と満ちていた。


 19  道俗男女 預参し
        卿上雲客 群集す
        頭北面西右脇にて
        如来涅槃の儀をまもる

 (意訳)
 僧も俗人も、上人の往生が近いことを知って集まり、身分高い人びとも群がりあつまった。上人は頭北面西右脇にして、釈尊が涅槃に入られたときの法式を守られた。


 20  本師源空 命終時
        建暦第二壬申歳
        初春下旬第五日
        浄土に還帰せしめけり

 (意訳)
 本師源空上人がいのち終わられたのは、建暦二年壬申の年 正月二十五日、浄土にお帰りになったのである。



 『法然上人行状絵図』
 熊谷蓮生の巻

 武蔵国の御家人、熊谷の次郎直実は、平家追討のとき、所々の合戦に忠をいたし、名をあげしかば、武勇の道ならびなかりき。しかるに宿善のうちにもよほしけるにや、幕下将軍をうらみ申す事ありて、心をおこし出家して、蓮生と申しけるが、聖覚法印の房にたずねゆきて、後生菩提の事をたずね申しけるに、「さようの事は法然上人に、たずね申すべし」と申されければ、上人の御庵室に参じにけり。

 「罪の軽重をいわず、たゞ念仏だにも申せば往生するなり、別の様なし」とのたまうを聞きて、さめざめと泣ければ、けしからずと思いたまいてものものたまわず。

 しばらくありて「なに事に泣きたまうぞ」と仰せられければ、「手足もきり、命をもすてゝぞ、後生はたすからんずるとぞ受けたまわらんと存ずるところに、たゞ念仏だにも申せば往生はするぞと、やすやすと仰せをかぶりはべれば、あまりにうれしくて、泣かれはべる」よしをぞ申しける。

 誠に後世を恐れたるものと見えければ、無智の罪人の念仏申して往生する事、本願の正意なりとて、念仏の安心こまかにさずけたまいければ、ふた心なき専修の行者にて、ひさしく上人につかえたてまつりけり。

 ある時、上人、月輪殿(関白藤原兼実)へ参じたまいけるに、この入道、推参して、御供にまいりけるを、とゞめばやと思しめされけれども、さるくせものなれば、中々あしかりぬと思しめして、仰せらるゝむねなかりければ、月輪殿までまいりて、くつぬぎに候して、縁に手うちかけ、よりかゝりてはべりけるが、御談義の声のかすかにきこえければ、この入道申しけるは「あわれ穢土ほどに口おしき所あらじ。極楽にはかゝる差別はあるまじきものを。談義の御声もきこえばこそ」と。

 しかりこえに高声に申しけるを、禅定殿下(関白藤原兼実)きこしめして、「こはなにものぞ」と仰せられければ、「熊谷の入道とて武蔵国よりまかりのぼりたるくせものゝ候が、推参に供をして候と覚候」と、上人申したまいければ、やさしくたゞ「めせ」とて、御使を出されてめされけるに、一言の色題にも及ばず、やがてめしにしたがいて、ちかくおおゆかに伺候して聴聞つかまつりけり。往生極楽は当来の果報なを遠し、たちまちに堂上をゆるされ、今生の果報を感じぬる事、本願の念仏を行ぜずは、いかでかこの式に及べきと、耳目おどろきてぞ見えける。