『正信偈』学習会テキスト
未来の道標 U
「本願名号正定業」から「難中之難無過斯」まで
高原覚正著
一 『正信偈』学習の立場
『正信偈』と現代人類の業〈ごう〉
今回、『正信偈』を学ぶ学習会がひらかれることになりました。『正信偈』を新しく学びはじめるわけでありますが、どのような立場に立って、どのような課題をもって『正信偈』を学ぶかということが最初によく考えられなければならない大切な問題でないかと思うのであります。
いうまでもなく、我々は“現代”という時代に、世界人類と共に生き、日々の営みをなしているのであります。誰でも、ただ独り孤独な生活をすることはできないのであって、現代の世界人類の業〈ごう〉の中に生きているのであります。
ただ、そのような業の流れの中に浮草のように無責任に生きるのでなく、その業をもって『正信偈』に聞いていく、そうして『正信偈』に導かれながら、現代の世界人類の業を引きうけ、世界人類の、また現代という時代の方向を明らかにしていく自覚と責任をもって『正信偈』を学んでいく。このことが、京都教区に新しく生まれた『正信偈』学習会の使命であると考えるのであります。
いうまでもなく、現代の世界人類はあらゆる分野において数知れない、また方法・手だても見つからない問題にとりかこまれているのであります。
宗教界のはなはだしい堕落をはじめとして政治・教育・医学・芸術など、どれ一つも將来に対して明るい方向が見出されていないのであります。また山・海・空気・水などという自然の世界のいのち、宇宙のいのちも日々失われつつある現状であります。
原始時代の人類をはじめ昔の人々は、今日の我々から想像することが出来ないほどの豊かないのちの世界に生きていたのであります。
もう一度、我々は豊かな世界を回復して、未来に人類に手渡していかねばなりません。
しかし、その根本的な方途が見出されていないということが現実的な問題であります。表面をぬりつぶしたりごまかしたりということは盛んにされていますが、根源的立場を確かめ、根源的姿勢をただしていくという根本問題がまったく考えられていないのであります。
このことは、わが国だけの問題でなく世界人類すべてにわたって考えられなければならない問題であります。
この『正信偈』学習会は、まずこの点を明らかにし、さらに具体的な問題に対する具体的な方向・道を『正信偈』に学んでいかなければならないのであります。
『正信偈』の背景
さて我々が学ばんとする『正信偈』は、どのような構成といいますか構造をもってなりたっているかということを学んでみることとします。
『正信偈』は親鸞聖人の主著である『教行信証』の行巻の帰結として述べられている讃歌・偈頌〈げじゅ〉であります。そもそも『教行信証』とは『大無量寿経』すなわち『大経』を親鸞聖人がうけられたもの、『大経』の“論”であります。
『観無量寿経』をうけられたものに善導大師の『観経疏』という秀れた書がありますが、『教行信証』は『大経』の、さらにいえば「浄土三部経」の唯一の“論”であると思われます。
さらにいえば『大経』の本願に立って全仏教をうけられた仏教の“論”であります。この『教行信証』の性格・仏教における位置がそのまま『正信偈』の性格であり位置であるのであります。
「浄土三部経」の中、『大経』は法の真実をあらわし、『観無量寿経』すなわち『観経』は機の真実を明すといわれています。
『大経』は法の真実、つまり真実の道理・原理をあきらかにされているのであって、本願の教法として救済の道理・存在の道理を説かれている。
それに対して『観経』は機の真実、時と機・時代と人間というものの真のすがたを明らかにされているのであります。
『観経』に問題とされている機とは、末法(時)の凡夫(機)であります。我々は『観経』によって末法の凡夫の自覚をあたえられ、『大経』に説かれている法・道理によって自己そのもの、存在そのものの意味をはっきりすることが出来る。そこに新しいいのちの世界を見だしていくことが出来るのであります。
『観経』が明らかにしているものは、末法という時代と凡夫という機でありますから、今日的に申しますと現代的人類ということであります。
つまり『観経』は、個人的関心ばかりに生きている人間に、この現代人類として自己の自覚をあたえる経典であります。
このように『大経』と『観経』に説かれている教説から考えてみますと、今の世といいますか、この現代の世界には人間とかものとかいうあらゆるもの(諸法)が存在しているのでありますが、我々は自分の周辺のことばかりに眼がくれて現代的人類という責任の自覚もなく、存在の道理・意味も知らず、またそれを考えてみようともしないから方向も道も見出すことが出来ないで迷い苦しむのであります。
今日の人間社会の苦しみを「出口のない苦悩」といわれているのでありますが、まさにそうであります。
ふりかえってみますとき、このような『大経』の論――浄土三部経を『大経』におさめ、釈尊の一代の仏教を『大経』におさめた意味で――『大経』の論である『教行信証』がもっている今日的意味は大きいものがあります。
このことは『教行信証』の中の讃歌・偈頌であります『正信偈』が、また、その中にもっているものであるということを思うのであります。
『正信偈』学習の出発点
このような今日的意味をもち、その背景に深い本願の構造をもっている『正信偈』を今日・現代の課題をもって学ぶわけであります。
とくに、このテキストは『正信偈』依経段の後半の「本願名号正定業」から学ぶことになっています。これには深い意図があるわけですが、そのことを述べますに先だって、少し『正信偈』の構成を申してみます。
┌帰敬序(序分)──初二句
│ ┌─依経段──三部経、とくに『大経』に依る
├正宗分(本文)┤
│ └─依釈段──七高僧の論・釈に依る
└流通分(結文)──終四句
まず、上のように大きく分けられます。依経段が二つに分かれて「法蔵菩薩因位時」から「一切群生蒙光照」までが『大経』の上巻により、「本願名号正定業」から「難中之難无過斯」までが『大経』の下巻によってご製作になっています。
この場合『大経』の上巻は如来浄土の因果、下巻は衆生往生の因果をあかすと憬興師は分けておられますが、つまり上巻は如来の問題、本願の問題が説かれて、弥陀の直説。下巻は我々衆生の問題、いいかえれば衆生のうえに本願が事実となって成就する問題が説かれている。
すなわち釈尊の体験をとおされた表白が説法として説かれているわけであります。ことに下巻のはじめは本願成就文が説かれています。
このたびこの『正信偈』の学習会は、この本願成就文の意〈こころ〉をうけられた「本願名号正定業」からはじめられるわけであります。
本願成就とは、本願の法が機(人)のうえに成就するということであって、本願が私自身のうえに成就・完結するということであります。
ところが法然上人は念仏往生の本願と名づけられた『大経』上巻の第十八の本願の立場とされ、親鸞聖人は『大経』下巻の本願成就を立場とされています。
ここに親鸞聖人の教えの大きな特徴があります。本願が自己のうえに成就し完結している事実、いいかえれば信心の確かな証明〈あかし〉・確証から出発し説きおこされているのが聖人の教えであり、これが真宗の立場であります。
この点を、この『正信偈』の学習会はあきらかにしようと計画されたのでないかと思っております。
今日、宗教の必要性は教育者も評論家も、だれもがいっており考えているのであります。共産党の宮本委員長も宗教接近を主張していました。
しかし、それらの人々は宗教経験にたつ宗教的自覚・信心がはっきりする、つまり宗教そのものに出あう、本願成就するということなく宗教を問題にしているのですから、「何が宗教であるか」という宗教そのものがわからずに問題にしているということになるのであります。
でありますから、せっかくの宗教に対する主張も単なる願望であり観念的な希望にすぎないのであります。
このように考えますと、今日もっとも必要なことはまず宗教に出あう、宗教的自覚をはっきりすることが大切なことになりましょう。
その点、親鸞聖人の宗教は、宗教そのものに出あったところから述べられていますから、観念的な宗教論でない、というところに大きな意味があります。
信心の確証・宗教心の確証のうえに立って道理・原理として説かれているのであって、他の宗教が終着点とするところから出発されているのが、真宗であります。
この意味から、今日宗教の必要性が求められれば求められるほど、信心の確証・宗教心の確証が、また親鸞聖人の教えが大切なものとなってきます。
「本願名号正定業」から出発する。この『正信偈』学習会のねらいは、以上のごとき点が深く考えられているのだと思うのであります。