『正信偈』学習会テキスト
未来の道標 U

  六  大信の利益
   B心光摂護の益

  摂取心光常照護 已能雖破無明闇
  貪愛瞋憎之雲霧 常覆真実信心天
  譬如日光覆雲霧 雲霧之下明無闇
   摂取の心光は常に照護したもう。已〈すで〉に能〈よ〉く無明の闇を破すと雖も、貪・愛・瞋・憎の雲霧、常に真実信心の天を覆えり。譬えば日光の雲霧に覆わるれども、雲霧の下明かにして闇なきが如し。

   要 点
 この六句に本願念仏の第三の利益をあげられているが、仏の光明に常に照護されているということを初一句で示されている。
 後五句はそれについて疑問のある点をあげて解釈を加えられているのである。仏の光明に摂めとられても煩悩がおこるが、これでいいのかという疑問にこたえて、煩悩があっても生活が暗くないのが信心の得であると説かれているのである。
 第一の益・不断煩悩得涅槃の句を思わしめられるとともに、煩悩の問題はどこまでも離れないことを考えさせられる。


   心光と色光

 この第三の利益をひとことでいえば、宗教生活は絶対的に明るいものである、ということであります。
 まず最初の一句でありますが、これは『観経』の弟九真身観の
  一々の光明遍く十方世界を照し、念仏の衆生を摂取して捨てたまわず。
という釈尊が本願念仏に目ざめられた表白のお言葉によられたものであります。

 この『観経』の言葉から※遍照の光明(色光)と摂取の光明(心光)とに分けられるのでありますが、色光とは仏さまの色身 〈からだ〉から放たれる光、いいかえれば本願の光であり、心光とは信心の人を照らし護られる光であります。
 『正信偈』では始めの「普放無量無辺光・・・・・」と説かれている光は色光、いまここに「摂取心光常照護」とあるのは心光であります。
 この色光・心光の問題は善導大師もまた『正信偈』の親鸞聖人も色・心二光に分けておられますが、別に光明は二つ別々にあるというわけではありません。
 「一々の光明は遍く十方を照す」であって木も石も動物も人間も、貧しい人間も豊かな人間も、みな光の中にであります。
 ただ摂取され救われるのは「念仏の衆生」だけである。その念仏の衆生とは自覚した人間ということ、光明の中にあることを自覚した人間だけが光明の主〈あるじ〉となる。護られ救われていることを実感するというのであります。

 ここに照護とあります、照とは自覚、護とは護られる。つまり護られるとは新しい光の中に住する。安住する。光の中にあって落着いた心で歩み生活していくということでありますが、それは仏の光明の中にあるという自覚がなければなりません。
 自覚をもったことを心光に照らされたというのでありますから、自覚をもった時が心光に照らされた時であります。

 『尊号真像銘文』に自らご解釈になって
  「摂取心光常照護」というのは、無碍光仏の心光つねにてらしまもりたもう故に、
  無明の闇はれ生死の長き夜すでに暁になりぬと知るべし。
と説かれていますが、照護された事実は生活が明るくなったということであります。

 さらに「無碍は有情の悪業煩悩にさえられずとなり」(『唯信抄文意』)とありますように、悪業煩悩があるままにそれによって邪魔されないということであります。
 悪業煩悩はわたしのうえの問題ですが、何かの縁(外縁)によるもので自分の力で何んともならないのですが、我々は、それを無自覚のまま邪魔に思って困ったり何んとかしようと暗い人間になるのであります。
 しかし、その悪業煩悩を縁として教えを求めていくとき、悪業煩悩に邪魔されることなく、それがあるために、かえって聞法のはげみをもって立ちあがっていく。そこに明るく安住する。内面的充実感をもって生活していくことができる。これが摂取の光明に照護された利益であります。

   無明の二重性

 いかなる宗教も光・光明 ということを説くのでありましょうが、人類の歴史は光にあうということ、明るくなるということを求めてきた歴史といっていいでありましょう。
 それほどに人間の世界は暗いのであります。絵画の歴史を見ますと、原始人の時代の絵画は原始本能によって自然と一如の生活をしていますから明るく豊かでありますが、人間が理知・自我の目ざめをもちはじめますと絵画でも彫刻でも暗くなって来るのです。

 人類の歴史は暗い歴史が、どれほど長いかということを思うのであります。それだけに光明を求めて来たわけでありますが、本願念仏の教法・よき師の仰せを聞くとき、直ちに明るくなる、生活自体が明るく、人生の方向が明るくなるのであります。

 この光明の世界は、直ちに、一念・一瞬にひらかれるものでありますが、しかし、人間はまだ闇の世界に、理知・自我の世界に戻ってしまうのであります。この点を
  已能雖破無明闇 すでによく無明の闇を破すといえども
と説かれていますが明とは不了仏智、仏様の智慧のはたらきを了解しない、本願疑惑つまり本願のお心を疑って(罪福を信じ善本を修するなどと『疑惑和讃』に説かれているのでありますが)本願に自力を加えて考える、それを無明という。仏智・本願のお心に明らかでない、それが無明。無明があるとき闇の世界となるのでありますが、この無明の闇は、先の「能発一念喜愛心」と一念の信をおこしたとき破ったのであります。

 しかし、ここに「すでに、よく破るといえども」という問題が新しく出されているのであります。
 『歎異抄』第九章に唯円房が「念仏申し候えども」と親鸞聖人にうったえているところのものであり、※曇鸞大師も「称名憶念することあれども」と告白されています。宗教生活に入った者の新しい課題であります。

 ※信巻に引用されています曇鸞大師のお言葉によってみますと、無碍光如来の御名、つまり本願の言葉に出あえば一切の無明が破られて一切の志願が満たされる。如何なる願いも充実する。――これは大きい言葉だと思います。
 しかし、今日になってみると「無明なお存して所願を満てざるものは如何」と。破られた先の無明は疑無明、今の無明は煩悩による無明。その煩悩無明があって満たされない、充実感がなくなったがどうしたものかという問いをおこして「実の如く相応せざると、名義と相応せざるが故に」と答えておられます。
 本願の名号つまりよき人の仰せに問題があるのじゃない、こちらの姿勢に問題があるのだと答えられています。

   一歩を確める

 『高僧和讃』の曇鸞章にくわしく述べられているものですが、念相続しないのは、いいかえれば充実感が続かないのは決定の信がないのだ、実の如く相応しないからだと説かれています。つまり本願の名号に対する姿勢が高いということであり、信心を失っているということであります。

 『正信念仏偈聴記』には、参考として仏教学の見惑〈けんわく〉・修惑〈しゅうわく〉の問題を出しておられますが、見惑とは真宗でいえば本願疑惑の無明ですが、それは「石が瓦を破るが如し」というごとく直ちに破れる、「よき人の仰せをこうむりて信ずる他に別の子細なきなり」と頓断〈とんだん〉されるのでありますが、その後に残る惑を修惑・修道位の惑で、これは生涯の間おこってくるに従って克服していく、漸断〈ぜんだん〉されるものであります。一歩一歩断じていくということが大切であり、その姿勢が問われるのであります。
 「信心を得たといったとて、あわてるな」ということでしょうか。「もっとじっくりと自己の内面を見つめ、一歩一歩、教えを聞く姿勢を正していくことだ」ということでしょうか。
 こういう問題点を「無明の闇を破すといえども」というお言葉から受けとるのであり、「いえども」の四字の重さを感じるのであります。

 そうするとき、我々に求道の歩みをとどめているのは貧・愛・瞋・憎といわれる煩悩であります。煩悩の雲霧が真実信心をおおいかぶせ閉じこめているのであります。

 貪愛瞋憎之雲霧  貧・愛・瞋・憎の雲霧
 常覆真実信心天  つねに真実信心の天をおおえり
とあって、光にあってもいのちを見出しても、生活の中で、いろいろの迷いが、煩悩が出てくる。生活の中でいろいろ迷いが、煩悩がでてくる。そうすると光を失うてしまう、これが凡夫の現実であります。

 ※凡夫とは「欲も多く、いかり腹だちそねみねたむ心」が全身にみちみちて生涯たえないものでありますから、宗教の門に入っても、その宗教的世界を煩悩がくもらせてしまう、という事実は自己のうえにも、他の求道者の生活のうえにも常に発見することであり、「あんなことでいいのか」と批判がましいことをいったり、「こんなことでいいのか」と自己の身をちらっと悲しむ心が出てくるのではないでしょうか。

   光と闇と曇り

 『歎異抄』の第九章の唯円房の問いに対する親鸞聖人の答えを思いおこすのであります。
  親鸞もこの不審ありつるに、唯円房同じ心にてありけり。よくよく案じみれば、
  天に踊り地に躍るほどに喜ぶべきことを喜ばぬにていよいよ往生は一定と思
  いたもうべきなり。よろこぶべき心を抑えてよろこばざるは煩悩の所為なり。し
  かるに仏かねて知ろしめして煩悩具足の凡夫と仰せられたることなれば「他力
  の悲願は、此〈かく〉の如きのわれらがためなりけり」と知られて、いよいよたの
  もしくおぼゆるなり。
とご自身の表白を述べられているのですが「他力に悲願は、此の如きのわれらがためなりけり」というお言葉によって、あらためて本願の歴史に帰えり、新しく深く広く光の世界を感じることができるのであります。
このお言葉を聞いた唯円房の感激を眼の前に見るごとく思うのであります。

  『正信偈』のこの章において、宗教における光と闇の問題を学んでいるわけでありますが、前にもふれましたように、どの宗教においても光とか光明とかを課題にするのでありましょうが、親鸞聖人の宗教は『正信偈』のこの章に来って、また『歎異抄』の第九章に及んで光の性格がまったく変わるのであります。

 譬如日光覆雲霧  日光の雲霧におおわるれども
 雲霧之下明無闇  雲霧の下明らかにして闇なきがごとし
と一つの譬えを出されて「雲霧の下明らかにして闇なきがごとし」という譬えをもって深い光といいますが、親鸞の宗教の光を説かれているのであります。

 さらに、この点をみずから※『尊号真像銘文』にくわしく解釈されて
  貪愛・瞋憎のくも・きりに信心はおおわるれども往生にさわりあるべからずとなり。
と結ばれています。

 煩悩は求道生活をとどめないのだと教えられていると述べられています。
 この「ごとし」とか「となり」とかと明言をさけたような言葉で答えられているのですが、このような、ちょっと考えるとはっきりしない言葉で、深い光とか深い意味とかを語りかけておられるのでありましょう。

 生涯はなすことの出来ない煩悩・悪業をもっている凡夫は、本願の教法に導かれていくときに、「もうわかりました」とか「もう仏になることが出来ました」とかはいえないのでありますが、一歩一歩歩んでいくときに、碍〈さわ〉りが碍りにならない、障害となるものがなくならないのですが、その障害を機縁としてまた教法に帰っていくというように一歩一歩を確かめ確かめて求道していくことができるのであります。
 そのときの精神生活は真っ暗にならない、曇りの日であるが太陽の下は明るいと譬えられていますが、夜の闇とは違うというわけであります。

 ここで思うのでありますが、もし教法がなかったら、このようにはいかない。
 教法とは、具体的には本願の教団・僧伽でありますが、本願に師と友があるとき、呼びかける師、励まされる友があるときに煩悩・悪業をもったまま落着いていくことが出来る、そういう問題をここに示されているのでありましょう。

 この一節には『歎異抄』第九章の親鸞と唯円、師と弟子との対話のごとき具体的な問題があるわけであります。
 ひとたび僧伽に参加すれば、召されれば闇があって明るい、煩悩に迷うことがあっても心配はいらない、いわゆる光と闇というものではなく、暗ければ暗いほど僧伽の光がつつむ、師と友が願いかけ呼びかけるのであります。

 考えてみますと『正信偈』の「本願名号正定業」以下は釈尊から親鸞聖人までの本願の僧伽の、いいかえますと師と弟子によって一歩一歩実行され実践された報告の言葉であります。
 その背景には、はっきりとした歴史的事実があるわけであります。また親鸞聖人の自己の求道生活のうえに実感として体験された事実があるわけです。信心の利益を述べられているこの節などは、とくに、その体験をとおして、本願念仏の教えの徳を讃嘆されているのであります。本願の僧伽に対する感謝の心を述べておられるわけです。

 註(※印)  (六  B心光照護の益)
1『観経』(全一57右5 法146上左6 明93上左6)
 念仏の衆生をば摂取して捨てたまわず。

2『論註』巻下(全一314右6)
  然るに名を称し憶念すること有れども、無明由〈な〉お存して、所願を満てざる者。(信巻)本(法323左5 明236右1)

3『観念法門』(全一628左1)
  彼の仏心の光常に是の人を照らして摂護して捨てたまわず。総じて余の雑行の行者を照らし摂めんと論ぜず。

4『観念法門』(全一628左2)
 身相等の光、一々に遍く十方世界を照すに(色光)、但し、阿弥陀仏を専念する衆生のみありて、彼の仏心の常に是の人を照らし摂護して捨てたまわず(心光)。惣じて余の雑行も行者を照摂せんと論ぜず。

5『信巻』(全二50右5 法323左8 明235左4)
 「称彼如来名」とは、謂く無礙光如来の名を称するなり「如彼如来光明智相」とは、仏の光明は是れ智慧の相なり此の光明十方世界を照らすに障礙有ること無し、能く十方衆生の無明の黒闇を除く日月珠光の但室〈しち〉穴の中の闇を破するが如きには非ざるなり「如彼名義如実修行相応」とは、彼の無礙光如来の名号は、能く衆生一切の志願を満てたまふ然るに称名憶念すること有れども、無明由ほ存して所願を満てざる者はいかんとならば、実の如く修行せざると、名義と相応せざるに由るが故なりいかんが実の如く修行せず、名義と相応せざると為すや謂く如来は是れ実相身なり、是れ為物身なりと知らざればなり、と又三種の不相応有り一には信心淳からず、存せるがごとく亡せるがごときが故に二には信心一ならず、決定無きが故に三には信心相続せず、余念へだつるが故に此の三句展転して相成ず信心淳からざるを以ての故に決定無し、決定無きが故に念相続せず又いふべし、念相続せざるが故に決定の信を得ず、決定の信を得ざるが故に心淳からず、是と相違せるを「如実修行相応」と名く是の故に論主はじめに「我一心」とのたまえり、と。

6『化土巻』(全二165左5 法466左3 明364左1)
 真に知んぬ専修にして而して雑心なる者は大慶喜心を獲ずかるがゆえに宗師は「彼の仏恩を念報すること無し業行を作すと雖も心に軽慢【カロシメアナドル】を生ず、常に名利と相応するが故に人我自ら覆うて同行・善智識に親近せざるが故に楽みて雑縁に近きて、往生の正行を自障障他するが故に」といへり悲しい哉垢障の凡愚無際よりこのかた助・正間雑し定・散心雑はるが故に出離其の期無し自ら流転輪回をはるかに微塵劫を超過すれども仏願力に帰しがたく大信海に入りがたしまことに傷嗟【ナゲキナグク】すべし深く悲嘆【ナグク】すべし。

7『高僧和讃』曇鸞章(全二506右5下 法466右1下 明161右1)
無碍光如来の名号と かの光明智相とは 無明長夜の闇を破し 衆生の志願をみてたまふ
不如実修行といへること 鸞師釈してのたまはく 一者信心あつからず 若存若亡するゆえに
二者信心一ならず 決定なきゆえなれば 三者信心相続せず 余念間故とのべたまふ
三信展転相成す 行者こころをとどむべし 信心あつからざるゆえに 決定の信はなかりけり
決定の信なきゆえに 念相続せざるなり 念相続せざるゆえ 決定の信をえざるなり
決定の信をえざるゆえ 信心不浄とのべたまふ 如実修行相応は 信心ひとつにさだめた


8『正像末和讃』(全二517中1 法249下右1 明167左4)
無明煩悩しげくして 塵数のごとく遍満す 愛憎違順することは 高峰岳山にことならず

9『一念多念文意』(全二618右6 法611右1 明498左6)
「凡夫」というは、無明煩悩われらがみにみちみちて、欲もおおく、いかりはらだち、そねみねたむこころおおくひまなくして、臨終の一途にいたるまで、とどまらず、きえず、たえずと、水火二河のたとえにあらわれたり。かかるあさましきわれら、願力の白道を一分二分ようようづつあゆみゆけば、無碍光仏のひかりの御〈おん〉こころにおさめとりたまうがゆえに、かならず安楽浄土へいたれば弥陀如来とおなじく、かの正覚のはなに化生して大般涅槃のさとりをひらかしむるをむねとせしむべしとなり。

10『口伝抄』(全三5右5 法691右7 明567左3)
無礙光の日輪照蝕せざるときは永永〈ようよう〉昏闇の無明の夜あけず。

11『六要鈔』第三末(全二307右6)
心光と言うは、此れ光に身相心想を分ってその体各別なるにあらず。ただ義門に就いて宜しくその意を得べし、仏の慈悲摂受の心を以て照蝕する所の光、これを心光と名づく、是れ念仏の行相仏心と相応す、その仏心とは慈悲を体と為す。

12『正信偈大意』(全三390左2)
「摂取心光常照護、已能雖破無明闇、貪愛瞋憎之雲霧、常覆真実信心天、譬如日光覆雲霧、雲霧之下明無闇」というは、弥陀如来念仏の衆生を摂取したまうひかりはつねにてらしたまいて、すでによく無明の闇を破すといえども、貪欲と瞋恚とくも・きりのごとくして真実信心の天におおえること、日光のあきらかなるをくも・きりのおおうによりてかくすといえども、そのしたはあきらかなるごとしといえり。

13『御文』五帖目第六通(全三503左4 法855左6 明708左5)
一念に弥陀をたのみもうす我等衆生に回向しましますゆえに、過去・未来・現在の三世の業障一時につみきえて正定聚の位また等正覚の位なんどに定まるものなり。