『正信偈』学習会テキスト
未来の道標 U

  六  大信の利益
   C横超悪趣の益

   獲信見敬大慶喜 即横超截五悪趣
 信を獲て見て敬い大きに慶喜すれば、即ち横に五悪趣を超截す。

 要点
 この二句は、信の徳益として信の一念に直ちに五悪趣をはなれ、無上涅槃を得る身となるという利益をしめされている。


   この信を崇めよ

 この「獲信見敬大慶喜」という一句は、『正信偈』の御草稿本である坂本本を見ますと「見敬得大慶喜人」すなわち「見て敬い得て大きに慶喜する人は」と書かれて消され、それから「獲信見敬大慶人」と左横に書かれているのであります。
 それがさらに現在使用されている『正信偈』には「信を獲て見て敬い大きに慶喜すれば」となっているのですが、親鸞聖人が何回も考えて書きなおされているわけでありますから、とくに深く読みとらなければならないということを思うのであります。

 この一句は『大経』の※「東方偈」の後半にある「法を聞き能く忘れず、見て敬い得て大いに慶〈よろこ〉ばは」とある句をうけておられるのであります。
 「東方偈」の後半は第二十願の意をのべられて、人の生命は得がたく、また仏の世に遇い難く、信は得難いものであるということを説かれているのであります。

 考えてみますに親鸞聖人の宗教を一貫する精神は、遇い難いものに遇い、得難いものを得ることが出来たという感動であり、謝念であります。
 この精神を書きあらわそうと、しかも自己の体験としてでなく、客観的な道理として表現しようと苦労されていることを御草稿本のこの一句を何度も書きあらためておられる点から感じるのであります。

 「東方偈」には「法を聞き能く忘れず」とある言葉を『正信偈』には「獲信」といわれています。
 信とは帰命であり願生心であり、『歎異抄』でいえば「念仏申さんと思い立つ心」であり、みずから思いたった心・純粋意欲でありますから、どこまでも自己の責任において得たものであります。
 天下りにどこからか降って来たものでなく、いわばみずからが獲得したものでありますから獲信と説かれています。しかも、その信は「東方偈」に「能く忘れず」と説かれているごとく憶念――深い心の底にずっと相続されるものであります。

 しかし、みずからが獲得した憶念の信でありますが、事実としてはよき師の導きによってひらかれたものであり、僧伽によって賜った信であります。
 みずからの上に賜った信、だから「見て敬う」べきもの、頂戴すべきもの、尊敬し尊ぶべきものであります。
 この故に『教行信証』の総序には「唯、斯の信を崇〈あが〉めよ」と説かれているのであります

   大乗の慶喜心

 この一句は、先の「能発一念喜愛心」をうけて、さらに一念の信を深めておられるのでありますが、我々の求道において、よき師すなわち善智識とか僧伽とかの恩を自覚するしかないということが大きい問題であることを示されるのが、この一句であります。自覚しないときの信を第二十願の信、自力の信といいます。

 如何なる場合でも、信というものは賜ったものであり、歴史的なもの回向されたものでありますが、そのことを自覚しないで信を私するとき、それを自力の信というのでありますが、その信によってひらかれた喜びは、慶喜心とはいえましょうが大慶喜心とはいえないのであります。
 慶喜と大慶喜とは、まったく、その内面的充実感の次元が違うのであります。
 この点を※化身土巻に「専修にして、しかして雑心なる者は大慶喜心を獲ず。」ときびしく断定されています。

 法友のK君があるところで、自己の宗教経験の感動を話されたとき、先輩が
 K君は真面目な求道者だけれど、あの喜びでは、光明はあるが寿命がないから注意してあげなければ、・・・・・・。
といわれたことを思うのであります。

 自己の宗教経験だけにとどまれば光明の世界、いまいうところの慶喜心はあるのですが、本願の歴史(寿命)から賜ったという自覚がなく、頂戴する姿勢がありませんから大慶喜心にならない、深い喜びにならない点を、その先輩は注意されたのであります。
 K君は、それから求道の姿勢をかえられたのですが、先輩の、この忠告は深く印象にのこっているのでありましょう。

 このように『正信偈』の“大”の一字はまことに大きく重い意味をもっています。もし親鸞聖人の宗教が、他の宗教と違う点がるとすれば、それはこの一点であろうと思うのであります。

 みずからのうえに得た信を賜ったものと頂き直す。歴史的自覚に立つとき内面的感動の世界は深くなるのですが、この感動・大慶喜心こそは大乗の菩薩道にたった感動であります。
 大慶喜とは大乗の慶喜心、師も友も自己も、いいかえれば如来が慶喜され如来の慶喜心を賜るのであります。
 個人的経験は如何に純粋であっても、それはその人だけの経験である。そのような個人的経験をこえたものを賜るのです。
 そこには人類の未来をもつつまれる、大乗の菩薩道・本願の歴史に自己がつつまれ、自己をとおして本願そのものが未来をつつんでいくような、大きな歴史的位置をあたえられた喜びを、「信を獲て見て敬い大きに慶喜すれば」と説かれているのであります。

 ※『尊号真像銘文』には
  この信心をえておおきに、よろこびうやまう人というなり。
と注釈しておられますが、よき師・善智識の導きによってひらかれた内面的感動の世界を「喜び敬う」というように表現しておられるのであります。
 大慶喜心とは敬いの心をもった喜び、謙虚な態度のうちに満たされた充実感。まさに帰命の世界であります。

    教学批判の意義

 「獲信見敬大慶喜」の一句は回向の信そのものの内面といいますか内容を説かれているのですが、次の一句はその働きを示されているということが出来ます。

 即横超截五悪趣  即ち横に五悪趣を超截す
とある即〈そく〉とはただちに、横〈おう〉とは「如来の願力・他力を申すなり」と※『銘文』に説かれています。
 我々のうえにひらかれた信は、他力回向の信心である、本願力回向・本願の歴史から賜ったものである、具体的にいいますと私の経験をつみあげて生まれたものではない、理知の延長ではない、よき師にあうことによって不思議に生まれたもの、それを横というのであります。

 この横に対するものが竪〈じゅ〉であります。横はよこ、竪はたて、よことたて、横・竪という言葉で親鸞聖人は釈尊の一代の間にとかれた仏教・一代仏教を分類・批判して本願の仏教・真宗を明らかにされているのであります。

 竪の仏教は聖道門・自力、その竪の仏教を竪超〈じゅちょう〉と竪出〈じゅしゅつ〉に分け、横の仏教とは浄土門・他力でありますが、その横の仏教をやはり横超と横出に分けられています。
 『正信偈』の今の場合は「横超」でありますが、横出の仏教は浄土宗・法然門下の人々の流れ、横超の仏教とは本願他力の真宗であると分けられているのであります。

 このように仏教を分類・批判をする、それを教相判釈〈きょうそうはんじゃく〉、つまり教学批判といいますが、釈尊はそのときそのとき、その人その人、すなわち時機に応じて経典を説かれているのであります。それが釈尊一代の仏教であります。
 でありますから、我々が、自己が求める道として仏教を学びます場合には、道を定めなければなりませんが、そこに出てくる問題が教相判釈・教学批判であり、それによってわが歩むべき道(宗・宗旨)が定まるのであります。
 親鸞聖人は道綽禅師からの伝統をうけて末法の凡夫の自覚に立ち、横超他力の道として本願の宗教を明らかにされたのであります。

 さらに※『銘文』に
  超は生死の大海を易〈やす〉くこえて、無上大涅槃のみやこに入るなり
と述べられていますが、迷いの世界を易く超える、苦労し努力して超えるのでなく楽々と超える。超という字に易くこえるという意味が辞書に出ているかどうかはわからないのですが、親鸞聖人が体験をとおし、身に感じとられたところから解釈されていることを思うのであります。

 即の字とか横超という言葉とかをもちいて本願念仏の信心の利益が理知的な理解をこえたものであることをいいあらわされているのであります。

    迷いの世界を超える

 次いで「五悪趣を截〈き〉る」という。趣とは世界という意味、五悪趣とは五つの悪の世界、地獄・餓鬼・畜生・人間・天上であります。つまり迷いの生活(業)のところに感じられる世界であります。

 地獄というのは苦の世界でありますが、なかなか複雑な幅広く深い世界で、たとえば殺生とか邪見とかという業をもった人は、その業をもったとき、そこに地獄の世界を感じるのであります。
 餓鬼道は貪欲の心をもった人が、畜生道はやはり愚痴の人が感じている世界であります。
 人間道とは汚れ(不浄)とか苦とか無常を感じるところにひらかれる世界で、痛み(厭離)の心をもったときはじめて人間になるのであります。そうでないときは地獄とか餓鬼道の生活をしているわけであります。
 次に、天上界もなかなか広く、欲界・色界(この二つの世界は物質的世界)・無色界(精神的世界)の三界にわたってあるもので、その天上界の最も高いところを非相非非想天と名づけ、これを有頂天というのであります。天上界は、どれほど高い位にのぼっていても花がしぼむようにしぼんでしまう、衰えると説かれているのであります。

 このように、仏教は人間の世界・流転の世界を五悪趣・五道として、また修羅道(瞋恚の人々の世界)を加えて六道として説いているのであります。
 この神話的に表現されている五道・六道説、さらに地獄・極楽として了解されている仏教の世界観の今日的意味をあきらかにしなければならないでありましょう。
 まさに五道とか六道として分析されている迷いの世界は、我々の眼の前の現実の世界であります。

 いま、くわしく申すことは出来ませんが『往生要集』という秀れた書物がのこされているのでありまから、仏教の世界観、すなわち地獄・極楽の今日的意味を学ぶことも大切なことでありましょう。

 しかしもう一つ押して考えてみるとき、大慶喜心の世界にあっては、五悪趣の現代的意味を学ぶに先立って、現代人類の流転の問題を根底的に解消していく、しかも横超の教学ですから、直ちに解決するということを改めて自覚しなければなりません。
 ただ、解決し超えたところからこそ、五悪趣の現代的意味もはっきりすることでありましょう。
 また、この五悪趣の世界こそ現代人の生活そのものでありますが本願の教法に照らして具体的に五悪趣の世界を明かにしていくことは、本願の教法に導かれた者が現代の世界・人類にこたえ、その未来への方向を示す責任があることを思うのであります。

  註(※印)  (六  C 横超悪趣の益)

1『大経』巻下(東方偈)(全一27右1 法70左7 明44右6)
 若し人善本無ければ、此の経を聞くことを得ず 清浄に戒を有てる者、乃し正法を聞くことを獲ん。むかしかって世尊を見しもの、則ち能く此の事を信ず、謙敬にして聞きて奉行し、踊躍して大に歓喜す。[キョウ02]慢と弊と懈怠とは、以て此の法を信ずること難し、宿世に諸仏を見しもの、楽みて是の如きの教を聴かん。声聞或は菩薩、能く聖心を究むること莫し、譬へば生れてより盲いたるもの、行いて人を開導せんと欲んが如し。如来の智慧海は、深広にして涯底無し、二乗の測る所に非ず、唯仏のみ独り明かに了りたまへり。假使一切の人、具足して皆道を得、浄慧本空を知り、億劫に仏智を思い、力を窮め極めて講説して寿を尽くすも猶知らず、仏慧の辺際無きことを、是の如くして清浄に致る。寿命甚だ得獲く、仏世亦値い難し、人心慧有ること難し、若し聞かば精進して求めよ。能く法を聞きて忘れず見て敬い得て大に慶ばは、則わち我が善き親友なり、是の故に当に意を発すべし。設い世界に満てらん火をも、必ず過ぎて要めて法を聞かば、会ず当に仏道を成りて、広く生死の流を済う。

2『大経』巻下(全一31右2 法81右5 明51右5)
 横に五悪趣を載り、悪趣自然に閉じん。道に昇るに窮極無し。

3『信巻』末(全二73左5 法355右2 明263左7)
 横超とは、横は竪超・竪出に対す、超は迂に対し回に対する言〈ことば〉なり。竪超とは、大乗真実の教也。竪出は大乗権方便之教、二乗・三乗迂回之教也。横超とは、即ち願成就一実円満之真教、真宗是れ也。亦復横有り、即ち三輩・九品・定散之教、化土・懈慢・迂回之善也。大願清浄の報土には、品位階次を云わず、一念須臾の頃〈あいだ〉に、速かに疾〈と〉く無上正真道を超証す。故に横超と日う也。

4『信巻』末(全79左4 法362左2 明270右3)
 真に知りぬ、弥勒大士、等覚金剛心を窮むるが故に、龍華三会の暁、当に無上覚位を極むべし。念仏衆生は、横超の金剛心を窮むるが故に、臨終一念の夕べ、大般涅槃を超証す。

5『尊号真像銘文』(全二562右8 法588右2 明474左6)
 「横載五悪趣、悪趣自然閉」というは、横はよこざまという、よこざまというは如来の願力を信ずるゆえに行者のはからいにあらず、五悪趣を自然にたちすて、四生をはなるるを横という、他力ともうすゆえなり。

6『尊号真像銘文』(全二562左5 法588右4 明474左3)
 横は竪に対することばなり、超は迂に対することばなり、竪と迂とは自力聖道のこころなり、横と超はすなわち他力真宗の本意なり。

7『二双四重の教判』
 (二双四重の教判図 2006shotxt06d_7.pdf)

8『尊号真像銘文』(全二562左3 法588右6 明474左2
 載というはきるという。五悪趣のきずなをよこざまにきるなり。

9『尊号真像銘文』(全二602右8 法599右6 明484左6)
 「獲信見敬大慶喜」というは、この信心をえておおきによろこびうやまう人という也。「即横超截五悪趣」というは、信心をえつればすなわち横に五悪趣をきるなりとしるべしと也。横超は、横はよこざまという、如来の願力なり、他力ともうすなり、超はこえてという、生死の大海をやすくよこざまにこえて無上涅槃のさとりをひらく也。信心を浄土宗の正意としるべき也。

10『正信偈大意』(全三391右4)
 「獲信見敬大慶喜」というは、法をききてわすれず、おおきによろこぶひとをば、釈尊(『大経』巻下)は「わがよきし親友なり」とのたまえり。

 11『正信偈大意』(全三391右6)
 「即横超截五悪趣」というは、一念慶喜の心〈しん〉おこれば、願力不思議のゆえに、すなわちよこざまに自然として地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天のきずなをきるといえるこころなり。