第一章 はじめに名号あり
二、阿弥陀は無量寿・無量光という宇宙的法則
阿弥陀は願なり
大自然の世界には永遠の時間(無量寿)と無限の空間(無量光)のいのちが通いあい、いのちの世界(法界)を展開しています。これこそ、日本の祖先から尊み親しんできた“もののあわれ”の世界であり、まことに豊かな世界であります。
この世界こそ、人類が久しく打ち忘れて顧みなかった世界ですが、しかし、いつの頃からか、この世界を捨てて自我に閉じこもっている人類に、大自然は呼びかけているのです。その呼びかけこそ“本願の名号”でありましょう。
この大自然の世界こそ、阿弥陀の三字であらわされている、時間と空間、つまり竪にも横にも、永遠の長さと、また無限の広がりをもったいのちの世界であります。
この世界の生きとし生けるものは、無量寿・無量光(阿弥陀)という宇宙的法則のままに、いのちを創造しつつ生きているのであります。そして、このいのちの流れに反逆し迷うてきた歴史をもつものが人類であります。
人類の歴史は、たとえ、それが如何に華やかであっても、迷いの歴史であり、流転の歴史といわねばなりません。それだけに、また、人類の歴史は、本来的な宇宙の法則に還ろうとする願いをもち、努力を重ねてきた歴史ということができます。
その歴史は、人類のみがもつ宗教史であり精神史であります。この精神史のなかで、直接に、宇宙のいのちの世界に還ろうとする聖道門仏教と、宇宙の、大自然の呼びかけ(名号)を聞くことによって、おのずから還る道を見出そうとする浄土門仏教とありますが、『観無量寿経』の釈尊や、『観無量寿経』に出会って「すでに道あり」と叫んだ善導は、まさしく、阿弥陀という宇宙の法の呼びかけを聞いて、阿弥陀仏となった人であり、浄土門仏教をひらいた人であります。
『観無量寿経』の釈尊や善導は、阿弥陀が阿弥陀仏という人格をもつことができたその人です。
阿弥陀は、善導などの人格のうえに証明されなければ、宇宙的理法としてのみで終わることになったでありましょう。善導などによって、阿弥陀は阿弥陀仏という地上の事実となることができたのです。
この点を『正信念仏偈科文意得』(相伝義書)に
阿弥陀というは願なり。仏というは力なり。願というは法なり。力というは世々先徳なり。
と説かれています。
阿弥陀が、善導などの阿弥陀仏となったということは、まさに“願成就”であります。この願成就の仏がなければ、願であり法である阿弥陀は、無量寿・無量光という宇宙的法則をもち、人類の迷い始めより呼びかけ、願いかけてきた宇宙のいのち(法身)そのものは、地上に働くことができなかったのであります。
さらに、経典には「名を聞く」ということと、「名を称する」ということを説き分けられていますが、そのうちとくに『大無量寿経』の第十七願には、ただ「我が名を称してほしい」と願われているのであります。
すなわち、阿弥陀の名を聞くことによって善導などは、阿弥陀仏になられたわけですが、名を聞くことによって仏になることができた人(諸仏)は、おのずから「名を称える」という感情が湧いてくるものでありましょう。
この感情こそ、帰依の感情であり、南無の感情であり、“呼”に応える“応”の感情であります。この内的な“呼応”の関わりを『大無量寿経』には、第十二・第十三願の光寿二無量の願と、第十七願の諸仏称名の願として誓われているのであります。ここに初めて、南無阿弥陀仏という名号は、内的な感情をあらわす法・原理として形をとってくることとなります。
大自然がもっている阿弥陀(無量寿・無量光)といういのちの法は、阿弥陀仏(諸仏)という地上の人格の身証をとおして、ここに再び南無阿弥陀仏という内的世界の呼応の法、原理としてあきらかにされることになったわけです。
南無阿弥陀仏は内的“呼応”の原理・法則
諸仏の発心の始めを考えるとき、いずれの諸仏も、ひとしく無量寿・無量光なる阿弥陀、いいかえれば宇宙の法から呼ばれて思い立った“願”を、その初心としているにちがいありません。
このように考えるとき、諸仏の“願”は純粋なものでありますが、その“願”をひたすら行ぜんとするとき、理知分別が混ざってきて不純粋なる行となるのです。行に迷うのであります。道に迷いそのために個人的、有限的な世界にとどまってしまうのです。
永遠の時間と無限の空間の世界、それは無限に広がっていく球体ともいうべき世界でありましょうが、諸仏の世界には、そのような無限性はなく、どうしても諸仏自身がもつ、それぞれの業にしたがった世界を超えることができず、有限な世界にとどまるものといわなければなりません。
しかし、それらの諸仏に『大無量寿経』の本願は、「十方世界の諸仏に、わが名を称してほしい」と、諸仏の業を超えた純粋行なる“称名の行”を行じられることを願われています。その本願に応えて称名するとき、そこに南無阿弥陀仏という仏が誕生するのであります。
それぞれの業の世界をもったまま、諸仏は南無阿弥陀仏という名の仏となるのであります。
すなわち、地上の仏である諸仏は、本願に呼ばれ、本願に応えて称名念仏するとき、地上性を超えて、本願の名号であり、本願の道理・原理である南無阿弥陀仏となるのであります。宇宙的呼応の原理である南無阿弥陀仏に生きるのであります。
南無阿弥陀仏とは内的呼応の原理・法則であり、また本願に誓われた道・道理であり、行であります。その行は、“ただ念仏”といわれるごとく、純粋なる行であります。すなわち、純粋なる願をもちながら、行に迷うた諸仏は、南無阿弥陀仏に生きるとき、はじめて願と行が相応することができるのであります。
かねて、諸仏がもっていた願に立って、南無阿弥陀仏という宇宙的呼応の原理のままに生きるとき、また、かねて諸仏がもっていた諸善万行は、すべて名号の功徳として生かされてくることになります。
この点を押さえて『略本私考』には
名号は、諸善万行ことごとく円融円満し、具足成就、欠くることなし。
と、たたえられています。
万行をして同帰せしめる、万善同帰の一乗の法・原理が南無阿弥陀仏という本願の原理であるということになります。
しかし、称名念仏は、仏教の歴史とともに誤解されつづけてきたものでありました。
とくに仏教の内にあっても、外においても誤解されている一つの点は、称名念仏は個人の悩みを解消させるものに過ぎないという誤解です。この誤解は、現代人の宗教に対する根元的な誤解であり、失望かも知れません。
ということは、現代人は個人的な苦悩が救済されても、何んともならない諸問題に迫まられているからでありましょう。現代人の宗教に対する誤解や失望は、それだけ宗教に対する要求が大きく強いことを物語っているといわなければなりません。
『大無量寿経』の本願自身が、南無阿弥陀仏の名号にまで展開してきたのであります。この内的呼応の原理である名号成就までの如来自身の展開には、法蔵菩薩の五劫思惟という長い時間の思索を必要としたと物語られています。
「はじめに名号あり」という「はじめ」までに五劫の思惟という長い時間を要したのであります。
阿弥陀如来が南無阿弥陀仏にまで展開するに、ほんとうに長い時間を要したのですが、さらに、考えねばならないことは、それは、現代人の大きく強い要求に応えるためではなかったということです。
それは阿弥陀仏が阿弥陀仏になるための内的な要求のためであります。純粋にして客観的な法・原理として仏自身を成就したいという切なる(超世)願いからであります。