『教行信証』行の巻の学び
  隠 の 教 学
〈おんのきょうがく〉


    第二章 法蔵菩薩とは
     三、法蔵菩薩の精神・アラヤ識

 人間の深層意識なるアラヤ識
 法蔵菩薩において、自利がおのずから利他になり、利他がおのずから自利になることは、菩薩の「本願力の廻向をもっての故に」と曇鸞大師は注意されているのですが、『大無量寿経』の正宗分(本文)の始めに、法蔵菩薩の物語が説かれています。

 それは、遠い昔に、世自在王仏と名づける一人の仏がおいでになりました。ちょうどその時、一人の国王が仏の説法を聞いて心の目覚めを得、菩提心をおこし、国を棄て王の位をすてて沙門・出家僧となり、法蔵と名のられたと説いています。

 私は思うのですが、法蔵菩薩となられた国王は、民衆のために善政をしいておられたに違いありません。それ故に、政治に対する疑問というか、苦悩をもっておられたことでありましょう。

 なぜかといえば政治は理論ではなく、一つの願いをもった具体的な問題に関わった活動ですから、民衆の中にはその枠からはみ出すものもおれば、背を向けるものもある筈です。
 しかし、それらを捨て去っては政治にならず、それらの人びとをすべて、どうして理想的な方向に治めととのえていくかという活動が政治でしょうが、それは現実的には無理という外ありません。

 ここに政治の限界と妥協があり、政治家の苦悩がある筈です。
 法蔵菩薩となられた国王は、かかる苦悩をもっておられたと思われます。いわゆる政治家ばかりでなく、ほんとうの政治を、つまり物事をなそうと志す人ならば、まず、いわゆる広く深く民意を体に感じとり、聞きとっていく受け身の姿勢がなければならないでしょう。

 『成唯識論』に、人間の深層意識なるアラヤ識は「衆生を摂取して自体とし、一切衆生と安危を共同する」ものであるといっていますが、人間の最も深い心は、生きとし生けるものの業を自己に感じとり、それを背負うて、それらと安も危も同体していくものであるというのです。
 このような性格をもつところのアラヤ識は、まず受け身の姿勢のあるところに開かれていくものでありましょう。

 曾我先生も「真宗相伝義書」も、法蔵菩薩の精神はアラヤ識であると押え、また経典自身も、法蔵菩薩の前身を国王であると説いているところに、十方衆生に願いかけられる法蔵菩薩と、その本願の性格をよくあらわしているものと考えられます。

 「正信偈」に
  覩見諸仏浄土因 国土人天之善悪
  建立無上殊勝願 超発希有大弘誓
と偈われているように、法蔵菩薩は、諸仏の浄土の因となっている諸仏の願いと、その国の人々を明らかに見そなわして、諸仏の願いをこえた浄土建立の願を立てられました。

 ここに、諸仏と法蔵菩薩との願いそのものに、根本的な相異があることが明らかになります。
 それは、曾我先生や「相伝義書」が繰りかえし説かれているように、諸仏は第六識(いわゆる第六感)を、法蔵菩薩は第八アラヤ識を立場にしている相異であるということです。

 先に述べたごとく、法蔵菩薩の前身は国王であったと説いている『大無量寿経』の物語自身が、すでにこのちがいを明らかにしているのであって、一たび政治的な、社会的な関心をもち願いをもって立つ限り、その背に民衆の苦悩の果てしないことを感じないものはないのではないでしょうか。
 かかる国王が菩薩となった法蔵菩薩の場合と、独り出家して個人的なサトリを求めて修行する修行僧の場合と、その心のあり方が本来的にちがうことを知らされます。

 このような法蔵菩薩の本願は、いわば宇宙をつらぬくいのち(法性法身)の、生命的課題を荷負ったものといわねばなりません。
 いいかえれば久遠の弥陀の地上的顕現であり、まさに「相伝義書」に説かれているごとく、果後の因の法蔵の願です。

 改めて『大無量寿経』に説かれている法蔵菩薩の物語自身が、物語でなくてはいいようがないことを物語っているのであって、まことに「利他成就しなければ自利成就はない」という大乗的仏道を物語っていることになります。

 そして、かかる性格をそなえている「衆生を摂取して自体とし、一切衆生と安危を共同する」アラヤ識を立場とする法蔵菩薩は、すでに十劫の昔に成仏して阿弥陀仏となり、自利成就したもうています。
 どうして、この十方衆生を背負うて自利成就したもうた阿弥陀仏が、そのまま利他の働きをもたれないことがありましょうか。
 私たちは法然上人や親鸞聖人のご生涯の上に、このことの事実を見るのであります。

 阿弥陀仏の智恵の徳
 本願成就の阿弥陀仏の智恵を『大無量寿経』下巻に
  諸天・人民・蠕動の類、みな慈恩をこうむり、憂いや苦しみを解脱す。
  智恵明らかに、八方・上下・古来今の事を見そなわして、究暢したまわざるはなし。
と讃えています。

 まず阿弥陀仏の智恵の光は、八方・上下、つまり十方の無辺の世界を照らし、過去・未来・現在の三世にわたって、あらゆる事柄を見そなわしてとどこおるところがないと讃えているのですが、とくに過去・未来・現在の三世のうち、過去とか未来とかは現在の深さであり、内容となるものであります。

 このように無辺の世界(無量光)を摂め、無始無終のいのち(無量寿)を今に生きる仏とは、まさにアラヤ識を立場とされている仏であります。
 第六識を立場とする諸仏の世界には三世はなく、その絶対現在は表面だけしか捉えられていないものということができましょう。

 この阿弥陀仏の智恵を、『大無量寿経』下巻には「諸仏無上の智恵」、つまり諸仏の智恵を超えた無上の智恵と説いています。
 願は無上殊勝の願、希有の大弘誓ですから、その願成就の阿弥陀仏の智恵も、如何なるものも比べようのない無上の智恵ということになります。

 この阿弥陀仏の智恵によって
  諸天・人民・蠕動の類、みな慈恩をこうむり、憂いや苦しみを解脱す。
諸天とは秀れた人、人民とは庶民、蠕動の類とは爬虫類のこと、阿弥陀仏の智恵によって、まさに生きとし生けるものみな、その憂いや苦しみを逃れることができるのであります。

 『大無量寿経』の法蔵菩薩の物語によって、法蔵菩薩とは宇宙をつらぬくいのちの内なる精神(アラヤ識)を象徴する名であり、その本願は個人的感覚(第六識)を立場とする諸仏の願とは全く次元を異にし、ありとあらゆるものを摂して浄土に生まれしめたいと願うものであり、その本願はすでに成就して阿弥陀仏の智恵(教え)として働いているのであります。

 この阿弥陀仏とは、親鸞聖人にしてみれば師の法然上人であり、現代に生きる私たち凡夫人にとっては親鸞聖人であります。
 そして阿弥陀仏の智恵とは、聖人の教えとして現在ただ今、光輝いて世界人類史上に行ぜられているのであります。

『註論入科会解』下巻には、自利・利他と、利他・自利成就満足の文を結んで
  衆生往生の行成就せざれば、仏の自利は満足とはいわぬなり。
  この二利満足が、直ちに凡夫往生満足の証拠なり。
と述べています。

 聖人は、すでに衆生往生の行、本願念仏の教えを残して(利他成就)、浄土に還られ(自利成就)、仏となられました。私たちの未来の道(往生道)は教えとして明らかにされていると説かれているのです。

 未来からの声
 ここまで大乗仏教の究極的目標である自利と利他、仏の成仏と衆生の往生とは、本願力廻向により一念同時に成就することを学んできました。
 すなわち師と弟子、仏と衆生は、弟子とか衆生が本願の歴史に乗托するとき、時を同じくしてサトリ(証)の世界に共に生きることができることを学んできたわけですが、では、その事実はなぜ得られるか、また、その世界は如何なる世界かを、親鸞は、
  菩薩、是の如く五念門の行を修して、自利利他して速かに阿耨多羅三藐三菩提を成就することを得たまえるが故に。
と、天親菩薩の『浄土論』の文を引いて、次に曇鸞大師の註釈を引用されています。

 まず、ここに菩薩とあるは法蔵菩薩のことです。
 この文は法蔵菩薩の五念・五功徳門、つまり自利利他の行を結ぶ文であり、さらにいえば『浄土論』をむずぶ総結の文、すなわち『浄土論』の流通分(結文)という大きな意味をもつ文であります。

 この文を曇鸞大師は註釈して
  仏の得る所の法を名づけて阿耨多羅三藐三菩提となす。この菩提を得るを
  もってのゆえに、名づけて仏となす。
  今(『浄土論』)「速かに阿耨多羅三藐三菩提を得る(速得)」とのたまえるは、
  是れ早く仏と作ることを得(得早作仏)たまえるなり。
と説かれていますが、法蔵菩薩は、いわゆる兆載永劫のご修行である因の五念門と果の五功徳門の行、いいかえれば、自利利他の行を行じおわって、大乗の仏道(阿耨多羅三藐三菩提)を「速かに得る(速得)」と『浄土論』に説かれているのは、「早く仏と作ることを得たまえる(得早成仏)」という意味であると、曇鸞大師が註釈されているのです。

 簡単にいえば、法蔵菩薩が大乗の仏道を「速得」されたことは、「早く成仏を得られたこと(得早成仏)」であるのであって、この『浄土論』の「速得」と『論註』の「得早」の言葉に『註論入科会解下』は注意しています。

 すなわち『浄土論』に「速得」といい、『論註』に「得早」といっているのは、
  共に衆生に先立ちて作仏したもう巧方便廻向の成就なり。
と『註論入科会解』は注意しています。

 衆生の往生と仏の成仏とは同時に成就するものでなければ――仏と衆生と、たとえば師と弟子の場合、弟子が精神生活(往生)の方向をとらえる「時」と、師が師となる「時」とは同時でなければ――いうまでもなく自利利他成就の大乗の仏道が成就されたことにはなりません。

 しかし、そのためには先んじて菩薩が仏になる、師が師となるということがなけねばならないということです。
 衆生に先立って菩薩が「仏道は成就し得るものである」ことを証明し、衆生のために先達となり、道をつけて下さるという巧みな手立て(巧方便廻向)がなければならないというのです。

 大乗の仏道の意味するもの
 つづいて『註論入科会解』には
  此の「早く仏と作る」の自利満足したまえるは、これ必ず利他成就の故なり。
  利他とは衆生の往生成就せるの名なり。
  二利(自利利他)の行、満足して「速得」なり「早仏」なり。
と注意しています。

 兆載永劫の修行成就して、法蔵菩薩が衆生に先立ちて「早く」すでに、阿弥陀仏となられる(自利満足)ということは、そこに、すでに利他成就すなわち、仏によって衆生の精神生活(衆生往生)の道が見出され、示されているという意味があるからであります。

 ですから衆生が、この法蔵菩薩が成仏されたことを知ったとき、そこから衆生の新しい出発がはじまり、その出発の一歩は、間違いなく大乗の仏道の上の事実ということになります。

  正しく今日の我人に及ぶの「速得」なり、「早仏」なり。
と『註論入科会解』に注意されているごとく、仏の「速得」、「早仏」は「今日の我人」に直結していることになります。

 なぜかといえば、阿弥陀仏は無量光・無量寿にましまして、三世十方の生きとし生けるものを自己のうちに摂取されている大乗中の大乗の真実の報仏、本願成就の仏であるからであります。

 覚如上人の『安心決定抄』には
  かるがゆえに念仏行者、名号を聞かば「ああ早、わが往生は成就しにけり。
  十方衆生、往生成就せずば正覚とらじと誓いたまいし法蔵菩薩の正覚の果
  名なるが故に」と思うべし。阿弥陀仏の形像を拝みたてまつらば「ああ早、わ
  が往生は成就しにけり。十方衆生、往生成就せずば正覚とらじと誓いたまい
  し法蔵薩[タ01](菩薩)の成正覚の御相なる故に」と思うべし。
  また極楽という名を聞かば「ああ吾が往生すべき所を成就したまいにけり。
  衆生往生せずば正覚とらじと誓いたまいし法蔵比丘の成就したまえる極楽よ」
  と思うべし。
と懇切丁寧に説かれていて、阿弥陀仏の名号を聞いても、阿弥陀仏のお姿を拝んでも、極楽の名を聞いても、いずれも本願成就の名であり、お姿ですから、そこに私たちの行くべき世界が、求むべきところの人格をもった阿弥陀仏が、すでに成就されていることになり、その世界が、その人格が呼びかけていることを、「よくよく考えてみよ」というのです。

 仏の名号とは仏教の源流であり、釈迦仏教のずっと前から、宇宙を、また人類の精神史をつらぬいてきたものですが、この名号は呼べば応えるという呼応の法であり、感応の原理であります。
 かかる呼応とか感応のいのちをもった未来からの声に出会うことがなければ、未来の確たる見通しをもって、新しい一歩を踏み出すことはできません。

 この声は、私たち現在に立ち上がろうとする者にとっては未来からの声ですが、歴史的事実としては親鸞聖人とか七高僧、五十三仏とかという過去の仏たちによって成就され、実証され伝承されてきたものです。

 すでに、過去の仏たちによって成就され実証され、そして呼びかけられてきた声に出会って始めて、確信をもって一歩を未来の世界に踏み込むことができるのです。
 いうまでもなく、そこには微塵ほどの不安もある筈がありません。しかも、それは個人的な私ひとりの一歩でなく、生きとし生けるものと共に現代の諸問題を背負うた一歩、まさしく大乗的第一歩という意味をもっています。