第三章 大乗仏教の生命観・人間観
一、宇宙的生命は、「識」をもつ
人間の生命の神秘
善導大師は、「序分義」の喩えに「自の業識をもって内因となす」と説かれていますが、「業」とは結論的にいえば、宇宙的生命というようなものであって、無始の昔より生れかわり死にかわりして、今日の「私」にまでなってきたところのいのちです。
しかも、宇宙が破滅しても、なお生きつづけていくいのち(無量寿)です。さらに、このようないのちは、そのときそのとき、あらゆるもののいのちと関わりあい、無限に連鎖していくいのちの世界(無量光)を形づくってきたという意味をもった宇宙的生命です。
なお、仏教の歴史は、この「業」といわれてきた宇宙的生命は、「識(意識)」をもったものであることを見出して「業識」と呼んでいます。
すなわち、そのいのちは形あるもの(身)と形なきもの(心・識)とを一つにしたもの、つまり人格的身体(業識)と名づけるべきものです。玉城康四郎先生(東京大学名誉教授)は、これを原始経典から業熟体とあきらかにされています。
このような性格をもった、業識(人格的身体)と名づけられているいのちは、理性的立場(分別智)から見出すことができず、また直観的(無分別智)にもとらえられません。ただ知(理性)情(感性)意(意志・願)を含んだ全人格的思惟(後得智・信心の智恵)によって、初めて感じとり、とらえることができるものであります。
たとえば、今日の「私」は無始の過去からの「業識」がつみ重ねられて、今日の「私」にまでなったもの(業異熟体)です。
このようにして、また、「私」は今日、驚くほどの多くの体験(業)を摂取し、明日の「私」になっていきます。
このような「私」のいのちそのもの、「私」そのものは、善導大師が説かれているごとく父母という縁に出会うという体験をとおして、この世に誕生し、天地の恵みを賜って、今日の「私」になってきました。
これが大師が「自の業識」としてあきらかにされました人間の生命の神秘です。
無始のいのちは願をもつ
「相伝義書」の中に『三識の事』という小さな書物があり、信心の業識について述べられていますが、これを、足利演正先生を囲んだ座談を『願海』に特集していますので、その座談の記録から必要と思われるところを抜粋し、解説を加えつつすすめることとしましょう。
足利 真如の一心が無明の力によって始めて動き出してくるようになる。それを業識というんですが、そのとき真如と無明は、どういう関係になるんでしょうか。
高原 無明がなかったら信心が可発(電気のスパークのようにあらわれること)しないわけですね。迷いがなかったら念仏申さんと思い立つということはないんです。しかし思い立つというのは、衆生ではなく如来が思い立って下さる。
足利 他力からみて、そうなるんでしょうね。
解説 人間の深い心である「一心」は、森羅万象と感応しているのですが、それ自体は、大自然の真理(真如)のままで静かないのちです。それに一たび、人間の無明が加わってくると、すぐさまパッと動き出す。この動き出す(可発)心を、『起信論』の解釈では業識といっているのですが、『三識の事』では、信心(如来のまこと)が働き出すと受けとっています。すなわち「信心業識の起動」という言葉でいわれています。
藤沢 親鸞は、業識という言葉で法蔵菩薩の働きをおっしゃっているのでしょうか。
足利 (法蔵菩薩のことを)「人々所具の一心法」といわれていますね。
秦 信心の業識を、足利先生はfaith-activity-consciousness=信心が生きて働く意識と英訳なされたことが、私には大きかったと思います。
解説 「信心(如来のまこと)が生きて働く意識」、それは、一応は「場」となる意識ですが、
それを「一心」といい、法蔵とか業識といわれている心(意識)です。つまり、教を身にジーン
とうけとることができたときの“身”のことです。
玉城康四郎先生は、この“身”を問いつづけておられました。ある時、原始経典に業熟体という言葉を見つけられたときの喜びを、次のように述べておられます。
数年前、仙台(東北大学)で原始経典を調べているうち、ブッダによって説かれている
業熟体という想念に出会ったとき、長いあいだ悶えわずらっていた探しものが、不意に
眼の前に現われた思いで、私は小躍りして歓喜した。
私は人格的身体と名づけた。果てしなき過去から、ありとあらゆるもの、生きとし生ける
ものと交わりながら営みつづけてきた生の結果が、今ここに私の全存在の基体として現
われていることである。
それは、私という存在の、したがって私性の窮まりであると同時に、ありとあらゆるものと
の絡り合いの最高度に実質的なものとして、公性の窮まりである。
(『仏教の根底にあるもの』講談社学術文庫より)
玉城先生は仏法をうけとる主体とは何かということを、ずっと求めておられたわけです。そして、
このような形で経典のうえに見つけられたのですが、私たちは、善導大師の機の深信の言葉
から“わが身”と聞かされてきています。
この“わが身”を、玉城先生は人格的身体と名づけられ、身も心も一つになったものですから、
それを真に知るには、理性も意志も感情も一つになった、全人格的思惟(智恵)でなければ感
知することはできないといわれています。私たちは「身に頂く、感ずる」という言葉で教えられて
います。
このようにして見出されてきたものが、業であり、曾我先生がおっしゃる山河大地と感応道交す
る業であります。また曾我先生が「宿業とは本能なり」とおっしゃいます本能であります。
ここで一つ考えねばならないことがあります。それは業とか宿業と聞いただけで、何か悪いもの、
汚れたもの、無明であり、煩悩や我執のかたまりであり、底知れない暗いもののように感じがち
ですが、すぐさま、そうだと決めつけるわけにはゆきません。
一心門・第一義諦なり
足利 流転門の第八識(アラヤ識)という場合でしたら、いわゆる迷いの姿だけを見ていく、還滅門ですと菩提(さとりの智恵)というものが問題になってくるんです。つまり、真如そのもの、本来的すがたがそこに現われるんです。
解説 長い間、私たちは業について流転門の唯識の立場から教えられ、還滅門から教えられる
ことはなかったのですから、法蔵とか業の本当の問題点がわからなくなっているわけです。
ここに斎藤進六先生が、無始のいのちは「願」であり「識」であるとおっしゃる宇宙をつらぬくいの
ちとか、宇宙の根源的力とか、大願業力とかは、還滅門の立場からの考えであることが理解で
きます。
それが、業の本来的なすがたで、自然の真理(真如)のままに、無始から山河大地と感応道交し
つつ、今日の私になってきていることを思います。もちろん、長い人生には自我あり、煩悩もえ、
流転に流転を重ねるのですが、それらは『起信論』の有名な「水波の喩」のごとく、波の一つにし
かすぎません。
無始のいのちは、そのまま「願」をもって、今の私の生として生きつづけ、山河大地と感応して今
日の生を賜っているのです。
曾我先生が「法蔵菩薩はアラヤ識なり」と、学会からも異端者あつかいをうけながら、いいつづけ
て来られた深い願いを、今になって思います。
経典を、ほんとうに読む眼がなければ、現代の思想に答えることができないことを、また、現代の
思想を混乱させる結果になりかねないとも思われます。
高原 「しかれば、信心の業識の本源は、一心門・第一義諦なり(略)一念、信心業識の起動より、平生、現生に顕わるるありさまなり」といわれていますように、
解説 繰りかえすことになりますが、先に足利先生は、信心の業識を「信心が生きて働く意識」と
英訳されたということでしたが、「信心が生きて働く」のは“わが身”においてだといえば、私たち
にはよく分るわけです。
その“身”は「願」をもち、「識(心)」をもった“身”です。また、その“身”は「信心の業識の本源」と
いわれているものですが、真宗教学のうえでいえば「一心」ということで、三世十方の森羅万象を
統ている宇宙生命というもので、透明なものです。迷いも悟りも、すべてつつんでいるものです。
それがそれになる・転の宗教
高原 信心の業識において、如来が凡夫の内に発起される、そこに平生業成ということが成就するということですね。
解説 “身”というとき、業とか煩悩とか無明とかが連想されて暗い感じですが、その“身”が「一心
門・第一義諦なり」、 明も暗も、自然界も人間界も何一つ否定せず引きうけて感応している「一心」、
いいかえれば純粋意欲・純粋意志(願)ということになります。それが「第一義諦なり」といってある
のですが、絶対真実であり、宇宙の真理であるということです。この「一心門・第一義諦なり」という
ことが、真宗教学の中心問題です。
ここにおいてこそ、どのような流転のどん底にあっても、それに邪魔されることなく、如来が凡夫の
内に可発(スパーク)し、信心の業識は起動して、平生業成という、聖道門自力の宗教では想像す
ることができないことが成就するということです。
足利 流転門の立場、煩悩の立場が涅槃の立場に転ぜられるんです。それがそれになるという立場ですね。これが「転」ということなのです。違ったものになるんじゃないということです。といいますことはですね、本当は流転の中に還滅はあるんです。また還滅の中に含まれた流転です。一方だけみていく時に、迷いとなるんです。
解説 真宗は、単なる救いの宗教でも悟りの宗教でもなく、ものの道理・存在の内面的原理を聞き
分けるとき、転じていく、本来性に帰る宗教です。だから、明るく深みがある宗教の筈です。だのに
暗いということは、「一心門・第一義諦なり」の基本をふみはずして、いつの間にか流転門の“身”の
宗教になり下っているからです。