第三章 大乗仏教の生命観・人間観
二、“身”の本来的なすがた
永劫の願いをもったいのち
私たちが“わが身”といっている“身”とは、単なる肉体ではなく、無始無終のいのちにつながるものであり、三世十方のありとあらゆるものをおさめとって、今日まで生きつづけているいのちであり、この意味から、それは宇宙をつらぬくいのち(宇宙的生命)であり、それを『起信論』では「一心」と説いているのであります。
この「一心」について「相伝義書」の『三識の事』には、『浄土和讃』の別和讃に
無明法性ことなれど
心はすなわち一つなり
この心すなわち涅槃なり
この心すなわち如来なり
と讃えられている一首を引いて説明されています。
無明(まよい)と法性(真如・まこと)とは、その言葉、つまり表面的な意味はちがうけれども、その根なる心は一つ(一心)であるということです。そして、その心(一心)は涅槃(さとりの境地)であり、如来であると説かれているのであります。
これが、私たちの“身”の本来的なすがたであるということですが、“身”ということを迷いの流転門の立場から、また西欧の実存的立場から、さらにいえば皮相な『観無量寿経』の読み方からのみ考えてきた私たちには、“身”の本来的すがたは、なかなか理解し難いことであります。
『深解別伝』には
「本願無自性と覚悟すべし」とは、ここなり。
と述べられています。
「本願無自性」とは、本願の前には、あらゆるものの自性はない、実体的に考えたものはないということです。
今の問題にすれば、無明と法性、迷いと悟りが一つであるということを、私たちはすぐさま呑み込めないのですが、それは、これらの二つのものを実体的に、固定したものと考えているからです。
問題は「本願の前には」という一点にあるということです。
私たちのこの“身”は、無始無終のいのち(これを久遠の弥陀といいます)をうけている“身”であり、その久遠のいのちは願と識をもっているのですが、それは実体的なものではないのです。
いいかえれば、いのちは久遠の願(本願)をもっているということですから、そのことから考えれば、本来の自己へかえれば、私たちの“身”は、ただ無明があるだけではなく、無明も法性も、闇も光も、迷いも悟りももって、内に本願をもち、外から願われて、今日のいのちを賜っていることを理解することができましょう。
ですから『和讃』には
この心すなわち涅槃なり
この心すなわち如来なり
と讃えておられるわけです。
この問題を『三識の事』には、有名な『起信論』の水波の喩を引用して、あきらかにされています。
それによれば、まず『起信論』の
法性・真如の大海は、つねに静かであるが、煩悩の有為の波が、これを動かす。
という文を引いて、大海の水そのものは静かであるが、煩悩の風(縁)がふいてくると、大波小波(無明)が立ちさわぐが、一たび風がやめばもとの静けさにかえる。
この場合、静かなときの水(法性)も、水そのもの、すなわち水性は一つ(一心)であると説かれています。
今、水そのものを「一心」すなわち、永劫の願いをもったいのちの喩えとし、縁によって、その水は法性(まこと)ともなり、無明(まよい)ともなるが、いのちそのものには変りはない、これが『起信論』の喩えの意味であります。
大乗仏教の生命観
このように『起信論』があきらかにしている「一心」は、まさしくまこと(真如)であり、仏心そのものです。
前にあげた『浄土和讃』の
この心すなわち涅槃なり
この心すなわち如来なり
と称えられている「一心」です。それは浄土への方向をもったいのちであります。『起信論』が理としてあきらかにしている「一心」であり、無始無終のいのちであります。
「理として」とは、仮立であり、仮説ということです。話(論理・道理)をはこぶために立てられたものです。
理としての「一心」いのちは、不動であり、仏心(如来)そのものですが、このいのちが地上に形をとって“身”となるとき、無明・煩悩のために動ずる、この「一心」が動ずるを『三識の事』には
「業識」というは、一心の動ずるをいう。動とは可発の義なり。
と説かれています。
この可発とは、いわゆる間髪を入れず直ちにということで、無明・煩悩が働くと直ちに不動の「一心」が動乱する、この心の動じた相を「業識」というのであると説かれています。
考えてみるに、理としての「一心」が地上の事(事実)となるときに「業識」という相をとるのですが、これは、まさに流転の相といわなければなりません。
自力聖道門の出家の道は、この地上の事実をすてて、法性(法性真如)の世界へ直ちにかえろうとします。しかし、その道は“身”を地上におく限り不可能であり、いわゆる難行道であります。
たとえ、それで法性真如の世界(ものそのものの世界)にかえることができたとしても、それはたとえば禅の心身脱落の体験のごとく直観的直接的な経験であり、刹那的なひらめき(光明体験)にすぎません。
それにとどまろうとすれば出家僧のように、現実の世界を切りすてなくてはなりません。
いいかえれば、それは地上の事実から逃れた、ひとりよがり(独断的)の観念的世界にこもったことになりましょう。ここに道綽禅師が、末法の時代に聖道門によって仏となった人は「いまだ一人もあらず(未有一人得者)」と叫ばれた意味があります。
無明・煩悩によって「一心」が動乱の波をおこした、その「業識」から「一心」の本源をたずねてみるということを、『三識の事』は教えています。
「一心」すなわち無始のいのちの本源にかえってみれば、私たちの言葉をこえ、考えをこえて、一切を平等に摂めとっているものが「一心」であることを、また、それはそのまま久遠の弥陀であることを知らされます。
そして、この「一心」(久遠の弥陀)は願をもつ故に、あらゆる動乱のなかのすみずみにまで入って、いのちを回復せしめるのです。
考えてみれば、私たちは無始無終の、尊い清浄純粋ないのちをもって、この世に生をうけるのですが、この世は迷いの世界ですから、直ちに迷いの業(業識)をもつのです。
しかし、その根底のいのちそのものは清浄であり、純粋である。
たとえば、その業(業識)は風によっておきた波のようなものであって、水そのもの(いのち)はいつも変らぬように、根底のいのちは真如にして不動であると説かれています。
ここに、流転に明け暮れして何んともできない私たちの内に、なお純粋さを見取っている大乗仏教の生命観といいますか、人間観を知らされるのであります。
仏心は迷いの中に入る
以上のごとき、大乗仏教の生命観・人間観を説いている『起信論』の「身」の問題をうけて、親鸞聖人は「信心の業識」とか「真実信の業識」と説かれています。
この「信心の業識」「真実信の業識」について、『三識の事』によってみるとき、
まず第一に、聖人はすべての言葉や文を他力の立場からみていくという独自の解釈(当流の所判)をほどこされているといい、
次に、『起信論』の「一心」を「仏心」と読みかえて、真如なる仏心の本源にかえってみれば一切はみな絶対平等であって、何一つ三世をつらぬいて、真如ならざるものはないと説いています。
仏心・真如の本源をたずぬれば(略)畢境平等にして、変易あることなし。
さらに、この「仏心」は、さまざまに動じてやまぬ私たちの妄心のなかに入満して、私たちに利益をあたえるために、可発し動ずるところを「業識」というのであると注釈しています。
衆生利益をしめさんために(略)衆生の妄心、万差に起動するなかに入満して、利生のために可発し、起動するところを「業識」とさすなり。
すなわち、仏心からみれば一切のものは理として、そのまま平等であるけれども、具体的にみれば、さまざまに動じてやまない私たちの迷いがあるのであって、仏心は、この迷いの中に入って動ずる、これを「信心の業識」というのであるということであります。
ですから「信心の業識」とは、信心(如来のまこと)が私たちの迷いの中に入って、内から信心が動じたものということになります。
源信僧都は、人間を「悲心の器」とおっしゃいますが、私たちは悲しみのあるとき、はじめて人間となると教えられているのです。
しかし、今の「信心の業識」からすれば、如来の大慈悲心が私たちの内に入り満ち動じて下さってはじめて、みずからの悲しみ・迷いの心を知らされるのであります。
考えてみれば、私たちの迷い悲しむ心は、そのまま内に救いを求める心でありましょう。
その心は、そのまま仏を求める心であり、仏を念ずる心です。しかし、すでに仏が内にあって念じて下さっているからこそ、仏を念じる心が生まれるのです。