『教行信証』行の巻の学び
  隠 の 教 学
〈おんのきょうがく〉


     第五章 大乗仏教の真理・真性
     二、本願の理性・道理

 大乗は理の宗教である
 これまでに大乗の仏道とは如何なる道かということについて、大乗の理性、本願の理性、つまりその理にうなづくことにより救われる道であることを学びました。
 そして、その理とはあらゆる存在の内面の意味であり、さらに、この点から大乗仏教は理の教学であることを学んだわけです。もう少し大乗仏教の説いている存在の理、存在の意味について学ぶこととしましょう。

 仏教は、森羅万象は神によって創られた被造物ではなく、如何なるものも、それ自身のいのちをもち、いのちを通わせあって、いのちの世界をつくっていると説いています。
 さらに仏教は、その(1)森羅万象、すなわちあらゆるものを「法」といい、(2)その「法」は、ものの規範・法則という意味をもち、(3)その規範を教えとしたものを、また「法(教法)」といっています。
(挿図09)
 ものそのもの、もの自体を「法身」とか「一心」と説いていますが、今、ものそのもの(一心)を和語でいのちとか、大自然のいのちといっておくことにします。
 あらゆるもの(法)は、いのちをもち、それぞれの法則どおりいのちを通わせてあって、いのちの世界、すなわち法界をつくっています。

 いうまでもなく、それぞれのいのちは、真如の理である真理にかなったもの、いいかえれば因縁の道理にかなっており、実体的な存在ではなく、だからそこに開かれている法界も真理にかなった、自然法爾の世界ということになります。
 それは人間の理知的解釈をこえたものという意義をもっています。ここに、大乗仏教があきらかにしている大乗の理があり、仏教は“理の宗教”であるという面目があります。

 ものそのものの世界は、まったく自然法爾の世界ですが、現実的には人間は理知・自我、いいかえれば煩悩に眼をおおわれているため、ものそのもののいのちを見ることができず、それとともに、みずからのいのちも煩悩におおわれていることはいうまでもありません。

 そのおおわれたいのち、聖道門では仏性とか仏種と名づけ、仏となる可能性を内蔵していると説いています。
 座禅などの「行」によって煩悩を破り、見性成仏つまり本来の自己自身のいのちを自己自身のうえに徹見し、ものそのもののいのち(一心)と一体・一如になり、即身成仏の悟りをひらくことを目標としています。
(挿図10)
 このように、みずから煩悩の壁を破って内なるいのちを悟るという形式は、一般の宗教に通じるものであって、一応わかりやすい宗教の型ではありますが、いざ実践となれば龍樹菩薩が、すでに難行道と批判しておられるごとく、とくに今日のような爛熟した物質文明の中の日常生活者である私たちには望み得ない道ではないでしょうか。

 いや、もっと根源的に理をさとり、理に救われるという、理の宗教である大乗仏教の枠組みからはみ出ることになるのではないでしょうか。

 ここに、大乗の理をまさしく万人に、いや生きとし生けるもののうえに成就する道として、『大無量寿経』の本願の理が用意されていることを思うのであります。

 本願の理・性
 浄土三部経といわれる無量寿経を拠りどころとしている浄土門、とくに親鸞聖人の宗教は『大無量寿経』の本願により、また大乗仏教の伝承をうけて、本願の理・本願の理性を立てています。

 すなわち理知・自我・煩悩におおわれて流転しているいのち、いいかえれば、聖道門の仏性を法蔵と名づけています。(挿図11)
 この法蔵は、やがて阿弥陀仏となる因位の人格(主体性)をもったものですが、その人格の内に、いわゆる法蔵の願心・本願(純粋意欲)を見出しているのが本願の理・本願の理性であります。
 そして、聖道門のごとく、仏性をおおっている煩悩を破ろうとせず、内に閉じられている法蔵因位の願心の意味をあきらかにしようとしているところに、本願の理性の特徴があります。

 ここで少し、法蔵と本願について考えてみることとします。すでに、『大無量寿経』の法蔵菩薩の性格と、その本願と、本願成就して阿弥陀仏になりたもうた仏の徳について学んだところですが、今ここに課題としている法蔵も、同じく生きとし生けるものの内に蔵せられているものであり、阿弥陀仏となる因位の法蔵です。

 人間ばかりでなく、ものそのもののいのち(一心)は因縁の道理にかなったものですけれども、それが煩悩におおわれたときの名を法蔵といい、主体性をもったものと説かれているわけです。
 ですから、この法蔵は、本来に還ろうとする「願」を内に蔵しています。

 「願」とは根本の願い(本願)であり、曾我先生が純粋意志とか純粋意欲と翻訳されているごとく、それは、しっかりと未来を見定める眼をもち、あれは捨てこれは取るという、はっきりとした選びの力、主体性をもっています。
 しかも、これは煩悩におおわれた法蔵においてこそ顕われる徳であり、働きです。煩悩に出会わねば生れぬものです。
 ここに、曇鸞大師や親鸞聖人が「不断煩悩」と説かれているわけがらを知ることができましょう。