『教行信証』行の巻の学び
  隠 の 教 学
〈おんのきょうがく〉


     第六章 仏道とは如何なる道か
     二、煩悩を断ぜずして

 維摩の不二の法門
 ここで、しばらく『維摩経』の不二法門品の物語をふりかえり、それをとおして本願の教えによって凡夫にたまわる無碍の世界を考えてみることにしましょう。
 『維摩経』の不二法門品とは、釈尊の在家の弟子(居士という)である維摩居士の病気見舞にきた仏弟子の小乗の行者(舎利弗など)や菩薩(文珠など)と居士との問答を中心として劇的に説かれている一章です。

 まず多数の仏弟子たちが維摩をかこんで話あっているとき、維摩が
  釈尊は「不二の法門に入る(入不二法門)」ということを説かれたが、それはどういうことか、
  皆さんのご意見を伺いたい。
というので、仏弟子たちはそれぞれに、それは善とか悪とか、悟とか迷とかの区別はないということ、また煩悩と菩提とは一つであるとか、さらに煩悩即菩提ということであるなどと説明したが、最後に文珠が
  不二とは、概念(考え)や言葉(説明)をこえた世界である。
と答えたのに対して、維摩は、ただ黙って文珠の考えを肯定して一語も発しなかった。それを、また文珠は讃えたというのです。
 これを「維摩の一黙、雷の如し」といって、有名な話として伝えられています。
    この不二の法門が、龍樹菩薩によって大乗の空の思想として大成されていきます。

 不二の法門とは、煩悩と菩提、生死と涅槃は不二、二つないという解脱の教えであり、不二の法門に入るとは、その教えの世界・解脱の世界に入ることです

 この『維摩経』の不二の法門を曇鸞大師が、ここに突然のように出されているのには、理由があると考えられます。
 その第一は、龍樹菩薩の空の思想に先立って、原始大乗経典の一つである『維摩経』によって、維摩居士のころ、すでに不二の法門は説かれ、問題になっていたという歴史的証明とされているのではないでしょうか。
 また、この不二の法門は本願他力によって始めて、真に成就されることを明らかにしておられるのではないかと思われます。

 何れにせよ、『論註』のこの一段の問題の中心である無碍とは、まさしく不二の法門の世界であって、いわば人間の概念(考え)や言葉をこえた自然法爾の世界の事実であることを、明らかにしようとされているのでありましょう。

 ですから、その意をうけて『註論入科会解』では
  不二は、即ち無碍の謂なり、(略)
  自然の徳たる安楽浄土は、即ち不二の法門、無碍相なり。
と説いています。

 すなわち、人間の分別理知からは考えられない自然法爾の世界は不二の世界であり、無碍の世界であること、さらにいえば、その世界は安楽浄土、また本願成就の世界であるというのです。

 この安楽浄土とか、本願成就の世界とかは、聖道出家門のサトリの世界とちがって、まさに凡夫にひらかれ、生きとし生けるものにひらかれている世界です。
 さらにいえば、この世界は『歎異抄』に「念仏者は無碍の一道なり」と説かれているごとく、念仏の凡夫の上に成就している世界であり、生活の事実として働いている無碍の世界です。
 そして、その世界は生死も煩悩も、その他何一つ碍げとなるもののない無碍の世界であるというのです。

 生死と涅槃とは一つである
 ここで曇鸞大師の『論註』は、一つの大きな問題を提起しています。というのは
  無碍というは、いわく「生死即ち是れ涅槃なり」と知るなり。
という言葉によって述べているのですが、一般の大乗仏教では「生死即涅槃」というのですが、今は「生死即ち是れ涅槃なりと知るなり」と説いていることです。

 一般の大乗仏教では、理知・分別に立って実体的に考えているように、生死と涅槃という二つのものがらがあるのではないと説いています。そして、そのように二つに分ける考え、分別を破らねばならないというのです。
 これが鈴木大拙先生に代表される即否の体験であり、空の体験の立場です。

 すなわち、この立場においては生死とか涅槃とか、また迷いとか悟りという二つの世界を概念とか分別で考えている、その概念・分別を破った世界を涅槃(悟り)の世界と受けとっているのでありましょう。
 ですから迷いと悟りは同じ価値であるというようにはならないはずです。

 さらにいえば、迷いを迷いのまま受けとっていくというようにはならないのではないでしょうか。
 もしそうなれば、そこにはなお生死を捨てて涅槃を得るということになりますから、生死と涅槃、迷いと悟りの二つの世界の観念(二元論)の陰が残るのではないでしょうか。それならば永遠に流転であって、無碍の世界はひらかれません。
 このような仏法が聖道門として、仏教の主流にあったということを不思議に思います。

 これに対して『論註』のいわんとしているところは、全くちがいます。もう一度『論註』の言葉にかえってみましょう。
  無碍というは、いわく「生死即ち是れ涅槃なり」と知るなり。

 そして、この言葉をうけて『註論入科会解』には、今の「即ち是れ」を解釈して
  即是の二字、生死、涅槃まったく別物にあらざればなり。(略)
  生死即是という、即是の二字大事なり。直に指すの言なり。
と述べています。

 少し解説してみますと、生死とか迷いとかを捨てて、涅槃とか悟りをひらこうとするのではなく、生死と涅槃は「まったく別物にあらざれば」一つだというのであります。
 「生死即ち是れ」とは生死を否定したり、捨てようとしないで、よくよく考えてみれば、「直に指す」とは生死がそのまま涅槃である、煩悩そのままが菩提である、というのです。
 生死のところに、煩悩のところに涅槃・菩提が来ているということになります。

 この点を、前にも引用したのですが
  生死が涅槃を碍げず、涅槃が生死をも碍げざるなり。
と『註論入科会解』に述べています。

 私たちにすれば「煩悩あればこそ、生死あればこそ」と、人間として嫌い捨てるはずの煩悩や生死を喜んで受けとり、拝んでいくことさえできる世界であります。

 『歎異抄』第九章の結びに
  (煩悩あるために)いそぎ(浄土へ)参りたき心なき者を、ことに憐れみたもうなり。
  これにつけてこそ、いよいよ大悲大願はたのもしく往生は決定と存じ候え。
と、「不断煩悩得涅槃」の確信を述べられています。

 このような世界は本願の宗教において始めて、私たちの迷いの実生活のうちに、事実として開かれる無碍の世界というものでありましょう。
 この世界こそ、『維摩経』に説かれている不二の法門の世界であります。

 このように大乗仏教の初めから説かれている世界が、『大無量寿経』、曇鸞大師の『浄土論註』、そして親鸞聖人によって、日常生活を逃れることのできない私たちのところにもたらされたのです。

 ではどうして、この世界が私たちのところにまでもたらされたか、ということは、近くは久遠の弥陀が、煩悩をもち生死に沈む苦悩の凡夫を、無始以来大悲したまい、地上に法蔵菩薩という人格を示し、凡夫の苦悩を我が苦悩と背負って下さって、具体的にいえば、親鸞聖人にとっては法然上人、『歎異抄』の唯円房にとっては親鸞聖人という「師」となって、私たちに願いかけ呼びかけつつ、つねに一歩を先んじて無碍の道を歩み示して下さった「絶対他力の大道」があるからです。

 この「師」なる人格をとおし、この「絶対他力の大道」の伝承を深い心をもってかえりみるとき(これを憶念・念仏という)、自然法爾として煩悩をご縁として、無碍の世界に生きることができます。