第七章 本願念仏の法門
四、本願念仏の道は如何に大きいか
比較し、比較をこえて
これまで、大乗仏教の聖道門と念仏門の「教」と「機」を比較し、念仏の教えと念仏の信心(機)は比較をこえたものであることを学びはじめることになりました。
聖人は、念仏の機と自力諸行の機とを比較対論して、それを結び
しかるに、一乗海の機を按ずるに、金剛の信心は絶対不二の機なり。知るべし。
と説かれています。
すなわち、絶対平等一乗の教えをうける人は「金剛の信心」の人でなければなりません。
しかし、その人が一乗の教えをうけつぐのではなく、金剛といわれるように確かな念仏の信心そのものが引きうけるのです。
ですから「金剛の信心は絶対不二の機なり」と説いているわけで、信心は機であり、一乗である教えは信心を機(しかけ・はずみ)として伝承されていくものであります。
つぎに「絶対不二」について、かつて学んだ念仏の法門と聖道の法門とを比較した「教の四十八対」の結びの
しかるに、本願一乗海を按ずるに、円融満足、極速無碍、絶対不二の教なり。
という文とならべて考えてみることとしましょう。
まず、この文の要点を、もう一度説明しますと、絶対的な一乗平等の教えは「円融満足」、一切を摂めとり、一切衆生のなかに融け入り、満ち足わって、「極速無碍」、その教えは煩悩に邪魔されず、直ちに証りの世界に入らしめる「絶対不二の教」、二つとない教えであるというのです。
考えてみれば、一乗の「教」も、「機」も、念仏と聖道門の比較の末の「絶対不二」ということのようですが、みずからの意志によって聖道門をすて浄土門をとったというならば、それは相対的に比較して選んだものであって、絶対的なものとはいえないでありましょう。
この点を『深解別伝』には
機教待対(比較)をあらわして、よき方を取るが所詮(目的)にあらず。
その待対に裳抜け出たるが絶対の機・教なり。
と説明しています。
先に学んできたところの「教の四十八対」と、「機の十一対」は、世に、念仏と聖道自力門という二つの「教」と「機」があるから、一応、比較分類して、念仏門のすぐれていることを説明したものであります。
しかし、たとえば私たちが念仏の教えにあい、念仏の機となり得たことは、不思議の事実というよりないものです。すなわち「待対に裳抜け出たる」もの、いいかえれば比較することのできない絶対の事実であるということです。
この事実は、みずからの分別や能力によったものではなく、賜ったものであり、如来より廻向され、七高僧をはじめ善知識(師)の伝承に出会うことができて、はじめて遇うことを得た「教」であり、与えられたところの「金剛の信心の機」であります。
まことに得難くして得、遇い難くして遇うことを得た、「絶対不二」の、つまり二つとなく、それ故に比較することができない、「誓願一仏乗」の「教」であり、「機」ということであります。
しかも、それは「罪悪深重・煩悩熾盛」(『歎異抄』第一章)の凡夫のうえに、歴史的事実としてすでに成就しているのです。
求道は一歩一歩、一息一息
聖人は、その教学の基幹である本願名号史観を「行の巻」に、具体的に七高僧や諸師の伝承をとおして明らかにし、さらに、その内面的意味を「他力釈」として説いておられます。
これで「行の巻」は説きつくされているのですが、『教行信証』を書き終ってから、さらに、この「一乗海釈」を書き加えられている(赤松俊秀『親鸞』一九七頁)ということです。
すなわち、大乗仏教を一貫している本願念仏の法門こそ、一乗教中の一乗教であることを感動をもって追記されたことと思われます。
二教二機の対論を終って、「絶対不二の教なり」「絶対不二の機なり。知るべし」と結ばれている言葉に、「遇い難くして、今、遇うことを得た」感動の頂点ともいうべき聖人の情を憶うわけです。
そして、一転し筆を改めて、「弘誓一乗の益」の第一節に入って「敬うて一切の往生人に白さく」と、一切の往生人、いいかえれば求道生活を歩みつつある人びとに、弘誓(本願)一乗の、すなわち念仏の徳を宣言されているのであります。それを終って、『正信念仏偈』を唱いあげ、「行の巻」を閉じておられます。
さて、その本文には
敬うて一切往生人等に白さく、弘誓一乗海は、無碍・無辺・最勝・深妙・
不可説・不可称・不可思議の至徳を成就したまえり。何を以ての故に、
誓願不可思議なるが故なり。
と言葉をつくして、誓願一乗の世界を讃嘆されているのであります。
考えてみるに、求道の道は永遠の道であるとともに、単純なる一本道ではなく、一歩一歩の連続であり、一息一息の反芻であります。
しかし、私たちは、その一歩に躓き、一息に息切れして、いつのまにか、その道から外れ、また、その道に反逆さえすることになります。
このとき、聖人は躓き、息切れして反逆さえする者に、「敬って白さく」と、敬いのこころをもって呼びかけられているということです。
本願につちかわれている念仏道
では、なぜ敬い呼びかけているかといえば、「弘誓一乗海」、すなわち本願念仏の「至徳」、念仏のこの上ない徳を伝えんために呼びかけられているのです。
例のごとく本文の字句を解説しながら、次第に、内容に入っていくこととします。
まず、「弘誓一乗海」とは、聖人が「唯、これ誓願一仏乗なり」と説かれているところの「誓願一仏乗」の世界のことですが、ここでは弘く十方衆生を摂取するという意味から、本願念仏の世界を「弘誓一乗海」とされていると考えられます。
ついで、「無碍・無辺」とは、その世界の徳は、「碍りなく、はてし(限界)がない」と讃え、また「最勝・深妙」とは、その徳は「すぐれ、たえなる」ものであるというのです。
さらに、「不可説・不可称・不可思議の至徳」とあるのですが、「その徳は言葉で説きつくすことも、また称えることもできなく、全く私たちの考え(思議)をこえたもの」であるということです。このように、本願念仏を讃嘆し、これらの「至徳を成就したまえり」と結んでいます。
この上もない徳が、南無阿弥陀仏の法として成就しているというのです。それは何故かといえば
何を以ての故に、誓願不可思議なるが故なり。
とあるごとく、この念仏は、いわゆる呪文などとはちがい、法蔵菩薩が本願に誓われた「本願の念仏」だからです。
いいかえれば『大無量寿経』は念仏をもって、罪ふかく、煩悩つよき凡夫を救うという本願・悲願をたて、すでに成就しているからです。
はじめの「敬うて一切往生人等に白さく」の言葉について、『深解別伝』には
「敬白一切往生人等(敬うて一切往生人等に白さく)」の語勢は(善導)大師より出ず。
と注意していますが、この注意から、一つには仏教の書物は、語勢、つまり言葉の勢いから読みとらなければならないことを思います。そうでないと宗教性をうけとることができないからです。
もう一つは、聖人も善導大師の
敬いて一切往生の知識等に申さく。(『般舟讃』)
という呼び声(念仏)を聞き、念仏の「至徳」を頂かれたが故に、同じく未来の私たちに呼びかけられている、念仏の伝承を憶います。