第七章 本願念仏の法門
五、感応道交の世界観
感応道交の世界の光景
親鸞聖人が『教行信証』を書きあげられて、その後に書き加えられたといわれている「一乗海釈」の最後に、本願の名号の徳を二十八の喩えをもって讃えられていますが、その喩えをみるとき、本願の世界・名号の世界とは、みずからの煩悩や苦悩とも、三世十方の仏さまとも、父母とも、大地や、そこに涌きでている泉や、そこに咲いている蓮の花や、空に舞っている風などとも感応道交しあう世界であることを、またそれを学ぶ私をも、その世界はつつんでいることを感じることができる世界です。
聖人が、「弘誓一乗の益」を讃嘆している文の初めに、「敬うて一切の往生人等に白さく」とあるについて、なぜ、一切の往生人、すなわち求道者に「敬うて白さく」と、尊敬して述べられているかということです。
このことについて、『歎異抄』の後序に物語として語り伝えられている「信心同一の事」を憶うのですが、それは
源空が信心も如来よりたまわりたる信心なり、善信房の信心も如来よりたまわらせ
給いたる信心なり、されば一つなり。
という法然上人の言葉を、『歎異抄』の著者唯円房は書きとめているのですが、このように師の法然上人は、弟子親鸞の求道心を認められ、しかもそれは如来から賜ったものですから、尊敬されているわけです。
まさに、「敬うて白さ」れていることになります。
ここに本願念仏の師と弟子の関わり方があります。
如来の大悲の願は、かかる本願念仏の伝承により、自覚をもって弟子のうえに受けつがれていくものでありましょう。
四百何十人の法然門下のうち、このような弟子は「親鸞一人」であったかも知れませんが、その「一人」によって、「一切の往生人」は代表されています。
「一人」の凡夫が本願念仏の道をうけついでいくところに、一切の人びと、いや、生きとし生けるものの大道がひらかれてゆくのであり、本願念仏の道が「大道」といわれる所以があります。
これは全く、私たちの思いをこえた「誓願の不思議」の世界の事がらであり、大悲の願の働きであり、まさしく「弘願一乗の益」というべきものです。
ついで、「弘願一乗の益」の第二節として、悲願の二十八喩が説かれています。
このように喩えをもって説くことは、人びとに具体的に如来の大悲願の働き、すなわち本願の名号の働きを感ぜしめんためです。まず、その喩えを列記してみます。
悲願は
(1)喩えば太虚空の如し、諸の妙功徳、広無辺なるが故に。
(2)なおし大車の如し、普くよく諸の凡聖を運載するが故に。
悲願は、凡聖ともに、浄土へ運ぶという。
(3)なおし妙蓮華の如し、一切世間の法に染せられざるが故に。
(4)善見薬王の如し、よく一切煩悩の病を破するが故に。
善見薬王とは、ヒマラヤ山にある善見という名の勝れた薬のこと。
(5)なおし利剣の如し、よく一切驕慢の鎧を断つが故に。
(6)勇将の幢の如し、よく一切の諸の魔軍を伏するが故に。
(7)なおし利鋸の如し、よく一切の無明の樹を截るが故に。
(8)なおし利斧の如し、よく一切の諸苦の枝を伐るが故に。
利鋸、利斧とは、よく切れるのこぎりとおののこと。
(9)善知識の如し、一切生死の縛を解くが故に。
(10)なおし導師の如し、善く凡夫出要の道を知らしむるが故に。
出要の道とは、生死をはなれる要道のこと。
(11)なおし涌泉の如し、智恵の水を出だして窮尽なきが故に。
(12)なおし蓮華の如し、一切諸の罪垢に染せられざるが故に。
(13t)なおし疾風の如し、よく一切の諸障の霧を散ずるが故に。
(14)なおし好蜜の如し、一切の功徳の味を円満するが故に。
(15)なおし正道の如し、諸の群生をして智城に入らしめるが故に。
(16)なおし磁石の如し、本願の因を吸うが故に。
(17)閻浮檀金の如し、一切の有為の善を映奪するが故に。
エンブダンゴンとは、エンブ樹の林の中を流れる河の砂金の光を、
如来の大悲の願にたとえている。
(18)なおし伏蔵の如し、よく一切の諸仏の法を摂するが故に。
伏蔵とは、宝をつつみかくしている蔵のことで、如来の大悲願は、
一切諸仏の法を内にもっていることをいう。
(19)なおし大地の如し、三世十方の一切の如来出生するが故に。
(20)日輪の光の如し、一切の凡愚の痴闇を被して信楽を出生するが故に。
(21)なおし君王の如し、一切の上乗人に勝出せるが故に。
上乗人とは、大乗の人、今は一切の大乗の教えに、悲願の教えは
すぐれていることをいう。
(22)なおし厳父の如し、一切諸の凡聖を訓導するが故に。
(23)なおし悲母の如し、一切凡聖の報土真実の因を長生するが故に。
(24)なおし乳母の如し、一切善悪の往生人を養育守護したもうが故に。
(25)なおし大地の如し、よく一切の往生を持つが故に。
(26)なおし大水の如し、よく一切煩悩の垢をすすぐが故に。
(27)なおし大火の如し、よく一切諸見の薪を焼くが故に。
(28)なおし大風の如し、普く世間に行ぜしめて、礙るところなきが故に。
以上、悲願の二十八喩を列記したのですが、繰りかえし静かに黙読していますと、そこに人間の生活があり、父母あり、大自然界があり、さらに凡夫あり、聖者あり、また諸仏ましまして、しかも、私たち凡愚を、つつんだ感応道交の世界が、いきいきと描かれています。
これ、まさしく聖人の「弘誓一乗海」の讃歌であり、本願名号の世界観を述べられたものです。
本願の教えは“隠の教学”である
この二十八喩のうち、いくつかの喩えについて説明することとしましょう。
まず、第一喩に
悲願は喩えば、太虚空の如し、諸の妙功徳、広きこと無辺なるが故に。
と、「弘誓一乗海」といわれている如来の大悲の世界は、「太虚空の如し」、大自然のごとく、大宇宙のごとく広大無辺にして、それ故に、その功徳もまた、あらゆるものを生み育てる広大無辺なる働きをもつものであるというのです。
このような功徳の世界は、「広きこと無辺」、限りなく広大な世界であるというのは、いわゆる理知・分別では理解できないもの、それを全く超えたものであると讃えられているのであります。
また、第九、第十の喩えに
善知識の如し、一切生死の縛を解くが故に。
なおし導師の如し、善く凡夫出要の道を知らしむるが故に。
とありますが、善知識とは師であり、導師も導く師ですから、どう違うのか判りませんが、親鸞聖人のうえに考えてみますと、法然上人が善知識であり、導師とは、法然上人のところへ聖人を、引っぱっていった隆寛とか聖覚とかという先輩、いわば同行にあたるのでしょうか。
師の善知識とは、教えの象徴でありましょう。その師の説かれる本願の教え、つまり本願の名号が、あらゆる生死の束縛をほどいて下さるのですが、その教えこそが「凡夫出要の道」、私たち凡夫をして、その生死の苦界を一歩出さしめる「要道」すなわち要の道であります。この道まで導いて下さるのが導師でありましょう。
さらに第十五喩に
なおし正道の如し、諸の群生をして智城に入らしむるが故に。
とあるのですが、まさしく本願の大道は、たとえば七高僧などによって、民衆とともに、その時代、その時代に実験し、証明されてきた正しい道、いいかえれば観念的な道ではなく、この世にいのちをもった働きをしてきた大道であり、伝承されてきたところの道であるということです。ですから一切の衆生(群生)を、そのままに信心の智恵の世界に入らしめることになるわけです。
また第十八喩に
なおし伏蔵の如し、よく一切の諸仏の法を摂するが故に。
と説いており、悲願は、いいかえれば本願の名号は、多くの宝物を内に隠しもっている蔵のようなものであって、一切諸仏の法・原理も、その内に隠しもっているということになります。
古来から、本願の名号の教え(『大無量寿経』の教え)から一般の仏教の教理を理解することはできるが、その逆はわからない、たとえば念仏から禅は判るが、その逆は判らないといわれてきたのですが、それは本願の教えは一切の法・原理を、隠しもっているからです。
さらに、一般の仏教や他の宗教との関わりばかりではなく、文化をはじめ、あらゆる事がらの基本的な、また内面的な原理を、無量寿(歴史観)・無量光(世界観)をつらぬく、本願の名号、つまり誓願一仏乗・弘願一乗海の教えとして、その蔵にもっていることを、このごろ知らされています。
いいかえれば、本願の教えは内面的な、まさに“隠の教学”であるということであります。
さらにまた、曾我先生が
親鸞聖人は、念仏往生の教はそれに改宗させる宗教ではなく、自己の本来の
面目を自覚自証せしめる教だ、それが本願の意義であると了解された。
(『曾我量深講義集』三巻)
とおっしゃっているように、どのような宗教の人でも、その宗教のままに本願の教えを聞いていけばよいということになります。
『大無量寿経』を依りどころとされた親鸞聖人に至って、大乗仏教本来の理の宗教を立場とし、あらゆるものの原理を本願の理として説かれた、「聞く一つ」の仏法がひらかれてきたわけです。
親鸞聖人が『教行信証』を書きあげてから、さらに書き加えられている「一乗海釈」の終りには、「一乗海」を「弘誓一乗海」と名づけられ、弘く一切のものをつつみ込んで、どこまでも歩みつづけていく本願の世界が説かれているのです。
そのような「弘誓(本願)」の世界は、いわゆる輪廻をこえて、一切のものが、どこまでも育っていく世界であります。
そして、その世界は、まさしく大道であり、一切のものと共に歩みつづけることができる大乗・一乗の道であります。
本願は太虚空の如し、大風の如し
今、学びつつある「弘誓一乗海」を讃嘆する二十八の喩えは、『華厳経』の「入法界品」に善財童子の菩提心(求道心)の徳をたたえている喩えから、聖人が本願念仏の徳の喩えとして選びとられているものです。
しかし、『華厳経』によらない喩えもあり(第十六の磁石の喩え、第十九の大地の喩えなど)、また聖人独自の解釈をつけられているものもあります。
その一つが第二十の「日輪の光」の喩えです。その本文をあげますと
日輪の光の如し、一切凡愚の痴闇を破して、信楽を出生するが故に、
とあるのですが、もとの『華厳経』の文には
普く、一切の諸の世間を照すが故に。
とあり、天親菩薩の『浄土論』をとおしていただかれた聖人の光明観がうかがわれるわけです。
まず、『華厳経』の光明は、外を照らす光ですが、聖人がうけられた「日輪の光」は、一切凡愚の内を照らし破る光です。
すなわち、悲願・念仏の徳は「痴闇を破して、信楽を出生する」――愚痴の闇、つまり仏智他力の働きを疑う(不了仏智)闇を破って、信楽(真実信心)を生み出す――というのです。
つづいて第二十一喩の「君王」の喩えには
なおし、君王の如し、一切上乗人に勝出せるが故に。
とあります。
「君王」とは大王とか天子のこと、「上乗人」とは大乗の人ということですが、今は大乗の教えということであり、本願の教えは、君王があらゆる人に比べて非常にすぐれているように、大乗の教えの中で最もすぐれた教えであり、いわゆる大乗中の大乗というべきものであることを喩えているのです。
この喩えについても『華厳経』には、「上乗」が「二乗」となっていますが、「二乗」とは個人的証りを説く小乗仏教をさしているのであって、華厳の教えは小乗仏教をこえた大乗の菩薩道、すなわち自利々他の道を説く教えであるといっていることになります。
しかし、ここに聖人が「二乗」を「上乗」、いいかえれば大乗の教えと書きかえておられる意味は、『大無量寿経』の本願は別願(特別の願)といわれ、その教えは一般の仏・菩薩の教えをこえたものであることを明らかにし、大乗中の大乗の教えであることをいわんとされていることになります。
さて、悲願の二十八喩の最後に
なおし、大風の如し、普く世間に行ぜしめて礙るところなきが故に。
と説かれていますが、第一の喩えに「太虚空の如し」とあり、悲願の世界の功徳は「広きこと無辺」、限りなく広大な働きをするものであると説いていたものに対応します。
すなわち、この最後の喩えは、阿弥陀仏の悲願は「大風」の如く、「普く世間に行」じて、「碍る所」がないというのですが、この「太虚空」と「大風」の喩えをもって、阿弥陀仏の本願の名号、いいかえれば本願の名告り・呼びかけは、他の経典にも説かれておらず、他の宗教にも類するものがないものであり、如何に勝れた徳をもっているかを明らかにしていることになります。
「太虚空」(第一喩)の世界を「大風」(第二十八喩)のごとく本願の名号が吹きぬけていくところに、父母の慈愛(第二十二、二十三喩)は生き、蓮華(第三、十二喩)や泉(第十一喩)などによって精神は清められ、師や先輩(第九、十喩)などに出会うこともでき、おのずから豊かな本願の浄土の生活が繰りひろげられていくことを、二十八喩は物語っているのでしょう。
迷いの世界をこえて
では、「弘誓一乗海」を讃嘆する第三節の文に入って学ぶこととしましょう。
能く三有繋縛の城を出でて、能く二十五有門を閉ず。 (第一文)
能く真実報土を得せしめ、能く邪正の道路を弁ず。 (第二文)
能く愚痴海を竭かして、能く願海に流入せしむ。 (第三文)
一切智の船に乗ぜしめ、もろもろの群生海に浮ぶ。 (第四文)
福智蔵を円満し、方便蔵を開顕せしむ。 (第五文)
この文について、『深解会通』に
上来に異なる一等思し召しの喩えなり。
と注意していますが、今までの「弘誓一乗海」讃嘆の喩えと一味ちがっているのが、これから学ぶ「弘誓一乗の益」第三節の喩えであるということです。
少しふりかえってみますと、まず「弘誓一乗海」を讃嘆している文の第一節には、本願の念仏の徳は本願成就の「至徳」であることを讃え、つづいて第二節には、いわゆる二十八喩をあげて、本願念仏の世界観を讚えていることを学んできました。
かかる第一節・第二節を総合して今から学ばんとする第三節は、煩悩の世界(三有繋縛の城)に生きる私たちを、念仏の世界(願海)に生まれしめる本願念仏の働きを讃嘆している一節であります。
では、「弘誓一乗海」讃嘆の第三節に入って、例のごとく字句を解説しながら学びをすすめることとします。
この第三節は、五文に分かれていますが、第一文が中心となります。
ではまず、その第一文に
よく三有繋縛の城を出でて、よく二十五有門を閉ず。
と説かれている「三有」とは、三界ともいい、迷いの世界のこと。欲・色・無色の三有(界)に分けていますが、「欲有」とは、本能的な欲望にとらわれた世界で私たちの日常生活の世界、「色有」とは、欲望はこえたが、物質(色という)を離れることができない世界、たとえば、画家や彫刻家などの世界が、これに当るのでしょうか。
つぎに「無色有」とは、本能的な欲望も物質にとらわれることもない、たとえば禅の修行者で欲望をこえているが、まだ悟っていない世界、これらの三つの世界は迷いの世界であり、何かにとらわれ繋がれている世界という意味から「繋縛の城」と説かれているのですが、私たちは、この三つの迷いの世界を日々に輪廻して、その束縛から脱することができないというのです。
つづいて「よく二十五有門を閉ず」とある「二十五有門」とは、先の「三有」を二十五に分類しているのであって、私たちの輪廻の世界・迷いの世界のことです。
もう一度、本文にかえって
よく三有繋縛の城を出でて、よく二十五有門を閉ず。
と説いているのですが、本願念仏の働きは、そのような迷いの輪廻の世界から、念仏の人を脱出せしめて、迷いの世界の門を閉じてしまうと、聖人は、念仏の働きを讃嘆されているのであります。
この場合、念仏の人が迷いの世界を出るとき、おのずから、迷いの世界の門は閉じるのであって、門を出ると門が閉じるとは同時であり、門が閉じたのですから、再び迷いの世界にかえることはないと念仏の徳を讃えられていることになります。
今、迷いの世界である三有・二十五有門という輪廻の世界を、念仏の働きにより脱することを学んだのですが、輪廻転生(迷いの世界を繰りかえす)という考えは、インド以来、とくに浄土教の未来往生の考えとともに日本民族に根深く、うけとられてきましたが、親鸞聖人は『大無量寿経』の本願成就文を立場として、「現生不退(現在の生において再び迷いに退かぬ位)」という本願の世界を、みずからの思想の中心に打ち立てられました。
その聖人の中心的な教えが、ここに「弘誓一乗海」の讃嘆の文に入れられているのであります。
本願念仏の教えに出会うとき、同じく娑婆の生活をしながら、その生活に縛られることがなくなり、絶対の自由を得るということです。
しかも、その自由を身に実感し、生活のうえに自覚することができるというのであります。
この意味から『略本私考』には
今日現に得る益なり。
と、「弘誓一乗海」、すなわち本願念仏の世界の利益を、「現に得る益なり」と但し書きをしています。
「弘誓一乗海」、いいかえれば本願念仏の世界を学びつづけてきたのですが、この世界は、あらゆるものが、たがいに呼応し、感応する世界であるとともに、それは、どこまでも生きつづけていく世界であります。
如何なるものにも縛られることなく、また、邪な道にはずれることなく、ただ生きとし生けるものとともに、一乗・大乗の絶対平等の世界を生きつづけていく世界です。
そして、それは本願念仏したもう、すなわち生きとし生けるものに願いかけ呼びかけたもうみ仏がともにましますからであります。