六要鈔会本 第1巻の1(4の内) 題目・選号 総序 |
◎=親鸞聖人『教行信証』の文。 〇=存覚『六要抄』の文 |
『教行信証六要鈔会本』 巻一之一 |
教行信証六要鈔会本第一 教 ◎顕浄土真実教行証文類序 〇将釈此文大分為二。第一釈題目。第二正解文。初中又二。先釈題目。次解撰号。SYOZEN2-205/TAI1-48 〇まさにこの文を釈せんとするに大いに分ちて二と為す。第一に題目を釈し、第二に正しく文を解す。初の中にまた二あり。まず題目を釈し、次に撰号を解す。SYOZEN2-205/TAI1-48 〇先釈題中十一字内。初之一字与後三字能釈之詞。中間七字所釈之法。初言顕者。広韻云。呼典切。明著。玉篇云。虚典切。明也。言浄土者。弥陀報土。浄土之言雖亘十方意在西方。超諸仏刹最為精故。言真実者。是対仮権。教行証者。所謂如次所依所修所得法也。霊芝弥陀経義疏云。大覚世尊一代之教。大小雖殊不出教理行果。因教顕理。依理起行。由行克果。四法収之鮮無不尽。已上。教行証与教理行果其義大同。於中教行二種全同。理是摂教。彼義疏云。理即教体。即其義也。証即果也。果有近遠。近果往生。遠果成仏。証有分極。分証往生。究竟成仏。其義同也。言文類者。広韻云。文無分切。文章也。又美也善也兆也。玉篇云。亡文切。文章也。類者。広韻云。力遂切。等也。種類相似。類聚所明其教行証之文故也。序者所謂次由述義。今述序也。SYOZEN2-205/TAI1-48 〇先に題を釈する中、十一字の内に、初の一字と後の三字とは能釈の詞なり。中間の七字は所釈の法なり。初に「顕」というは、『広韻』に云わく「呼典の切、明著なり」。『玉篇』に云わく「虚典の切、明なり」。「浄土」というは、弥陀の報土なり。浄土の言は十方に亘るといえども、意は西方に在り。諸の仏刹に超えて最も精たるが故に。「真実」というは、これ仮権に対す。「教行証」とは、いわゆる次の如く所依・所修・所得の法なり。霊芝の『弥陀経義疏』に云わく「大覚世尊一代の教は、大小殊なるといえども、教理行果を出でず。教に因りて理を顕わし、理に依りて行を起こし、行に由りて果を克す。四法にこれを収むるに鮮〈すこ〉しきも尽くさざることなし」已上。教行証と教理行果と、その義は大いに同じ。中に於いて教行の二種は全く同じ。理はこれ教に摂す。彼の『義疏』に云わく「理は即ち教の体なり」。即ちその義なり。証は即ち果なり。果に近遠あり。近果は往生、遠果は成仏なり。証に分極あり。分証は往生、究竟は成仏なり。その義は同じなり。「文類」というは、『広韻』に云わく「文は無分の切、文章なり。また美なり、善なり、兆なり」。『玉篇』に云わく「亡文の切、文章なり」。「類」とは、『広韻』に云わく「力遂の切、等なり」。種類あい似たるなり。その教行証を明かす所の文を類聚するが故なり。「序」とは、いわゆる次・由・述の義なり。今は述序なり。SYOZEN2-205/TAI1-48 ◎愚禿釈親鸞述 〇次釈撰号。言愚禿者。愚是[ショウ16]也。対智対賢。聖人之徳智也賢也。実非愚[ショウ16]。今言愚者是卑謙詞。禿称為姓。第六巻奥流通文云。真宗興隆大祖源空法師並門徒数輩。不考罪科。猥坐死罪。或改僧儀賜姓名処遠流。予其一也。爾者已非僧非俗。是故以禿字為姓。已上。是其義也。釈沙門姓。増一阿含経云。四河入海無復河名。四姓為沙門皆称釈種。已上。四分律云。四河入海無復河名。四姓出家同称釈氏。已上。依之晋朝彌天道安以釈為姓永伝後代。高僧伝中委判此事。是故今云愚禿釈等。言親鸞者是其諱也。俗姓藤原。勘解相公有国卿後。皇太后宮大進有範之息男也。昔於山門青蓮門跡其名範宴少納言公。後入真門黒谷門下其名綽空。仮実相兼。而依聖徳太子告命改曰善信。厳師有諾。為之仮号後称実名。其実名者今所載是。其徳行等具如別伝。述者。広韻云。食聿切。著述也。説文循也。又作也。玉篇云。視律切。循也。已上。於上訓中不依作義且依循義。故不云作。是卑謙義。論語第四述而篇云。子曰。述而不作。信而好古。竊比我於老彭。註云。包氏云。老彭殷賢大夫也。好述古事。我若老彭矣。但述之耳也。已上。同疏云。述而者明孔子行教。但述尭舜。自比老彭而不制作者也。已上。SYOZEN2-205,206/TAI1-90 〇次に撰号を釈す。「愚禿」というは、「愚」はこれ[ショウ16]なり。智に対し、賢に対す。聖人の徳は智なり、賢なり。実には愚[ショウ16]にあらず。今「愚」というは、これ卑謙の詞なり。「禿」は称して姓と為す。第六巻の奥の流通の文に云わく「真宗興隆の大祖源空法師、並びに門徒数輩。罪科を考えず、猥りがわしく死罪に坐〈つみ〉す。或いは僧の儀を改めて、姓名を賜い、遠流に処す。予はその一なり。しかれば已に僧にあらず、俗にあらず。この故に禿の字を以て姓と為す」已上。これはその義なり。「釈」は沙門の姓なり。『増一阿含経』に云わく「四河は海に入って、また河の名なし。四姓は沙門となりて、みな釈種と称す」已上。『四分律』に云わく「四河は海に入りて、また河の名なし。四姓は家を出でて同じく釈氏と称す」已上。これに依るに、晋朝彌天の道安は釈を以て姓を為して、永く後代に伝う。『高僧伝』の中に委しくこの事を判ず。この故に今「愚禿釈」等と云う。「親鸞」というは、これはその諱なり。俗姓は藤原。勘解の相公有国の卿の後、皇太后宮の大進有範の息男なり。昔、山門青蓮の門跡に於いて、その名は範宴少納言の公、後に真門黒谷の門下に入って、その名は綽空、仮実相兼ぬ。しかるに聖徳太子の告命に依りて改めて善信とのたまう。厳師諾あり。これを仮号と為て後に実名を称す。その実名とは今載する所の是れなり。その徳行等、具に別伝の如し。「述」とは『広韻』に云わく「食聿の切。著述なり」。『説文』に「循なり。また作なり」。『玉篇』に云わく「視律の切。循なり」已上。上の訓の中に於いて作の義に依らず、且く循の義に依るなり。故に作といわず。これ卑謙の義なり。『論語』第四述而篇に云わく「子のたまわく、述して作さず。信じて古を好む。竊かに我を老彭に比す」。『註』に云わく「包氏が云わく、老彭は殷の賢大夫なり。好んで古の事を述ぶ。我は老彭のごとし。但しこれを述すらくのみなり」已上。同『疏』に云わく「述而とは孔子の行教を明かす。但し尭舜を述ぶ。自ら老彭に比して制作せざるものなり」已上。SYOZEN2-205,206/TAI1-90 ◎竊以。難思弘誓度難度海大船。無礙光明破無明闇慧日。 ◎竊かに以みれば、難思の弘誓は難度海を度する大船、無碍の光明は無明の闇を破する慧日なり。SOJO:SYOZEN2-1/HON-149,HOU-265 〇第二正解文。准依経論釈義常例分文為三。一序。即序分。二自標列下至第六末引論語文。是正宗分。三自竊以下終至尽巻流通分也。SYOZEN2-206/TAI1-97 〇第二に正しく文を解す。経論釈義の常の例に准依して文を分かちて三と為す。一には序。即ち序分なり。二には標列より下、第六末に『論語』の文を引くに至るまでは、これ正宗分なり。三には「竊以」より下、終わり巻を尽くすに至るまでは流通分なり。SYOZEN2-206/TAI1-97 〇第一於序分中分文為五。一従文初下至言慧日。略標弥陀広大利益。二従然則下至言闡提。先依観経明教興由。粗述済凡救苦大悲。三従故知下至崇斯信。重挙名号希奇勝徳。特勧下機易往巨益。四従噫弘誓至莫遅慮。顕其聞法宿習之縁令人随喜。悲其未来流転之報堅誡疑慮。五従愚禿下。悦受三国伝来師訓。演所聞持之有実耳。SYOZEN2-206,207/TAI1-97,98 〇第一に序分の中に於いて文を分かちて五と為す。一には文の初より下、「慧日」というに至るまでは、略して弥陀広大の利益を標す。二には「然則」より下、「闡提」というに至るまでは、先ず『観経』に依りて教興の由を明かし、ほぼ済凡救苦の大悲を述ぶ。三には「故知」より下、「崇斯信」に至るまでは、重ねて名号希奇の勝徳を挙げて、特に下機易往の巨益を勧む。四には「噫弘誓」より「莫遅慮」に至るまでは、その聞法宿習の縁を顕して、人をして随喜せしめ、その未来流転の報を悲しみて、堅く疑慮を誡しむ。五には「愚禿」より下は、三国伝来の師訓を受くることを悦びて、聞持する所の実あることを演ぶらくのみ。SYOZEN2-206,207/TAI1-97,98 〇就初文中。言竊以者。発端之言。難思弘誓無礙光明讃弥陀徳。共是十二光仏中名綺言嘆之。難度海者。是生死海。十住毘婆沙論云。乗彼八道船。能度難度海。已上。是讃弥陀利益文也。故用此言。言無明者。若依天台。此有通別。言通惑者。是界内惑。三毒之中癡煩悩也。言別惑者。合貪瞋癡名為通惑。塵沙無明此二種惑名為別惑。言慧日者。仏慧明朗譬之日光。大経下云。慧日照世間。消除生死雲。已上。憬興釈云。慧日者。随喩之名。惑業苦三。能覆真空及智日月。即同雲覆虚空日月。故云生死雲。仏智達真能除自他惑業苦障故云慧日。令生物解故云照世間。已上。浄土論云。仏慧明浄日。除世癖闇冥。已上。鸞師註云。此二句名荘厳光明功徳成就。乃至。願言使我国土所見〈所有〉光明能除癡闇入仏智慧不為無記之事。亦云。安楽国土光明。従如来智慧報起故。能除世間冥。已上。此等皆寄朗日光照称揚弥陀智光文也。又大師釈観経唯願仏日文云。言仏日者法喩双標也。譬如日出衆闇尽除。仏智輝光無明之夜日朗。已上。浄影師釈同経文云。仏能破壊衆生癡闇。如日除昏。故曰仏日。已上。今所言者是指釈迦。二仏雖異。仏徳比況其義相同。SYOZEN2-207/TAI1-98 〇初の文の中に就いて「竊以」というは、発端の言、「難思の弘誓」「無礙の光明」は弥陀の徳を讃ず。共にこれ十二光仏の中の名なり。言を綺えてこれを嘆ず。「難度海」とは、これ生死海なり。『十住毘婆沙論』に云わく「彼の八道の船に乗じて、よく難度海を度す」と已上。これ弥陀の利益を讃ずる文なり。故にこの言を用う。「無明」というは、もし天台に依らば、これに通別あり。通惑というは、これ界内の惑、三毒の中の痴煩悩なり。別惑というは、貪・瞋・痴を合して名づけて通惑と為し、塵沙と無明と、この二種の惑を名づけて別惑と為す。「慧日」というは、仏慧の明朗なる、これを日光に譬う。『大経』の下に云わく「慧日は世間を照らして、生死の雲を消除す」已上。憬興の釈に云わく、「慧日とは喩に随うるの名なり。惑・業・苦の三は、よく真空及び智の日月を覆う。即ち雲の虚空と日月とを覆うに同じ。故に生死雲と云う。仏智は真に達して、よく自他の惑・業・苦の障を除くが故に慧日という。物の解を生ぜしめるが故に照世間という」と已上。『浄土論』に云わく「仏慧明浄の日、世の癖闇冥を除く」と已上。鸞師の註に云わく「この二句を荘厳光明功徳成就と名づく。乃至。願じて言わく、我が国土の所見〈所有〉の光明をして、よく痴闇を除きて仏の智慧に入れ、無記の事を為さざらしめん。また云わく、安楽国土の光明は、如来の智慧の報より起るが故に、よく世間の冥を除く」已上。これら皆、朗日の光照に寄せて弥陀の智光を称揚する文なり。また大師は『観経』「唯願仏日」の文を釈して云わく「仏日というは法喩双べて標するなり。譬えば日出でて衆の闇尽く除こるが如し。仏智、光を輝かせば無明の夜日朗かなり」已上。浄影師は同じき経文を釈して云わく、「仏はよく衆生の痴闇を破壊す。日の昏を除くが如し。故に仏日という」と已上。今いう所は、これ釈迦を指す。二仏異なりといえども、仏徳の比況、その義は相い同じ。SYOZEN2-207/TAI1-98 ◎然則浄邦縁熟調達闍世興逆害。浄業機彰釈迦韋提選安養。斯乃権化仁斉救済苦悩群萌。世雄悲正欲恵逆謗闡提。 ◎しかればすなわち、浄邦縁熟して、調達、闍世をして逆害を興ぜしめ、浄業機彰れて、釈迦、韋提をして安養を選ばしめたまえり。これすなわち権化の仁、斉しく苦悩の群萠を救済し、世雄の悲、正しく逆謗闡提を恵まんと欲す。SOJO:SYOZEN2-1/HON-149,HOU-265 〇二先依観経明教興由中。言浄邦者。是指浄国。若云楽邦。即極楽也。言調達者。提婆達多共是梵言。此云天熱。言闍世者。即阿闍世。序分義云。阿闍世者乃是西国正音。此地往翻名未生怨。亦名折指。已上。興逆害者。経云有一太子名阿闍世。随順調達悪友之教。収執父王頻婆沙羅。幽閉置於七重室内。已上。序分七縁解釈繁多。不遑具引。悉譲彼文。言浄業者是念仏也。SYOZEN2-207,208/TAI1-114,115- 〇二に先ず『観経』に依って教興の由を明かす中に、「浄邦」というは、これ浄国の指す。もしは楽邦という。即ち極楽なり。「調達」というは、提婆達多なり。共にこれ梵言なり。此に天熱というなり。「闍世」というは、即ち阿闍世なり。『序分義』に云わく「阿闍世とは、乃ちこれ西国の正音。此の地には往翻して未生怨と名づく。また折指と名づく」已上。「逆害を興す」とは、経(観経)に云わく「一の太子あり、阿闍世と名づく。調達悪友の教に随順して、父の王、頻婆沙羅を収執して、幽閉して七重の室の内に置く」已上。序分の七縁は解釈繁多なり。具に引くに遑あらず。悉く彼の文に譲る。「浄業」というは、これ念仏なり。SYOZEN2-207,208/TAI1-114,115- 〇問。観経云。汝当繋念諦観彼国浄業成者。已上。大師釈云。言汝当繋念已下。正明凡惑障深心多散動。若不頓捨攀縁浄境無由得現。此即正教安心住行。若依此法名為浄業成也。已上。是指観門以為浄業。又同経云。亦令未来世一切凡夫欲修浄業者。得生西方極楽国土。欲生彼国者当修三福。乃至。如此三事名為浄業。乃至。此三種業過去未来現在三世諸仏浄業正因。已上。是指三福以為浄業。又同経云。為未来世一切衆生為煩悩賊之所害者。説清浄業。已上。釈云。言説清浄業者。此明如来以見衆生罪故。為説懺悔之方。欲令相続断除畢竟永令清浄。已上。此等経釈或約定観。或約散善。或約懺悔立浄業名。何云念仏。-SYOZEN2-208/TAI1-115- 〇問う。『観経』に云わく「汝まさに繋念して諦らかに、彼の国を観ずべし。浄業成ずる者なり」已上。大師釈(序分義)して云わく「汝当繋念という已下は、正しく凡惑障深くして心多く散動す、もし頓に攀縁を捨せずば、浄境現ずることを得るに由なきことを明かす。これ即ち正しく安心住行を教う。もしこの法に依るをば名づけて浄業成ずと為すなり」と已上。これ観門を指して以て浄業と為す。また同経(観経)に云わく「また未来世の一切の凡夫の浄業を修せんと欲わん者をして、西方極楽国土に生ずることを得せしめん。彼の国に生ぜんと欲わん者は、まさに三福を修すべし。乃至。かくの如きの三事を名づけて浄業と為す。乃至。この三種の業は過去・未来・現在の三世の諸仏の浄業の正因なり」と已上。これ三福を指して以て浄業と為す。また同経(観経)に云わく「未来世の一切衆生の、煩悩の賊の為に害せられん者の為に、清浄業を説く」已上。釈(序分義)に云わく「説清浄業というは、これ如来は衆生の罪を見そなわすを以ての故に、為に懺悔の方を説きたもうことを明かす。相続をして断除せしめ、畢竟じて永く清浄ならしめんと欲す」已上。これらの経釈は、或いは定観に約し、或いは散善に約し、或いは懺悔に約して浄業の名を立つ。何ぞ念仏といわんや。-SYOZEN2-208/TAI1-115- 〇答。於此可有一往再往顕説隠説随他随自等之差別。謂浄業名於諸善法雖無所遮。若約定散懺悔方等。一往顕説随他意語。所出難之諸文是也。若以念仏名清浄業。再往隠説随自意語。即釈説清浄業経文有二重釈。初重釈者備問端之懺悔文是。二重釈云。又言清浄者。依下観門専心念仏注想西方念念罪除故清浄也。已上。是随自意。所以知者。是依彼経持名付属。並大師釈雖説定散意在専称之文意耳。-SYOZEN2-208/TAI1-115- 〇答う。ここに於いて一往・再往、顕説・隠説、随他・随自等の差別あるべし。謂わく浄業の名は諸の善法に於いて遮する所なしといえども、もし定散懺悔の方等に約するは、一往・顕説・随他意語なり。出だし難ずる所の諸文これなり。もし念仏を以て清浄業と名づくるは、再往・隠説随自意語なり。即ち「説清浄業」の経文を釈するに二重の釈あり。初重の釈とは問端に備わる懺悔の文これなり。二重の釈に云わく「また清浄というは、下の観門に依りて専心に念仏して想を西方に注めて、念念に罪除こる。故に清浄なり」と已上。これ随自意なり。知る所以は、これ彼の経の持名の付属と、並びに大師の「雖説定散意在専称(定散両門の益を説くと雖も、仏の本願に望むれば、意、衆生をして一向に専ら弥陀仏の名を称せしむるに在り)」と釈したもう文の意に依るのみ。-SYOZEN2-208/TAI1-115- 〇言釈迦者。今日教主。云度沃焦。言韋提者。夫人之名。此云思惟。選安養者。経云時韋提希白仏言。世尊是諸仏土。雖復清浄皆有光明。我今楽生極楽世界阿弥陀仏所。已上。釈曰。従時韋提白仏下至皆有光明已来、正明夫人総領所見感荷仏恩。此明夫人総見十方仏国。並皆精華。欲比極楽荘厳。全非比況。故云我今楽生安楽国也。乃至。従我今楽生弥陀已下。正明夫人別選所求。此明弥陀本国四十八願。願願皆発増上勝因。乃至。諸余経典勧処弥多。衆聖斉心皆同指讃。有此因縁致使如来密遣夫人別選也。問。夫人別選只可自選。今云致使如来密遣夫人。其意如何。答。此有二義。一義云。韋提凡夫心想羸劣。恐是難弁諸土勝劣。是故如来密加神力令選取也。一義云。在世多権。分極凡聖互為主伴各助仏化。能化所化同共発起済凡之教。是則為度未来実機。法事讃云。与仏声聞菩薩衆同遊舎衛住祇園。已上。不云仏与。已云与仏。能所同心其意可知。密有二義。若約初義如来冥加其神力故。直令夫人密領解上勧処弥多皆同指讃通別因縁。然未顕説。故説為密。若約後義如来韋提共知因縁。且望衆会是為密也。-SYOZEN2-208,209/TAI1-115,116 〇「釈迦」というは今日の教主にして、度沃焦という。「韋提」というは、夫人の名にして、此には思惟という。「選安養」とは経(観経)に云わく「時に韋提希、仏に白して言さく、世尊この諸の仏土は、また清浄にして、みな光明ありといえども、我いま極楽世界の阿弥陀仏の所に生ぜんと楽う」已上。釈(序分義)に曰わく「時韋提白仏より下、皆有光明に至る已来は、正しく夫人は総じて所見を領して仏恩を感荷することを明かす。これ夫人は総じて十方の仏国を見るに、並びに皆精華なれども、極楽の荘厳に比せんと欲するに、全く比況にあらず。故に我今楽生安楽国ということを明かすなり。乃至。「我今楽生弥陀(我、今、極楽世界の阿弥陀仏の所に生ぜんことを楽う)」已下は、正しく夫人は別して所求を選ぶことを明かす。これ弥陀の本国は四十八願なり、願願みな増上の勝因を発こす。乃至。諸余の経典に勧むる処いよいよ多し。衆聖は心を斉しくして皆同じく指讃す。この因縁ありて如来は密かに夫人を遣わして別して選ばしむることを致すことを明かすなり」已上。問う。夫人の別選は、ただ自選すべし。今「致使如来密遣夫人(如来密かに夫人を遺わして、別して選ばしむることを致す)」という、その意如何。答う。これに二義あり。一義に云わく。韋提は凡夫心想羸劣なり。恐らくはこれ諸の土の勝劣を弁じ難し。この故に如来は密かに神力を加えて選取せしむるなり。一義に云わく。在世は多く権。分極・凡聖、互いに主伴となりて、おのおの仏化を助すく。能化・所化、同じく共に済凡の教を発起す。これ則ち未来の実機を度せんが為なり。『法事讃』に云わく「仏・声聞・菩薩衆と同じく舎衛に遊び祇園に住す」已上。仏与といわず、已に与仏という。能所同心、その意知るべし。密に二義あり。もし初の義に約せば如来は冥にその神力を加するが故に、直ちに夫人をして密かに上の「勧処弥多皆同指讃通別因縁(諸余の経典に勧むる処いよいよ多し。衆聖は心を斉しくして皆同じく指讃す。この因縁ありて如来は密かに夫人を遣わして別して選ばしむることを致す)」を領解せしむ。然るに未だ顕説せず。故に説きて密と為す。もし後義に約せば、如来韋提共に因縁を知る。且く衆会に望めて、これを密と為すなり。-SYOZEN2-208,209/TAI1-115,116- 〇権化仁者。若依初義者指仏。則是世雄上下雖殊是非別。若拠後義者。通指調達闍世韋提。発起衆也。言群萌者。是衆生名。衆生心中有仏種故。蒙法潤類生仏道芽。此理普通一切衆生。故云群萌。大経上云。欲拯群萌恵以真実之利。已上。玄義云。灑甘露潤於群萌。已上。言世雄者。是世尊名。又云雄猛。逆謗等者。挙重悪機。逆謂五逆(在第三末)。謗謂謗法(同上)。言闡提者。涅槃経云。一闡名信。提名不具。信不具故名一闡提。已上。具云一闡提。今略云闡提。彼玄義云謗法与無信無信是也。言無信者。雖聞仏法。都無信謗。以之謂之謗法猶重。-SYOZEN2-209,210/TAI1-116 〇「権化の仁」とは、もし初の義に依らば仏を指す。則ちこれ世雄なり。上下殊るといえども、これ別にあらざるなり。もし後の義に拠らば、通じて調達・闍世・韋提を指す。発起衆なり。「群萌」というは、これ衆生の名なり。衆生の心中に仏種あるが故に、法潤を蒙る類は仏道の芽を生ず。この理は普く一切衆生に通ず。故に「群萌」という。『大経』上に云わく「群萌を拯い、恵むに真実の利を以てせんと欲してなり」と已上。『玄義』に云わく「甘露を灑ぎて群萌を潤す」と已上。「世雄」というは、これ世尊の名なり。また雄猛という。「逆謗」等とは、重悪の機を挙ぐ。「逆」は謂く五逆なり(第三末に在り)。「謗」は謂わく謗法なり(上に同じ)。「闡提」というは、『涅槃経』に云わく「一闡は信に名づく。提は不具に名づく。信不具の故に一闡提と名づく」と已上。具には一闡提という。今は略して闡提という。彼の『玄義』に「謗法と無信と」という、無信これなり。「無信」というは、仏法を聞くといえども、都て信謗なし。これを以てこれを謂うに、謗法なお重し。-SYOZEN2-209,210/TAI1-116 ◎故知、円融至徳嘉号転悪成徳正智。難信金剛信楽除疑獲証真理也。爾者。凡小易修真教。愚鈍易往捷径。大聖一代教無如是之徳海。捨穢忻浄。迷行惑信。心昏識寡。悪重障多。特仰如来発遣。必帰最勝直道。専奉斯行。唯崇斯信。 ◎故に知りぬ。円融至徳の嘉号は、悪を転じて徳を成す正智、難信金剛の信楽は、疑いを除きて証を獲しむる真理なり。しかれば、凡小修し易き真教、愚鈍往き易き捷径なり。大聖一代の教、この徳海にしくなし。穢を捨て浄を欣い、行に迷〈まど〉い信に惑い、心昏く識〈さとり〉寡なく、悪重く障り多きもの、特〈こと〉に如来の発遣を仰ぎ、必ず最勝の直道に帰して、専らこの行に奉え、ただこの信を崇めよ。SOJO:SYOZEN2-1/HON-149,HOU-265 〇三重挙名号勝徳文中。言円融者。是対隔歴。乃是円満融通之義。此阿弥陀三字即是為空仮中三諦理故名曰円融至徳嘉号。難信金剛信楽等者。他力真実信心相也。言難信者。大経下云。[キョウ02]慢弊懈怠難以信此法。已上。又云。人有信慧難。已上。又云。若聞斯経信楽受持難中之難。無過此難。已上。小経云。為一切世間説此難信之法。是為甚難。已上。言金剛者。他力信楽堅固不動仮喩金剛。是不壊義。問。於金剛体有幾徳耶。答。梁摂論云。有四義故以金剛譬三摩提。一能破煩悩山。二能引無余功徳。三堅実不可破壊。四用利能令智慧通達一切法無礙。已上。今依此文言除疑者能破煩悩。用利通達無礙徳也。言獲証者。能引功徳。堅実義也。金剛頂経疏云。金剛者是堅固利用二義即喩名也。堅固以譬実相。不思議秘密之理常在不壊也。利用以喩如来智用。摧破惑障顕証極。已上。由堅固故獲得如来真実功徳。由利用故除却疑網所覆迷也。又云。世間金剛有三種義。一不可壊。二宝中之宝。三戦具中勝。已上。又梵網古迹上云。金中精牢名曰金剛。已上。以此等文応知金剛堅固之義。問。所出諸文皆以仏果功徳譬彼金剛。今譬凡夫浅位信楽。何輙比之。答。雖似凡夫所発信心。此心発起如来選択願心。是故全非凡夫浅位自力信。故或云清浄。或云真実。故玄義云。共発金剛志横超断四流。已上。散善義云。此心深信由若金剛。已上。師釈既爾。今釈無失。言捷径者。速疾道也。宋韻云。捷疾葉切。獲也。次也。疾也。尅也。勝也。成也。説文猟也。軍獲得也。楽邦文類云。総官張[リン01]云。八万四千法門。無如是之捷径。已上。第二巻引之。如来発遣者。是釈尊指授。最勝直道者。是弥陀願力。散善義二河譬喩云。仰蒙釈迦発遣指向西方。又藉弥陀悲心招換。今信順二尊之意不顧水火二河。念念無遺乗彼願力之道。捨命已後得生彼国。与仏相見慶喜何極也。已上。SYOZEN2-210,211/TAI1-135,136 〇三には重ねて名号の勝徳を挙ぐる文の中に、「円融」というは、これ隔歴に対す。乃ちこれ円満融通の義なり。この阿弥陀の三字は即ちこれ空仮中の三諦の理たるが故に名づけて円融至徳の嘉号という。「難信金剛の信楽」等とは、他力真実信心の相なり。「難信」というは、『大経』下に云わく「[キョウ02]慢と弊と懈怠とは以てこの法を信じ難し」と已上。また云わく「人に信慧あること難し」と已上。また云わく「もしこの経を聞き、信楽受持すること難が中の難なり。この難に過ぎたるはなし」と已上。『小経』に云わく「一切世間のためにこの難信の法を説く。これを甚難と為す」と已上。「金剛」というは、他力の信楽堅固にして動ぜざること喩を金剛に仮る。これ不壊の義なり。問う。金剛の体に於いて幾の徳かありや。答う。『梁の摂論』に云わく「四義あるが故に金剛を以て三摩提に譬う。一にはよく煩悩の山を破す。二にはよく無余の功徳を引く。三には堅実にして破壊すべからず。四には用利にして、よく智慧をして一切の法に通達して無礙ならしむ」已上。今この文に依るに、「疑を除く」というは、よく煩悩を破す。用利は通達無礙の徳なり。「証を獲しむ」というは、よく功徳を引す。堅実の義なり。『金剛頂経の疏(慈覚疏)』に云わく「金剛とは、これ堅固・利用の二義、即ち喩の名なり。堅固を以て実相に譬う。不思議秘密の理は常在不壊なり。利用を以て如来の智用に喩う。惑障を摧破して証極を顕わす」と已上。堅固に由るが故に如来真実の功徳を獲得す。利用に由るが故に疑網所覆の迷を除却するなり。また云わく(金剛頂経 慈覚疏)「世間の金剛に三種の義あり。一には壊すべからず。二には宝中の宝。三には戦具の中の勝」已上。また『梵網の古迹』の上に云わく「金中の精牢を名づけて金剛という」と已上。これ等の文を以て金剛堅固の義を知るべし。問う。出だす所の諸文はみな仏果の功徳を以て彼の金剛に譬う。今は凡夫浅位の信楽に譬う。何ぞ輙くこれに比せん。答う。凡夫所発の信心に似たりといえども、この心は如来選択の願心より発起す。この故に全く凡夫浅位の自力の信にあず。故に、或いは清浄といい、或いは真実という。故に『玄義』に云わく「共に金剛の志を発せば横に四流を超断す」と已上。『散善義』に云わく「この心深信せること、なおし金剛のごとし」と已上。師釈既に爾り。今の釈、失なし。「捷径」というは、速疾の道なり。『宋韻』に云わく「捷、疾葉の切、獲なり、次なり、疾なり、尅なり、勝なり、成なり」。『説文』は「猟なり、軍の獲得なり」。『楽邦文類』に云わく「総官の張[リン01]が云わく、八万四千の法門は、この捷径にしくなし」と已上、第二巻にこれを引く。「如来の発遣」とは、これ釈尊の指授なり。「最勝直道」とは、これ弥陀の願力なり。『散善義』二河の譬喩に云わく「仰いで釈迦の発遣して指えて西方に向えたもうことを蒙り、また弥陀の悲心招換したもうに藉って、今二尊の意に信順して水火の二河を顧みず、念念に遺することなく彼の願力の道に乗じて、捨命已後、彼の国に生ずることを得て、仏とあい見て慶喜すること何ぞ極まらん」と已上。SYOZEN2-210,211/TAI1-135,136 ◎噫弘誓強縁多生[ハ01]値。真実浄信億劫[ハ01]獲。遇獲行信遠慶宿縁。若也此回覆蔽疑網。更復逕歴曠劫。誠哉。摂取不捨真言。超世希有正法。聞思莫遅慮。 ◎ああ、弘誓の強縁は、多生にも値〈もうあ〉いがたく、真実の浄信は、億劫にも獲がたし。たまたま行信を獲ば、遠く宿縁を慶べ。もしまたこのたび疑網に覆蔽せられば、かえってまた曠劫を径歴せん。誠なるかなや、摂取不捨の真言、超世希有の正法、聞思して遅慮することなかれ。SOJO:SYOZEN2-1/HON-149,150,HOU-265,266 〇四顕聞法縁令人随喜。及誡疑慮之文。易見。言真言者。非陀羅尼。別由真宗誠言之理。総依仏語誠実之義曰真言也。問。所言之義有例証乎。答。安楽集上云。採集真言助成往益。已上。又五会讃云。此是釈迦三世諸仏誠諦真言。足以為信敬。可依行。是其例也。SYOZEN2-211/TAI1-180 〇四に聞法の縁を顕わして人をして随喜せしめ、及び疑慮を誡むるの文、見易し。「真言」というは陀羅尼にあらず。別しては真宗誠言の理に由り、総じては仏語誠実の義に依りて真言というなり。問う。言う所の義に例証ありや。答う。『安楽集』の上に云わく「真言を採集して往益を助成す」已上。また『五会讃』に云わく「これはこれ釈迦三世の諸仏誠諦の真言なり。以て信敬を為すに足れり、依行すべし」と。これはその例なり。SYOZEN2-211/TAI1-180 ◎爰愚禿釈親鸞。慶哉。西蕃月支聖典。東夏日域師釈。難遇今得遇。難聞已得聞。敬信真宗教行証。特知如来恩徳深。斯以慶所聞嘆所獲矣。 ◎ここに愚禿釈の親鸞、慶ばしきかなや、西蕃・月支の聖典、東夏・日域の師釈、遇いがたくして今遇うことを得たり。聞きがたくしてすでに聞くことを得たり。真宗の教行証を敬信して、特に如来の恩徳の深きことを知んぬ。ここをもって、聞くところを慶び、獲るところを嘆ずるなり。SOJO:SYOZEN2-1/HON-150,HOU-266 〇五悦受師訓述聞持中。言西蕃者。是西天也。正云天竺。西対震旦。即是月支。支又用氏。言東夏者。即是震旦。東対天竺。夏中国名。夏宋韻云。大也。又諸夏一曰中国之人。已上。言真宗者。至下可詳。SYOZEN2-211/TAI1-202,203 〇五に師訓を受くることを悦びて、聞持を述ぶる中に、「西蕃」というは、これ西天なり。正しくは天竺という。西は震旦に対す。即ちこれ月支なり。支にはまた氏を用ゆ。「東夏」というは、即ちこれ震旦なり。東は天竺に対す。夏は中国の名なり。夏は『宋韻』に云わく「大なり、また諸夏、一に曰わく中国の人なり」已上。「真宗」というは、下に至りて詳らかにすべし。SYOZEN2-211/TAI1-202,203 |