六要鈔会本 第1巻の4(4の内) 教の巻 真実教 引文 異訳大経・述文賛 五徳現瑞 |
◎=親鸞聖人『教行信証』の文。 〇=存覚『六要抄』の文 |
『教行信証六要鈔会本』 巻一之四 |
◎無量寿如来会言。阿難白仏言。世尊。我見如来光瑞希有故発斯念。非因天等。仏告阿難。善哉善哉。汝今快問。善能観察微妙弁才。能問如来如是之義。汝為一切如来応正等覚及安住大悲利益群生。如優曇華希有大士出現世間。故問斯義。又為哀愍利楽諸有情故。能問如来如是之義。已上。 ◎無量寿如来会に言わく、阿難、仏に白して言さく、世尊、我、如来の光瑞希有なるを見たてまつるがゆえに、この念を発せり。天等に因るにあらずと。仏、阿難に告げたまわく、善いかな、善いかな。汝、今快く問えり。よく微妙の弁才を観察して、よく如来に如是の義を問いたてまつれり。汝、一切如来・応・正等覚および大悲に安住して、群生を利益せんがために、優曇華の希有なるがごとくして、大士世間に出現したまえり。故にこの義を問いたてまつる。また、もろもろの有情を哀愍し利楽せんがためのゆえに、よく如来にかくの如きの義を問いたてまつれりと。已上。KYO:SYOZEN2-3,4/HON-153,HOU-268,267 〇次如来会。説相大同。以此諸相校大経説。阿難白仏下至非因天等阿難実答。仏告阿難下如来嘆許。於中自初至是之義先嘆慧問。自汝為下至問斯義挙仏出難値。自又為下嘆所問益多。SYOZEN2-223/TAI1-363,364 〇次に『如来会』。説相は大いに同じ。この諸相を以て『大経』の説を校するに、「阿難白仏」の下、「非因天」等に至るまでは阿難の実答なり。「仏告阿難」の下は如来の嘆許なり。中に於いて初より「是之義」に至るまでは、まず慧問を嘆じ、「汝為」より下、「問斯義」に至るまでは仏出の難値を挙ぐ。「又為」より下は所問の益多きことを嘆ず。SYOZEN2-223/TAI1-363,364 ◎平等覚経言。仏告阿難。如世間有優曇鉢樹。但有実無有華。天下有仏乃華出耳。世間有仏甚難得値。今我作仏出於天下。若有大徳。聡明善心。縁知仏意。若不妄在仏辺侍仏也。若今所問。普聴諦聴。已上。 ◎平等覚経に言わく、仏、阿難に告げたまわく、世間に優曇鉢樹あり、ただ実ありて華あることなし、天下に仏まします、いまし華の出ずるがごとくならくのみ。世間に仏ましませども、はなはだ値うことを得ること難し。今、我仏に作りて天下に出でたり。もし大徳ありて、聡明善心にして仏意を知るに縁〈よ〉りて、もし妄りに、仏辺にありて仏に侍えず。もし今問えるところ、普く聴き、諦らかに聴け。已上。KYO:SYOZEN2-4/HON-154,HOU-269 〇次覚経文。其意可見。SYOZEN2-223/TAI1-375 〇次に『覚経』の文。その意、見つべし。SYOZEN2-223/TAI1-375 ◎憬興師云。今日世尊住奇特法。依神通輪所現之相。非唯異常。亦無等者故。 ◎憬興師の云わく、今日世尊住奇特法というは、神通輪に依りて現じたまうところの相なり、ただ常に異なるのみにあらず、また等しき者なきがゆえに。KYO:SYOZEN2-4/HON-154,HOU-269 〇次興釈中。釈奇特法。神通輪者。三業之中是身業名。即以口業名説法輪。又以意業名記心輪。是法相宗名目而已。SYOZEN2-223/TAI1-381,382 〇次に興の釈の中に、「奇特法」を釈するに、「神通輪」とは、三業の中に、これ身業の名なり。即ち口業を以て説法輪と名づく。また意業を以て記心輪と名づく。これ法相宗の名目ならくのみ。SYOZEN2-223/TAI1-381,382 ◎今日世雄住仏所住。住普等三昧能制衆魔雄健天故。 ◎今日世雄住仏所住というは、普等三昧に住して、よく衆魔・雄健天を制するがゆえに。KYO:SYOZEN2-4/HON-154,HOU-269 〇釈仏所住。普等三昧者。六八願中第四十五聞名見仏之願説言。設我得仏。他方国土諸菩薩衆。聞我名字皆悉逮得普等三昧。住是三昧至于成仏。常見無量不可思議一切諸仏。若不爾者不取正覚。已上。憬興釈云。普者即普遍義。等者即斉等義。所見普広。仏者皆見。故所住定名為普等。已上。玄一釈云。由此三昧力普見諸仏世界。故言為普。平等現見。無所見。故言普等。已上。於此三昧有多異名。遍至三昧。普至三昧。及名普遍三摩地是。如次悲華分陀利経荘厳経説。問。依何等義名普等耶。答。如上所引両師釈者。依見仏義名為普等。是従果名。従因言名念仏三昧是其名也。SYOZEN2-223/TAI1-385,386 〇仏の所住を釈するに、「普等三昧」とは、六八願の中に第四十五の聞名見仏の願に説きて言わく「たとい我、仏を得んに、他方国土の諸の菩薩衆、我が名字を聞きて、皆悉く普等三昧を逮得せん。この三昧に住して成仏に至るまで、常に無量不可思議の一切諸仏を見たてまつらん。もし爾らずば正覚を取らじ」と已上。憬興の釈に云わく「普とは即ち普遍の義、等とは即ち斉等の義なり。所見普く広し。仏をば皆見る。故に住する所の定を名づけて普等と為す」と已上。玄一の釈に云わく「この三昧力に由りて普く諸仏の世界を見る。故に言いて普と為す。平等に現に見る。所見なし。故に普等と言う」と已上。この三昧に於いて多くの異名あり。遍至三昧、普至三昧、及び普遍三摩地と名づく是なり。次の如く『悲華』と『分陀利経』と『荘厳経』との説なり。問う。何等の義に依りて普等と名づくるや。答う。上の所引の両師の釈の如きは、見仏の義に依りて名づけて普等と為す。これは果の名に従う。因に従いては、言いて念仏三昧と名づくる、是れ其の名なり。SYOZEN2-223/TAI1-385,386 ◎今日世眼住導師行。五眼名導師行。引導衆生無過上故。 ◎今日世眼住導師行というは、五眼を導師の行となづく、衆生を引導するに過上なきがゆえに。KYO:SYOZEN2-4/HON-154,HOU-269,270 〇導師行中。言五眼者。依常途説。一者肉眼。二者天眼。三者慧眼。四者法眼。五者仏眼。言肉眼者。人間扶根四境名肉。正根浄色能見名眼。但縁隙塵已上麁色不縁牛塵已下細色。又縁障内不縁障外。又縁近境不縁遠境。言天眼者。禅定名天。依天得眼故名天眼。天中浄色以為其体。能見衆生此死生彼。大論三十三云。肉眼見近不見遠。見前不見後。見外不見内。見昼不見夜。見上不見下。以此等故求天眼。得此天眼遠近皆見。前後内外上下悉皆無礙。已上。言慧眼者。縁真諦智能照空理故名慧眼。言法眼者。縁俗諦智能照法故名為法眼。言仏眼者。就人為名故名仏眼。縁中道智以為其体。於此五眼四眼是別。仏眼是総。四眼至仏悉名仏眼。是故天台文句四云。仏眼円通。本勝兼劣。四眼入仏眼皆名仏眼。已上。此是諸教通途説相。SYOZEN2-224/TAI1-388,389- 〇導師の行の中に、五眼というは、常途の説に依るに、一には肉眼、二には天眼、三には慧眼、四には法眼、五には仏眼なり。肉眼というは、人間の扶根の四境を肉と名づく。正根の浄色の能く見るを眼と名づく。ただ隙塵已上の麁色を縁じて、牛塵已下の細色を縁ぜず。また障内を縁じて障外を縁ぜず。また近境を縁じて遠境を縁ぜず。天眼というは、禅定を天と名づく。天に依りて眼を得るが故に天眼と名づく。天中の浄色を以てその体と為す。能く衆生の此死生彼を見る。『大論』の三十三に云わく「肉眼は近を見て遠を見ず。前を見て後を見ず。外を見て内を見ず。昼を見て夜を見ず。上を見て下を見ず。これらを以ての故に天眼を求む。この天眼を得れば遠近みな見る。前後・内外・上下、悉くみな無礙なり」と、已上。慧眼というは、真諦を縁ずる智は能く空理を照らす。故に慧眼と名づく。法眼というは、俗諦を縁ずる智は能く法を照らすが故に名づけて法眼と為す。仏眼というは、人に就きて名と為すが故に仏眼と名づく。中道を縁ずる智を以てその体と為す。この五眼に於いて四眼はこれ別、仏眼はこれ総なり。四眼は仏に至れば悉く仏眼と名づく。この故に天台の『文句』の四に云わく「仏眼は円通なり。本勝にして劣を兼ぬ。四眼は仏眼に入ればみな仏眼と名づく」と已上。これはこれ諸教通途の説相なり。SYOZEN2-224/TAI1-388,389- 〇問。大経下云。肉眼清徹靡不分了天眼通達無量無限。法眼観察究竟諸道。慧眼見真能度彼岸。仏眼具足覚了法性。已上。是与上説同異如何。答。有同有異。言其同者。五眼功用不相濫故。言其異者。今大経説浄土菩薩之功徳故。肉眼天眼所見分量超人天分。至仏眼者。是説菩薩所具徳故不及究竟。又法与慧三四前後。肉眼清徹靡不分了者。義寂云。随其所応若近若遠。若内若外。皆分明見。由根精徹境無障故。天眼通達無量無限者。論説(大論第四十九)。菩薩天眼有二種。一果報得。二修禅得。果報得者。常与肉眼合用。唯闇夜天眼独用。余人得果報天眼見四天下。欲界諸天見下不見上。菩薩所得果報天眼見三千大千世界。乃至。菩薩用是天眼見十方如恒河沙等国土中衆生生死善悪好醜及善悪業因縁無所障礙。一切皆見。四天王天乃至阿迦弐[タ04]天眼所見。又能過之。是諸天不能知菩薩天眼所見。何以故。是菩薩出三界得法性生身。得弁才力故。此中所言無量限者。随応通説報得及修。四十八願中所説者。就最少説故不相違。已上。-SYOZEN2-224,225/TAI1-389- 〇問う。『大経』の下に云わく「肉眼清徹にして分了せずということなし。天眼通達して無量無限なり。法眼観察して諸道を究竟す。慧眼真を見て能く彼岸に度す。仏眼具足して法性を覚了す」と已上。これ、上の説と同異いかん。答う。同あり、異あり。その同というは、五眼の功用は相濫せざるが故に。その異というは、今『大経』には浄土の菩薩の功徳を説くが故に、肉眼・天眼の所見の分量は人天の分に超えたり。仏眼に至るとは、これは菩薩所具の徳を説くが故に究竟に及ばず。また法と慧と、三と四と前後せり。「肉眼清徹にして分了せず」とは、義寂の云わく「その所応に随いて、もしは近、もしは遠、もしは内、もしは外、みな分明に見る。根の精徹と境の無障とに由るが故に」。「天眼通達して無量無限なり」とは、論(『大論』第四十九)に説かく「菩薩の天眼に二種あり。一には果報得、二には修禅得なり。果報得とは、常に肉眼と合用す。ただ闇夜には天眼独り用ゆ。余人は果報の天眼を得て四天下を見る。欲界の諸天は下を見て上を見ず。菩薩所得の果報の天眼は三千大千世界を見る。乃至。菩薩はこの天眼を用いて十方如恒河沙等の国土の中の衆生の生死・善悪・好醜及び善悪の業因縁を見るに障礙する所なし。一切皆見る。四天王天、乃至、阿迦弐[タ04]天眼の所見は、また能くこれに過ぎたり。この諸天は菩薩の天眼の所見を知ること能わず。何を以ての故に。この菩薩は三界を出でて法性生身を得、弁才力を得るが故に。この中に言う所の無量限とは、応に随いて通じて報得及び修を説く。四十八願の中に説く所は、最少に就きて説くが故に相違せず」と已上。-SYOZEN2-224,225/TAI1-389- 〇問。肉眼精徹。天眼通達。二眼所見同無限者。何為差別。答。憬興云。照瞻現在色像名為肉眼。能見衆生此死生彼。故名天眼。已上。法眼観察究竟諸道者。同師云。法眼則以有智為体。能見衆生欲性心及諸仏法。故名法眼。普知三乗道法差別。故云究竟諸道。已上。義寂云。余処多説慧眼第三。此中先説法眼者。修起次第応如先説。要先達真方了俗故。然法眼境与前二眼同是俗故。是此中先慧眼説。論云。菩薩初発心時。以肉眼見衆生受苦心生慈愍。学諸禅定修得五通。以天眼遍見六道衆生受種種身心苦益加憐愍。故求慧眼以救済之。得此慧眼已見衆生心相種種不同。云何令衆生得是実法。故求法眼引導衆生令入法中。故名法眼。已上。慧眼見真能度彼岸者。浄影云。能見真空故名見真。除捨有相達到平等無相彼岸名度彼岸。已上。憬興云。度者至也。已上。義寂云。論云。肉眼不能見障外事。又不能遠見。是故求天眼。天眼雖復見亦復虚誑。見一異相見衆物和合虚誑法。以是故求慧眼。慧眼中無如是過。已上。思益三云。若有所見不名慧眼。慧眼不見有為法。不見無為法。已上。大論三十三云。是天眼。見和合因縁生仮名之物不見実相。故求慧眼。得慧眼不見衆生尽滅一異相。捨離諸著不受一切法。智慧自内滅。是名慧眼。已上。仏眼具足覚了法性者。義寂云。又位位中随分成仏。故位位中亦具足眼。経説。初発心位已得十力分故。已上。-SYOZEN2-225,226/TAI1-389,390 〇問う。「肉眼精徹」と「天眼通達」と、二眼の所見は同じく無限ならば、何をか差別とせん。答う。憬興の云わく「現在の色像を照瞻するを名づけて肉眼と為す。能く衆生の此に死し彼に生ずるを見る。故に天眼と名づく」と已上。「法眼観察して諸道を究竟し」とは、同師の云わく「法眼は即ち有智を以て体と為す。能く衆生の欲性の心と及び諸仏の法を見る、故に法眼と名づく。普く三乗の道法の差別を知る。故に究竟諸道と云う」と已上。義寂の云わく「余処には多く慧眼を第三と説く。この中に先ず法眼を説くことは、修起の次第は応に先の如く説くべし。要ず先ず真に達し、方に俗を了するが故に。然も法眼の境と前の二眼とは同じくこれ俗なるが故に、これはこの中には慧眼に先だちて説く。論に云わく、菩薩初発心の時、肉眼を以て衆生の苦を受くるを見て心に慈愍を生じ、諸の禅定を学び五通を修得す。天眼を以て遍く六道の衆生の種種身心の苦を受くるを見て、ますます憐愍を加う。故に慧眼を求めて以てこれを救済す。この慧眼を得て、已に衆生の心相の種種不同なるを見て、云何が衆生をしてこの実法を得せしめん。故に法眼を求めて衆生を引導して法の中に入らしむ。故に法眼と名づく」と已上。「慧眼真を見て能く彼岸に度す」とは、浄影の云わく「能く真空を見るが故に見真と名づく。有相を除捨して平等無相の彼岸に達到するを度彼岸と名づく」と已上。憬興の云わく「度とは至なり」と已上。義寂の云わく「論に云わく、肉眼は障外の事を見ること能わず。また遠く見ること能わず。この故に天眼を求む。天眼はまた見るといえども、また虚誑なり。一異の相を見るに、衆物の和合の虚誑の法を見る。これを以ての故に慧眼を求む。慧眼の中には、かくの如きの過なし」と已上。『思益』の三に云わく「もし所見あらば慧眼と名づけず。慧眼は有為の法を見ず、無為の法を見ず」と已上。『大論』の三十三に云わく「この天眼は、和合因縁生の仮名の物を見て、実相を見ず。故に慧眼を求む。慧眼を得れば衆生の尽滅一異の相を見ず。諸の著を捨離して一切の法を受けず。智慧、自内に滅す。これを慧眼と名づく」と已上。「仏眼具足して法性を覚了す」とは、義寂の云わく「また位位の中に随分に成仏す。故に位位の中にまた眼を具足す。経に説かく、初発心の位に已に十力分を得るが故に」と已上。-SYOZEN2-225,226/TAI1-389,390 ◎今日世英住最勝道。仏住四智。独秀無匹故 ◎今日世英住最勝道というは、仏、四智に住したまう、独り秀でたること、匹〈ひと〉しきことなきがゆえに。KYO:SYOZEN2-4/HON-154,HOU-270 〇最勝道中言四智者。如来所具之功徳也。一大円鏡智。転第八識仏果得之。離諸分別於此智上身土影現如於鏡上現衆色像。是故名為大円鏡智。二平等性智。転第七識初地得之。是観自他有情平等。是智品与大慈悲等功徳相応。三妙観察智。転第六識真見道初得此智品。善観諸法自相共相。四成所作智。転前五識仏果得之。普於十方示現種種変化三業応作事業。SYOZEN2-226/TAI1-392 〇最勝道の中に四智というは、如来所具の功徳なり。一には大円鏡智。第八識を転じて仏果にこれを得。諸の分別を離れてこの智の上に於いて身土の影現すること鏡の上に於いて衆の色像を現ずるが如し。この故に名づけて大円鏡智と為す。二には平等性智。第七識を転じて初地にこれを得。これ自他の有情の平等を観ず。この智品と大慈悲等の功徳と相応す。三には妙観察智。第六識を転じて真の見道の初にこの智品を得。善く諸法の自相・共相を観ず。四には成所作智。前五識を転じて仏果にこれを得。普く十方に於いて種種の変化の三業を示現して事業を応作す。SYOZEN2-226/TAI1-392 ◎今日天尊行如来徳。即第一義天。以仏性不空義故。 ◎今日天尊行如来徳というは、すなわち第一義天なり。仏性不空の義をもってのゆえに。KYO:SYOZEN2-4/HON-154,HOU-270 〇如来徳中言即第一義天等者。釈意全同浄影所解。其釈在初。不能重挙。SYOZEN2-226/TAI1-394 〇如来徳の中に「すなわち第一義天なり」等というは、釈の意は全く浄影の所解に同じ。その釈は初に在り。重ねて挙ぐること能わず。SYOZEN2-226/TAI1-394 ◎阿難當知如来正覚。即奇特之法。慧見無礙。述最勝之道。無能遏絶。即如来之徳。已上。 ◎阿難当知如来正覚というは、すなわち奇特の法なり。慧見無碍というは、最勝の道を述するなり。無能遏絶というは、すなわち如来の徳なり。已上。KYO:SYOZEN2-4/HON-154,HOU-269,270 〇阿難以下対前問文。但此所対浄影憬興有少不同。如来正覚已下三句所対全同。慧見無礙無能遏絶。今此二句前後相翻。所謂浄影如上所引。興如今文。問。所引釈中何除中間其智難量多所導御之二句耶。答。無別意趣。只挙初後略其中間。省略義也。SYOZEN2-226/TAI1-396 〇「阿難」以下は前の問に対する文なり。ただしこの所対は浄影と憬興と少しきの不同あり。「如来正覚」已下の三句は所対全く同じ。「慧見無碍無能遏絶」。今この二句前後相翻せり。いわゆる浄影は上の所引の如し。興は今の文の如し。問う。所引の釈の中に何ぞ中間の「其智難量多所導御」の二句を除くや。答う。別の意趣なし。ただ初後を挙げて、その中間を略す。省略の義なり。SYOZEN2-226/TAI1-396 ◎爾者則此顕真実教明証也。誠是如来興世之正説。奇特最勝之妙典。一乘究竟之極説。速疾円融之金言。十方称讃之誠言。時機純熟之真教也。応知。 ◎しかればすなわち、これ顕真実教の明証なり。誠にこれ、如来興世の正説、奇特最勝の妙典、一乗究竟の極説、速疾円融の金言、十方称讃の誠言、時機純熟の真教なりと、知るべし。KYO:J:SYOZEN2-4/HON-154,155,HOU-270 〇爾者已下是総結也。今於其中。如来興世之正説者。出世本懐。済凡之義。如上具述。奇特最勝之妙典者。住奇特法。住最勝道。所説教故。一乗究竟之極説者。此経下云。究竟一乗至于彼岸。已上。義寂釈云。以一妙道普載群生自他倶至無為岸。已上。可得此徳之極説故。速疾円融之金言者。又云。雖一世勤苦須臾之間。後生無量寿仏国。快楽無極。長与道徳合明。永抜生死根本。已上。須臾之間永抜生死是速疾益。又云。横截五悪趣。悪趣自然閉。已上。言横截者。頓速義也。又云。聞法楽受行。疾得清浄処。已上。又覚経云。速疾超便可到安楽国之世界。已上。又十住毘婆沙論云。若人疾欲至不退転地者。応以恭敬心執持称名号。已上。浄土論云。能令速満足功徳大宝海。已上。是皆速疾得益義也。言円融者。如序中述。十方称讃之誠言者。第十七願諸仏咨嗟則其意也。小経所説諸仏証誠依此願耳。時機純熟之真教者。釈尊興世。大悲本懐。是依時機純熟故也。流通文云。当来之世経道滅尽我以慈悲哀愍特留此経止住百歳。已上。法滅百歳之時下機猶以得脱。何況末法最初之今。時節相応機縁純熟。西方要決云。末法万年余経悉滅。弥陀一教利物偏増。已上。当巻大旨略述如斯。SYOZEN2-226,227/TAI1-401 〇「爾者」已下はこれ総結なり。今その中に於いて「如来興世の正説」とは、出世本懐、済凡の義は上に具に述ぶるが如し。「奇特最勝の妙典」とは、奇特の法に住し、最勝の道に住して説く所の教なるが故に。「一乗究竟の極説」とは、この経の下に云わく「一乗を究竟して、彼岸に至る」と已上。義寂の釈に云わく「一妙道を以て普く群生を載せて自他倶に無為の岸に至る」と已上。この徳を得べき極説なるが故に。「速疾円融の金言」とは、また云わく「一世の勤苦は須臾の間なりといえども、後に無量寿仏国に生じて快楽極まりなし。長く道徳と合して明らかなり。永く生死の根本を抜く」と已上。「須臾の間」「永く生死の根本を抜く」はこれ速疾の益なり。また云わく「横に五悪趣を截り、悪趣自然に閉ず」と已上。「横截」というは、頓速の義なり。また云わく「法を聞きて楽いて受行し、疾く清浄処を得よ」と已上。また『覚経』に云わく「速疾に超えて便ち安楽国の世界に到るべし」と已上。また『十住毘婆沙論』に云わく「若し人疾く不退転地に至らむと欲せば、恭敬心を以て、執持して名号を称すべし」と已上。『浄土論』に云わく「能く速やかに功徳の大宝海を満足せしむ」と已上。これみな速疾得益の義なり。「円融」というは、序の中に述ぶるが如し。「十方称讃の誠言」とは、第十七の願の諸仏咨嗟、則ちその意なり。『小経』所説の諸仏の証誠はこの願に依らまくのみ。「時機純熟の真教」とは、釈尊の興世、大悲の本懐は、これ時機の純熟に依るが故なり。流通文に云わく「当来の世に経道滅尽せんに、我慈悲をもって哀愍して、ことにこの経を留めて止住すること百歳せん」と已上。法滅百歳の時の下機は、なお以て得脱す。何に況んや末法最初の今は、時節相応し機縁純熟す。『西方要決』に云わく「末法万年に余経悉く滅す。弥陀の一教の物を利すること、ひとえに増せん」と已上。当巻の大旨、略して述ぶること、かくの如し。SYOZEN2-226,227/TAI1-401 ◎顕浄土真実教文類 一 教行信証六要鈔会本 巻第一 |