六要鈔会本 第2巻の(5の内)
 行の巻
  標挙  諸仏称名之願 浄土真実之行 選択本願之行
  真実行
    大行釈
    引文『大無量寿経』『如来会』『大阿弥陀経』『平等覚経』『悲華経』
◎=親鸞聖人『教行信証』の文。
〇=存覚『六要抄』の文
『教行信証六要鈔会本』 巻二之一

 教行信証六要鈔会本第二 行

 ◎顕浄土真実行文類二

 〇当巻大文第二明行。於中為五。一者題目。二者標挙。題後一行如第一巻。彼総標経名。此別標願名。以下諸巻又同当巻。三者正釈。自文初下終至下引安楽集云此亦依聖教文是。広引諸文。少加私釈。四者総結。従斯乃下至云之大行也可知。二行余是。五者重釈。次従云言他力者下至巻終是。SYOZEN2-228/TAI1-415
 〇当巻大文第二に行を明かす。中に於いて五と為す。一には題目。二には標挙。題の後の一行は第一巻の如し。彼は総じて経名を標し、これは別して願名を標す。以下の諸巻また当巻に同じ。三には正釈。文初より下終り、下に『安楽集』に「これまた聖教に依る」と云う文を引くに至るまで、これなり。広く諸文を引き、少しき私の釈を加う。四には総結。「斯乃」より下、「之大行也可知」というに至るまで、二行余これなり。五には重釈。次に「言他力者」というより下、巻の終わりに至るまで、これなり。SYOZEN2-228/TAI1-415

 〇初題目中。分二準前。就題第一云教云一。此巻之題云行云二。次第応知。SYOZEN2-228/TAI1-415
 〇初に題目の中に、二に分つこと前に準ず。題に就きて第一には教といい、一という。この巻の題には行といい、二という。次第知るべし。SYOZEN2-228/TAI1-415


 ◎愚禿釈親鸞集。

 〇撰号如前。SYOZEN2-228/TAI1-428
 〇撰号は前の如し。SYOZEN2-228/TAI1-428


 ◎諸仏称名之願 浄土真実之行 選択本願之行

 〇二標挙之中。諸仏称名願者。是第十七願也。是則説為往生行之名号願故。当巻出之。凡於四十八願之中此願至要。若無此願。名号之徳何聞十方。聞而信行此願之力。若無此願超世願意諸仏何証。依証立信又此願恩也。浄土真実行者。往生行中仏本願故。正以念仏為其生因。故云真実。是称名也。余非本願。故非真実。選択本願行者。其意又同。念仏正是選択本願。余非選択本願之行。故以念仏云真実行云選択行。SYOZEN2-228/TAI1-429
 〇二に標挙の中に、「諸仏称名の願」とは、これ第十七願なり。これ則ち往生の行たる名号を説く願なるが故に当巻にこれを出だす。凡そ四十八願の中に於いて、この願は至要なり。もしこの願なくば、名号の徳は何ぞ十方に聞こえん。聞きて信行するはこの願の力なり。もしこの願なくば、超世の願意、諸仏は何んぞ証せん。証に依りて信を立つるは、またこの願の恩なり。浄土真実の行とは、往生の行の中に仏の本願なるが故に正しく念仏を以てその生因と為す。故に真実という。これ称名なり。余は本願に非ず。故に真実に非ず。選択本願の行とは、その意また同じ。念仏は正しくこれ選択本願なり。余は選択本願の行にあらず。故に念仏を以て真実の行と云い、選択の行と云う。SYOZEN2-228/TAI1-429


 ◎謹按往相回向。有大行有大信。大行者則称無礙光如来名。斯行即是摂諸善法。具諸徳本。極速円滿。真如一実功徳宝海。故名大行。然斯行者出於大悲願。即是名諸仏称揚之願。復名諸仏称名之願。復名諸仏咨嗟之願。亦可名往相回向之願。亦可名選択称名之願也。
 ◎(御自釈)謹んで往相回向を案ずるに、大行あり、大信あり。大行というは、すなわち無碍光如来の名を称するなり。この行は、すなわちこれもろもろの善法を摂し、もろもろの徳本を具せり。極速円満す、真如一実の功徳宝海なり。故に大行と名づく。しかるにこの行は、大悲の願より出でたり。すなわちこれ諸仏称揚の願と名づく。また諸仏称名の願と名づく、また諸仏咨嗟の願と名づく。また往相回向の願と名づくべし。また選択称名の願と名づくべきなり。GYO:J:SYOZEN2-5/HON-157,HOU-271

 〇三就正釈中分文為二。自文初下至之願也。先標行体。兼挙願名。従云諸仏称名願下正引諸文。SYOZEN2-228/TAI1-445-
 〇三に正釈の中に就きて文を分かちて二と為す。文の初より下、「之願也」に至るまでは、先ず行体を標し、兼ねて願名を挙ぐ。「諸仏称名の願」と云うより下は正に諸文を引く。SYOZEN2-228/TAI1-445-

 〇言謹按者。発端之詞。往相回向如前巻述。-SYOZEN2-229/TAI1-445-
 〇「謹按」と言うは発端の詞なり。往相の回向は前の巻に述ぶるが如し。-SYOZEN2-229/TAI1-445-

 〇摂諸善法者。玄義云。無量寿者是法。覚者是人。人法並彰故名阿弥陀仏。已上。法所覚法。覚能覚人。其所覚法乃是八万四千法門。因行果徳無法不備。摂諸善法之義応知。-SYOZEN2-229/TAI1-445-
 〇「諸の善法を摂す」とは、『玄義』に云わく「無量寿とはこれ法。覚とはこれ人。人法並べ彰わすが故に阿弥陀仏と名づく」已上。法は所覚の法。覚は能覚の人なり。その所覚の法はすなわちこれ八万四千の法門なり。因行・果徳、法として備わらざることなし。諸の善法を摂するの義、まさに知るべし。-SYOZEN2-229/TAI1-445-

 〇具諸徳本者。大経上云。供養一切仏。具足衆徳本。已上。讃饒王徳順求得之。慈恩西方要決云。諸仏願行成此果名但能念号具包衆徳。已上。-SYOZEN2-229/TAI1-445-
 〇「諸の徳本を具す」とは、『大経』の上に云わく「一切の仏を供養し、もろもろの徳本を具足す」已上。饒王の徳を讃じて順求してこれを得。慈恩の『西方要決』に云わく「諸仏の願行はこの果名を成ず。ただ能く号〈な〉を念ずれば具に衆徳を包〈か〉ぬ」已上。-SYOZEN2-229/TAI1-445-

 〇真如等者。唯識論云。真謂真実。顕非虚妄。如謂如常。表無変易。已上。起信論云。所謂心性不生不滅。一切諸法唯依妄念而有差別。若離心念即無一切境界之相。是故一切法従本已来離言説相。離名字相。離心縁相。畢竟平等無有変移。不可破壊。唯是一心。故名真如。已上。此真如理雖離言説名字相今此名号即為真如法性正体之義宛然。浄土論説依報相云。彼無量寿仏国土荘厳。第一義諦妙境界相。已上。論註上解本論真実功徳相文云。有二種功徳。一者従有漏心生不順法性。所謂凡夫人天諸善。人天果報。若因若果皆是顛倒。皆是虚偽。是故名不実功徳。二者従菩薩智慧清浄業起荘厳仏事。依法性入清浄相。是法不顛倒。不虚偽。名為真実功徳。已上。又同下釈往生義云。彼浄土是阿弥陀如来清浄本願無生之生。非如三有虚妄生也。何以言之。夫法性清浄畢竟無生。言生者是得生者之情耳。已上。又嘆名号之功徳云。聞彼阿弥陀如来至極無生清浄宝珠名号投之濁心念念之中罪滅。心浄即得往生。已上。真如法性第一義諦涅槃無生。皆是一法之異名也。-SYOZEN2-229/TAI1-446-
 〇「真如」等とは、『唯識論』に云わく「真とは謂わく真実。虚妄にあらざることを顕わす。如は謂わく如常。変易なきことを表わす」已上。『起信論』に云わく「いわゆる心性は不生不滅なり。一切の諸法はただ妄念に依りて而も差別あり。もし心念を離るれば、即ち一切境界の相なし。この故に一切の法は本よりこのかた言説の相を離れ、名字の相を離れ、心縁の相を離る。畢竟平等にして変移あることなし。破壊すべからず。ただこれ一心なり。故に真如と名づく」已上。この真如の理は言説名字の相を離るといえども、今この名号は即ち真如法性正体の義たること宛然なり。『浄土論』に依報の相を説きて云わく「彼の無量寿仏の国土の荘厳は第一義諦妙境界の相なり」已上。『論註』の上に本論の真実功徳相の文を解して云わく「二種の功徳あり。一には有漏心より生ずるは法性に順ぜず。いわゆる凡夫人天の諸善、人天の果報、もしは因、もしは果、みなこれ顛倒なり。みなこれ虚偽なり。この故に不実の功徳と名づく。二には菩薩の智慧清浄の業より起りて仏事を荘厳す。法性に依りて清浄の相に入る。この法は顛倒せず。虚偽ならず。名づけて真実功徳とす」已上。また同じき下に往生の義を釈して云わく「彼の浄土はこれ阿弥陀如来清浄本願無生の生なり。三有虚妄の生の如くにはあらず。何を以てか、これを言うとならば、それ法性清浄畢竟無生なり。生というは、これ得生の者の情ならくのみ」已上。また名号の功徳を嘆じて云わく「彼の阿弥陀如来至極無生清浄宝珠名号を聞きて、これを濁心に投ぐれば、念念の中に罪滅し、心浄くして即ち往生を得」已上。真如・法性・第一義諦・涅槃・無生は、みなこれ一法の異名なり。-SYOZEN2-229/TAI1-446-

 〇功徳宝海者。今嘆名号功徳甚深殊勝称宝。広大喩海。論云。能令速満足功徳大宝海。已上。註云。使我成仏時値遇我者皆速満足無上大宝。已上。智光疏云。仏身所有不共功徳。数過塵沙不可測量。故喩如海。已上。-SYOZEN2-229,230/TAI1-446-
 〇「功徳の宝海」とは、今、名号の功徳は甚深殊勝なるを嘆じて宝と称す。広大なるを海に喩う。『論』に云わく「能く速やかに功徳の大宝海を満足せしむ」已上。註に云わく「我が成仏せん時、我に値遇せん者をして、みな速やかに無上大宝を満足せしめん」已上。智光の疏に云わく「仏身所有の不共の功徳は、数、塵沙を過ぎて測量すべからず。故に海の如しと喩う」已上。-SYOZEN2-229,230/TAI1-446-

 〇出於大悲願者。問。浄影云。四十八願義要唯三。文別有七。義要三者。一摂法身願。二者摂浄土願。三摂衆生願。四十八中十二十三及第十七是摂法身。第三十一第三十二是摂浄土。余四十三是摂衆生。文別七者。初十一願為摂衆生。次有両願。是其第二為摂法身。次有三願。是其第三重摂衆生。次有一願。是其第四重摂法身。次有十三。是其第五重摂衆生。次有両願。是其第六為摂衆生。下有十六。是其第七重摂衆生。已上。義寂憬興共又同之。然者大悲之言摂衆生義。於摂法身何云大悲。答。解有二義。一云。雖摂法身専是大悲。所以然者。何於仏意求其名聞。依咨嗟願有仏証誠。依仏証誠衆生帰信。故願仏讃併為利益。故云大悲。一云。義寂引影已云。此亦多従願相而説。若委細論一一具足。已上。大師又同義寂師意。諸願亘三無所簡歟。摂法身者。玄義云。一一願言。若我得仏。十方衆生。称我名号。願生我国。下至十念。若不生者。不取正覚。今既成仏。即是酬因之身也。已上。摂浄土者。礼讃云。四十八願荘厳起。超諸仏刹最為精。已上。摂衆生者。散善義云。四十八願摂受衆生。已上。法事讃云。四十八願慇懃喚。乗仏願力往西方。已上。若依此義。四十八願一一皆為大悲之誓願耳。-SYOZEN2-230/TAI1-446,447-
 〇「大悲の願より出でたり」とは。問う。浄影の云わく「四十八願、義要はただ三なり。文別に七あり。義要に三とは、一には摂法身の願、二には摂浄土の願、三には摂衆生の願なり。四十八の中に十二と十三と及び第十七とはこれ摂法身なり。第三十一と第三十二とはこれ摂浄土なり。余の四十三はこれ摂衆生なり。文別に七とは、初の十一願を摂衆生と為す。次に両願あり。これはその第二に摂法身と為す。次に三願あり。これはその第三に重ねて摂衆生とす。次に一願あり。これはその第四に重ねて摂法身とす。次に十三あり。これはその第五に重ねて摂衆生とす。次に両願あり。これはその第六に摂衆生と為す。下に十六あり。これはその第七に重ねて摂衆生なり」已上。義寂・憬興は共にまたこれに同じ。然れば大悲の言は摂衆生の義なり。摂法身に於いて何んぞ大悲と云うや。答う。解に二義あり。一に云わく。摂法身なりといえども、専らこれ大悲なり。然るゆえんは、何ぞ仏意に於いてその名聞を求めん。咨嗟の願に依りて仏の証誠あり。仏の証誠に依りて、衆生は帰信す。故に仏讃を願ずるは、しかしながら利益の為なり。故に大悲と云う。一に云わく。義寂は影を引き已わりて云わく「これまた多く願相に従えて説く。もし委細に論ぜば一一に具足す」已上。大師また義寂師の意に同じく諸願は三に亘りて簡ぶ所なきか。摂法身とは、『玄義』に云わく「一一に願じて言わく。もし我、仏を得たらんに、十方の衆生、我が名号を称して我が国に生ぜんと願ぜん。下、十念に至るまで、もし生ぜずといわば、正覚を取らじと。今既に成仏したまえり。即ちこれ酬因の身なり」已上。摂浄土とは、『礼讃』に云わく「四十八願の荘厳より起こりて、諸仏の刹に超えて最も精たり」已上。摂衆生とは、『散善義』に云わく「四十八願をもて衆生を摂受したもう」已上。『法事讃』に云わく「四十八願慇懃に喚ばいたもう。仏の願力に乗じて西方に往く」已上。もしこの義に依らば、四十八願一一にみな大悲の誓願たらくのみ。-SYOZEN2-230/TAI1-446,447-

 〇言称揚者。称玉篇云歯証切。遂也。歯陵切。讃也。已上。今用讃義。又云。揚与章切。広韻云。音揚。飛挙也。明也。已上。-SYOZEN2-230,231/TAI1-447-
 〇「称揚」と言うは、「称」は『玉篇』に云わく「歯証の切。遂なり。歯陵の切。讃なり」已上。今は讃の義を用う。また云わく「揚は与章の切」。『広韻』に云わく「音は揚。飛挙なり。明なり」已上。-SYOZEN2-230,231/TAI1-447-

 〇言称名者。此非称念。今称揚彼名号義也。言咨嗟者。憬興云。咨者讃也。嗟者嘆也。已上。広韻云。咨即夷切。嗟也。謀也。玉篇云。子祇切。謀也。嗟也。広韻云。嗟子邪切。咨也。嘆也。痛惜也。-SYOZEN2-231/TAI1-447
 〇「称名」と言うは、これ称念にあらず。今、彼の名号を称揚する義なり。「咨嗟」と言うは、憬興の云わく「咨とは讃なり。嗟とは嘆なり」已上。『広韻』に云わく「咨は即夷の切。嗟なり。謀なり」。『玉篇』に云わく「子祇の切。謀なり。嗟なり」。『広韻』に云わく「嗟は子邪の切。咨なり。嘆なり。痛惜なり」。-SYOZEN2-231/TAI1-447


 ◎諸仏称名願。大経言。設我得仏。十方世界無量諸仏。不悉咨嗟称我名者。不取正覚。已上。
 ◎諸仏称名の願。『大経』に言わく、設い我仏を得んに、十方世界の無量の諸仏、ことごとく咨嗟して我が名を称せずは、正覚を取らじと。已上。GYO:SYOZEN2-5/HON-157,HOU-271

 〇初願文中。設我得仏即是願也。弘誓心堅成仏決定。雖然在因欣求極果。辞非聊爾故且云設。言諸仏者。問。報化之中是何身耶。答。可亘報化。如証誠仏。不取正覚即是誓也。合願首尾謂之誓願。諸願如斯。SYOZEN2-231/TAI1-485
 〇初に願文の中に「設我得仏」は即ちこれ願なり。弘誓心堅く成仏決定す。然りといえども、因に在りて極果を欣求す。辞〈こと〉聊爾にあらざるが故に且く設という。「諸仏」というは、問う、報化の中にはこれ何の身ぞや。答う、報化に亘るべし。証誠の仏の如し。「不取正覚」は即ちこれ誓なり。願の首尾を合してこれを誓願という。諸願かくの如し。SYOZEN2-231/TAI1-485


 ◎又言。我至成仏道。名声超十方。究竟靡所聞。誓不成正覚。為衆開宝蔵。広施功徳宝。常於大衆中説法師子吼。抄要。
 ◎(大経)また言わく、我、仏道を成るに至りて名声十方に超えん。究竟して聞こゆるところなくは、誓う、正覚を成らじと。衆のために宝蔵を開きて広く功徳の宝を施し、常に大衆の中にして説法師子吼せんと。抄要。GYO:SYOZEN2-5/HON-157,HOU-271

 〇次文重誓願之文也。六八願上重有此誓。是故此偈云重誓偈。而十一行偈文之中。今之所引。第三行与第八行也。問。引此二行其要如何。答。十一行中初一行総望六八願決定満足。次二行別如次望欲済衆生苦名聞十方。義寂云。望三種果。一望満願果。二望大施果。三望名聞果。已上。依此三誓此偈又名云三誓偈。引第三行。今欲宣説咨嗟願意。今偈是為当願意故。引第八行。十一行内第四行下。挙其仏徳順求之中。嘆仏自行化他功徳有其重重。今文重挙化他之徳。是最要也。如寂意者。自第四行至第十行望七種果。今於其中。五求無畏方便果文。説法師子吼者。是則無畏徳也。大論七云。又如師子四足獣中独歩無畏能伏一切。仏亦如是。於九十六種外道中一切降伏。故名人師子。已上。梵云迦羅。此云無畏。又云師子。開其法蔵施功徳宝。是則摂諸善法具諸徳本故也。問。経云法蔵。今云宝蔵。如何。答。所覧之本有其異歟。又法即法。宝是寄喩。法喩不違。其義無失。SYOZEN2-231/TAI1-490,491
 〇次の文は重誓の願の文なり。六八の願の上に重ねてこの誓あり。この故にこの偈を重誓偈という。しかるに十一行の偈文の中に、今の所引は、第三行と第八行となり。問う、この二行を引く、その要はいかん。答う、十一行の中に初の一行は総じて六八の願の決定して満足せんことを望む。次の二は行して別して次の如く衆生の苦を済い、名の十方に聞えんことを望欲す。義寂の云わく「三種の果を望む。一には満願の果を望む。二には大施の果を望む。三には名聞の果を望む」已上。この三誓に依りて、この偈をまた名づけて三誓偈という。第三行を引くことは、今、咨嗟の願の意を宣説せんと欲するに、今の偈はこれ当願の意たるが故に。第八行を引くことは、十一行の内に第四行の下は、その仏徳を挙げて順求する中に、仏の自行化他の功徳を嘆ずるに、その重重あり。今の文は重ねて化他の徳を挙ぐ。これ最要なり。寂の意の如きは、第四行より第十行に至るまでは七種の果を望む。今、その中に於いて五に無畏方便の果を求むる文なり。「説法師子吼」とは、これ則ち無畏の徳なり。『大論』の七に云わく「また師子の四足の獣の中に独歩無畏にして能く一切を伏するが如く、仏もまたかくの如し。九十六種の外道の中に於いて一切降伏す。故に人師子と名づく」已上。梵には迦羅という。此には無畏という。また師子という。その法蔵を開きて功徳の宝を施したもう。これ則ち諸の善法を摂し、諸の徳本を具するが故なり。問う、経には「法蔵」といい、今は「宝蔵」という、いかん。答う、所覧の本にその異あるか。また法は即ち法。宝はこれ喩に寄す。法喩違せず。その義に失なし。SYOZEN2-231/TAI1-490,491


 ◎願成就文経言。十方恒砂諸仏如来。皆共讃嘆無量寿仏威神功徳不可思議。已上。
 ◎(大経)願成就の文、経に言わく、十方恒沙の諸仏如来、みな共に無量寿仏の威神功徳不可思議なるを讃嘆したまう。已上。GYO:SYOZEN2-5,6/HON-158,HOU-271

 〇次就願成就文。言十方者。問。弥陀経中説為六方。今云十方。差別如何。答。是開合異。彼此無爽。阿弥陀経合為六方。今此大経開為十方。称讃浄土又説十方。是故慈恩弥陀経疏釈六方証誠云。称讃浄土経云十方諸仏。此略挙六方。已上。高祖解釈又以随宜。礼讃云。十方如来舒舌証。専称名号至西方。已上。法事讃云。十方恒沙仏。舒舌証我凡夫生安楽。已上。又云。十方恒沙諸仏共讃釈迦。舒舌遍覆三千証得往生非謬。已上。又云。十方恒沙諸世尊。不捨慈悲巧方便。共讃弥陀弘誓門。已上。般舟讃云。十方如来舒舌証定判九品得還帰。已上。是等諸文皆判十方。法事讃云。六方如来。皆讃嘆釈迦出現甚難逢。已上。又云。六方如来証不虚。已上。又云。六方諸仏護念信心。已上。是等諸文皆云六方。又礼讃云。十方如来舒舌証。或云六方。異本不同。言威神功徳者。観経中説仏功徳云。為説阿弥陀仏十力威徳。広説彼仏光明神力。亦讃戒定慧解脱知見。已上。就之思之。威者十力威徳。此是如来不共勝徳自在妙用。一一名義至下可詳。神者光明神力。滅罪生善抜苦与楽等之利益。是則十二光仏功能。戒等乃是五分法身功徳而已。是私料簡。智者思択。SYOZEN2-232/TAI1-498,499
 〇次に願成就の文に就きて、「十方」というは、問う、『弥陀経』の中には説きて六方と為し、今は十方という。差別いかん。答う、これ開合の異なり。彼此爽〈たが〉うことなし。『阿弥陀経』には合して六方と為し、今この『大経』には開きて十方と為し、『称讃浄土』にはまた十方と説く。この故に慈恩の『弥陀経疏』に六方の証誠を釈して云わく「称讃浄土経には十方諸仏という。此には略して六方を挙ぐ」已上。高祖の解釈もまた以て宜しきに随う。『礼讃』に云わく「十方の如来は舌を舒べて証したもう。専ら名号を称して西方に至る」と已上。『法事讃』に云わく「十方恒沙の仏は、舌を舒べて我、凡夫の安楽に生ぜんことを証したもう」已上。また云わく「十方恒沙の諸仏は共に釈迦を讃じて、舌を舒べて遍く三千を覆いて往生を得ることの謬にあらざることを証したもう」已上。また云わく「十方恒沙の諸の世尊は、慈悲巧方便を捨てずして共に弥陀弘誓の門を讃じたまう」已上。『般舟讃』に云わく「十方の如来は舌を舒べて、定んで九品を判じて還帰することを得と証したもう」已上。これ等の諸文はみな十方と判ず。『法事讃』に云わく「六方の如来は、みな釈迦の出現の甚だ逢い難きことを讃嘆したもう」已上。また云わく「六方の如来は不虚を証したもう」已上。また云わく「六方の諸仏は信心を護念したもう」已上。これ等の諸文はみな六方という。また『礼讃』に云わく「十方の如来は舌を舒べて証したもう」。或いは「六方」という。異本の不同なり。「威神功徳」というは、『観経』の中に仏の功徳を説きて云わく「為に阿弥陀仏の十力威徳を説き、広く彼の仏の光明神力を説き、また戒定慧解脱知見を讃ず」已上。これに就きてこれを思うに、「威」とは十力威徳なり。これはこれ如来不共の勝徳、自在の妙用なり。一一の名義は下に至りて詳にすべし。「神」とは光明神力・滅罪生善・抜苦与楽等の利益なり。これ則ち十二光仏の功能なり。戒等は乃ちこれ五分法身の功徳ならくのみ。これ私の料簡なり。智者思択せよ。SYOZEN2-232/TAI1-498,499


 ◎又言。無量寿仏威神無極。十方世界無量無辺不可思議諸仏如来。莫不称嘆於彼。已上。
 ◎(大経)また言わく、無量寿仏の威神、極まりなし。十方世界無量無辺不可思議の諸仏如来、彼を称嘆せざるはなしと。已上GYO:SYOZEN2-6/HON-158,HOU-272

 〇次文讃嘆摂聖之徳文之初也。謂上三輩讃摂凡徳。今至此文嘆摂聖徳。憬興云。欲令凡小増欲生之意。故須顕彼国土之勝。已上。義寂初従此文終至四維上下亦復如是取為一科。釈云。自下顕示観仏土荘厳功徳成就。先以直説略讃。後以偈頌広讃。直説讃中威神功徳以二事顕。一者十方諸仏同称嘆故。二者十方菩薩皆詣彼所受道化故。已上。其中今又諸仏称嘆之文是也。是則当願成就之意。又於此文有其二意。初之八字釈迦讃嘆。十方以下諸仏讃嘆。問。於彼二字属下東方得其言便。依之浄影云於彼下大聖往詣。何今属上。答。影釈然也。但憬興師以此二字属上句末。今依興意引用如此。SYOZEN2-232,233/TAI1-503
 〇次の文は摂聖の徳を讃嘆する文の初なり。謂く上の三輩に摂凡の徳を讃じ、今この文に至りて摂聖の徳を嘆ず。憬興の云わく「凡小をして欲生の意を増さしめんと欲す。故にすべからく彼の国土の勝れたることを顕わすべし」已上。義寂は初めこの文より、終わり「四維上下亦復如是」に至るまでを取りて一科と為す。釈して云わく「自下は仏土の荘厳功徳成就を観ずることを顕示す。まず直説を以て略して讃じ、後には偈頌を以て広く讃ず。直説の讃の中に威神功徳は二事を以て顕わす。一には十方の諸仏は同じく称嘆したもうが故に。二には十方の菩薩はみな彼の所に詣でて道化を受くるが故に」已上。その中に今また諸仏称嘆の文これなり。これ則ち当願成就の意なり。またこの文に於いて、その二の意あり。初の八字は釈迦の讃嘆なり。「十方」以下は諸仏の讃嘆なり。問う、「於彼」の二字は下の東方に属するを、その言の便を得ん。これに依りて浄影は「於彼」の下は大聖の往詣という。何ぞ今、上に属するや。答う、影の釈然なり。但し憬興師はこの二字を以て上の句の末に属す。今は興の意に依りて引用することかくの如し。SYOZEN2-232,233/TAI1-503


 ◎又言。其仏本願力。聞名欲往生。皆悉到彼国。自致不退転。已上。
 ◎(大経)また言わく、その仏の本願力、名を聞きて往生せんと欲えば、みなことごとくかの国に到りて自ずから不退転に致ると。已上。GYO:SYOZEN2-6/HON-158,HOU-272

 〇次文即是彼偈中文。依浄影意。彼偈之中明仏讃嘆。挙往覲益明其五益。一神通益。二受記益。三不退益。四起願益。五供仏益。今偈第三明不退益之経文也。因茲以今一四句偈合上住正定聚之義。憬興又同。今諸句中引此偈意。仏讃嘆中名号称歎是其最要。是則専為当願意故。問。今所言之本願力者。指何願乎。答。指第十七云本願力。問。六八願中以第十八為仏本願自他共許。更無異義。第十七願何関其言。答。十七十八更不相離。行信能所機法一也。総而言之四十八願皆是本願。別而言之以第十八為其本願。誰以成諍。為願王故。但今経文為至要故。十七十八両願倶存。所行能信共以周備。第一句者指第十七。是名号故。第二第三之両句者指第十八。是明信心説往生故。第四一句指第十一。明不退故。今引当巻口称為本。第十七意。総言之時此文専為十八願意置而不論。問。所言不退是何位耶。答。若約摂凡是処不退。若約摂聖是行不退。又存平生業成之義。又依護念不退之意。隠又可有即得往生不退之義者也。問。今偈頌是明摂聖益。何故有約摂凡義耶。答。明摂聖益其意為勧凡夫小聖欲生之心。故摂聖中雖有此文。其意専在摂凡之益。摂凡夫人仏本意故。SYOZEN2-233,234/TAI1-507,508
 〇次の文は即ちこれ彼の偈の中の文なり。浄影の意に依るに、彼の偈の中に仏の讃嘆を明かし、往覲の益を挙ぐるにその五の益を明かす。一には神通の益。二には受記の益。三には不退の益。四には起願の益。五には供仏の益。今の偈は第三に不退の益を明かす経文なり。これに因りて今の一四句の偈を以て上の住正定聚の義に合す。憬興もまた同じ。今の諸句の中にこの偈を引く意〈こころ〉は、仏の讃嘆の中に名号の称歎、これその最要なり。これ則ち専ら当願の意たるが故なり。問う、今言う所の「本願力」とは、何れの願を指すや。答う、第十七を指して本願力という。問う、六八願の中に第十八を以て仏本願とすること、自他共に許す。更に異義なし。第十七の願、何ぞその言に関〈あずか〉らん。答う、十七・十八更に相い離れず。行信・能所・機法一なり。総じてこれを言わば、四十八願は皆これ本願なり。別してこれを言わば第十八を以てその本願と為ること誰か以て諍を成さん。願王たるが故に。但し今の経文、至要たるが故に、十七・十八両願は倶に存し、所行・能信共に以て周備す。第一の句は第十七を指す。これ名号なるが故に。第二・第三の両句は第十八を指す。これ信心を明し往生を説くが故に。第四の一句は第十一を指す。不退を明かすが故に。今当巻に引くことは口称を本と為す。第十七の意なり。総じてこれを言う時、この文は専ら十八の願の意たること、置きて論ぜず。問う、いう所の不退はこれ何の位ぞや。答う、もし摂凡に約せばこれ処不退なり。もし摂聖に約せば行不退あり。また平生業成の義を存し、また護念不退の意に依る。隠にまた即得往生不退の義あるべきものなり。問う、今の偈頌はこれ摂聖の益を明かす。何の故に摂凡に約する義あらんや。答う。摂聖の益を明かすことは、共に意は凡夫小聖欲生の心を勧めんが為なり。故に摂聖の中にこの文ありといえども、その意は専ら摂凡の益に在り。凡夫人を摂するは仏の本意なるが故に。SYOZEN2-233,234/TAI1-507,508


 ◎無量寿如来会言。今対如来発弘誓。当証無上菩提因。若不満足諸上願。不取十力無等尊。心或不堪常行施。広済貧窮免諸苦。利益世間使安楽。乃至。最勝丈夫修行已。於彼貧窮為伏蔵。円満善法無等倫。於大衆中師子吼。已上抄出。
 ◎『無量寿如来会』に言わく、いま如来に対して弘誓を発せり。当に無上菩提の因を証すべし(証 諸応の反 験なり)。もしもろもろの上願を満足せずは、十力無等尊を取らじと。心あるいは常行に堪ざらんものに施せん。広く貧窮を済いてもろもろの苦を免れしめん。世間を利益して安楽ならしめんと。乃至。最勝丈夫修行し已りて、かの貧窮において伏蔵とならん。善法を円満して等倫なけん。大衆の中にして師子吼せんと。已上抄出。GYO:SYOZEN2-6/HON-158,HOU-272

 〇次宝積文中。初之四句無量寿経重誓偈中第一行意。次之三句第二行意。次之四句前所引之第八行意。就其文中。今対如来者。指世饒王仏。発弘誓者四十八願。十力無等尊者。指無上仏果位。言十力者仏不共徳。見倶舎論第二十七。今不出文。粗示大綱。一処非処智力。是処知是処非処知非処。此智通縁一切情与非情之境。二業異熟智力。此智分別一切種類業因所感之異熟也。三等持等至智力。所謂如実知諸三昧静慮相也。四根上下智力。謂知有情信等諸根上下相也。言信等者信進念定及慧是也。五種種勝解力。謂知有情勝意楽別。六種種界智力。知諸有情前際無始所成志性随眠及以諸法種種相也。七遍趣行智力。謂如実知生死因果。八宿住随念智力。謂如実知自他宿住之諸事也。九死生智力。知諸有情未来世之此死生彼。十漏尽智力。謂漏尽身所得智也。SYOZEN2-234/TAI1-516
 〇次に『宝積』の文の中に、初の四句は『無量寿経』の重誓偈の中の第一行の意なり。次の三句は第二行の意なり。次の四句は前に引く所の第八行の意なり。その文の中に就きて、「今、如来に対して」とは、世饒王仏を指す。「弘誓を発す」とは四十八願なり。「十力無等尊」とは、無上仏果の位を指す。十力というは仏の不共の徳なり。『倶舎論』の第二十七に見えたり。今は文を出さず。ほぼ大綱を示す。一には処非処智力なり。この処をこの処と知り、非処を非処と知る。この智通じて一切の情と非情の境とを縁ず。二には業異熟智力なり。この智は一切の種類業因所感の異熟を分別するなり。三には等持等至智力なり。いわゆる実の如く諸の三昧静慮の相を知るなり。四には根上下智力なり。謂わく有情の信等の諸根上下の相を知るなり。信等というは、信・進・念・定及び慧これなり。五には種種勝解力なり。謂わく有情の勝意楽の別を知るなり。六には種種界智力なり。諸の有情の前際無始所成の志性随眠および諸法の種種の相を知るなり。七には遍趣行智力なり。謂わく実の如く生死の因果を知るなり。八には宿住随念智力なり。謂わく実の如く自他宿住の諸の事を知るなり。九には死生智力なり。諸の有情の未来世の此死生彼を知るなり。十には漏尽智力なり。謂わく漏尽身の所得の智なり。SYOZEN2-234/TAI1-516


 ◎又言。阿難。以此義利故。無量無数不可思議無有等等無辺世界諸仏如来。皆共称讃無量寿仏所有功徳。已上。
 ◎(如来会)また言わく、阿難、この義利をもってのゆえに、無量無数不可思議無有等等無辺世界の諸仏如来、みな共に無量寿仏の所有の功徳を称讃したまうと。已上。GYO:SYOZEN2-6/HON-158,HOU-272

 〇次文同経願成就文。文意可見。SYOZEN2-234/TAI1-536
 〇次の文は同経願成就の文なり。文意、見つべし。SYOZEN2-234/TAI1-536


 ◎仏説諸仏阿弥陀三那三仏薩楼仏檀過度人道経言。第四願。使某作仏時。令我名字皆聞八方上下無央数仏国。皆令諸仏各於比丘僧大衆中説我功徳国土之善。諸天人民[ケン06]飛蠕動之類。聞我名字莫不慈心。歓喜踊躍者皆令来生我国。得是願乃作仏。不得是願終不作仏。已上。
 ◎『仏説諸仏阿弥陀三耶三仏薩楼仏檀過度人道経』(大阿弥陀経)に言わく、第四に願ずらく、それがし作仏せしむ時、我が名字をもって、みな八方上下無央数の仏国に聞こえしめん。みな、諸仏おのおの比丘僧大衆の中にして、我が功徳・国土の善を説かしめん。諸天・人民・[ケン06]飛・蠕動の類〈たぐい〉、我が名字を聞きて慈心せざるはなけん。歓喜踊躍せん者、みな我国に来生せしめん。この願を得ていまし作仏せん。この願を得ずは、終に作仏せじと。已上。GYO:SYOZEN2-6/HON-158,159,HOU-272,273

 〇次文大阿弥陀経文。所挙経名是梵語也。貞元録云。阿弥陀経二巻。註云。上巻題云。仏説請仏阿弥陀三耶三仏薩楼仏檀過度人道経。亦名無量寿経。已上。諸請那耶本有異歟。此願含容十七十八両願之意。所謂自初至言之善第十七意。諸天以下第十八意。言[ケン06]飛者。畜生蠢蠢之種類也。[ケン06]玉篇云。於犬於沾二切。蜀貌。蠕広韻云。而[エン07]切。虫動。同大経只云十方衆生。不及畜類。相違如何。答。誰謂十方衆生之言不及畜類。畜雖不関至心信楽。是又非無随分之益。故大経云。若在三途勤苦之処。見此光明。皆得休息無復苦悩。寿終之後皆蒙解脱。已上。SYOZEN2-234,235/TAI1-537,538
 〇次の文は『大阿弥陀経』の文なり。挙ぐる所の経名はこれ梵語なり。『貞元録』に云わく「阿弥陀経二巻。註に云わく、上巻の題に云わく、仏説請仏阿弥陀三耶三仏薩楼仏檀過度人道経、また無量寿経と名づく」已上。諸と請と、那と耶と、本に異あるか。この願は十七・十八両願の意を含容す。いわゆる初より「之善」というに至るまでは第十七の意なり。「諸天」以下は第十八の意なり。「[ケン06]飛」というは、畜生蠢蠢の種類なり。[ケン06]は『玉篇』に云わく「於犬於沿二の切。蜀の貌」。[ナン04]は『広韻』に云わく「而[エン07]の切。虫動」。同じく『大経』にはただ「十方衆生」という。畜類に及ばず。相違いかん。答う、誰か謂う、十方衆生の言は畜類に及ばずとは、畜は至心信楽に関らずといえども、これまた随分の益なきにあらず。故に『大経』に云わく「もし三途勤苦の処に在りてもこの光明を見れば、みな休息を得て、また苦悩なし。寿終の後にみな解脱を蒙る」と已上。SYOZEN2-234,235/TAI1-538


 ◎無量清浄平等覚経巻上言。我作仏時。令我名聞八方上下無数仏国。諸仏各於弟子衆中嘆我功徳国土之善。諸天人民蠕動之類。聞我名字皆悉踊躍来生我国。不爾者我不作仏。我作仏時。他方仏国人民。前世為悪聞我名字。及正為道欲来生我国。寿終皆令不復更三悪道。則生我国在心所願。不爾者我不作仏。
 ◎『無量清浄平等覚経』巻上に言わく、我作仏せん時、我が名をして八方・上下・無数の仏国に聞かしめん。諸仏、おのおの弟子衆の中にして我が功徳・国土の善を嘆ぜん。諸天・人民・蠕動の類〈たぐい〉、我が名字を聞きてみなことごとく踊躍せんもの、我が国に来生せしめん。しからずは我作仏せじと。我作仏せん時、他方仏国の人民、前世に悪のために我が名字を聞き、および正しく道のために我が国に来生せんと欲わん。寿終えてみなまた三悪道に更らざらしむ。すなわち我が国に生まれんこと、心の所願にあらん。しからずは我作仏せじと。GYO:SYOZEN2-7/HON-159,HOU-273

 〇次覚経文。説相大略同宝積経。令我名聞等者。十七願意。来生我国等者。十八願意。前世為悪等者。又説聞名之益。SYOZEN2-235/TAI1-549,550
 〇次に『覚経』の文なり。説相は大略『宝積経』に同じ。「令我名聞」等とは、十七の願の意なり。「来生我国」等とは、十八の願の意なり。「前世為悪」等とは、また聞名の益を説くなり。SYOZEN2-235/TAI1-549,550


 ◎阿闍世王太子及五百長者子。聞無量清浄仏二十四願。皆大歓喜踊躍。心中倶願言。令我等復作仏時皆如無量清浄仏。仏則知之告諸比丘僧。是阿闍世王太子及五百長者子。却後無央数劫皆当作仏如無量清浄仏。仏言。是阿闍世王太子五百長者子。作菩薩道以来。無央数劫皆各供養四百億仏已。今復来供養我。是阿闍世王太子及五百人等。皆前世迦葉仏時。為我作弟子。今皆復会。是共相値也。則諸比丘僧聞仏言。皆心踊躍莫不歓喜者。乃至。
 ◎(平等覚経)阿闍世王太子および五百の長者子、無量清浄仏の二十四願を聞きて、みな大いに歓喜し踊躍して、心中にともに願じて言わまく、我等また作仏せん時、みな無量清浄仏のごとくならしめんと。仏すなわちこれを知ろしめして、もろもろの比丘僧に告げたまわく、この阿闍世王太子および五百の長者子、無央数劫を却後す。みな当に作仏して無量清浄仏のごとくなるべしと。仏の言わく、この阿闍世王太子・五百の長者子、菩薩の道を作してこのかた無央数劫に、みなおのおの四百億仏を供養し已りて、今また来りて我を供養せり。この阿闍世王太子および五百人等、みな前世に迦葉仏の時、我がために弟子と作れりき。今みなまた会して、これ共にあい値えるなり。すなわちもろもろの比丘僧、仏の言〈みこと〉を聞きて、みな心に踊躍して歓喜せざる者なけんと。乃至GYO:SYOZEN2-7/HON-159,HOU-273

 〇阿闍世王太子以下。説聞経之益。述宿命事。SYOZEN2-235/TAI1-559,560
 〇「阿闍世王太子」以下は聞経の益を説きて宿命の事を述ぶ。SYOZEN2-235/TAI1-559,560


 ◎如是人聞仏名 快安穏得大利 吾等類得是徳 諸此刹獲所好 無量覚授其決 我前世有本願 一切人聞説法 皆悉来生我国 吾所願皆具足 従衆国来生者 皆悉来到此国 一生得不退転 速疾超便可到 安楽国之世界 至無量光明土 供養於無数仏 非有是功徳人 不得聞是経名 唯有清浄戒者 乃還聞斯正法 悪[キョウ02]慢蔽懈怠 難以信於此法 宿世時見仏者 楽聴聞世尊教 人之命希可得 仏在世甚難値 有信慧不可致 若聞見精進求 聞是法而不忘 便見敬得大慶 則我之善親原 以是故発道意 設令満世界火 過此中得聞法 会当作世尊将 度一切生老死。已上。
 ◎(平等覚経)かくのごときの人、仏の名を聞きて、快く安穏にして、大利を得ん。我等が類、この徳を得ん。もろもろのこの刹〈くに〉に好きところを獲ん。無量覚、その決を授け、我、前世に本願あり、一切の人、法を説くを聞かば、みなことごとく我が国に来生せん。吾が願ずるところ、みな具足せん。もろもろの国より来生せん者、みなことごとくこの国に来到して、一生に不退転を得ん。速やかに疾く超えて、すなわち、安楽国の世界に到るべし。無量光明土に至りて、無数の仏を供養せん。この功徳あるにあらざる人は、この経の名を聞くことを得ず。ただ清浄に戒を有〈たも〉てる者、いまし還りてこの正法を聞く。悪と[キョウ02]慢と蔽と懈怠のものは、もってこの法を信ずること難し。宿世の時、仏を見たてまつる者、楽〈この〉んで世尊の教を聴聞せん。人の命、まれに得べし。仏、世にましませども、はなはだ値〈もうあ〉いがたし。信慧ありて致るべからず。もし聞見せば、精進して求めよ。この法を聞きて忘れず、すなわち見て敬い得て大きに慶ばば、すなわち我が善き親厚なり。これをもってのゆえに道意を発せよ。たとい世界に満てらん火とも、この中を過ぎて法を聞くことを得ば、かならず当に世尊と作りて、将に一切生老死を度せんとすべしと。已上。GYO:SYOZEN2-7,8/HON-159,160,161HOU-273,274

 〇如是人下六言偈者。又聞名徳。非有是下。或説因其功徳聞経。或説因其宿善聞法。或説[キョウ02]慢蔽懈怠機。難信此法等之義趣。併同大経。其文可見。SYOZEN2-235/TAI1-569,570
 〇「如是人」の下の六言の偈は、また聞名の徳なり。「非有是」の下は、あるいはその功徳に因りて経を聞くことを説き、あるいはその宿善に因りて法を聞くことを説き、あるいは[キョウ02]慢蔽懈怠の機はこの法を信じ難き等の義趣を説くこと、しかしながら『大経』に同じ。その文、見つべし。SYOZEN2-235/TAI1-569,570


 ◎悲華経大施品之二巻言。曇無讖三蔵訳。願我成阿耨多羅三藐三菩提已。無量無辺阿僧祇余仏世界所有衆生。聞我名者。修諸善本欲生我界。願其捨命之後必定得生。唯除五逆誹謗聖人廃壊正法。已上。
 ◎『悲華経』大施品の二巻に言わく(曇無讖三蔵の訳)願わくは、我、阿耨多羅三藐三菩提を成り已らんに、無量無辺阿僧祇の余仏の世界の所有の衆生、我が名を聞かん者、もろもろの善本を修して我が界に生まれんと欲す。願わくはそれ捨命の後、必定して生を得しめん。ただ、五逆と、聖人を誹謗せんと、正法を廃壊せんとを除かんと。已上。GYO:SYOZEN2-8/HON-161,HOU-275

 〇次悲華文。如文相者十八願歟。而説名号得生之益。故今引之。SYOZEN2-235/TAI2-1
 〇次に『悲華』の文。文相の如きは十八の願か。しかるに名号得生の益を説く。故に今これを引く。SYOZEN2-235/TAI2-1


 ◎爾者称名能破衆生一切無明。能満衆生一切志願。称名則是最勝真妙正業。正業則是念仏。念仏則是南無阿弥陀仏。南無阿弥陀仏則是正念也。可知。
 ◎(御自釈)しかれば称名は、能く衆生の一切の無明を破し、能く衆生の一切の志願を満てたまう。称名はすなわちこれ最勝真妙の正業なり。正業はすなわちこれ念仏なり。念仏はすなわちこれ南無阿弥陀仏なり。南無阿弥陀仏はすなわちこれ正念なりと、知るべし。GYO:J:SYOZEN2-8/HON-161,HOU-275

 〇次私釈中。称名以下。至言志願十八字者。論註下釈如彼名義欲如実修行相応之論文之文意也。SYOZEN2-235/TAI2-8,9
 〇次に私の釈の中に、「称名」以下、「志願」というに至るまでの十八字は、『論の註』の下に「如彼名義欲如実修行相応」の論文を釈する文の意なり。SYOZEN2-235/TAI2-8,9