六要鈔会本 第3巻の1(6の内) 行の巻 大行釈 引文 憬興『述文賛』・宗暁『楽邦文類』・ 慶文・元照 |
◎=親鸞聖人『教行信証』の文。 〇=存覚『六要抄』の文 |
『教行信証六要鈔会本』 巻三之一 |
教行信証六要鈔会本巻第三 行 ◎憬興師云。如来広説有二。初広説如来浄土果即所行所成也。後広顕衆生往生果〈因果〉即所摂所益也。 ◎(述文賛)憬興師の云わく、如来の広説に二あり。初めには広く如来浄土の果〈因果〉、すなわち所行・所成を説きたまえるなり。後には広く衆生往生の因果、すなわち所摂・所益を顕したまえるなり。GYO:SYOZEN2-26/HON-182,HOU-296 〇次憬興釈。大経疏文。彼疏名曰無量寿経連義述文賛。分為三巻。上中下也。今所引者中巻文也。三段之中於正宗分(名曰問答広説分)有六文段。其中今言如来広説第六文段。初説如来浄土因果(今無因字令脱落歟)。上巻所説。後顕衆生往生因果下巻所説。SYOZEN2-252/TAI3-140 〇次に憬興の釈。『大経』の疏の文なり。彼の疏を名づけて『無量寿経連義述文賛』という。分かちて三巻と為す。上・中・下なり。今の所引は中巻の文なり。三段の中に正宗分(名づけて問答広説分という)に於いて六の文段あり。その中に今「如来広説」というは第六の文段なり。初に如来浄土の因果を説くは(今「因」字なし、脱落せしむるか)、上巻の所説なり。後に衆生往生の因果を顕わすは下巻の所説なり。SYOZEN2-252/TAI3-140 ◎又云。悲華経諸菩薩本授記品云。爾時宝蔵如来讃転輪王言。善哉善哉。乃至。大王汝見西方。過百千万億仏土有世界。名尊善無垢。彼界有仏。名尊音王如来。乃至。今現在為諸菩薩説於正法。乃至。純一大乗清浄無雑。其中衆生等一化生。亦無女人及其名字。彼仏世界所有功徳清浄荘厳。悉如大王所願無異。乃至。今改汝字為無量清浄。已上。 ◎(述文賛)また云わく、『悲華経』の「諸菩薩本授記品」に云わく、その時に宝蔵如来、転輪王を讃めて言わく、善きかな、善きかな。乃至。大王、汝西方を見るに、百千万億の仏土を過ぎて世界あり、尊善無垢と名づく。かの界に仏まします、尊音王如来と名づく。乃至。いま現在にもろもろの菩薩のために、正法を説く。乃至。純一大乗清浄にして無雑なり。その中の衆生、等一に化生なり。また女人およびその名字なし。かの仏世界の所有の功徳、清浄の荘厳、ことごとく大王の所願のごとくして、異なけん。乃至。いま汝が字〈な〉を改めて無量清浄とせんと。已上。GYO:SYOZEN2-26/HON-182,HOU-296 ◎無量寿如来会云。広発如是大弘誓願。皆已成就。世間希有。発是願已。如実安住。種種功徳具足。荘厳威徳広大清浄仏土。已上。 ◎(述文賛)『無量寿如来会』に云わく、広くかくのごとき大弘誓願を発して、みなすでに成就したまえり。世間に希有なり。この願を発し已りて、実のごとく安住し、種種の功徳具足して、威徳広大清浄仏土を荘厳したまえりと。已上。GYO:SYOZEN2-26/HON-182,HOU-296 〇次悲華経宝積二文。未勘得之。SYOZEN2-252/TAI3-147,148 〇次に『悲華経』『宝積』の二文は未だこれを勘え得ず。SYOZEN2-252/TAI3-147,148 ◎又云。福智二厳成就故。備施等衆生行也。以己所修利衆生故。令功徳成。 ◎(述文賛)また云わく、福智二厳成就したまえるがゆえに、つぶさに等しく衆生に行を施したまえるなり。己が所修をもって衆生を利したまうがゆえに、功徳成ぜしめたまえり。GYO:SYOZEN2-26/HON-182,HOU-296 〇又云福智二厳等者同巻文也。是解自経恭敬三宝至于功徳成就之文釈也。彼具文云。恭敬三宝即福方便。奉事師長者則智方便。(以下如所引)仏所行外無衆生行。如来回向成就義也。SYOZEN2-252/TAI3-156 〇「また云わく、福・智の二厳」等とは同巻の文なり。これ経の「恭敬三宝」より「功徳成就」の文に至るまでを解する釈なり。彼の具なる文に云わく「恭敬三宝は即ち福の方便。奉事師長は則ち智の方便」。(以下、所引の如し)。仏の所行の外に衆生の行なし。如来の回向成就の義なり。SYOZEN2-252/TAI3-156 ◎又云。籍久遠因値仏。聞法可慶喜故。 ◎(述文賛)また云わく、久遠の因に籍りて仏に値〈もうあ〉いたてまつるなり。法を聞きて慶喜すべきがゆえにと。GYO:SYOZEN2-26/HON-182,HOU-296 〇又云籍久遠因等文。追可勘之。SYOZEN2-252/TAI3-159 〇「また云わく、久遠の因に籍りて」等の文は追いてこれを勘うべし。SYOZEN2-252/TAI3-159 ◎又云。人聖国妙。誰不尽力。作善願生。因善既成。不自獲果故云自然。不簡貴賎皆得往生。故云箸無上下。 ◎(述文賛)また云わく、人聖に、国妙〈たえ〉なり。たれか力を尽くさざらん。善を作して生を願ぜよ。善に因りてすでに成じたまえり。自ら果を獲ざるが故に自然と云う。貴賎を簡ばず、みな往生を得しむ。故に著無上下と云うと。GYO:SYOZEN2-27/HON-182,183,HOU-297 〇次言人聖国妙等者。是下巻文。次上文云。経曰何不力為善。至昇道無窮極者。述云。第二正勧往生有二。此初直勧往生也。何不力為善者。勧修往生之因。力者(自人聖至願生十二字。如所引)次下文云。故又力者力励。念道之自然者。修所得之利(自因善至自然十二字。如所引。但自然上有念字)又次下云。唯能念道行徳者。(自不簡至上下十四字。如所引。但著下有於字)又次下云。念字長読流至此故。已上。SYOZEN2-252/TAI3-162 〇次に「人聖に、国妙なり」というは、これ下巻の文なり。次上の文に云わく「経に曰わく、何不力為善より昇道無窮極に至るまでは、述して云わく、第二に正しく往生を勧むるに二あり。これ初に直ちに往生を勧むるなり。何不力為善とは往生の因を修することを勧む。力とは」(「人聖」より「願生」に至るまでの十二字は所引の如し)。次下の文に云わく「故又力とは力励なり。念道之自然とは所得の利を修すれば」(「因善」より「自然」に至るまでの十二字は所引の如し。ただし「自然」の上に念の字あり)。また次下に云わく「ただよく道を念じ、徳を行ずれば」。(「不簡」より「上下」に至るまでの十四字は所引の如し。ただし著の下に於の字あり)。また次下に云わく「念の字、長読して此に流至するが故に」。已上。SYOZEN2-252/TAI3-162 ◎又云。易往而無人。其国不逆違。自然之所牽。修因即往。無修生尠。修因来生。終不違逆。即易往也。 ◎(述文賛)また云わく、「易往而無人 其国不逆違 自然之所牽」と。因を修すればすなわち往く、修することなければ生ずること尠〈すく〉なし。因を修して来生するに、終に違逆せざれば、すなわち易往なり。GYO:SYOZEN2-27/HON-183,HOU-297 〇又云易往而無等者。次上文云。経曰。易往而無人。至寿楽無有極者。述云。此復傷嘆重勧也。修因即往。故易往。無人修因。往生者尠。故無人。修因来生終不違逆。即前易往也。正習纏蓋自然為之。牽伝不往故自然所牽。即無人也。有説。因満果熟不仮功用自然招致。故自然所牽。義亦可也。上之二文。句数字数粗有増減是取意歟。為達前後更今引之。SYOZEN2-253/TAI3-165 〇「又云易往而無」等とは、次上の文に云わく「経に曰わく、易往而無人より寿楽無有極に至るまでは、述して云わく、これまた傷嘆重勧なり。因を修すれば即ち往く。故に易往なり。人の因を修することなければ往生する者尠〈すく〉なし。故に無人なり。因を修すれば来生す。終に違逆せず。即ち前の易往なり。正習纏蓋自然にこれが為に牽伝して往かざるが故に自然の牽く所なり。即ち無人なり。有が説かく、因満ち果熟すれば、功用を仮らず。自然に招致す。故に自然の牽く所なり。義また可なり」。上の二文、句数・字数にほぼ増減あり。これ取意なるか。前後を達せんが為に更に今これを引く。SYOZEN2-253/TAI3-165 ◎又云。本願力故 即往誓願之力。満足願故 願無欠故。明了願故 求之不虚故。堅固願故 縁不能壊故。究竟願故 必果遂故。 ◎(述文賛)また云わく、本願力の故と(すなわち往くこと誓願の力なり)、満足願故(願として欠くることなきがゆえに)、明了願故(これを求むるに虚しからざるがゆえに)、堅固願故(縁として壊ることあたわざるがゆえに)、究竟願の故に(必ず果し遂ぐるがゆえに)。GYO:SYOZEN2-27/HON-183,HOU-297 〇又云本願力故等者。上巻文也。是又文言聊有参差。為知正釈亦出本文。経曰。本願力故至究竟願故者。述云。後願力獲利也。本願者即往誓願之力。他方菩薩聞名得忍。恐亦自土故。願無欠故満足。求之不虚故明了。縁不能壊故堅固。願必遂果故究竟。由此願力生彼土者。皆得三忍。已上。是明所以見道場樹皆見三忍。言三忍者。経云。一者音響忍。二者柔順忍。三者無生法忍。已上。此三忍義諸師異解。興師破之。出自義云。尋樹音声従風而有。有而非実故得音響忍。柔者無乖角義。順者不違空義。悟境無性。不違於有而順空故。云柔順忍。観於諸法生絶四句故。云無生忍。已上。問。所引本願力故句上。先有威神力故之句。何略之耶。答。興以彼句判為別科。即名為之神力得忍。今殊欲顕本願利益。是故略彼引之而已。SYOZEN2-253/TAI3-167,168 〇「又云本願力故」等とは上巻の文なり。これまた文言に聊か参差あり。正釈を知らんが為に、また本文を出だす。「経に曰わく、本願力故より究竟願故に至るまでは、述して云わく、後に願力獲利なり。本願とは即ち往くこと誓願の力なり。他方の菩薩は名を聞きて忍を得。恐らくはまた自土なるが故に、願として欠くることなきが故に満足なり。これを求むるに虚しからざるが故に明了なり。縁として壊すること能わざるが故に堅固なり。願として必ず遂果するが故に究竟なり。この願力に由りて彼の土に生ずる者は、みな三忍を得」已上。これ道場樹を見て、みな三忍を見る所以を明かす。三忍というは、経に云わく「一には音響忍。二には柔順忍。三には無生法忍」已上。この三忍の義は諸師異解す。興師はこれを破して自義を出だして云わく「樹の音声を尋ぬるに、風に従りして有なり。有にして実にあらず。故に音響忍を得。柔とは乖角なき義なり。順の無性とは空に違せざる義なり。境を悟するに、有に違せずして、しかも空に順ずるが故に柔順忍という。諸法を観ずるに、生は四句を絶つが故に無生忍という」已上。問う。所引の「本願力故」の句の上に、まず「威神力故」の句あり。何ぞこれを略するや。答う。興は彼の句を以て判じて別科と為す。即ち名づけてこれを神力得忍となす。今殊に本願の利益を顕わさんと欲す。この故に彼を略して、これを引くのみ。SYOZEN2-253/TAI3-167,168 ◎又云。総而言之。欲令凡小増欲往生之意故。須顕彼土勝。 ◎(述文賛)また云わく、総じてこれを言わば、凡小をして欲往生の意を増さしめんと欲うがゆえに、須くかの土の勝ることを顕すべしと。GYO:SYOZEN2-27/HON-183,HOU-297 〇又云総而言之等者。是下巻文。次上文云。経曰。東方恒沙至亦復如是者。述云。是後勝聖共生也。(以下如所引)。SYOZEN2-253/TAI3-170 〇「又云総而言之」等とは、これ下巻の文なり。次上の文に云わく「経に曰わく、東方恒沙より亦復如是に至るまでは、述して云わく、これ後に勝聖共生なり」。(以下、所引の如し)。SYOZEN2-253/TAI3-170 ◎又云。既言於此土修菩薩行。即知。無諍王在於此方。宝海亦然。 ◎(述文賛)また云わく、すでにこの土にして菩薩の行を修すと言えり。すなわち知りぬ、無諍王この方にましますことを。宝海もまたしかなり。GYO:SYOZEN2-27/HON-183,HOU-297 〇又云既言於此等者。同巻文也。是解経云。阿難白仏。彼二菩薩其号云何。仏言一名観世音。二名大勢至。是二菩薩於比国土修菩薩行。命終転化生彼仏国之文釈也。無諍王者弥陀如来。宝海梵士釈迦仏也。SYOZEN2-254/TAI3-171,172 〇「又云既言於此」等とは、同巻の文なり。これ経に「阿難、仏に白さく、かの二菩薩、その号いかんぞ。仏言わく、一りを観世音と名づく。二をば大勢至と名づく。この二菩薩はこの国土にして菩薩の行を修して、命終転化して、かの仏国に生ず」といえる文を解する釈なり。「無諍王」とは弥陀如来なり。「宝海梵士」は釈迦仏なり。SYOZEN2-254/TAI3-171,172 ◎又云。聞仏威徳広大故。得不退転也。已上。 ◎(述文賛)また云わく、仏の威徳広大を聞くがゆえに、不退転を得るなり。已上。GYO:SYOZEN2-27/HON-183,HOU-297 〇又云聞仏威徳等者。未勘得之。SYOZEN2-254/TAI3-173 〇「又云聞仏威徳」等とは、未だこれを勘得せず。SYOZEN2-254/TAI3-173 ◎楽邦文類云。総官張[リン01]云。仏号甚易持。浄土甚易往。八万四千法門。無如是之捷径。但能輟清晨俛仰之暇。遂可為永劫不壊之資。是則用力甚微。而收功乃無有尽。衆生亦何苦自棄而不為乎。噫夢幻非真。寿夭難保。呼吸之頃即是来生。一失人身。万劫不復。此時不悟。仏如衆生何願。深念於無常。勿徒貽於後悔。浄楽居士張[リン01]勧縁。已上。 ◎『楽邦文類』に云わく、総官の張[リン01]云わく、仏号はなはだ持ち易し、浄土ははなはだ往き易し。八万四千の法門、この捷径にしくはなし。ただよく清晨俛仰の暇〈いとま〉を輟〈や〉めて、ついに永劫不壊の資〈たすけ〉をなすべし。これすなわち、力を用うることは、はなはなだ微にして、功を収むることいまし尽くることあることなけん。衆生また何の苦しみあればか、自ら棄ててせざるや。ああ夢幻にして真にあらず、寿夭にして保ちがたし。呼吸の頃〈あいだ〉、すなわちこれ来生なり。一たび人身を失いつれば、万劫にも復せず〈かえらず〉。この時悟らずは、仏もし衆生をいかんかしたまわん。願わくは深く無常を念じて、いたずらに後悔を貽すことなかれと。浄楽の居士張[リン01]、縁を勧むと。已上GYO:SYOZEN2-27,28/HON-183,184,HOU-297,298 〇次言楽邦文類等者。此書四明石芝沙門宗暁編次。部帙五巻。其第二巻総管張[リン01]結蓮社普勧文也。彼文一十八行余中。今之所引纔四行余。言俛仰者。俛是俯俛。[ジ02]頭義也。仰是偃仰。向上称也。言呼吸者。呼[アイ01]。吸引。蓋是外内出入息也。SYOZEN2-254/TAI3-175,176 〇次に「楽邦文類」等というは、この書は四明石芝の沙門宗暁編次す。部帙は五巻。その第二巻は総管張[リン01]の蓮社を結ぶ普勧の文なり。彼の文の一十八行余の中に、今の所引は纔かに四行余なり。「俛仰」というは、「俛」はこれ俯俛、[ジ02]頭の義なり。「仰」はこれ偃仰、上に向う称なり。「呼吸」とは、呼は[アイ01]、吸は引、蓋しこれ外内出入の息なり。SYOZEN2-254/TAI3-175,176 ◎台教祖師山陰(慶文法師)云。良由仏名従真応身而建立故。従慈悲海而建立故。従誓願海而建立故。従智慧海而建立故。従法門海而建立故。若但専称一仏名号。則是具称諸仏名号。功徳無量。能滅罪障。能生浄土。何必生疑乎。已上。 ◎台教の祖師山陰(慶文法師)の云わく、まことに仏名は真応の身よりして建立せるがゆえに、慈悲海よりして建立せるがゆえに、誓願海よりして建立せるがゆえに、智慧海よりして建立するがゆえに、法門海よりして建立せるに由るがゆえに、もしただ専ら一仏の名号を称するに、すなわちこれつぶさに諸仏の名号を称するなり。功徳無量なれば、よく罪障を滅す。よく浄土に生ず。何ぞ必ずしも疑いを生ぜんやと。已上。GYO:SYOZEN2-28/HON-184,HOU-298 〇次山陰釈。言山陰者越地之名。言慶文者。号云慈雲法師是也。釈意可見。SYOZEN2-254/TAI3-182 〇次に山陰の釈なり。「山陰」というは越の地の名なり。「慶文」というは、号して慈雲法師というこれなり。釈の意、見つべし。SYOZEN2-254/TAI3-182 ◎律宗祖師元照云。況我仏大慈開示浄土。慇懃勧属遍諸大乗。目見耳聞特生疑謗。自甘沈溺不慕超昇。如来説為可憐憫者。良由不知此法特異常途。不択賢愚不簡緇索〈緇素〉。不論修行久近不問造罪重軽。但令決定信心即是往生因種。已上。 ◎(観経義疏)律宗の祖師元照の云わく、いわんや我が仏大慈、浄土を開示して慇懃にあまねくもろもろの大乗を勧嘱したまえり。目に見、耳に聞きて、特に疑謗を生じて、自ら甘〈あまな〉うて沈溺して超昇を慕わず、如来説きて憐憫すべき者のためにしたまえり。まことに、この法のひとり常途に異なることを知らざるに由ってなり。賢愚を択ばず、緇索〈緇素〉を簡ばず、修行の久近を論ぜず、造罪の重軽を問わず、ただ、決定の信心ならしめよ。すなわちこれ往生の因種なり。已上。GYO:SYOZEN2-28/HON-184,HOU-298 〇次元照釈。観経義疏大分為二。先列義門令知総意。然後入経分文分釈。初中有四。初教興来致。二摂教分斉。三弁定宗旨。四料簡異同。其第四門又有五中。五指濫伝之下釈也。指濫伝者。多挙有人謬解疑惑。示有自障障他之過。述其悲憐之結釈也。二巻之中上巻文耳。SYOZEN2-254/TAI3-187 〇次に元照の釈なり。『観経義疏』大に分かちて二と為す。まず義門を列ねて総意を知らしむ。然して後に経に入りて文を分かちて分釈す。初の中に四あり。初には教興の来致。二には摂教の分斉。三には宗旨を弁定す。四には異同を料簡す。その第四門にまた五ある中に、五に濫伝を指す下の釈なり。濫伝を指すとは、多く有人の謬解疑惑を挙げて自障障他の過あることを示す。その悲憐を述ぶる結釈なり。二巻の中に上巻の文ならくのみ。SYOZEN2-254/TAI3-187 ◎又云。今浄土諸経並不言魔。即知。此法無魔明矣。山陰慶文法師正信法門弁之甚詳。今為具引彼問曰。或有人云。臨終見仏菩薩放光持台。天楽異香来迎往生。並是魔事。此説如何。答曰。有依首楞厳修習三昧。或発動陰魔。有依摩訶衍論修習三昧。或発動外魔 謂天魔也 有依止観論修習三昧。或発動時魅。此等並是修禅定人。約其自力先有魔種。被定撃発故現此事。儻能明識各用対治。即能除遣。若作聖解。皆被魔障 上明此方入道。則発魔事 今約所修念仏三昧。乃憑仏力。如近帝王無敢干犯。蓋由阿弥陀仏有大慈悲力・大誓願力・大智慧力・大三昧力・大威神力・大摧邪力・大降魔力・天眼遠見力・天耳遥聞力・他心徹監力・光明遍照摂取衆生力。有如是等不可思議功徳之力。豈不能護持念仏之人。至臨終時令無障礙邪。若不為護持者。則慈悲力何在。若不能除魔障者。智慧力・三昧力・威神力・摧邪力・降魔力復何在邪。若不能監察被魔為障者。天眼遠見力・天耳遥聞力・他心徹監力復何在邪。経云。阿弥陀仏相好光明。遍照十方世界。念仏衆生摂取不捨。若謂念仏臨終被魔障者。光明遍照摂取衆生力復何在邪。況念仏人臨終感相出自衆経。皆是仏言。何得貶為魔境乎。今為決破邪疑。当生正信。已上彼文。 ◎(元照・観経義疏)また云わく、今、浄土の諸経に並びに魔を言わず。すなわち知りぬ、この法に魔なきこと明らけしと。山陰の慶文法師の正信法門にこれを弁ずること、はなはだ詳らかなり。今ためにつぶさにかの問を引かん。曰わく、あるいは人ありて云わん、臨終に仏菩薩の光を放ち、台を持し、天楽異香来迎せるを見るは、往生並びにこれ魔事なりと。この説、いかんぞや。答えて曰わく、『首楞厳』に依りて三昧を修習して、あるいは陰魔を発動することあり。『摩訶衍論』(大乗起信論)に依りて三昧を修習して、あるいは外魔(天魔を謂うなり)を発動することあり。『止観論』に依りて三昧を修習して、あるいは時魅を発動することあり。これ等は、ならびにこれ、禅定を修する人、その自力に約して、まず魔種ありて、定んで撃発を被るがゆえにこの事を現ず。もしよく明らかに識りておのおの対治を用いれば、すなわちよく除遣せしむ。もし聖の解を作せば、みな魔障を被るなり(上にはこの方にして道に入るには、すなわち魔事を発すことを明かす)。今、所修の念仏三昧に約するに、いまし仏力を憑む。帝王に近づくときは、あえて于〈おかし〉犯すものなきがごとし。けだし阿弥陀仏に大慈悲力・大誓願力・大智慧力・大三昧力・大威神力・大摧邪力・大降魔力・天眼遠見力・天耳遥聞力・他心徹鑑力・光明遍照摂取衆生力ましますに由りてなり。かくのごとき等の不可思議功徳の力まします。あに念仏の人を護持して、臨終の時に至るまで障碍なからしむることあたわざらんや。もし護持をなさずは、すなわち慈悲力なんぞましまさん。もし魔障を除くことあたわずは、智慧力・三昧力・威神力・摧邪力・降魔力、またなんぞましまさんや。もし鑑察することあたわずして、魔、障をなすことを被らば、天眼遠見力・天耳遥聞力・他心徹鑑力、またなんぞましまさんや。経に云わく、阿弥陀仏の相好の光明、あまねく十方世界を照らす。念仏の衆生を摂取して捨てたまわずと。もし念仏して臨終に魔障を被ると謂わば、光明遍照摂取衆生力、またなんぞましまさんや。いわんや念仏の人、臨終の感相、衆経より出でたり。みなこれ仏の言〈みこと〉なり。なんぞ貶して魔境とすることを得んや。今ために邪疑を決破す。当に正信を生ずべしと。已上、かの文。GYO:SYOZEN2-28,29/HON-184,185,HOU-298,299,300 〇次所引文。同次上段。四解魔説之下釈也。当段初云。四解魔説。惑謂修西方浄業臨終感相。皆是魔者。斯由未披教典不楽修持。喜以邪言障他正信。為害不浅故須弁之。且魔有四種。一五陰魔。二煩悩魔。三死魔。四天魔。上三魔是汝身心。唯有天魔是外来耳。安得不畏己魔但疑外魔乎。況魔居欲界天。乃是大権退悪進善有大功行。方可勤之。凡夫修道内心不正。必遭魔擾。若心真実魔無能為。是知魔自汝心。非他所致。如世妖冶媚惑。於人端心正色必不能近。縦情顧眄定遭所惑。今引衆説以絶群疑。一云。大光明中決無魔事。猶如白昼奸盗難成。一云。此土観心反観本陰多発魔事。今観弥陀果徳真実境界故無魔事。一云念仏之人皆為一切諸仏之所護念。既為仏護。安得有魔。一云。修浄業人必発魔者。仏須捐破。如般若楞厳等。仏若不捐則誤衆生堕於魔納。(今所引此次也)又所引外次下文云。又楞厳云。禅定心中見盧舎那踞天光台十仏囲遶等。此名心魂霊悟所染。心光研明照諸世界。暫得如是非為聖証。資中疏曰。若修念仏三昧斯境現前。与修多羅合名為正相。若修余観設見仏形亦不為正。以心境不相応故。況観真如不取諸相。而有所著豈非魔耶。資中揀判極為精当。仍具引前諸説永除疑障。已上。一段之中。見文前後為令信解具所引也。正引文中。正信法門。山陰所造浄土文中。顕明正信浄行二門。其中今引正信下釈。是故号曰正信法門。問答之中問意易見。答中有依首楞厳者。彼経第九広弁魔事皆約自心入定精研。摩訶衍論馬鳴菩薩之所造也。通申一代大乗之教。止観論者即天台説。彼第八巻又弁魔事。言時魅者天魔所化。於私所引前後之文。先前文中就其四魔出対治者。大集出之。断集諦降煩悩魔。知苦諦降陰魔。修道諦降天魔。証滅諦降死魔。此外対治諸典所訓其文是繁。不及具述。後文之中。言資中者是蜀地名。弘允法師居彼蜀地。故称此名。作疏十巻解楞厳経。当文魔境以下註解。粗依戒度正観記意大概記之。委如彼文。SYOZEN2-254,256/TAI3-192,195 〇次の所引の文は同じき次上の段に、四に魔説を解する下の釈なり。当段の初に云わく「四に魔説を解す。惑〈あるひと〉の謂わく、西方の浄業を修する臨終の相を感ずるは皆これ魔といわば、これ未だ教典を披かざるに由りて、修持を楽わず、喜びて邪言を以て他の正信を障う。害を為すこと浅からざるが故に須くこれを弁ずべし。且く魔に四種あり。一には五陰魔、二には煩悩魔、三には死魔、四には天魔なり。上の三魔はこれ汝が身心なり。ただ天魔のみありて、これ外より来るのみ。いずくんぞ己が魔を畏れずして、ただし外魔を疑うことを得るや。況んや魔は欲界の天に居す。乃ちこれ大権、悪を退け善を進むるに大功行あり、まさにこれを勤むべし。凡夫の修道内心正ならざれば必ず魔擾に遭う。もし心真実ならば魔は能く為することなけん。ここに知りぬ魔は汝が心よりす。他の致す所にあらず。世の妖冶の人を媚惑するが如き、心を端くし、色を正しくすれば、必ず近づくこと能わず。情を縦にして顧眄すれば定んで惑わす所に遭う。今、衆説を引きて以て群疑を絶たん。一に云わく、大光明の中には決して魔事なし。猶し白昼に奸盗の成し難きが如し。一に云わく、此土の観心は反りて本陰を観ずるをもって多く魔事を発す。今、弥陀の果徳、真実の境界を観ずるが故に魔事なし。一に云わく、念仏の人はみな一切諸仏の為に護念せらる。既に仏の為に護らる。安ぞ魔あることを得ん。一に云わく、浄業を修する人、必ず魔を発せば、仏は須らく捐破したもうべし。『般若』『楞厳』等の如し。仏もし捐せざれば則ち衆生を誤りて魔網に堕せしめん」と。(今の所引はこの次なり)。また所引の外、次下の文に云わく「また『楞厳』に云わく、禅定心の中に盧舎那の、天の光台に踞して十仏囲遶する等を見る。これを心魂霊悟の所染と名づく。心光は研明にして諸の世界を照らすに、暫くかくの如くなるを得るも聖証と為るにあらず。資中の疏に曰わく、もし念仏三昧を修すれば、この境現前す。修多羅と合するを名づけて正相と為す。もし余観を修すれば、設い仏形を見れども、また正と為さず。心境の相応せざるを以ての故に。況んや真如を観ずるに諸相を取らず、而るに所著あらば、あに魔にあらざるや。資中の揀判は極めて精当と為す。よって具に前の諸説を引きて永く疑障を除く」已上。一段の中に文の前後を見て信解せしめんが為に具に引く所なり。正しき引文の中に、正信法門は山陰の所造の『浄土文』の中に正信・浄行の二門を顕明す。その中に今、正信の下の釈を引く、この故に号して正信法門という。問答の中に問意は見易し。答の中に「有依首楞厳」とは、彼の経の第九に広く魔事を弁ず、みな自心の入定精研に約す。『摩訶衍論』は馬鳴菩薩の所造なり。通じて一代大乗の教を申ぶ。『止観論』は即ち天台の説なり。彼の第八巻にまた魔事を弁ず。「時魅」というは天魔の所化なり。私の所引の前後の之文に於いて、まず前の文の中に、その四魔に就きて対治を出ださば、『大集』にこれを出だす。集諦を断じて煩悩魔を降し、苦諦を知りて陰魔を降し、道諦を修して天魔を降し、滅諦を証して死魔を降す。この外の対治は諸典の訓うる所、その文これ繁し。具に述ぶるに及ばず。後の文の中に「資中」というは、これ蜀の地名なり。弘允法師は彼の蜀地に居す。故にこの名を称す。疏十巻を作りて『楞厳経』を解す。当文魔境以下の註解は、ほぼ戒度の『正観記』の意に依りて大概これを記す。委しくは彼の文の如し。SYOZEN2-254,256/TAI3-192,195 ◎又云。元照律師弥陀経義文。一乗極唱終帰。咸指於楽邦。万行円修最勝。独推於果号。良以従因建願。秉志躬行。歴塵点劫懐済衆之仁。無芥子地非捨身之処。悲智六度摂化以無遺。内外両財随求而必応。機与縁熟。行満功成。一時円証於三身。万徳総彰於四字。已上。 ◎また云わく、元照律師『弥陀経義』の文、一乗の極唱は、終帰ことごとく楽邦を指す。万行の円修は、最勝を独り果号に推〈ゆず〉る。まことにもって因より願を建つ。志を秉り行を窮め、塵点劫を歴て済衆の仁を懐けり。芥子の地も捨身の処にあらざることなし。悲智六度、摂化して、もって遺すことなし。内外の両財、求むるに随うて必ず応ず。機と縁と熟し、行満じ功成り、一時に円かに三身を証す。万徳すべて四字に彰ると。已上。GYO:SYOZEN2-29/HON-185,186,HOU-299,300 〇次又同師小経疏文。序初文也。一乗極唱終帰等者念仏一乗頓教極談。偏勧西方置而不論。又一乗言本被法華。薬王流通終勧安楽。彼此帰一故云咸指。内外等者則分両異。言内財者七種聖財等之類也。言外財者七宝衣服等之類也。施彼聖財謂之法施。施其世財言之財施。機与等者与興有異愚按興字脇文体歟。SYOZEN2-256/TAI3-209 〇次はまた同じき師の『小経疏』の文。序の初の文なり。「一乗極唱終帰」等とは念仏一乗頓教の極談なり。偏に西方を勧むること置きて論ぜず。また一乗の言は、もと『法華』に被しむ。薬王の流通に終に安楽を勧む。彼此、一に帰す、故に「咸指」という。「内外」等とは、則ち両異を分かつ。内財というは七種の聖財等の類なり。外財というは七宝・衣服等の類なり。彼の聖財を施する、これを法施という。その世財を施する、これを財施という。「機与」等とは、与と興と異あり、愚按するに興の字が文体に脇うか。SYOZEN2-256/TAI3-209 ◎又云。況我弥陀以名摂物。是以耳聞口誦。無辺聖徳攬入識心。永為仏種頓除億劫重罪。獲証無上菩提。信知。非少善根。是多功徳也。已上。 ◎(元照・弥陀経義疏)また云わく、いわんや我が弥陀は名をもって物を摂したまう。ここをもって耳に聞き口に誦するに、無辺の聖徳、識心に攬入す。永く仏種となりて、頓に億劫の重罪を除き、無上菩提を獲証す。信に知りぬ、少善根にあらず、これ多功徳なりと。已上。GYO:SYOZEN2-29,30/HON-186,HOU-300 〇次文同疏正宗文也。彼科釈云。第二正宗分大分三段。従初至倶会一処。先讃二報荘厳。令生欣慕。二不可以少下。正示専念持名。教修行法。三如我今者下。後引諸仏同。讃勧信受持。已上。於第二科。又分為三。文云。第二正示行法分三段。初至彼国。簡余善不生。若有下。二正示修法。我見下。三結顕勧意。已上。又於第二子段有三。文云。二中分三。初至不乱。専念持名。其人下。臨終感聖。是人下。三正念往生。已上。而初専念持名之下。有三問答。今所引者。第三答也。其問言曰。四字名号凡下常聞。有何勝能超過衆善。已上。所引之中答言略初。今私引加。其詞云。答。仏身非相果徳深高。不立嘉名莫彰妙体。十方三世皆有異名。(以下如所引)所引文次引華厳経並薬師経及瞻察経。嘆仏功徳。但彼経説亘諸仏名。仍結文云。諸余仏名聞持尚爾。況我弥陀有本誓乎。已上。SYOZEN2-256/TAI3-218,219 〇次の文は同じき疏の正宗の文なり。彼の科釈に云わく「第二に正宗分、大に三段を分かつ。初より倶会一処に至るまでは、まず二報荘厳を讃じて、欣慕を生ぜしむ。二に不可以少の下は正しく専念持名を示して修行の法を教う。三に如我今者の下は後に諸仏の同讃を引きて勧信受持せしむ」已上。第二の科に於いて、また分かちて三と為す。文に云わく「第二に正しく行法を示すに三段を分かつ。初より彼国に至るまでは余善の不生を簡ぶ。若有の下は二に正しく修法を示す。我見の下は三に結して勧の意を顕わす」已上。また第二の子段に於いて三あり。文に云わく「二が中に三を分かつ。初より不乱に至るまでは専念持名なり。其人の下は臨終感聖なり。是人の下は三に正念往生なり」已上。而るに初に専念持名の下に三の問答あり。今の所引は第三の答なり。その問の言に曰わく「四字の名号は凡下常に聞く。何なる勝能ありてか衆善に超過せるや」已上。所引の中に答の言は初を略す。今私に引き加う。その詞に云わく「答う。仏身は相にあらず、果徳深高なり。嘉名を立てずば妙体を彰わすことなけん。十方三世にみな異名あり」。(以下、所引の如し)。所引の文の次に『華厳経』並びに『薬師経』及び『瞻察経』を引きて仏の功徳を嘆ず。ただし彼の経の説は諸仏の名に亘る。よって結文に云わく「諸余の仏名は聞持すれば尚爾り。況んや我弥陀に本誓あるをや」已上。SYOZEN2-256/TAI3-218,219 ◎又云。正念中。凡人臨終識神無主。善悪業種無不発現。或起悪念。或起邪見。或生繋恋。或発猖狂悪相非一。皆名顛倒因。前誦仏罪滅障除。浄業内薫。慈光外摂。脱苦得楽一刹那間。下文勧生。其利在此。已上。 ◎(元照・弥陀経義疏)また云わく、正念の中に、凡そ人の臨終は識神に主なし。善悪の業種、発現せざることなし。あるいは悪念を起こし、あるいは邪見を起こし、あるいは繋恋を生じ、あるいは猖狂悪相を発せんこと一にあらず。みな顛倒の因と名づく。前に仏を誦して、罪滅し、障除こり、浄業内に熏じ、慈光外に摂すれば、苦を脱れ楽を得ること、一刹那の間なり。下の文に生を勧む、その利、これにありと。已上。GYO:SYOZEN2-30/HON-186,HOU-300 〇次言又云正念等者。上所言之小子段中第三段也。言正念者。是則指経是人終時心不顛倒等之句也。言下文者。是指結顕勧意之文。即是我見是利以下意也。SYOZEN2-256,257/TAI3-222 〇次に「又云正念」等とは、上に言う所の小子段の中に第三段なり。「正念」というは、これ則ち経の「是人終時心不顛倒」等の句を指すなり。「下文」というは、これ結顕勧意の文を指すなり。即ちこれ「我見是利」以下の意なり。SYOZEN2-256,257/TAI3-222 ◎慈雲法師云。天竺寺遵式。唯安養浄業捷真可修。若有四衆。欲復速破無明。永滅五逆十悪重軽等罪。当修此法。欲得大小戒体遠復清浄。得念仏三昧成就菩薩諸波羅蜜。当学此法。欲得臨終離諸怖畏身心安快。衆聖現前授子接引。初離塵労便至不退。不歴長劫即得無生。当学此法等。古賢法語能無従乎。已上五門略標綱要。自余不尽。委在釈文。按開元蔵録。此経凡有両訳。前本已亡。今本乃[キョウ04]良邪舎訳。僧伝云。[キョウ04]良邪舎此云時称。宋元嘉初。建于京邑。文帝。 ◎(観経義疏)慈雲法師の云わく(天竺寺遵式)、ただ安養の浄業のみ捷真なり、修すべし。もし四衆ありて、また速やかに無明を破し、永く五逆・十悪重軽等の罪を滅せんと欲わば、当にこの法を修すべし。大小の戒体、遠くまた清浄なることを得、念仏三昧を得しめ、菩薩の諸波羅蜜を成就せんと欲わば、当にこの法を学すべし。臨終にもろもろの怖畏を離れしめ、身心安快にして衆聖現前し、授手接引せらるることを得、初めて塵労を離れてすなわち不退に至り、長劫を歴ず、すなわち無生を得んと欲わば、当にこの法等を学び、古賢の法語に等しくすべし。よく従うことなからんや。已上の五門、綱要を略標す。自余は尽くさず、くわしく釈文にあり。『開元の蔵録』を案ずるに、この経おおよそ両訳あり。前本はすでに亡じぬ。いまの本はすなわち[キョウ04]良耶舎の訳なり。僧伝に云わく、[キョウ04]良耶舎ここには時称と云う。宋の元嘉の初めに京邑に建めたり。文帝のときなり。GYO:SYOZEN2-30/HON-186,187,HOU-300,301 〇次言慈雲法師云者。元照観経義疏引之。彼義疏上。上所引之指濫伝文。所云即是往生因種。次下釈也。所引慈雲法師釈者。大弥陀懺序文也。已上五門者。前云二弁古今廃立之中又有五是。五者所謂一明福観。二弁定散。三示地位。四解魔説。五指濫伝。所言五門篇目如斯。委在釈文者。指入文別釈。抑時称下有所除詞一十三字。謂其言云。西域人性剛直寡耆欲。善通三蔵。已上。又云建于京邑。本文建字為達。有異本歟。愚按達字其言有便。言文帝者。宋第三帝元嘉主也。於彼時称。深加歎異崇重無双。SYOZEN2-257/TAI3-226,227 〇次に「慈雲法師云」というは、元照の『観経義疏』にこれを引く。彼の『義疏』の上に上に引く所の濫伝を指す文に「即是往生因種」という所の次下の釈なり。所引の慈雲法師の釈とは『大弥陀懺』の序の文なり。「已上五門」とは、前に二に古今の廃立を弁ずる中に、また五ありという、これなり。五とは、いわゆる一には福観を明かし、二には定散を弁じ、三には地位を示し、四には魔説を解し、五には濫伝を指す。言う所の五門、篇目はかくの如し。「くわしくは釈文にあり」とは入文別釈を指す。抑も「時称」より下に除く所の詞は一十三字あり。謂わく、その言に云わく「西域の人。性は剛直にして耆欲寡なし。善く三蔵に通ず」已上。また「建于京邑」というは、本文は「建」の字を「達」と為す。異本あるか。愚按するに「達」字は、その言に便あり。「文帝」というは、宋の第三の帝、元嘉主なり。彼の時称に於いて深く歎異を加えて崇重すること双なし。SYOZEN2-257/TAI3-226,227 ◎慈雲讃云。遵式也。了義中了義。円頓中円頓。已上。 ◎慈雲の讃に云わく(遵式なり)、了義の中の了義なり。円頓の中の円頓なり。已上。GYO:SYOZEN2-30/HON-187,HOU-301 ◎大智唱云。元照律師也。円頓一乗純一無雑。已上。 ◎大智唱えて云わく(元照律師なり)、円頓一乗は、純一にして無雑なり。已上。GYO:SYOZEN2-30/HON-187,HOU-301 〇次慈雲大智両師。解釈共是一言。各以易見。SYOZEN2-257/TAI3-235 〇次に慈雲・大智両師の解釈は共にこれ一言なり。おのおの以て見易し。SYOZEN2-257/TAI3-235 |