六要鈔会本 第3巻の3(6の内) 行の巻 大行釈 他力・両重因縁・行之一念・乃至・大利無上・ 専心専念・一念転釈・大行総結 |
◎=親鸞聖人『教行信証』の文。 〇=存覚『六要抄』の文 |
『教行信証六要鈔会本』 巻三之三 |
◎爾者獲真実行信者。心多歓喜故。是名歓喜地。是喩初果者。初果聖者尚睡眠懶堕。不至二十九有。何況十方群生海帰命斯行信者。摂取不捨。故名阿弥陀仏。是曰他力。 ◎(御自釈)しかれば真実の行信を獲る者は、心に歓喜多きがゆえに、これを歓喜地と名づく。これを初果に喩うることは、初果の聖者、なお睡眠し懶堕なれども、二十九有に至らず。いかにいわんや、十方群生海は、この行信に帰命すれば摂取して捨てたまわず。故に阿弥陀仏と名づけたてまつると。これを他力と曰う。GYO:J:SYOZEN2-33/HON-190,HOU-304 ◎是以龍樹大士曰即時入必定。曇鸞大師云入正定聚之数。仰可憑斯。専可行斯也。 ◎(御自釈)ここをもって龍樹大士は「即時入必定」と曰い、曇鸞大師は「入正定聚之数」と云えり。仰いでこれを憑むべし。専らこれを行ずべきなり。GYO:J:SYOZEN2-33/HON-190,HOU-304,305 〇又私御釈。獲真等者。問。如釈義者。直云信心獲得行者得初地歟。然者斯事難信如何。答。薄地凡夫三界見思不伏一毫。縦行念仏豈断無明登聖位耶。若対其位超天与地。非謂異生断無明人彼此相斉。初地初果大小雖異。聖位是同。而初果人縦造悪業不招来報。念仏行者。未断煩悩。雖侵罪業。信心発得以関摂取不捨利益。横超三界頓絶輪回。以其義同今儲此釈。則引即時入必定文。又引入正定聚之釈。其意在斯。即言頓義。不待命後。潜顕信心開発時分入正定聚。顕雖可為浄土不退。以不退堕隠表現生可有其益。非三不退並処不退。唯是所顕蒙光触者心不退之不思議耳。今家料簡専存此意。処処解釈以此義勢可解了之。SYOZEN2-260/TAI3-317,318 〇また私の御釈なり。「獲真」等とは。問う。釈義の如きは直に信心獲得の行者は初地を得というか。然らばこの事は信じ難し、いかん。答う。薄地の凡夫は三界の見思は一毫を伏せず。たとい念仏を行ずとも、あに無明を断じて聖位に登らんや。もしその位を対せば天と地とに超えたり。異生断無明の人は彼此相斉しというにはあらず。初地・初果・大小、異なるといえども、聖位はこれ同じ。而るに初果の人は、たとい悪業を造れども来報を招かず。念仏の行者は未だ煩悩を断ぜず、罪業を侵すといえども、信心発得すれば摂取不捨の利益に関るを以て、横に三界を超えて、頓に輪回を絶つ。その義同じきを以て、今、この釈を儲く。則ち「即時入必定」の文を引き、また「入正定聚」の釈を引く。その意は斯に在り。「即」の言は頓の義、命後を待たず、潜に信心開発の時分に正定聚に入ることを顕わす。顕に浄土の不退為るべしといえども、退堕せざるを以て、隠に現生にその益あるべきことを表わす。三不退、並びに処不退にあらず。ただこれ蒙光触者心不退の不思議を顕わす所ならくのみ。今家の料簡は専らこの意を存す。処処の解釈はこの義勢を以て、これを解了すべし。SYOZEN2-260/TAI3-317,318 ◎良知。無徳号慈父。能生因闕。無光明悲母。所生縁乖。能所因縁雖可和合。非信心業識。無到光明土。真実信業識。斯則為内因。光明名父母。斯則為外縁。内外因縁和合。得証報土真身。故宗師言以光明名号摂化十方但使信心求念。又云念仏成仏是真宗。又云真宗[ハ01]遇也。可知。 ◎(御自釈)良に知りぬ。徳号の慈父ましまさずは能生の因闕けなん。光明の悲母ましまさずは所生の縁乖きなん。能所の因縁、和合すべしといえども、信心の業識にあらずは光明土に到ることなし。真実信の業識、これすなわち内因とす。光明名の父母、これすなわち外縁とす。内外の因縁和合して、報土の真身を得証す。故に宗師は、光明名号をもって十方を摂化したまう。ただ信心をして求念せしむと言えり。また、念仏成仏これ真宗と云えり。また真宗遇いがたしと云えるをや、知るべしと。GYO:J:SYOZEN2-33,34/HON-190,191,HOU-305 ◎凡就往相回向行信。行則有一念。亦信有一念。言行之一念者。謂就称名遍数顕開選択易行至極。 ◎(御自釈)おおよそ往相回向の行信について、行にすなわち一念あり、また信に一念あり。行の一念と言うは、いわく称名の遍数につきて、選択易行の至極を顕開す。GYO:J:SYOZEN2-34/HON-191,HOU-305 ◎故大本言。仏語弥勒。其有得聞彼仏名号歓喜踊躍乃至一念。当知。此人為得大利。則是具足無上功徳。已上。 ◎故に『大本』(大経)に言わく、仏、弥勒に語りたまわく、それ、かの仏の名号を聞くことを得て、歓喜踊躍して乃至一念せんことあらん。当に知るべし、この人は大利を得とす。すなわちこれ無上の功徳を具足するなりと。已上。GYO:SYOZEN2-34/HON-191,HOU-306 〇次大経流通分初。明彼如来名号徳文。是故以之為行一念。問。今以此文難謂起行。既有歓喜踊躍之言宜属安心。随而見彼異訳経等。安心之趣其説分明如何。答。行不離信。信不離行。今文之意。信行相備互以通用。強不違害。若得此意。異訳経説又非相違。但属起行其理猶明。依之黒谷大経釈云。上逗機縁。且雖明助念往生及諸行往生之旨。準本願故。至流通分初廃諸行帰但念仏。已上。以此講釈尤為指南。SYOZEN2-260,261/TAI3-363 〇次に『大経』の流通分の初に彼の如来の名号の徳を明かす文なり。この故に、これを以て行の一念と為す。問う。今この文を以て起行といいがたし。既に「歓喜踊躍」の言あり、宜しく安心に属すべし。随いて彼の異訳の経等を見るに、安心の趣、その説分明なり、いかん。答う。行は信を離れず、信は行を離れず。今の文の意は信行相備りて互いに以て通用す。強ちに違害せず。もしこの意を得れば、異訳の経説はまた相違にあらず。ただし起行に属する、その理、なお明かなり。これに依りて黒谷の『大経釈』に云わく「上には機縁に逗して、かつ助念往生及び諸行往生の旨を明かすといえども、本願に準ずるが故に、流通分に至りて初めて諸行を廃して、ただ念仏に帰せしむ」已上。この講釈を以て、尤も指南と為す。SYOZEN2-260,261/TAI3-363 ◎光明寺和尚。云下至一念。又云一声一念。又云専心専念。已上。 ◎光明寺の和尚は「下至一念」と云えり。また「一声一念」と云えり。また「専心専念」と云えり。已上。GYO:SYOZEN2-34/HON-191,HOU-306 ◎智昇師集諸経礼懺儀下巻云。深心即是真実信心。信知自身是具足煩悩凡夫。善根薄少流転三界不出火宅。今信知弥陀本弘誓願。及称名号下至十声聞等。定得往生。及至一念無有疑心。故名深心。已上。 ◎智昇師の『集諸経礼懴儀』の下巻に云わく、深心は、すなわちこれ真実の信心なり。自身はこれ煩悩を具足せる凡夫、善根薄少にして、三界に流転して火宅を出でずと信知す。いま弥陀の本弘誓願は、名号を称すること下至十声聞等に及ぶまで、定んで往生を得と信知して、一念に至るに及ぶまで疑心あることなし。故に深心と名づくと。已上。GYO:SYOZEN2-34/HON-191,HOU-306 〇次智昇師釈。宗家大師往生礼讃前序釈也。其中善根薄少等者。問。疏云無有出離之縁。更不云有一分善種。今雖薄少顕有其善。相違云何。答。天台釈云。衆生無始恒居三道。於中誰無一毫種類。已上。而雖有善未絶輪回。是則煩悩賊害故也。是故今釈示有善根。而顕自力薄少善根不截生死。疏釈正約不出生死之辺。亦就諸善不成之義。直云無有出離之縁。及称等者十声一声可守礼讃。十声聞者恐是展転書写誤歟。SYOZEN2-260,261/TAI3-364 〇次に智昇師の釈は、宗家大師『往生礼讃』の前序の釈なり。その中に「善根薄少」等とは、問う、疏には「出離の縁あることなし」といいて、更に一分の善種ありといわず。今、薄少なりといえども、その善あることを顕わす。相違いかん。答う。天台の釈に云わく「衆生は無始より恒に三道に居す。中に於いて誰か一毫の種類なからん」已上。しかるに善あるといえども、未だ輪回を絶たず。これ則ち煩悩賊害の故なり。この故に今の釈は善根あることを示して、而も自力薄少の善根は生死を截らざることを顕わす。疏の釈は正しく生死を出でざるの辺に約し、また諸善不成の義に就きて、直ちに「無有出離之縁」という。「及称」等とは、十声・一声、『礼讃』を守るべし。「十声聞」とは恐らくはこれ展転書写の誤か。SYOZEN2-260,261/TAI3-364 ◎経言乃至。釈曰下至。乃下其言雖異。其意惟一也。復乃至者一多包容之言。言大利者対小利之言。言無上者対有上之言也。信知。大利無上者一乗真実之利益也。小利有上者則是八万四千仮門也。釈云専心者即一心。形無二心也。云専念者即一行。形無二行也。今弥勒付属之一念即是一声。一声即是一念。一念即是一行。一行即是正行。正行即是正業。正業即是正念。正念即是念仏。即是南無阿弥陀仏也。 ◎(御自釈)経に乃至と言い、釈に下至と曰えり。乃・下その言異なりといえども、その意、これ一なり。また乃至とは、一多包容の言なり〈包=かぬ。容=いるる〉。大利と言うは、小利に対せるの言なり。無上と言うは、有上に対せるの言なり。信に知りぬ。大利無上とは一乗真実の利益なり。小利有上とはすなわちこれ八万四千の仮門なり。釈に専心と云えるは、すなわち一心なり、二心なきことを形すなり。専念と云えるは、すなわち一行なり、二行なきことを形すなり。いま弥勒付嘱の一念はすなわちこれ一声なり、一声すなわちこれ一念なり、一念すなわちこれ一行なり、一行すなわちこれ正行なり、正行すなわちこれ正業なり、正業すなわちこれ正念なり、正念すなわちこれ念仏なり、すなわちこれ南無阿弥陀仏なり。GYO:J:SYOZEN2-34,35/HON-191,192,HOU-306,307 ◎爾者乗大悲願船浮光明広海。至徳風静衆禍波転。即破無明闇。速到無量光明土。証大般涅槃。遵普賢之徳也。可知 ◎(御自釈)しかれば、大悲の願船に乗じて光明の広海に浮かびぬれば、至徳の風静かに、衆禍の波転ず。すなわち無明の闇を破し、速やかに無量光明土に到りて大般涅槃を証し、普賢の徳に遵うなり。知るべしと。GYO:J:SYOZEN2-35/HON-192,HOU-307 〇私釈可見。SYOZEN2-261/TAI3-387 〇私の釈、見つべし。SYOZEN2-261/TAI3-387 ◎安楽集云。十念相続者。是聖者一数之名耳。即能積念凝思不縁他事。使業道成弁便罷。亦不労記之頭数也。 ◎『安楽集』に云わく、十念相続とは、これ聖者の一つの数の名ならくのみ。すなわちよく念を積み思いを凝らして他事を縁ぜざれば、業道成弁せしめてすなわち罷みぬ。また労しくこれを頭数を記せざれとなり。GYO:SYOZEN2-35/HON-192,193,HOU-307 ◎又云。若久行人念多応依此。若始行人念者記数亦好。此亦依聖教。已上。 ◎(安楽集)また云わく、もし久行の人の念は、多くこれに依るべし。もし始行の人の念は、数を記する、また好し。これまた聖教に依るなり。已上。GYO:SYOZEN2-35/HON-192,193,HOU-307 〇安楽集文。第二大門。有其三番料簡之中。第三広施問答之下。有其重重之中釈也。先以積念凝思為要。不用記数。後記其数約始行人。久行不然。言又云者。非別引文。本書如此。先後於義聊存異趣。故有此言。SYOZEN2-261/TAI3-401 〇『安楽集』の文、第二大門にその三番の料簡ある中に、第三に広く問答を施す下に、その重重ある中の釈なり。先は念を積に思を凝らすを以て要と為して、数を記することを用いず。後にその数を記すること、始行の人に約す。久行は然らず。「又云」というは、別の引文にあらず。本書かくの如し。先後、義に於いて聊か異趣を存するが故にこの言あり。SYOZEN2-261/TAI3-401 ◎斯乃顕真実行明証。誠知。選択摂取之本願。超世希有之勝行。円融真妙之正法。至極無礙之大行也。可知。 ◎(御自釈)これすなわち真実の行を顕す明証なり。誠に知りぬ。選択摂取の本願、超世希有の勝行、円融真妙の正法、至極無碍の大行なり。知るべしと。GYO:J:SYOZEN2-35/HON-193,HOU-307,308 〇斯乃以下二行余者総結也。SYOZEN2-261/TAI3-411,412 〇「斯乃」以下の二行余は総結なり。SYOZEN2-261/TAI3-411,412 |