六要鈔会本 第4巻の(7の内)
 信の巻
 大信釈
    引文 善導『観経義』「定善義」「序分義」
     「散善義」至誠心釈・深心釈
◎=親鸞聖人『教行信証』の文。
〇=存覚『六要抄』の文
『教行信証六要鈔会本』 巻四之二

 ◎光明寺観経義云。言如意者有二種。一者如衆生意。随彼心念皆応度之。二如弥陀之意。五眼円照六通自在。観機可度者。一念之中無前無後。身心等赴。三輪開悟。各益不同也。已上。
 ◎光明寺の『観経義』(定善義)に云わく、如意と言うは二種あり。一には衆生の意〈こころ〉のごとし、かの心念に随いてみなこれを度すべし。二には弥陀の意〈おんこころ〉のごとし、五眼円かに照らし六通自在にして、機の度すべき者を観そなわして、一念の中に前なく後なく、身心等しく赴き、三輪開悟して、おのおの益すること同じからざるなりと。已上。SIN:SYOZEN2-51/HON-214,HOU-324

 〇次所引文。定善義釈。解雑想観阿弥陀仏神通如意於十方国変現自在之文釈也。言如等者。於如意言有二義中。後義粗標他力利益。是顕造悪流転凡夫。開悟得脱非己所堪。偏為仏徳。雖為定善観門之説。就所観仏明其益也。言五眼者載第一巻。言六通者。倶舎論第二十七云。一神境智証通。二天眼智証通。三天耳智証通。四他心智証通。五宿住随念智証通。六漏尽智証通。雖六通中第六唯聖。然其前五異生亦得。依総相説亦共異生。已上。SYOZEN2-277/TAI5-265
 〇次の所引の文『定善義』の釈、雑想観の「阿弥陀仏、神通如意にして、十方の国において変現したもうこと自在なり」の文を解する釈なり。「言如」等とは、如意の言に於いて二義ある中に、後の義はほぼ他力の利益を標す。これ造悪流転の凡夫は開悟得脱すること己が所堪にあらず、偏に仏徳たることを顕わす。定善観門の説たりといえども、所観の仏に就きて、その益を明かすなり。「五眼」というは、第一巻に載す。「六通」というは、『倶舎論』の第二十七に云わく「一には神境智証通、二には天眼智証通、三には天耳智証通、四には他心智証通、五には宿住随念智証通、六には漏尽智証通なり。六通の中に第六は唯聖なりといえども、然れどもその前五は異生もまた得。総相に依りて説くに、また異生に共にす。已上。SYOZEN2-277/TAI5-265


 ◎又云。此五濁五苦等。通六道受未有無者。常逼悩之。若不受此苦者。即非凡数摂也。抄出。
 ◎(序分義)また云わく、この五濁・五苦等は、六道に通じて受けて、未だ無き者あらず、常にこれに逼悩す。もしこの苦を受けざる者は、すなわち凡数の摂にあらざるなり。抄出。SIN:SYOZEN2-51/HON-214,HOU-324

 〇次所引文。序分義釈。問。今引此文有何由耶。答。上来引文所明。皆是如来済度利生方便。如実相応真実信心。其所被機。是為罪悪生死凡夫。煩悩賊害之衆生故。為顕五濁五苦八苦逼悩有情。専為其機。故引之也。現行之本。五苦下有八苦二字。今被除歟。又有異歟。SYOZEN2-278/TAI5-271
 〇次の所引の文は『序分義』の釈なり。問う。今この文を引くこと、何の由かあらんや。答う。上来の引文に明かす所は皆これ如来済度の利生方便、如実相応真実の信心なり。その所被の機はこれ罪悪生死の凡夫、煩悩賊害の衆生たるが故に、五濁・五苦・八苦逼悩の有情は、専らその機たることを顕わさんが為に、ことさらにこれを引くなり。現行の本は「五苦」下に「八苦」の二字あり。今除かるるか、また異あるか。SYOZEN2-278/TAI5-271


 ◎又云。従何等為三下至必生彼国已来。正明弁定三心以為正因。即有其二。一明世尊随機顕益意蜜難知。非仏自問自徴。無由得解。二明如来還自答前三心之数。
 ◎(散善義)また云わく、何等為三より下、必生彼国に至るこのかたは、正しく三心を弁定してもって正因とすることを明かす。すなわちその二つあり。一には世尊機に随いて益を顕すこと、意密にして知り難し、仏自ら問いて自ら徴したまうにあらずは、解を得るに由なきを明かす。二には如来還りて自ら前の三心の数を答えたまうことを明かす。SIN:SYOZEN2-51/HON-214,215,HOU-324,325-

 〇次所引者。散善義文。三心釈也。此三心者出離直因行者最要。解信仰信宜依機根。共帰仏智往生無疑。於此三心可存二意。一者是為定散諸機所発起故。先被行者明其信相。故明初心勧門之時。先約其機。勧可解行真実之義。誡門之時。同約其機。誡侵貪瞋可離虚仮。内外相応謂之真実。然而未分自力他力。下之二心準之。応知。二者三心皆是加来回向成就之利益也。更非凡夫自力之心。凡心更無真実之義。偏帰他力。以其仏徳証得往生。是故於義不論信相。約此義辺。大経観経三信三心本是一意。今至誠心勧誡二門。読其文点宜令領解。可在口伝。又至其文粗可解耳。二義之中。初義常義。後義今師相伝之義。次下三心一心釈中。具有此意。弁定等者。今此三心就云正因。正者対邪。又対傍言。今此言正。其義可知。因者対果。又対縁言。是則観念法門中。釈見仏縁云。至誠心信心願心為内因。又籍弥陀三種願力以為外縁。外内因縁和合。故即見仏。已上。言三力者。同縁中。依般舟経説所引截之。大誓願力。三味定力。本功徳力。是其三也。見仏之益既由内外因縁得之。往生之益尤可準知。因茲此書第二巻云。真実信業識。斯則為内因。光明名号父母。斯則為外縁。内外因縁和合。得証報土真身。蓋此義也。随機等者。機者即是定散諸機。益者即是諸機往生。得其往生偏由仏願難思利益名号一法。而仏未顕其勝利。言之意密。是故自問自懲自答。若不如是。衆生何以聞此要義。慇懃之意其義可貴。SYOZEN2-278,279/TAI5-277,278
 〇次の所引は『散善義』の文、三心の釈なり。この三心は出離の直因、行者の最要、解信仰信は宜しく機根に依るべし。共に仏智に帰すれば往生すること疑いなし。この三心に於いて二の意を存すべし。一にはこれ定散諸機の発起する所たるが故に、まず行者に被しめてその信相を明かす。故に初心の勧門を明かす時、まずその機に約して解行真実なるべき義を勧む。誡門の時は同じくその機に約して貪瞋を侵〈や〉め、虚仮を離るべしと誡しむ。内外相応するを、これを真実という。然して未だ自力他力を分かたず。下の二心はこれに準じて知るべし。二には三心は皆これ加来回向成就の利益なり。更に凡夫自力の心にあらず。凡心更に真実の義なし。偏に他力に帰すれば、その仏徳を以て往生を証得す。この故に義に於いて信相を論ぜず。この義辺に約して『大経』『観経』三信・三心はもとこれ一意なり。今の至誠心、勧誡の二門はその文点を読みて宜しく領解せしむべし。口伝に在るべし。またその文に至りて、ほぼ解すらくのみ。二義の中に、初の義は常の義、後の義は今師相伝の義なり。次下の三心・一心の釈の中に、具にこの意あり。「弁定」等とは、今この三心、正因というに就きて、正とは、邪に対し、また傍に対する言なり。今ここに正という、その義、知りぬべし。因とは、果に対し、また縁に対する言なり。これ則ち『観念法門』の中に見仏の縁を釈して云わく「至誠心・信心・願心を内因と為し、また弥陀の三種の願力に藉りて以て外縁と為して、外内の因縁和合す。故に即ち仏を見たてまつる」已上。三力というは、同じき縁の中に、『般舟経』の説に依りて引き截する所の大誓願力・三味定力・本功徳力、これその三なり。見仏の益は既に内外因縁に由りてこれを得。往生の益、尤も準知すべし。ここに因りてこの書の第二巻に「真実信の業識、これすなわち内因とす。光明名の父母、これすなわち外縁とす。内外の因縁和合して、報土の真身を得証す」といえる、蓋しこの義なり。「随機」等とは、機とは即ちこれ定散の諸機、「益」は即ちこれ諸機の往生、その往生を得ること、偏に仏願難思の利益、名号の一法に由る。而るに仏は未だその勝利を顕わしたまわず。これを意密という。この故に自問自懲自答したまう。もしかくの如きならずば、衆生何を以てかこの要義を聞かん。慇懃の意、その義、貴むべし。SYOZEN2-278,279/TAI5-277,278


 ◎経云。一者至誠心。至者真。誠者実。欲明一切衆生身口意業所修解行。必須真実心中作。不得外現賢善精進之相。内懐虚仮。貪瞋邪偽姦詐百端。悪性難侵。事同蛇蝎。雖起三業。名為雑毒之善。亦名虚仮之行。不名真実業也。若作如此安心起行者。縦使苦励身心。日夜十二時。急走急作。如灸頭燃者。衆名雑毒之善。欲回此雑毒之行求生彼仏浄土者。此必不可也。何以故。正由彼阿弥陀仏因中行菩薩行時〈由=以周反、経也、行也、従也、用也〉。乃至一念一刹那。三業所修皆是真実心中作。凡所施為趣求亦皆真実。又真実有二種。一者自利真実。二者利他真実。乃至。不善三業必須真実心中捨。又若起善三業者。必須真実心中作。不簡内外明闇。皆須真実故。名至誠心。
 ◎(散善義)経に云わく、一者至誠心。至とは真なり。誠とは実なり。一切衆生の身・口・意業の所修の解行、必ず真実心の中に作したまえるを須いることを明かさんと欲う。外に賢善精進の相を現ずることを得ざれ、内に虚仮を懐けばなり。貪瞋邪偽、奸詐百端にして、悪性侵〈や〉め難し。事、蛇蝎に同じ。三業を起こすといえども、名づけて雑毒の善とす、また虚仮の行と名づく、真実の業と名づけざるなり。もしかくのごとき安心・起行を作す者は、たとい身心を苦励して、日夜十二時、急に走〈もと〉め急に作して頭燃を灸〈はら〉うがごとくするもの、すべて雑毒の善と名づく。この雑毒の行を回して、かの仏の浄土に求生せんと欲するは、これ必ず不可なり。何をもってのゆえに、正しくかの阿弥陀仏、因中に菩薩の行を行じたまいし時、乃至一念一刹那も、三業の所修みなこれ真実心の中に作したまいしに由ってなり〈由=以周の反、経なり、行なり、従なり、用なり〉。おおよそ施したまうところ趣求をなす、またみな真実なり。また真実に二種あり。一には自利真実、二には利他真実なり。乃至。不善の三業は、必ず真実心の中に捨てたまえるを須いよ。またもし善の三業を起こさば、必ず真実心の中に作したまいしを須いて、内外・明闇を簡ばず、みな真実を須いるがゆえに、至誠心と名づく。SIN:SYOZEN2-51,52/-HON-215,HOU-325-

 〇経云一者至誠心者。是牒経文。問。依文三巻一一釈経。何限此文置此言耶。答。所言三心一経眼目出離要道。故挙仏言勧信順也。至者等者。是字釈也。至字真訓。管見未覃。但如此例。聖典多之。況大権釈仰可信之。如天台者。以専訓至。是又未知。各有拠歟。欲明等者。勧門釈也。須字之訓。可用用訓。心中作者。非行者作。約仏所作。是則凡心非真実故。依帰仏心真実之徳。為其仏徳得往生益。就其所帰云真実心。依主釈也。不得等者。誡門釈也。此句文点自現還得。当流学者定存知歟。今此釈意誡雑行也。所以然者。凡夫之心更無賢善精進之義。只是愚悪懈怠機也。而人不顧自心愚悪。随縁起行。若欲求修賢善精進之諸行者。悪性心故。煩悩賊害。必是不免虚仮雑毒。内懐虚仮是其義也。然者不現賢善等相。識知自心三毒悪性。捨自力行。帰他力行。可得真実清浄業也。以勧此心為今釈要。雖起等者三業為外。悪性為内。如常義者。外名身口。内名意業。如然可云雖起二業。既云三業。可知三業只是外也。内悪性也。若作等者。明自力善為雑毒故。雖励身心不得往生。何以故者。徴問言也。是徴雑毒虚仮之行不生之由。正由等者。是其答也。言彼浄土起自弥陀因行果報。因中所修皆是真実。故欲生者可真実也。問。凡夫心者本是不実。争斉彼仏所行真実。答。以帰仏願名真実也。尋仏因中真実心相。唯帰仏心。今又可同。能修行者於其心者。比彼仏心。雖有浄穢善悪等差。帰仏願者発真実心。此心雖似凡夫所発。是為仏智所施心故。云真実心。更非衆生随情心。故令等同也。凡於今文。解其真実有二重釈。一者因中行道真実。二者凡所施為趣求也。初兆載行。次以彼行施衆生故。衆生行之契当如来因中願故。是非凡夫所発之心。併為如来利他之心。是故欲生帰仏不用自力虚仮雑毒之善。施為趣求配当二利。施為利他。趣求自利。是常義也。今有文点。施為名目不依用之。凡所施者。是如来施。仏是能施。為趣求者是約行者。仏道趣求。是則対仏衆生所施。是以如来施与之行。即為衆生趣求之行。能所雖異。倶是如来利他行故謂之真実。言亦皆者。上因位行即今所施。上云仏行。今云所施。能施仏行。所施行体共是真実。故云亦也。又真等者。重釈真実。於中有三。一者総就捨悪修善解真実義。二就三業別明欣厭。三就善悪結真実義。其文易見。問。標有二種。不釈利他真実云何。答。学者雖存種種之義。且依当流一義意者。上来所言。所施真実。趣求真実今所標之利他真実。故別不解。今所言之自利真実。是明尋常真実之相。是則機有上中下差。若其上機上安心上有此所為。如虎戴角。但此行儀難通諸機。縦不如此。契上利他真実之相。有帰仏心。亦得往生。煩悩賊害下機専為正機故也。不簡等者。下私解釈。引涅槃経明其内外明闇之義。可待其解。SYOZEN2-279,280/TAI5-288,289,290
 〇「経に云わく、一者至誠心」とは、これ経文を牒す。問う。依文の三巻、一一に経を釈す。何ぞこの文に限りてこの言を置くや。答う。言う所の三心は一経の眼目、出離の要道なり。故に仏言を挙げて信順を勧むるなり。「至者」等とは、これ字釈なり。至の字は真の訓、管見未だ覃〈およ〉ばず。但しかくの如き例、聖典これ多し。況んや大権の釈、仰いでこれを信ずべし。天台の如きは、専を以て至に訓ず。これまた未だ知ず。おのおの拠あるか。「欲明」等とは、勧門の釈なり。「須」の字の訓は用の訓を用うべし。「心中作」とは、行者の作にあらず。仏の所作に約す。これ則ち凡心は真実にあらざるが故に、仏心真実の徳に帰するに依りて、その仏徳として往生の益を得。その所帰に就きて真実心という。依主釈なり。「不得」等とは、誡門の釈なり。この句の文点は「現」より「得」に還る。当流の学者、定んで存知せるか。今この釈の意は雑行を誡むるなり。然る所以は、凡夫の心は更に賢善精進の義なし。ただこれ愚悪懈怠の機なり。而るに人は自心の愚悪を顧みず、随縁起行して、もし賢善精進の諸行を修することを求めんと欲せば、悪性の心なるが故に、煩悩賊害して、必ずこれ虚仮雑毒を免れじ。「内懐虚仮」これその義なり。然れば賢善等の相を現ぜず、自心三毒の悪性を識知して、自力の行を捨て、他力の行に帰して、真実清浄の業を得べきなり。この心を勧むるを以て今の釈の要と為す。「雖起」等とは、三業を外と為し、悪性を内と為す。常の義の如きは、外を身口に名づけ、内を意業に名づく。然の如きならば、「雖起二業」というべし。既に三業という、知るべし。三業はただこれ外なり。内は悪性なり。「若作」等とは、自力の善は雑毒たるが故に、身心を励ますといえども、往生を得ざることを明かす。「何以故」とは、徴問の言なり。これ雑毒虚仮の行は不生の由を徴す。「正由」等とは、これその答なり。言うこころは、彼の浄土は弥陀の因行・果報より起こる。因中の所修は皆これ真実なり。故に生ぜんと欲わん者は真実なるべしとなり。問う。凡夫の心は本これ不実なり。争でか彼の仏の所行の真実に斉しからん。答う。仏願に帰するを以て真実と名づくるなり。仏の因中の真実心の相を尋ぬるに、ただ仏心に帰す。今もまた同じかるべし。能修の行者は、その心に於いては、彼の仏心に比するに、浄穢・善悪等の差ありといえども、仏願に帰すれば真実心を発す。この心は凡夫の所発に似たりといえども、これ仏智所施の心たるが故に、真実心という。更に衆生随情の心にあらず。故に等同ならしむるなり。凡そ今の文に於いて、その真実を解するに二重の釈あり。一には因中の行道真実、二には凡そ施したもう所、趣求を為すなり。初は兆載の行、次は彼の行を以て衆生に施したもう故に、衆生これを行ずれば如来因中の願に契当するが故に、これ凡夫所発の心にあらず。併しながら如来利他の心たり。この故に生ぜんと欲わば仏に帰して自力虚仮雑毒の善を用いざれ。施為・趣求は二利に配当す。施為は利他、趣求は自利、これは常の義なり。今、文点あり、施為の名目は、これを依用せず。「凡所施」とは、これ如来の施、仏はこれ能施なり。「為趣求」とは、これ行者に約す。仏道の趣求なり。これ則ち仏に対して衆生は所施なり。これ如来施与の行を以て即ち衆生趣求の行と為す。能所異なりといえども、倶にこれ如来利他の行なるが故にこれを真実という。「亦皆」というは、上の因位の行は即ち今の所施なり。上には「仏行」といい、今は「所施」という。能施の仏行、所施の行体、共にこれ真実なり。故に「亦」というなり。「又真」等とは、重ねて真実を釈す。中に於いて三あり。一には総じて捨悪修善に就きて真実の義を解す。二には三業に就きて別して欣厭を明かす。三には善悪に就きて真実の義を結す。その文、見易し。問う。二種ありと標して、利他真実を釈せず、云何。答う。学者は種種の義を存すといえども、且く当流一義の意に依らば、上来に言う所の所施真実・趣求真実は今標する所の利他真実なり。故に別に解せず。今言う所の自利真実は、これ尋常の真実の相を明かす。これ則ち機に上中下の差あり。もしその上機は上の安心の上にこの所為あり。虎の角を戴くが如し。ただしこの行儀は諸機に通じがたし。たといかくの如くならざれども、上の利他真実の相に契い、帰仏の心りて、また往生を得。煩悩賊害の下機、専ら正機と為すが故なり。「不簡」等とは、下の私の解釈に『涅槃経』を引きて、その内外明闇の義を明かす。その解を待つべし。SYOZEN2-279,280/TAI5-288,289,290


 ◎二者深心。言深心者即是深信之心也。亦有二種。一者決定深信自身現是罪悪生死凡夫。曠劫已来常没常流転。無有出離之縁。二者決定深信彼阿弥陀仏四十八願。摂受衆生。無疑無慮。乗彼願力定得往生。
 ◎(散善義)二者深心。深心と言うは、すなわちこれ深信の心なり。また二種あり。一には決定して深く、自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかた、常に没し常に流転して、出離の縁あることなしと信ず。二には決定して深く、かの阿弥陀仏の四十八願は衆生を摂受したまう、疑いなく慮りなくかの願力に乗じて、定んで往生を得と信ず。SIN:SYOZEN2-52/-HON-215,216,HOU-325-

 〇次釈深心中。二者等者。是牒経文。言深等者明能信相。亦有等者。顕所信事。是則機法二種信心。無有等者。正明不論有善無善。不仮自功。出離偏在他力。聖道諸教盛談生仏一如之理。今教依知自力無功。偏帰仏力。依之此信殊最要也。無疑等者。若不生者不取正覚。正覚既成。故云無疑。即得往生住往不退転一念無誤故云無慮。SYOZEN2-281/TAI5-320,321
 〇次に深心を釈する中に、「二者」等とは、これ経文を牒す。「深」等というは、能信の相を明かす。「亦有」等とは、所信の事を顕かす。これ則ち機法二種の信心なり。「無有」等とは、正しく有善・無善を論ぜず、自の功を仮らず、出離は偏に他力に在ることを明かす。聖道の諸教は盛んに生仏一如の理を談ず。今の教は自力の功なきことを知るに依りて、偏に仏力に帰す。これに依りて、この信は殊に最要なり。「無疑」等とは、「若不生者不取正覚」、正覚既に成ず、故に無疑という。「即得往生住不退転」一念誤ることなし、故に無慮という。SYOZEN2-281/TAI5-320,321


 ◎又決定深信釈迦仏説此観経三福九品定散二善。証讃彼仏依正二報使人忻慕。
 ◎(散善義)また決定して深く、釈迦仏、この『観経』に三福・九品・定散二善を説きて、かの仏の依正二報を証讃して、人をして欣慕せしむと〈欣慕せしめたまえることを〉信ず。SIN:SYOZEN2-52/-HON-216,HOU-325,326-

 〇又有二釈。初又決定深信等者。是依観経信釈迦説。SYOZEN2-281/TAI5-339
 〇また二の釈あり。初の「又決定深信」とは、これ『観経』に依りて釈迦の説を信ず。SYOZEN2-281/TAI5-339


 ◎又決定深信弥陀経中十方恒沙諸仏証勧一切凡夫決定得生。
 ◎(散善義)また決定して深く、『弥陀経』の中に、十方恒沙の諸仏、一切凡夫を証勧して決定して生まるることを得と信ずるなり。SIN:SYOZEN2-52/-HON-216,HOU-326-

 〇次又決定深信等者。依弥陀経。信諸仏証。即是明信三経具足信心決了。SYOZEN2-281/TAI5-343
 〇次に「又決定深信」等とは、『弥陀経』に依りて、諸仏の証を信ず。即ちこれ三経具足して信心決了することを信ずることを明かす。SYOZEN2-281/TAI5-343


 ◎又深信者。仰願一切行者等。一心唯信仏語。不顧身命。決定依行。仏遣捨者即捨。仏遣行者即行。仏遣去処即去。是名随順仏教随順仏意。是名随順仏願。是名真仏弟子。
 ◎(散善義)また深く信ずる者、仰ぎ願わくは、一切行者等、一心にただ仏語を信じて身命を顧みず、決定して行に依りて、仏の捨しめたまうをばすなわち捨て、仏の行ぜしめたまうをばすなわち行ず。仏の去らしめたまう処をばすなわち去る。これを仏教に随順し、仏意に随順すと名づく。これを仏願に随順すと名づく。これを真の仏弟子と名づく。SIN:SYOZEN2-52/-HON-216,HOU-326-

 〇又深等者。於此文中。至仏弟子。明依三経如此信者。信順二尊及諸仏意。即得自利。SYOZEN2-281/TAI5-345
 〇「又深」等とは、この文の中に於いて、「仏弟子」に至るまでは、三経に依りてかくの如く信ずる者は、二尊及び諸仏の意に信順して、即ち自利を得ることを明かす。SYOZEN2-281/TAI5-345


 ◎又一切行者。但能依此経深信行者。必不誤衆生也。何以故。仏是満足大悲人故。実語故。除仏已還。智行未満。在其学地。由有正習二障未除。果願未円。此等凡聖。縦使測量諸仏教意。未能決了。雖有平章。要須請仏証為定也。若称仏意。即印可言如是如是。若不可仏意者。即言汝等所説是義不如是。不印者即同無記無利無益之語。仏印可者即随順仏之正教。若仏所有言説即是正教正義正行正解正業正智。若多若少。衆不問菩薩人天等。定其是非也。若仏所説即是了教。菩薩等説尽名不了教也。応知。是故今時仰勧一切有縁往生人等。唯可深信仏語専注奉行。不可信用菩薩等不相応教以為疑碍。抱惑自迷。廃失往生之大益也。乃至。
 ◎(散善義)また一切の行者、ただよくこの経に依りて深く信じる行者は、必ず衆生を誤たざるなり。何をもってのゆえに、仏はこれ満足大悲の人なるがゆえに、実語なるがゆえに、仏を除きて已還は、智行未だ満たず。その学地にありて、正習二障ありて、未だ除からざるに由りてなり。果願未だ円ならず。これらの凡聖は、たとい諸仏の教意を測量すれども、未だよく決了することあたわず。平章ありといえども、かならず須らく仏証を請うて定とすべきなり。もし仏意に称えば、すなわち印可して、如是如是と言う。もし仏意に可わざれば、すなわち、汝等が所説この義不如是と言う。印せざるは、すなわち無記・無利・無益の語に同じ。仏の印可したまうば、すなわち仏の正教に随順す。もし仏の所有の言説は、すなわちこれ正教・正義・正行・正解・正業・正智なり。もしは多、もしは少、すべて菩薩・人・天等を問わず、その是非を定むなり。もし仏の所説は、すなわちこれ了教なり。菩薩等の説は、ことごとく不了教と名づくるなり、知るべしと。このゆえに、今の時、仰ぎて一切有縁の往生人等を勧む。ただ深く仏語を信じて専注奉行すべし。菩薩等の不相応の教を信用してもって疑碍を為し、惑を抱いて自ら迷〈まど〉って、往生の大益を廃失すべからざれとなり。乃至。SIN:SYOZEN2-52,53/-HON-216,217,HOU-326-

 〇又一切下。明利他徳。若仏等者。了教不了経論釈義。其説不同。各以有義。今就分満明其不了了義之別。SYOZEN2-281/TAI5-353
 〇「又一切」の下は利他の徳を明かす。「若仏」等とは、了教・不了の経論釈義は、その説同じからず。おのおの以て義あり。今、分満に就きてその不了・了義の別を明かす。SYOZEN2-281/TAI5-353

 〇言乃至者。自又深心深信者。下四十余行。是除四重難破文中。初之三重及四重初。是依仏語験道同義。縦雖報仏化仏之説。違今仏説。敢不依信。是極成理。故除三重出第四重肝要之文。其理為足。故省略耳。SYOZEN2-281/TAI5-371
 〇「乃至」というは、「又深心深信者」より下、四十余行、これ四重の難破の文の中、初の三重及び四重の初を除く。これ仏語に依りて道同の義を験るに、たとい報仏・化仏の説なりといえども、今の仏説に違せば、敢て依信ぜざれ。これ極成の理なり。故に三重を除きて第四重肝要の文を出だすに、その理、足りぬと為す。故に省略するのみ。SYOZEN2-281/TAI5-371


 ◎釈迦指勧一切凡夫。尽此一身専念専修。捨命已後定生彼国者。即十方諸仏悉皆同讃同勧同証。何以故。同体大悲故。一仏所化即是一切仏化。一切仏化即是一仏所化。即弥陀経中説。釈迦讃嘆極楽種種荘厳。又勧一切凡夫。一日七日。一心専念弥陀名号。定得往生。次下文云。十方各有恒河砂等諸仏。同讃釈迦能於五濁悪時悪世界悪衆生悪見悪煩悩悪邪無信盛時。指讃弥陀名号勧励衆生。称念必得往生。即其証也。又十方仏等恐畏衆生不信釈迦一仏所説。即共同心同時各出舌相。遍覆三千世界説誠実言。汝等衆生。皆応信是釈迦所説所讃所証。一切凡夫不問罪福多少時節久近。但能上尽百年下至一日七日。一心専念弥陀名号。定得往生必無疑也。是故一仏所説即一切仏同証誠其事也。此名就人立信也。乃至。
 ◎(散善義)釈迦、一切の凡夫を指〈おし〉え勧めて、この一身を尽くして専念専修して、捨命已後定んでかの国に生まるれば、すなわち十方諸仏、ことごとくみな同じく讃じて同じく勧め同じく証したまう。何をもってのゆえに、同体の大悲なるがゆえに。一仏の所化はすなわちこれ一切仏の化なり、一切仏の化はすなわちこれ一仏の所化なり。すなわち『弥陀経』の中に説かく、釈迦、極楽の種種の荘厳を讃嘆したまう。また、一切の凡夫を勧めて、一日、七日、一心に弥陀の名号を専念せしむれば、定んで往生を得しめたまう。次下の文に云わく、十方におのおの恒河沙等の諸仏ましまして、同じく、釈迦よく五濁悪時・悪世界・悪衆生・悪見・悪煩悩・悪邪無信の盛なる時において、弥陀の名号を指讃し、衆生を勧励せしめて、称念すれば必ず往生を得と讃じたまう。すなわちその証なり。また十方仏等、衆生の釈迦一仏の所説を信ぜざらんことを恐畏〈おそ〉れて、すなわち共に同心同時に、おのおの舌相を出だして遍く三千世界に覆いて、誠実の言を説きたまわく、汝等〈なんたち〉衆生、みなこの釈迦の所説・所讃・所証を信ずべし。一切の凡夫、罪福の多少、時節の久近を問わず、ただよく上百年を尽くし、下一日・七日に至るまで、一心に弥陀の名号を専念すれば、定んで往生を得ること、必ず疑いなきなり。このゆえに、一仏の所説を、すなわち一切仏同じくその事を証誠したまうなり。これを人に就きて信を立つと名づくるなり。乃至。SIN:SYOZEN2-53,54/-HON-217,HOU-326,327-

 〇釈迦等者。此文以下。是引教証。其文有四。初二文者。釈迦讃勧。次二文者諸仏讃勧。此名就人立信等者。問。所言人者。指何人耶。答。解有二義。一義云。不受四重難破之意。還就其難。猶増信心。故言人者。指彼別解異学人也。一義云。不信因位不了之説。偏信仏智決了之語。永除疑殆。建立信心。若依此義。以仏為人。是為能説之人故也。SYOZEN2-281/TAI5-371
 〇「釈迦」等とは、この文以下はこれ教証を引く。その文に四あり。初の二文は釈迦の讃勧、次の二文は諸仏の讃勧なり。「此名就人立信」等とは、問う、言う所の人とは、何人を指すや。答う。解するに二義あり。一義に云わく、四重の難破を受けざるの意、還りてその難に就きて、なお信心を増す。故に人というは、彼の別解異学の人を指すなり。一義に云わく、因位不了の説を信ぜず、偏に仏智決了の語を信じて、永く疑殆を除き、信心を建立す。もしこの義に依らば、仏を以て人と為す。これ能説の人たるが故なり。SYOZEN2-281/TAI5-371

 〇言乃至者。就行已下六行余也。雖標二行。雖挙五種。非立信行。是故除也。今為顕明立信正意在正定業。所引又就以下文也。SYOZEN2-281,282/TAI5-385
 〇「乃至」というは、「就行」已下の六行余なり。二行を標すといえども、五種を挙ぐるといえども、立信の行にあらず。この故に除くなり。今立信の正意は正定の業に在ることを顕明せんが為に、「又就」以下の文を引く所なり。SYOZEN2-281,282/TAI5-385


 ◎又就此正中復有二種。一者一心専念弥陀名号。行住座臥不問時節久近。念念不捨者。是名正定之業。順彼仏願故。若依礼誦等。即名為助業。除此正助二行已外自余諸善。悉名雑行。乃至。衆名疎雑之行也。故名深心。
 ◎(散善義)またこの正の中について、また二種あり。一には、一心に弥陀の名号を専念して、行住座臥、時節の久近を問わず、念念に捨てざるをば、これを正定の業と名づく、かの仏願に順ずるがゆえに。もし礼誦等に依るを、すなわち名づけて助業とす。この正助二行を除きて已下、自余の諸善をことごとく雑行と名づく、と。乃至。すべて疎雑の行と名づくるなり。故に深心と名づく。SIN:SYOZEN2-54/-HON-217,218,HOU-327,328-

 〇一心等者。総勧常念相続之相。行住等者。別明他力相続之徳。但就念念不捨者句有其二義。一義云。此釈行者用心意楽。速抛衆事。一心可励称名義也。一義云。凡夫行者。此義難得。一食之間猶有其間。一期念念争獲相続。既帰仏願。機法一体能所不二。自有不行而行之理。故言不捨。非機策励。是法徳也。依当流意。後義為本。次乃至者。是判正助二行得失二行余也。於正行中上分正助。以其称名為正定業嘆順仏願。故正行徳是其最要。故今略之。次雑行失。義趣雖区。名疎雑行其義可足。故略中間引結文也。SYOZEN2-282/TAI5-385,386
 〇「一心」等とは、総じて常念相続の相を勧む。「行住」等とは、別して他力相続の徳を明かす。但し「念念不捨者」の句に就きて。その二義あり。一義に云わく、これ行者の用心意楽を釈す。速かに衆事を抛って、一心に称名を励むべき義なり。一義に云わく、凡夫の行者、この義は得難し。一食の間に、なおその間あり。一期念念、いかでか相続することを獲ん。既に仏願に帰すれば、機法一体・能所不二にして、自ずから不行而行の理あり。故に不捨という。機の策励にあらず。これ法の徳なり。当流の意に依らば、後の義を本と為す。次に「乃至」とは、これ正助二行の得失を判ずる二行余なり。正行の中に於いて、上に正助を分かちて、その称名を以て正定の業と為して仏願に順ずと嘆ず。故に正行の徳はこれその最要なり。故に今これを略す。次に雑行の失。義趣まちまちなりといえども、疎雑の行と名づくるに、その義足りぬべし。故に中間を略して結文を引くなり。SYOZEN2-282/TAI5-385,386