六要鈔会本 第4巻の(7の内)
 信の巻
 大信釈
   引文 善導『観経義』「散善義」回向発願心釈・
     『般舟讃』・源信『往生要集』
◎=親鸞聖人『教行信証』の文。
〇=存覚『六要抄』の文
『教行信証六要鈔会本』 巻四之三

 ◎三者回向発願心。乃至。又回向発願生者。必須決定真実心中回向願作得生想。此心深信由若金剛。不為一切異見異学別解別行人等之所動乱破壊。唯是決定一心捉正直進。不得聞彼人語。即有進退心生怯弱回顧。落道即失往生之大益也。
 ◎(散善義)三には回向発願心。乃至。また回向発願して生ずる者は、必ず決定して真実心の中に回向したまえる願を須いて得生の想を作せ。この心深信せること、金剛のごとくなるに由りて、一切の異見・異学・別解・別行の人等のために、動乱破壊せられず。ただこれ決定して一心に捉〈と〉りて正直に進んで、かの人の語を聞くことを得ざれ。すなわち進退ありて心に怯弱を生じて回顧すれば、道に落ちてすなわち往生の大益を失するなり。SIN:SYOZEN2-54/-HON-218,HOU-328-

 〇次解回向発願心中。三者等者。亦牒経文。先釈此心有二種意。自言回向至願心也。五行余者回因向果。今言乃至所略是也。是約自力。故且除之。今之所引。又回向下至大益也。回思向道。是約他〈力〉明証得義。SYOZEN2-282/TAI5-401
 〇次に回向発願心を解する中に、「三者」等とは、また経文を牒す。まずこの心を釈するに二種の意あり。「回向」というより、「願心也」に至るまでの五行余は回因向果なり。今「乃至」といいて略する所、これなり。これは自力に約す。故に且くこれを除く。今の所引「又回向」の下、「大益也」に至るまでは、回思向道なり。これは他〈力〉に約して証得の義を明かす。SYOZEN2-282/TAI5-401


 ◎問曰。若有解行不同邪雑人等来相惑乱。或説種種疑難[ドウ01]不得往生。或云。汝等衆生曠劫已来。及以今生身口意業。於一切凡聖身上。具造十悪五逆四重謗法闡提破戒破見等罪。未能除尽。然此等之罪繋属三界悪道。云何一生修福念仏。即入彼無漏無生之国。永得証悟不退位也。
 ◎(散善義)問いて曰わく、もし解行不同の邪雑の人等ありて、来たりてあい惑乱して、あるいは種種の疑難を説きて、往生を得じといい、あるいは云わん、汝等衆生、曠劫よりこのかた、および今生の身・口・意業に、一切凡聖の身の上において、つぶさに十悪・五逆・四重・謗法・闡提・破戒・破見等の罪を造りて、未だ除尽することあたわず。しかるにこれらの罪は、三界悪道に繋属す。いかんぞ一生の修福念仏して、すなわちかの無漏無生の国に入りて、永く不退の位を証悟することを得んや。SIN:SYOZEN2-54/-HON-218,HOU-328-

 ◎答曰。諸仏教行数越塵砂。禀識機縁随情非一。譬如世間人眼可見可信者。如明能破闇。空能含有。地能載養。水能生潤。火能成壊。如此等事悉名待対之法。即目可見。千差万別。何況仏法不思議之力。豈無種種益也。随出一門者。即出一煩悩門也。随入一門者。即入一解脱智慧門也。為此随縁起行〈為=定也、用也、彼也、作也、是也、相也〉。各求解脱。汝何以乃将非有縁之要行障惑於我。然我之所愛即是我有縁之行。即非汝所求。汝之所愛即是汝有縁之行。亦非我所求。是故各随所楽而修其行者。必疾得解脱也。行者当知。若欲学解。従凡至聖乃至仏果。一切無碍皆得学也。若欲学行者。必籍有縁之法。少用功労多得益也。
 ◎(散善義)答えて曰わく、諸仏の教行数、塵沙に越えたり、識を稟くる機縁、情に随いて一にあらず。たとえば世間の人、眼に見るべく信ずべきがごときは、明のよく闇を破し、空のよく有を含み、地のよく載養し、水のよく生潤し、火のよく成壊するがごとし。これらのごときの事、ことごとく待対の法と名づく。すなわち目に見つべし。千差万別なり。いかにいわんや仏法不思議の力、あに種種の益無からんや。随いて一門を出ずるは、すなわち一煩悩の門を出ずるなり。随いて一門に入るは、すなわち一解脱智慧の門に入るなり。これを為って〈為=定なり、用なり、彼なり、作なり、是なり、相なり〉、縁に随いて行を起こして、おのおの解脱を求めよ。汝何をもってか、いましまさに有縁の要行にあらざるをもちて、我を障惑するや。しかるに我が所愛は、すなわちこれ我が有縁の行なり、すなわち汝が所求にあらず。汝が所愛は、すなわちこれ汝が有縁の行なり、また我が所求にあらず。このゆえにおのおの所楽に随いてその行を修するは、必ず疾く解脱を得るなり。行者当に知るべし、もし解を学せんと欲わば、凡より聖に至り、乃至仏果まで、一切碍りなし、みな学ぶことを得るなり〈得よ〉。もし行を学せんと欲わば、必ず有縁の法に籍れ、少しき功労を用いるに多く益を得ればなりと。SIN:SYOZEN2-54,55/-HON-218,219,HOU-328,329-

 〇問曰已下至得益也。是問答也。問。今此問答与深心中所致問答有何別耶。答。上約無有出離之縁之機言之。故就凡夫難生之義。有其四重問答之釈。今問一生修福念仏難消過現三業悪業。答明仏力不思議益。上下問答差異在斯。諸仏等者。先為対治疑者偏見。述於仏教有多門也。譬如等者。是挙世間浅近事相。況彼仏力難思之益。随出等者。是明所治八万四千塵労門中。出其一門即能遂出余煩悩門。随入等者。是明能治八万四千解脱門中入其一門。即能遂入余解脱門。謂三毒中。若多貪人以無貪善。治貪煩悩。然後自然治瞋与癡多瞋多癡。又以無瞋無癡善根対治。而後又治其余。例以応知。若欲学解等者。明学可通初心究竟一切諸位。若欲学行等者。明行須依有縁之法。有縁法者意在念仏。SYOZEN2-282,283/TAI5-414,415
 〇「問曰」已下、「得益也」に至るまでは、これ問答なり。問う。今この問答と、深心の中に致す所の問答と、何の別かあるや。答う。上は無有出離の縁の機に約してこれをいう。故に凡夫難生の義に就きて、その四重問答の釈あり。今は一生修福の念仏は過現三業の悪業を消し難きことを問いて、答うるに仏力不思議の益を明かす。上下の問答の差異はここに在り。「諸仏」等とは、まず疑者の偏見を対治せんが為に、仏教に於いて多門あることを述ぶるなり。「譬如」等とは、これ世間浅近の事相を挙げて、彼の仏力難思の益に況す。「随出」等とは、これ所治の八万四千の塵労門の中に、その一門を出ずれば、即ち能く遂に余の煩悩の門を出ずることを明かす。「随入」等とは、これ能治の八万四千の解脱門の中に、その一門に入れば、即ち能く遂に余の解脱の門に入ることを明かす。謂わく三毒の中に、もし多貪の人は無貪の善を以て、貪煩悩を治して、然して後に自然に瞋と痴と、多瞋・多痴を治す。また無瞋・無痴の善根を以て対治して、しかして後にまたその余を治することを例して以て知るべし。「若欲学解」等とは、学は初心・究竟の一切の諸位に通ずるべきことを明かす。「若欲学行」等とは、行は須く有縁の法に依るべきことを明かす。有縁の法とは意は念仏に在り。SYOZEN2-282,283/TAI5-414,415


 ◎又白一切往生人等。今更為行者説一譬喩守護信心。以防外邪異見之難。何者是也。譬如有人欲向西行。百千之里。忽然中路見有二河。一是火河在南。二是水河在北。二河各闊百歩。各深無底。南北無辺。正水火中間有一白道。可闊四五寸許。此道従東岸至西岸。亦長百歩。其水波浪交過湿道。其火焔亦来焼道。水火相交常無休息。此人既至空曠迥処。更無人物。多有群賊悪獣。見此人単独。競来欲殺此人。怖死直走向西。忽然見此大河。即自念言。此河南北不見辺畔。中間見一白道。極是狭少。二岸相去雖近。何由可行。今日定死不疑。正欲到回。群賊悪獣漸漸来逼。正欲南北避走。悪獣毒虫競来向我。正欲向西尋道而去。復恐堕此水火二河。当時惶怖不復可言。即自思念。我今回亦死。住亦死。去亦死。一種不勉死者。我寧尋此道向前而去。既有此道。必応可度。作此念時。東岸忽聞人勧声。仁者但決定尋此道行。必無死難。若住即死。又西岸上有人喚言。汝一心正念直来。我能護汝。衆不畏堕於水火之難。此人既聞此遣彼喚。即自正当身心。決定尋道直進。不生疑怯退心。或行一分二分。東岸群賊等喚言。仁者回来。此道嶮悪不得過。必死不疑。我等衆無悪心相向。此人雖聞喚声亦不回顧。一心直進念道而行。須臾即到西岸永離諸難。善友相見慶楽無已。此是喩也。
 ◎(散善義)また一切の往生人等に白さく、今更に行者のために、一の譬喩を説きて信心を守護し、もって外邪異見の難を防がん。何者かこれや。譬えば、人ありて西に向かいて行かんと欲するに百千の里あらん、忽然として中路に二河あり。一にはこれ火の河、南にあり。二にはこれ水の河、北にあり。二河おのおの闊さ百歩、おのおの深くして底なし、南北に辺なし。正しく水火の中間に、一の白道あり、闊さ四五寸許〈ばかり〉なるべし。この道、東の岸より西の岸に至ること、また長さ百歩、その水の波浪交わり過ぎて道を湿す。その火焔また来りて道を焼く。水火あい交わりて常にして休息し。この人すでに空曠の迥〈はるか〉なる処に至るに、さらに人物なし。多く群賊悪獣のみありて、この人の単独なるを見て、競い来りてこの人を殺さんと欲す。死を怖れて直ちに走りて西に向かうに、忽然としてこの大河を見る。すなわち自ら念言すらく、この河、南北、辺畔〈ほとり〉を見ず、中間に一つの白道を見る、きわめてこれ狭少なり。二つの岸、あい去ること近しといえども、何に由りてか行くべき。今日定んで死せんこと疑わず。正しく到り回らんと欲すれば、群賊悪獣漸漸に来り逼む。正に南北に避り走らんと欲すれば、悪獣毒虫競い来りて我に向かう。正しく西に向かいて道を尋ねて去かんと欲すれば、また恐らくはこの水火の二河に堕せんことを。当時〈そのとき〉に惶怖すること、また言うべからず。すなわち自ら思念すらく、我今回らばまた死せん、住まらばまた死せん、去かばまた死せん。一種として死を勉れざれば、我寧ろ〈やすく〉この道を尋ねて前に向こうてしかも去かんとするに、すでにこの道あり、必ず度すべしと。この念を作す時、東の岸にたちまちに人の勧むる声を聞く。仁者〈なんじ〉ただ決定してこの道を尋ねて行け、必ず死の難なけん。もし住まらばすなわち死せんと。また西の岸の上に人ありて喚うて言わく、汝一心に正念にして直ちに来れ、我よく汝を護らん。すべて水火の難に堕せんことを畏れざれと。この人すでに此に遣わし彼に喚うを聞きて、すなわち自ら身心に正当にして、決定して道を尋ねて直ちに進みて、疑怯退心を生ぜず。あるいは行くこと一分二分するに、東の岸の群賊等喚うて言わく、仁者回り来れ。この道嶮悪なり。過ぐることを得じ。必ず死せんこと疑わず。我等すべて悪心あってあい向うことなしと。この人、喚う声を聞くといえどもまた回顧〈かえりみ〉ず。一心に直ちに進みて道を念じて行けば、須臾にすなわち西の岸に到りて永く諸難を離る。善友あい見て慶楽すること已むことなからんがごとし。これはこれ喩なり。SIN:SYOZEN2-55,56/-HON-219,220,HOU-329,330-

 ◎次合喩者。言東岸者。即喩此娑婆之火宅也。言西岸者。即喩極楽宝国也。言群賊悪獣詐親者。即喩衆生六根六識六塵五陰四大也。言無人空迥沢者。即喩常随悪友不値真善知識也。言水火二河者。即喩衆生貪愛如水。瞋憎如火也。言中間白道四五寸者。即喩衆生貪瞋煩悩中能生清浄願往生心也。乃由貪瞋強故即喩如水火。善心微故喩如白道。又水波常湿道者。即喩愛心常起能染汚善心也。又火焔常焼道者。即喩瞋嫌之心能焼功徳之法財也。言人行道上直向西者。即喩回諸行業直向西方也。言東岸聞人声勧遣尋道直西進者。即喩釈迦已滅。後人不見。由有教法可尋。即喩之如声也。言或行一分二分群賊等喚回者。即喩別解別行悪見人等妄説見解迭相惑乱及自造罪退失也。言西岸上有人喚者。即喩弥陀願意也。言須臾到西岸善友相見喜者。即喩衆生久沈生死。曠劫淪回迷倒。自纒無由解脱。仰蒙釈迦発遣指向西方。又籍弥陀悲心招喚。今信順二尊之意。不顧水火二河。念念無遺。乗彼願力之道。捨命已後得生彼国。与仏相見慶喜何極也。
 ◎(散善義)次に喩を合せば、東の岸というは、すなわちこの娑婆の火宅に喩うるなり。西の岸というは、すなわち極楽宝国に喩うるなり。群賊悪獣詐り親むというは、すなわち衆生の六根・六識・六塵・五陰・四大に喩うるなり。無人空迥の沢というは、すなわち常に悪友に随いて、真の善知識に値わざるに喩うるなり。水火の二河というは、すなわち衆生の貪愛は水のごとし、瞋憎は火のごとしと喩うるなり。中間の白道四五寸というは、すなわち衆生の貪瞋煩悩の中に、よく清浄願往生の心を生ぜしむるに喩うるなり。いまし貪瞋強きによるがゆえに、すなわち水火のごとしと喩う。善心微なるがゆえに、白道のごとしと喩うるなり。また、水波常に道を湿すとは、すなわち愛心常に起こりてよく善心を染汚するに喩うるなり。また、火焔常に道を焼くとは、すなわち瞋嫌の心よく功徳の法財を焼くに喩うるなり。人、道上を行きて直ちに西に向かうというは、すなわちもろもろの行業を回して直ちに西方に向かうるに喩うるなり。東の岸に人の声ありて勧め遣わすを聞きて、道を尋ねて直ちに西に進むというは、すなわち釈迦すでに滅したまいて後の人、見たてまつらざれども、なお教法ありて尋ぬべきに喩う、すなわちこれを声のごとしと喩うるなり。あるいは行くこと一分二分するに、群賊等喚び回〈かえ〉すというは、すなわち別解・別行・悪見の人等、妄りに見解を説きて、迭いにあい惑乱し、および自ら罪を造りて退失すと喩うるなり。西の岸の上に人ありて喚うというは、すなわち弥陀の願意に喩うるなり。須臾に西の岸に到りて善友あい見て喜ぶというは、すなわち衆生久しく生死に沈んで、曠劫より輪回し迷倒して、自ら纏うて解脱するに由なし、仰いで釈迦発遣して指えて西方に向かえたまうことを蒙り、また弥陀の悲心招喚したまうに籍って、今二尊の意〈おんこころ〉に信順して、水火二河を顧みず、念念に遺るることなく、かの願力の道に乗じて、捨命已後かの国に生ずることを得て、仏とあい見て慶喜すること何ぞ極まらんと喩うるなり。SIN:SYOZEN2-56,57/-HON-220,221,HOU-330,331-

 〇又白以下。是明譬喩。言此譬喩。或云二河譬喩。或云守護心釈。於中有二。初標。次説。説中亦三。喩合結也。一一文義不能具述。SYOZEN2-283/TAI5-442
 〇「又白」以下は、これ譬喩を明かす。この譬喩をいうに、或いは二河の譬喩といい、或いは守護心の釈という。中に於いて二あり。初に標、次に説なり。説の中にまた三あり。喩と合と結となり。一一の文義は具に述ぶること能わず。SYOZEN2-283/TAI5-442


 ◎又一切行者行住座臥三業所修。無問昼夜時節。常作此解常作此想。故名回向発願心。
 ◎(散善義)また一切の行者、行住座臥に、三業の所修、昼夜の時節を問うことなく、常にこの解を作し常にこの想いを作すがゆえに、回向発願心と名づく。SIN:SYOZEN2-57/-HON-221,HOU-331-

 ◎又言回向者。生彼国已還起大悲。回入生死教化衆生。亦名回向也。
 ◎(散善義)また回向というは、かの国に生じ已りて、還りて大悲を起こし、生死に回入して、衆生を教化するを、また回向と名づくるなり。SIN:SYOZEN2-57/-HON-221,HOU-331-

 〇又言等者。重釈回向。斯乃還相回向意也。SYOZEN2-283/TAI5-503
 〇「又言」等とは、重ねて回向を釈す。これ乃ち還相回向の意なり。SYOZEN2-283/TAI5-503


 ◎三心既具無行不成。願行既成若不生者。無有是処也。又此三心亦通摂定善之義。応知。已上。
 ◎(散善義)三心すでに具すれば行として成ぜざるなし、願行すでに成じてもし生まれずは、この処〈ことわり〉あることなけんとなり。またこの三心、また定善の義を通摂すと。知るべしと。已上。SIN:SYOZEN2-57/-HON-221,HOU-331-

 〇三心已下是総結文。此有二意。一云。三心広亙万善諸行義也。依之言之。若具三心諸行皆成。選択集云。総而言之通諸行法。即其意也。一云。今此三心是約念仏。一往雖有通諸行辺。拠実論之。自力諸行作業難成。輙不可云願行既成。又得往生偏是他力念仏之利益也。若約諸行。即不可云若不生者。故今所言具三心者。即成正業必得往益之宗旨也。同次句云。別而言之在念仏行是其義也。問。二義之中。以何為正。答。依当流意。後義為本。又此等者。若依広通諸行義者。顕不限散亦通定善。凡於三心有其二意。初義是約定散諸機自力各別発心之義。後義是約如来利他他力成就仏願利益。三心大綱只示一端。SYOZEN2-283/TAI5-507
 〇「三心」已下はこれ総結の文なり。これに二の意あり。一には云わく、三心広く万善諸行に亙る義なり。これに依りて、これを言わば、もし三心を具すれば諸行皆成ず。『選択集』に「総じてこれを言えば、諸の行法に通ず」といえる、即ちその意なり。一に云わく、今この三心は、これ念仏に約す。一往、諸行に通ずる辺ありといえども、実に拠りてこれを論ずれば、自力の諸行は作業成じ難し。輙く願行既に成ずというべからず。また往生を得ることは、偏にこれ他力念仏の利益なり。もし諸行に約せば、即ち若不生者というべからず。故に今いう所は、三心を具すれば、即ち正業を成じて必ず往益を得る宗旨なり。同じき次の句に「別してこれをいえば、念仏の行に在り」といえる、これその義なり。問う。二義の中に、何を以てか正と為すや。答う。当流の意に依らば、後の義を本と為す。「又此」等とは、もし広く諸行に通ずる義に依らば、散に限らず、また定善に通ずることを顕わす。凡そ三心に於いて、その二の意あり。初の義はこれ定散諸機自力各別発心の義に約す。後の義はこれ如来利他他力成就仏願の利益に約す。三心の大綱、ただ一端を示す。SYOZEN2-283/TAI5-507


 ◎又云。敬白一切往生知識等。大須慚愧。釈迦如来実是慈悲父母。種種方便発起我等無上信心。已上。
 ◎(般舟讃)また云わく、敬いて一切往生の知識等に白さく、大きに須らく慚愧すべし。釈迦如来は実にこれ慈悲の父母なり、種種の方便をもって我等が無上の信心を発起せしめたまえりと。已上。SIN:SYOZEN2-57/HON-221,222,HOU-331,332

 〇次所引文。敬白等者。般舟讃序最初文也。所言三心。此非凡夫発起之心。偏在如来利他善巧。又依釈尊種種方便。発起我等無上信心。是則東岸西岸発遣招喚義也。為顕此義今引此文。SYOZEN2-283/TAI5-510
 〇次の所引の文「敬白」等とは、『般舟讃』の序の最初の文なり。いう所の三心は、これ凡夫発起の心にあらず。偏に如来利他の善巧に在り。また釈尊種種の方便に依りて、我等が無上の信心を発起す。これ則ち東岸・西岸、発遣・招喚の義なり。この義を顕わさんが為に今この文を引く。SYOZEN2-283/TAI5-510


 ◎貞元新定釈教目録巻第十一云。集諸経礼懺儀。大唐西崇福寺沙門智昇撰也。準〈准〉貞元十五年十月二十三日勘編入云云。懺儀上巻智昇依諸経造懺儀。中依観経引善導礼懺日中時礼。下巻者比丘善導集記云云。依彼懺儀鈔要文云。二者深心。即是真実信心。信知自身是具足煩悩凡夫。善根薄少流転三界不出火宅。今信知弥陀本弘誓願及称名号下至十声一声〈十声聞〉等定得往生。及至一念無有疑心。故名深心。乃至。其有得聞彼弥陀仏名号。歓喜至一心。皆当得生彼。抄出。
 ◎『貞元の新定釈教目録』巻の第十一に云わく、『集諸経礼懴儀』上下、大唐西崇福寺の沙門智昇の撰なり。貞元十五年十月二十三日に準えて勘編して入ると云々。『懴儀』の上巻は、智昇、諸経に依りて『懴儀』を造る中に、『観経』に依りては善導の『礼懴』の日中の時の礼を引けり。下巻は比丘善導の集記と云々。かの『懴儀』に依りて要文を鈔して云わく〈鈔=ぬく、えらぶとも〉、二には深心、すなわちこれ真実の信心なり。自身はこれ煩悩を具足せる凡夫、善根薄少にして三界に流転して火宅を出でずと信知す。今、弥陀の本弘誓願は、名号を称すること下至十声一声等に及ぶまで、定んで往生を得しむと信知して、一念に至るに及ぶまで、疑心あることなし。故に深心と名づく。乃至。それ、かの弥陀仏の名号を聞くことを得ることありて、歓喜して一心を至せば、みな当に彼に生ずることを得べしと。抄出。SIN:SYOZEN2-57,58/HON-222,HOU-332

 〇次所引文。問。上第二巻已引今文。何重出耶。答。雖為同文。所用既異。是故重引。所以前巻就行引之。及称名号下至十声一声等也。当巻之中就信引之。或云即是真実信心。或云信知弥陀本弘誓願。或云乃至一念無有疑心等也。凡如此鈔。或経釈文。成譬喩等。就其所用重所引用。非無其例。如彼要集住水宝珠之譬。雖有広略。再以出之。又観察門総相雑略両観。同挙光明遍照十方世界念仏衆生摂取不捨之文。私釈同載七百五倶胝六百万光明之計校等。是也。其有得聞等者。大経流通文意。歓喜至一念者。是顕信心貌也。是故此次出之。SYOZEN2-283,284/TAI5-518
 〇次の所引の文、問う、上の第二巻に已に今の文を引く。何ぞ重ねて出だすや。答う。同文たりといえども、所用は既に異なり、この故に重ねて引く。所以に前の巻には行に就きてこれを引く。「及称名号下至十声一声等」なり。当巻の中には信に就きてこれを引く。或いは「即是真実信心」といい、或いは「信知弥陀本弘誓願」といい、或いは「乃至一念無有疑心」等というなり。凡そこの鈔の如し。或いは経釈の文、成いは譬喩等、その所用に就きて重ねて引用する所、その例なきにあらず。彼の『要集』の住水宝珠の譬は、広略ありといえども、再び以てこれを出だすが如し。また観察門の総相・雑略の両観に、同じく「光明遍照十方世界念仏衆生摂取不捨」の文を挙げて、私の釈に同じく「七百五倶胝六百万光明」の計校を載する等、これなり。「其有得聞」等とは、『大経』流通の文の意なり。「歓喜至一念」とは、これ信心を顕わす貌なり。この故にこの次にこれを出だす。SYOZEN2-283,284/TAI5-518


 ◎往生要集云。入法界品言。譬如有人得不可壊薬。一切怨敵不得其便。菩薩摩訶薩亦復如是。得菩提心不可壊法薬。一切煩悩諸魔怨敵所不能壊。譬如有人得住水宝珠瓔珞其身。入深水中而不没溺。得菩提心住水宝珠。入生死海而不沈没。譬如金剛於百千劫処於水中。而爛壊亦無異変。菩提之心亦復如是。於無量劫処生死中諸煩悩業。不能断滅亦無損減。已上。
 ◎『往生要集』に云わく、「入法界品」に言わく、たとえば人ありて不可壊の薬を得れば、一切の怨敵その便りを得ざるがごとし。菩薩摩訶薩もまたかくのごとし。菩提心不可壊の法薬を得れば、一切の煩悩、諸魔の怨敵、壊ることあたわざるところなり。たとえば人ありて住水宝珠を得てその身に瓔珞とすれば、深き水中に入りて没溺せざるがごとし。菩提心の住水宝珠を得れば、生死海に入りて沈没せず。たとえば金剛は百千劫において水中に処するも、爛壊しまた異変なきがごとし。菩提の心もまたかくのごとし。無量劫において生死の中、もろもろの煩悩業に処するに、断滅することあたわず、また損減することなしと。已上。SIN:SYOZEN2-58/HON-222,HOU-332

 〇次要集文。上巻釈也。大文第四正修念仏作願門中。明菩提心行相文也。前後所挙有多譬喩。今出其二。前巻所出波利質多樹之譬喩。即其類也。SYOZEN2-284/TAI5-532
 〇次に『要集』の文、上巻の釈なり。大文第四正修念仏作願門の中に菩提心の行相を明かす文なり。前後に挙ぐる所、多くの譬喩あり。今はその二を出だす。前の巻に出だす所の波利質多樹の譬喩は即ちその類なり。SYOZEN2-284/TAI5-532


 ◎又云。我亦在彼摂取之中。煩悩障眼雖不能見。大悲無倦常照我身。已上。
 ◎(往生要集)また云わく、我またかの摂取の中にり。煩悩、眼を障えて見たてまつるにあたわずといえども、大悲惓きことなくして常に我が身を照らしたまうと。已上。SIN:SYOZEN2-58/HON-222,223,HOU-333

 〇次所引釈。中巻初文。同観察門分以為三。一別相観。二総相観。三雑略観。今釈第三雑略観文。依真身。観光明遍照十方世界念仏衆生摂取不捨之意釈之。経文雖在定善文中。是顕称名念仏利益。彼疏釈云。唯標専念名号得生。広引三経成名号義。今釈又同。此文雖在観察門中。明念仏益。準彼応知。SYOZEN2-284/TAI5-540
 〇次の所引の釈は、中巻の初の文なり。同じき観察門に分けて以て三と為す。一には別相観、二には総相観、三には雑略観なり。今の釈は第三の雑略観の文なり。真身観の「光明遍照十方世界念仏衆生摂取不捨」の意に依りて、これを釈す。経文は定善の文の中に在りといえども、これ称名念仏の利益を顕わす。彼の疏の釈に「ただ専ら名号を念じて生ずることを得と標せり」といいて、広く三経を引きて名号の義を成ず。今の釈また同じ。この文は観察門の中に在りといえども、念仏の益を明かすこと、彼に準じて知るべし。SYOZEN2-284/TAI5-540


 ◎爾者。若行若信。無有一事非阿弥陀如来清浄願心之所回向成就。非無因他因有也。可知。
 ◎(御自釈)しかれば、もしは行、もしは信、一事として阿弥陀如来の清浄願心の回向成就したまうところにあらざることあることなし。因なくして他の因のあるにはあらざるなりと。知るべし。SIN:J:SYOZEN2-58/HON-223,HOU-333

 〇次私御釈。爾者等者。総結上来諸文。皆顕如来回向成就義耳。SYOZEN2-284/TAI5-545
 〇次に私の御釈なり。「爾者」等とは、総じて上来の諸文を結して、みな如来回向成就の義を顕わすらくのみ。SYOZEN2-284/TAI5-545