六要鈔会本 第4巻の4(7の内) 信の巻 三心一心問答 三心別相問答 至心釈・信楽釈 引文『大無量寿経』『如来会』『涅槃経』 『華厳経』・善導『観経義』・曇鸞『論註』 |
◎=親鸞聖人『教行信証』の文。 〇=存覚『六要抄』の文 |
『教行信証六要鈔会本』 巻四之四 |
◎問。如来本願已発至心信楽欲生誓。何以故論主言一心也。 ◎(御自釈)問う。如来の本願、すでに至心・信楽・欲生の誓いを発したまえり。何をもってのゆえに、論主、一心と言うや。SIN:J:SYOZEN2-59/-HON-223,HOU-333- 〇次有二重問答之中。初問答者。広挙字訓明成三心一心之義。字訓未悉勘得本文。博覧宏才可仰可信。SYOZEN2-284/TAI6-1 〇次に二重の問答ある中に、初の問答は広く字訓を挙げて三心一心の之義を成ずることを明かす。字訓は未だ悉く本文を勘得せず。博覧の宏才、仰ぐべし、信ずべし。SYOZEN2-284/TAI6-1 ◎答。愚鈍衆生解了為令易。弥陀如来雖発三心。涅槃真因唯以信心。是故論主合三為一歟。 ◎(御自釈)答う。愚鈍の衆生、解了易からしめんがために、弥陀如来、三心を発したまうといえども、涅槃の真因はただ信心をもってす。このゆえに論主、三を合して一と為るか。SIN:J:SYOZEN2-59/-HON-223,HOU-333- ◎私[キ02]三心字訓。三即合一。其意何者。言至心者。至者即是真也・実也・誠也。心者即是種也・実也。言信楽者。信者即是真也・実也・誠也・満也・極也・成也・用也・重也・審也・験也・宣也・忠也。楽者即是欲也・願也・愛也・悦也・歓也・喜也・賀也・慶也。言欲生者。欲者即是願也・楽也・覚也・知也。生者即是成也・作也〈作=則羅反、則落反、蔵落反、為也、起也、行也、始也、役也、生也〉・為也・興也。 ◎(御自釈)私に三心の字訓をうかがうに、三はすなわち一なるべし。その意何んとなれば、至心と言うは、至とは、すなわちこれ真なり、実なり、誠なり。心とは、すなわちこれ種なり、実なり。信楽と言うは、信は、すなわちこれ真なり、実なり、誠なり、満なり、極なり、成なり、用なり、重なり、審なり、験〈しるし〉なり、宣なり、忠〈こころざし〉なり。楽とは、すなわちこれ欲なり、願なり、愛〈よみす〉なり、悦なり、歓なり、喜なり、賀なり、慶なり。欲生と言うは、欲は、すなわちこれ願なり、楽なり、覚なり、知なり。生とは、すなわちこれ成なり、作なり〈作=則羅反、則落反、蔵落反、為なり、起なり、行なり、始なり、役なり、生なり〉、為〈しわざ〉なり、興なり。SIN:J:-HON-223,224,HOU-333,334- ◎明知。至心即是真実誠種之心。故疑蓋無雑也。信楽即是真実誠満之心。極成用重之心。審験宣忠之心。欲願愛悦之心。歓喜賀慶之心。故疑蓋無雑也。欲生即是願楽覚知之心。成作為興之心。大悲回向之心。故疑蓋無雑也。 ◎(御自釈)明らかに知りぬ、至心はすなわちこれ真実誠種の心なるがゆえに、疑蓋雑わることなきなり。信楽はすなわちこれ真実誠満の心なり、極成用重の心なり、審験宣忠の心なり、欲願愛悦の心なり、歓喜賀慶の心なるがゆえに、疑蓋雑わることなきなり。欲生はすなわちこれ願楽覚知の心なり、成作為興の心なり、大悲回向の心なる。ゆえに疑蓋雑わることなきなり。SIN:J:SYOZEN2-59/-HON-224,HOU-334 ◎今按三心字訓。真実心而虚仮無雑。正直心而邪偽無雑。真知。疑蓋無間雑故。是名信楽。信楽即是一心。一心即是真実信心。是故論主建言一心也。応知。 ◎(御自釈)今三心の字訓を按ずるに、真実の心にして虚仮雑わることなし、正直の心にして邪偽雑わることなし。真に知りぬ、疑蓋間雑することなきがゆえに、これを信楽と名づく。信楽はすなわちこれ一心なり。一心はすなわちこれ真実信心なり。このゆえに論主建めに一心と言えるなりと。知るべし。SIN:J:SYOZEN2-59/-HON-224,HOU-334 ◎又問。如字訓論主意以三為一義。其理雖可然。為愚悪衆生阿弥陀如来已発三心願。云何思念也。 ◎(御自釈)また問う。字訓のごとき、論主の意、三をもって一とせる義、その理しかるべしといえども、愚悪の衆生のために、阿弥陀如来すでに三心の願を発したまえり、云何が思念せんや。SIN:J:SYOZEN2-59/HON-224,HOU-335 〇次問答者。明此三心更非凡夫発起之心。如来回向成就之故。得此信心。是故名為真実心也。SYOZEN2-285/TAI6-76 〇次の問答は、この三心は更に凡夫発起の心にあらず、如来の回向成就の故にこの信心を得、この故に名づけて真実心と為すことを明かすなり。SYOZEN2-285/TAI6-76 ◎答。仏意難測。雖然竊推斯心。一切群生海。自従無始已来。乃至今日至今時。穢悪汚染無清浄心。虚仮諂偽無真実心。 ◎(御自釈)答う。仏意測り難し、しかりといえども竊かにこの心を推するに、一切の群生海は無始よりこのかた、乃至、今日今時に至るまで、穢悪汚染にして、清浄の心なし。虚仮諂偽にして真実の心なし。SIN:J:SYOZEN2-59,60/HON-224,225,HOU-335 ◎是以如来悲憫一切苦悩衆生海。於不可思議兆載永劫行菩薩行時。三業所修。一念一刹那。無不清浄。無不真心。如来以清浄真心成就円融無碍不可思議不可称不可説至徳。 ◎(御自釈)ここをもって如来、一切苦悩の衆生海を悲憫して、不可思議兆載永劫において、菩薩の行を行じたまいし時、三業の所修、一念・一刹那も清浄ならざることなし、真心ならざることなし。如来、清浄の真心をもって、円融無碍・不可思議・不可称・不可説の至徳を成就したまえり。SIN:J:SYOZEN2-60/HON-225,HOU-335 ◎以如来至心回施諸有一切煩悩悪業邪智群生海。則是彰利他真心。故疑蓋無雑。 ◎(御自釈)如来の至心をもって、諸有の一切煩悩・悪業・邪智の群生海に回施したまえり。すなわちこれ利他の真心を彰す。故に、疑蓋雑わることなし。SIN:J:SYOZEN2-60/HON-225,HOU-335 ◎斯至心則是至徳尊号為其体也。 ◎(御自釈)この至心はすなわちこれ至徳の尊号をその体とせるなり。SIN:J:SYOZEN2-60/HON-225,HOU-335 ◎是以大経言。不生欲覚瞋覚害覚。不超欲想瞋想害想。不著色声香味之法。忍力成就不計衆苦。少欲知足無染恚癡。三昧常寂智慧無碍。無有虚偽諂曲之心。和顔愛語先意承問。勇猛精進志願無倦。専求清白之法。以恵利群生。恭敬三宝奉事師長。以大荘厳具足衆行。令諸衆生功徳成就。已上。 ◎ここをもって『大経』に言わく、欲覚・瞋覚・害覚を生ぜず、欲想・瞋想・害想を起こさず。色・声・香・味の法に着せず。忍力成就して衆苦を計らず。少欲知足にして、染・恚・痴なし。三昧常寂にして、智慧無碍なり。虚偽諂曲の心あることなし。和顔愛語にして、意を先にして承問す。勇猛精進にして、志願惓むことなし。専ら清白の法を求めて、もって群生を恵利す。三宝を恭敬し師長に奉事して、大荘厳をもって衆行を具足して、もろもろの衆生をして功徳成就せしむとのたまえり。已上。SIN:SYOZEN2-60/HON-225,HOU-335,336 〇次答言下。解至心中所引大経上巻文者。是説法蔵菩薩因中所修之行。皆為衆生得脱之因大悲回向成就之相。不生等者。明離煩悩。就此有二。初明自行。次明利他。明自行中又有四事。今文以下六句。明離煩悩因縁。不生等者。浄影師云。覚有八種。如地持説。一是欲覚。思財思色。二是瞋覚。亦名恚覚。思欲瞋他。三者害覚。亦名悩覚。於他人所念欲加害。四者親覚。追憶親縁。五国土覚。念世安危。六不死覚。謂身不死広集資生。七族姓覚。念氏族下。八軽誣覚。念陵他人。此八種中。初三過重。為是偏挙。已上。欲想等者。又同師云。不起欲想瞋想害想重復顕之。已上。憬興師云。今即三覚之因如次。三想。取境分斉方生欲等故。然即不貪名利故不生欲覚不悩衆生故不生瞋覚。不損物命故不生害覚。三覚不生。必絶三想。已上。不著等者。又同師云。内因既離外縁斯止。故云不著。已上。忍力成就以下二句。明法対治。同師云。忍力者。安受苦耐怨害察法忍也。以此忍力能忍損悩。故離三覚三想。已上。少欲等者。法位師云。於未来不多求名少欲。於現在希望満名知足。已上。無染恚癡者。明離煩悩体。煩悩体者。即是三毒。謂貪瞋癡。又婬怒癡。故法位云。無染恚癡者絶三毒。已上。又義寂師引般若云。菩薩遠離婬怒癡。婬怒癡不可見故是名遠離婬怒癡。已上。三昧等者。依浄影意。三昧約止。智慧約観。常寂云深無礙云勝。無有虚偽以下四句。是明化他。浄影憬興同約三業。故浄影云。無有諂曲明離心過。言和顔者明離身過。愛語先問明離口過。已上。勇猛之下明修善法。於中有三。初之四句。明無間修。恭敬三宝以下六句。明恭敬修。住空已下行成修礼。但今所引至恭敬修。除第三也。SYOZEN2-285,286/TAI6-109,110 〇次に答言の下に至心を解する中に引く所の『大経』上巻の文は、これ法蔵菩薩因中所修の行は、みな衆生得脱の因、大悲回向成就の相たることを説く。「不生」等とは、離煩悩を明かす。これに就きて二あり。初には自行を明かし、次には利他を明かす。自行を明かす中に、また四事あり。今の文以下の六句は、離煩悩の因縁を明かす。「不生」等とは、浄影師の云わく「覚に八種あり。『地持』に説くが如し。一にはこれ欲覚。財を思い色を思う。二にはこれ瞋覚、または恚覚と名づく。思い他を瞋んと欲す。三には害覚、また悩覚と名づく。他人の所に於いて、念じて害を加えんと欲す。四には親覚。追いて親縁を憶う。五には国土覚。世の安危を念う。六には不死覚。身死せじと謂いて、広く資生を集む。七には族姓覚。氏族の下〈くだ〉れることを念う。八には軽誣覚。他人を陵〈しの〉がんことを念う。この八種の中に、初の三の過は重し。これが為に偏に挙ぐ」已上。「欲想」等とは、また同じき師の云わく「不起欲想瞋想害想は重ねてまたこれを顕わす」已上。憬興師の云わく「今は即ち三覚の因は次の如く三想なり。境の分斉を取り、方に欲等を生ずるが故に。然も即ち名利を貪ぜざるが故に欲覚を生ぜず、衆生を悩まさざるが故に瞋覚を生ぜず、物の命を損せざるが故に害覚を生ぜず。三覚生ぜざれば、必ず三想を絶つ」已上。「不著」等とは、また同じき師の云わく「内因は既に離るれば、外縁はここに止む。故に不著という」已上。「忍力成就」以下の二句は法の対治を明かす。同じき師の云わく「忍力とは安受苦と耐怨害と察法忍となり。この忍力を以て能く損悩を忍ぶ。故に三覚と三想とを離る」已上。「少欲」等とは、法位師の云わく「未来に於いて多く求めざるを少欲と名づく。現在に於いて希望満つるを知足と名づく」已上。「無染恚痴」とは、煩悩の体を離るることを明かす。煩悩の体とは、即ちこれ三毒なり。謂く貪・瞋・痴、また婬・怒・痴なり。故に法位の云わく「無染恚痴とは、三毒を絶つ」已上。また義寂師は『般若』を引きて云わく「菩薩は婬・怒・痴を遠離す。婬・怒・痴は不可見の故に、これを婬・怒・痴を遠離すと名づく」已上。「三昧」等とは、浄影の意に依るに、三昧は止に約し、智慧は観に約す。常寂を深といい、無碍を勝という。「無有虚偽」以下の四句は、これ化他を明かす。浄影・憬興は同じく三業に約す。故に浄影の云わく「無有諂曲は心の過を離るることを明かす。和顔というは身の過を離るることを明かす。愛語先問は、口の過を離るることを明かす」已上。「勇猛」の下は善法を修することを明かす。中に於いて三あり。初の四句は無間修を明かす。「恭敬三宝」以下の六句は、恭敬修を明かす。「住空」已下は行成修礼、但し今の所引は恭敬修に至る。第三を除くなり。SYOZEN2-285,286/TAI6-109,110 ◎無量寿如来会言。仏告阿難。彼法処比丘。於世間自在王如来及諸天人魔梵沙門婆羅門等前。広発如是大弘誓。皆已成就。世間希有。発是願已。如実安住。種種功徳具足。荘厳威徳広大清浄仏土。修習如是菩薩行時。経於無量無数不可思議無有等等億那由他百千劫内。初未曽起貪瞋及癡欲害恚想。不起色声香味触想。於諸衆生常楽愛敬。猶如親属。乃至。其性調順無有暴悪。於諸有情常懐慈忍心。不詐諂亦無懈怠。善言策進求諸白法。普為群生勇猛無退。利益世間大願円満。略出。 ◎『無量寿如来会』に言わく、仏阿難に告げたまわく、かの法処比丘、世間自在王如来および、もろもろの天・人・魔・梵・沙門・婆羅門等の前にして、広くかくのごときの大弘誓を発して、みなすでに成就したまえり。世間に希有なり。この願を発し已りて実のごとく安住す。種種の功徳具足して、威徳広大清浄の仏土を荘厳せり。かくのごときの菩薩の行を修習せること、時、無量・無数・不可思議・無有等等・億那由他百千劫を経るうちに、初めより未だかつて貪・瞋および痴・欲・害・恚の想を起こさず。色・声・香・味・触の想を起こさず。もろもろの衆生において、常に愛敬を楽うこと、なお親属のごとし。乃至。その性調順にして暴悪あることなし。もろもろの有情において常に慈忍の心を懐いて詐諂せず、また懈怠なし。善言策進して〈策=むちうつ〉もろもろの白法を求めしめ、あまねく群生のために勇猛にして退することなく、世間を利益する、大願円満したまえり。略出。SIN:SYOZEN2-60,61/HON-226,HOU-336 〇次無量寿如来会文。文言聊異意同大経。言法処者。即是法蔵。世間自在王如来者。即世自在王仏是也。間字有無両経異耳。問。釈至心中。引両経文。是何意耶。答。如来至心為真実心。以其真心回施衆生。説仏因中真実心相。又説回施功徳之義。此等経説共以分明。故引之也。SYOZEN2-286/TAI6-124,125 〇次に『無量寿如来会』の文なり。文言は聊か異なれども、意は『大経』に同じ。「法処」というは、即ちこれ法蔵なり。「世間自在王如来」とは、即ち世自在王仏、これなり。「間」の字の有無、両経の異ならくのみ。問う。至心を釈する中に両経の文を引くは、これ何の意ぞや。答う。如来の至心を真実心と為す。その真心を以て衆生に回施す。仏の因中の真実心の相を説き、また回施功徳の義を説くこと、これ等の経説は共に以て分明なり。故にこれを引くなり。SYOZEN2-286/TAI6-124,125 ◎光明寺和尚云。欲回此雑毒之行求生彼仏浄土者。此必不可也。何以故。正由彼阿弥陀仏。因中行菩薩行時。乃至一念一刹那。三業所修皆是真実心中作。凡所施為趣求。亦皆真実。又真実有二種。一者自利真実。二者利他真実。乃至。不善三業必須真実心中捨。又若起善三業者。必須真実心中作。不簡内外明闇。皆須真実故。名至誠心。抄要。 ◎(散善義)光明寺の和尚の云わく、この雑毒の行を回して、かの仏の浄土に求生せんと欲う者は、これ必ず不可なり。何をもってのゆえに、正しくかの阿弥陀仏因中に菩薩の行を行じたまいし時、乃至一念一刹那も、三業の所修、みなこれ真実心の中に作したまえるに由りてなり。おおよそ施したまうところ趣求をなす、またみな真実なり。また真実に二種あり。一には自利真実、二には利他真実なり、と。乃至。不善の三業をば、必ず真実心の中に捨てたまえるを須いよ。また、もし善の三業を起こさば、必ず真実心の中に作したまえるを須いて、内外・明闇を簡ばず、みな真実を須いるがゆえに、至誠心と名づくと。抄要。SIN:SYOZEN2-61/HON-226,HOU-336,337 〇次所引文。観経義釈。問。今文在前。何重引耶。答。就其当要。不憚重引。子細述上。今又同前。況存広略。非無異歟。謂上所引三心総釈。不加私釈。今別自解三心之義。其中粗引本文之言。不及広博。是与前異。SYOZEN2-286/TAI6-134 〇次の所引の文は『観経義』の釈なり。問う。今の文は前に在り。何ぞ重ねて引くや。答う。その当要に就きて、重引を憚らざること、子細は上に述ぶ。今また前に同じ。況んや広略を存す。異なきにあらざるか。謂わく上の所引は三心の総釈にして、私の釈を加えず。今は別に自ら三心の義を解す。その中にほぼ本文の言を引きて広博に及ばず。これ前と異なり。SYOZEN2-286/TAI6-134 ◎爾者。大聖真言・宗師釈義。信知。斯心則是不可思議不可称不可説一乗大智願海回向利益他之真実心。是名至心。 ◎(御自釈)しかれば、大聖の真言・宗師の釈義、まことに知りぬ、この心はすなわちこれ不可思議・不可称・不可説、一乗大智願海の回向利益他の真実心なり。これを至心と名づく。SIN:J:SYOZEN2-61/HON-226,227,HOU-337 ◎既言真実。言真実者。 ◎(御自釈)すでに真実と言えり。真実というは、SIN:J:SYOZEN2-61/HON-227,HOU-337 ◎涅槃経言。実諦者一道清浄無有二也。言真実者即是如来。如来者即是真実。真実者即是虚空。虚空者即是真実。真実者即是仏性。仏性者即是真実。已上。 ◎『涅槃経』に言わく、実諦は一道清浄にして二あることなきなり。真実というは、すなわちこれ如来なり。如来はすなわちこれ真実なり。真実はすなわちこれ虚空なり。虚空はすなわちこれ真実なり。真実はすなわちこれ仏性なり。仏性はすなわちこれ真実なりと。已上。SIN:SYOZEN2-61/HON-227,HOU-337 〇問。引涅槃経証何事耶。答。真実心者。如来之意不関衆生。為証此義引此文也。SYOZEN2-286/TAI6-141 〇問う。『涅槃経』を引くは何の事を証するぞや。答う。真実心とは、如来の意、衆生に関わらず、この義を証せんが為にこの文を引くなり。SYOZEN2-286/TAI6-141 ◎釈云不簡内外明闇内外者。内者即是出世。外者即是世間。明闇者。明者即是出世。闇者即是世間。又復明者即智明。闇者即無明也。 ◎(御自釈)『釈(散善義)』に、不簡内外明闇と云えり。内外とは、内とはすなわちこれ出世なり、外とはすなわちこれ世間なり。明闇は、明はすなわちこれ出世なり、闇はすなわちこれ世間なり。また明はすなわち智明なり、闇はすなわち無明なり。SIN:J:SYOZEN2-61/HON-227,HOU-337 ◎涅槃経言。闇即世間。明即出世。闇即無明。明即智明。已上。 ◎『涅槃経』に言わく、闇はすなわち世間なり、明はすなわち出世なり。闇はすなわち無明なり、明はすなわち智明なりと。已上。SIN:SYOZEN2-61,62/HON-227,HOU-337,338 〇釈云不簡明闇等者。是又同依涅槃経説。解其内外明闇之義。弥陀妙果。無上涅槃。念仏即是涅槃之門。是故雖説聖道教理。悉有仏性如来常住甚深極理。唯是弥陀如来果徳。聖人賢慮併存此義。仰可依信。勿懐疑慮。SYOZEN2-286/TAI6-148 〇「釈云不簡明闇」等とは、これまた同じく『涅槃経』の説に依りて、その内外明闇の義を解す。弥陀の妙果は無上涅槃、念仏は即ちこれ涅槃の門なり。この故に聖道の教理を説くといえども、悉有仏性、如来常住は甚深の極理、ただこれ弥陀如来の果徳なり。聖人の賢慮、併しながらこの義を存したもう。仰いで依信すべし。疑慮を懐くことなかれ。SYOZEN2-286/TAI6-148 ◎次言信楽者。則是如来満足大悲円融無礙信心海。是故疑蓋無有間雑。故名信楽。即以利他回向之至心為信楽体也。然従無始已来。一切群生海。流転無明海。沈迷諸有輪。繋縛衆苦輪。無清浄信楽。法爾無真実信楽。是以無上功徳難[ハ01]値遇。最勝浄信難[ハ01]獲得。一切凡小一切時中。貪愛之心常能汚善心。瞋憎之心常能焼法財。急作急修如灸頭然。衆名雑毒雑修之善。亦名虚仮諂偽之行。不名真実業也。以此虚仮雑毒之善。欲生無量光明土。此必不可也。何以故。正由如来行菩薩行時。三業所修。乃至一念一刹那。疑蓋無雑。斯心者即如来大悲心故。必成報土正定之因。如来悲憐苦悩群生海。以無礙広大浄信回施諸有海。是名利他真実信心。 ◎(御自釈)次に、信楽というは、すなわちこれ如来の満足大悲、円融無碍の信心海なり。このゆえに疑蓋間雑あることなし、故に信楽と名づく。すなわち利他回向の至心をもって、信楽の体とするなり。しかるに無始よりこのかた、一切群生海、無明海に流転し、諸有輪に沈迷し、衆苦輪に繋縛せられて、清浄の信楽なし。法爾として真実の信楽なし。ここをもって無上功徳、値遇しがたく、最勝の浄信、獲得することかたし。一切の凡小、一切時の中に、貪愛の心常によく善心を汚し、瞋憎の心常によく法財を焼く。急作急修して頭燃を灸うがごとくすれども、すべて雑毒雑修の善と名づく。また虚仮諂偽の行と名づく。真実の業と名づけざるなり。この虚仮雑毒の善をもって、無量光明土に生ぜんと欲するは、これ必ず不可なり。何をもってのゆえに、正しく如来、菩薩の行を行じたまえる時、三業の所修、乃至一念・一刹那も疑蓋雑わることなきに由ってなり。この心はすなわち如来の大悲心なるがゆえに、必ず報土の正定の因と成る。如来、苦悩の群生海を悲憐したまいて、無碍広大の浄信をもって諸有海に回施したまえり。これを利他真実の信心と名づく。SIN:J:SYOZEN2-62/HON-227,228,HOU-338,339 〇次信楽中。即以利他回向等者。問。至心信楽欲生三信其相各別。何釈至心為信楽体。又貪愛之心常能等者是回向心之譬喩也。又下或云急作急修。或云衆名雑毒等者。至誠心釈。何猥混乱三心解釈。答。開為三信。合為一心。仍有三心一異之義。是故為標三心即是一心之義。故綺三信彼此之文所被釈也。SYOZEN2-287/TAI6-153 〇次に信楽の中に、「即以利他回向」等とは、問う、至心・信楽・欲生の三信、その相各別なり。何ぞ至心を釈して信楽の体と為すや。また「貪愛之心常能」等とは、これ回向心の譬喩なり。また下に或いは「急作急修」といい、或いは「衆名雑毒」等というは、至誠心の釈なり。何ぞ猥しく三心の解釈を混乱するや。答う。開すれば三信たり。合すれば一心たり。仍て三心一異の義あり。この故に三心即是一心なる義を標せんが為に、ことさらに三信彼此の文を綺〈いろえ〉て釈せらる所なり。SYOZEN2-287/TAI6-153 ◎本願信心願成就文。 ◎本願信心の願成就の文、SIN:J:SYOZEN2-62/HON-228,HOU-339 ◎経言。諸有衆生聞其名号信心歓喜乃至一念。已上。 ◎(大経)経に言わく、諸有の衆生、その名号を聞きて信心歓喜せんこと、乃至一念せんと。已上。SIN:SIN:SYOZEN2-62/HON-228,HOU-339 ◎又言。他方仏国所有衆生。聞無量寿如来名号。能発一念浄信歓喜愛楽。已上。 ◎(如来会)また言わく、他方仏国の所有の衆生、無量寿如来の名号を聞きて、よく一念の浄信を発して歓喜愛楽せんと。已上。SIN:SYOZEN2-62/HON-229,HOU-339 〇次之所引二文之中。後文雖為異訳経説。如前巻述。依梵本同言又云歟。SYOZEN2-287/TAI6-176 〇次の所引の二文の中に、後の文は異訳の経説たりといえども、前の巻に述ぶるが如く、梵本同じきに依りて「又云」というか。SYOZEN2-287/TAI6-176 ◎涅槃経言。善男子。大慈大悲名為仏性。何以故。大慈大悲常随菩薩。如影随形。一切衆生畢定当得大慈大悲。是故説言一切衆生悉有仏性。大慈大悲者名為仏性。仏性者名為如来。大喜大捨名為仏性。何以故。菩薩摩訶薩。若不能捨二十五有。則不能得阿耨多羅三藐三菩提。以諸衆生畢当得故。是故説言一切衆生悉有仏性。太喜大捨者即是仏性。仏性者即是如来。仏性者名大信心。何以故。以信心故。以菩薩摩訶薩則能具足檀波羅蜜乃至般若波羅蜜。一切衆生畢定当得大信心故。是故説言一切畢生悉有仏性。大信心者即是仏性。仏性者即是如来。仏性者名一子地。何以故。以一子地因縁故。菩薩則於一切衆生得平等心。一切衆生畢定当得一子地故。是故説言一切衆生悉有仏性。一子地者即是仏性。仏性者即是如来。已上。 ◎『涅槃経(師子吼品)』に言わく、善男子、大慈大悲を名づけて仏性とす。何をもってのゆえに。大慈大悲は常に菩薩に随うこと影の形に随うがごとし。一切衆生、畢定して当に大慈大悲を得べし。このゆえに説きて一切衆生悉有仏性と言えるなり。大慈大悲は名づけて仏性とす。仏性は名づけて如来とす。大喜大捨を名づけて仏性とす。何をもってのゆえに、菩薩摩訶薩は、もし二十五有を捨つること能わずは、すなわち阿耨多羅三藐三菩提を得ること能わず。もろもろの衆生ついに当に得べきをもってのゆえに。このゆえに説きて一切衆生悉有仏性と言えるなり。大喜大捨はすなわちこれ仏性なり、仏性はすなわちこれ如来なり。仏性は大信心と名づく。何をもってのゆえに、信心をもってのゆえに、菩薩摩訶薩はすなわちよく檀波羅蜜、乃至、般若波羅蜜を具足せり。一切衆生は畢に定んで当に大信心を得べきをもってのゆえに。このゆえに説きて一切衆生悉有仏性と言えるなり。大信心はすなわちこれ仏性なり。仏性はすなわちこれ如来なり。仏性は一子地と名づく。何をもってのゆえに。一子地の因縁をもってのゆえに、菩薩はすなわち一切衆生において平等心を得たり。一切衆生は畢に定んで当に一子地を得べきがゆえに、このゆえに説きて、一切衆生悉有仏性と言えるなり。一子地はすなわちこれ仏性なり。仏性はすなわちこれ如来なりと。已上。SIN:SYOZEN2-62,63/HON-229,HOU-339,340 〇次涅槃経。文有三段。就初文中。云仏性者。名大信心。又下説云。大信心者即是仏性。其大信心即是如来回向利他信心。此是証得往生必至涅槃之真因也。一切依此他力往生清閑一道。咸皆可顕凡聖斉円之妙理故。一切衆生悉有仏性。其仏性者即今信心。深得此義引用此文。一子地者初歓喜地。安養報土衆生生者。皆是阿[ビ01]跋致之位。往生之人即登初地証悟無生。涅槃醒醐真常之説。潜契其義。SYOZEN2-287/TAI6-179 〇次に『涅槃経』、文に三段あり。初の文の中に就きて、「仏性」というは、大信心と名づく。また下に説きて「大信心とは即ちこれ仏性」という。その大信心は即ちこれ如来回向利他の信心なり。これはこれ証得往生必至涅槃の真因なり。一切はこの他力往生清閑の一道に依りて、咸くみな凡聖斉円の妙理を顕わすべきが故に、一切衆生悉く仏性あり。その仏性とは即ち今の信心なり。深くこの義を得てこの文を引用す。「一子地」とは初歓喜地なり。安養の報土、衆生生ずる者は皆これ阿[ビ01]跋致の位、往生の人は即ち初地に登りて無生を証悟す。涅槃醒醐真常の説、潜かにこの義に契う。SYOZEN2-287/TAI6-179 ◎又言。或説阿耨多羅三藐三菩提信心為因。是菩提因雖復無量。若説信心則已摂尽。已上。 ◎(涅槃経・迦葉品)またのたまわく、あるいは阿耨多羅三藐三菩提は信心を因とすと説くに、この菩提の因は、また無量なりといえども、もし信心を説けば、すなわちすでに摂尽しぬと。已上。SIN:SYOZEN2-63/HON-229,HOU-340 〇 次所引文。菩提妙果信心為因。又顕浄土真実信心。SYOZEN2-287/TAI6-196 〇 次の所引の文。菩提の妙果は信心を因と為す。また浄土真実の信心を顕わす。SYOZEN2-287/TAI6-196 ◎又言。信復有二種。一従聞生。二従思生。是人信心従聞而生。不従思生。是故名為信不具足。復有二種。一信有道。二信得者。是人信心唯信有道。都不信有得道之人。是名為信不具足。已上抄出。 ◎(涅槃経・迦葉品)また言わく、信にまた二種あり。一には聞より生ず、二には思より生ず。この人の信心は、聞より生じて思より生ぜざる、このゆえに名づけて信不具足とす。また二種あり。一には道ありと信ず、二には得者を信ず。この人の信心は、ただ道ありと信じて、すべて得道の人ありと信ぜず。これを名づけて信不具足とすと。已上抄出。SIN:SYOZEN2-63/HON-230,HOU-340 〇後所引文。此有二重。共明信不具足之義。翻此可知信心具足。故案文意。上就聞思所生解信具不之義。信心若従思生。可名信心具足。下文意者。就所得道与能得人。解具不義。又若信有得道之人。名之応言信心具足。SYOZEN2-287/TAI6-198 〇後の所引の文、これに二重あり。共に信不具足の義を明かす。ここに翻じて信心具足を知ぬべし。故に文の意を案ずるに、上は聞思の所生に就きて信具不の義を解す。信心は、もし思より生ぜば信心具足と名づくべし。下の文の意は、所得の道と能得の人に就きて具不の義を解す。またもし得道の人ありと信ずれば、これを名づけて信心具足というべし。SYOZEN2-287/TAI6-198 ◎華厳経言。聞此法歓喜信心無疑者。速成無上道。与諸如来等。 ◎(六十華厳・入法界品)『華厳経』に言わく、この法を聞きて、信心を歓喜して疑いなき者は、速やかに無成道を成らん。もろもろの如来と等しとなり。SIN:SYOZEN2-63/HON-230,HOU-340 ◎又言。如来能永断一切衆生疑。随其心所楽普皆令満足。 ◎(八十華厳・入法界品)また言わく、如来よく永く一切衆生の疑いを断たしむ。その信の所楽に随いて、普くみな満足せしめんとなり。SIN:SYOZEN2-64/HON-230,HOU-340 〇次華厳経。又有三段。初有五言一四句偈。問。引此経文有何要乎。答。今経文意粗会歓喜信楽之説。又順無疑無慮之信。是故為助歓喜信楽深信之義。被引之歟。但雖彰灼不説弥陀浄土利生。其意潜通。又天台云。初後仏慧円頓義斉。已上。華厳之意又不可違。随而普賢十願之意。所勧専在安養往詣。依此等意。法華華厳以下諸経。皆隠顕彼弥陀利生。上人深解一代諸教。皆顕弥陀大悲利益。得此等意可見諸文。SYOZEN2-287,288/TAI6-210 〇次に『華厳経』。また三段あり。初に五言一四句の偈あり。問う。この経文を引くは、何の要かあるや。答う。今の経文の意は、ほぼ歓喜信楽の説に会し、また無疑無慮の信に順ず。この故に歓喜・信楽・深信の義を助けんが為に、これを引かるるか。但し彰灼に弥陀浄土の利生を説かずといえども、その意は潜かに通ず。また天台の云わく「初後の仏慧、円頓義斉し」已上。『華厳』の意、また違すべからず。随いて普賢の十願の意、勧むる所は専ら安養の往詣に在り。これ等の意に依るに、『法華』『華厳』以下の諸経は、みな隠に彼の弥陀の利生を顕わす。上人は深く一代の諸教はみな弥陀大悲の利益を顕わすことを解したもう。これ等の意を得て諸文を見つべし。SYOZEN2-287,288/TAI6-210 ◎又言。信為道元功徳母。長養一切諸善法。断除疑網出愛流。開示涅槃無上道。信無垢濁心清浄。滅除[キョウ02]慢恭敬本。亦為法蔵第一財。為清浄手受衆行。信能恵施心無悋。信能歓喜入仏法。信能増長智功徳。信能必到如来地。信令諸根浄明利。信力堅固無能壊。信能永滅煩悩本。信能専向仏功徳。信於境界無所著。遠離諸難得無難。信能超出衆魔路。示現無上解脱道信為功徳不壊種。信能生長菩提樹。信能増益最勝智。信能示現一切仏。是故依行説次第。信楽最勝甚難得。乃至。若常信奉於諸仏。則能興集大供養。若能興集大供養。彼人信仏不思議。若常信奉於尊法。則聞仏法無厭足。若聞仏法無厭足。彼人信法不思議。若常信奉清浄僧。則得信心不退転。若得信心不退転。彼人信力無能動。若得信力無能動。則得諸根浄明利。若得諸根浄明利。則得親近善知識。則得親近善知識。則能修集広大善。若能修集広大善。彼人成就大因力。若人成就大因力。則得殊勝決定解。若得殊勝決定解。則為諸仏所護念。若為諸仏所護念。則能発起菩提心。若能発起菩提心。則能勤修仏功徳。若能勤修仏功徳。則能生在如来家。若得生在如来家。則善修行巧方便。若善修行巧方便。則得信楽心清浄。若得信楽心清浄。則得増上最勝心。若得増上最勝心。則常修習波羅蜜。若常修習波羅蜜。則能具足摩訶衍。若能具足摩訶衍。則能如法供養仏。若能如法供養仏。則能念仏心不動。若能念仏心不動。則常覩見無量仏。若常覩見無量仏。則見如来体常住。若見如来体常住。則能知法永不滅。若能知法永不滅。得得弁才無障礙。若得弁才無障礙。則能開演無辺法。若能開演無辺法。則能慈愍度衆生。若能慈愍度衆生。則得堅固大悲心。若得堅固大悲心。則能愛楽甚深法。若能愛楽甚深法。則能捨離有為過。若能捨離有為過。則離[キョウ02]慢及放逸。若離[キョウ02]慢及放逸。則能兼利一切衆。若能兼利一切衆。則処生死無疲厭。略抄。 ◎(八十華厳・賢首品)また言わく、信は道の元とす、功徳の母なり。一切もろもろの善法を長養すればなり。疑網を断除して愛流を出でて、涅槃無上道を開示せしむと。信は垢濁の心なし、清浄にして[キョウ02]慢を滅除す、恭敬の本なり。また法蔵第一の財とす。清浄の手として衆行を受く。信はよく恵施して心におしむことなし。信はよく歓喜して仏法に入る。信は智功徳を増長す。信はよく必ず如来地に到る。信は諸根をして浄明利ならしむ。信力堅固なればよく壊するものなし。信はよく永く煩悩の本を滅す。信はよく専ら仏功徳に向かえしむ。信は境界において所著なし。諸難を遠離して無難を得しむ。信はよく衆魔の路を超出し、無上解脱の道を示現せしむ。信は功徳のために種を壊〈やぶ〉らず。信はよく菩提樹を生長す。信はよく最勝智を増益す。信はよく一切仏を示現せしむ。このゆえに行に依りて次第を説く。信楽最勝にしてはなはだ得ること難し。乃至。もし常に諸仏に信奉すれば、すなわちよく大供養を興集す。もしよく大供養を興集すれば、かの人、仏の不思議を信ず。もし常に尊法に信奉すれば、すなわち仏法を聞くに厭足なし。もし仏法を聞くに厭足なければ、かの人、法の不思議を信ずべし。もし常に清浄僧に信奉すれば、すなわち信心退転せざることを得。もし信心不退転を得れば、かの人の信力よく動ずることなし。もし信力を得てよく動ずることなければ、すなわち諸根浄明利を得ん。もし諸根浄明利を得れば、すなわち善知識に親近すること得。すなわち善知識に親近することを得れば、すなわちよく広大善を修集す。もしよく広大善を修集すれば、かの人、大因力を成就す。もし人、大因力を成就すれば、すなわち殊勝決定の解を得。もし殊勝決定の解を得れば、すなわち諸仏の為に護念せらる。もし諸仏の為に護念せらるれば、すなわちよく菩提心を発起す。もしよく菩提心を発起すれば、すなわちよく仏の功徳を勤修せしむ。もしよく仏の功徳を勤修すれば、すなわちよく生まれて如来の家に在らん。もし生まれて如来の家に在ることを得れば、すなわち善く巧方便を修行せん。もし善く巧方便を修行すれば、すなわち信楽の心清浄なることを得。もし信楽の心清浄を得れば、すなわち増上の最勝心を得。もし増上の最勝心を得れば、すなわち常に波羅蜜を修習せん。もし常に波羅蜜を修習すれば、すなわちよく摩訶衍を具足せん。もしよく摩訶衍を具足すれば、すなわちよく法のごとく仏を供養せん。もしよく法のごとく仏を供養すれば、すなわちよく念仏の心動ぜず。もしよく念仏の心動ぜざれば、すなわち常に無量仏を覩見せん。もし常に無量仏を覩見すれば、すなわち如来の体常住を見ん。もし如来の体常住を見れば、すなわちよく法の永く不滅なることを知らん。もしよく法の永く不滅なるを知れば、弁才無障碍を得ることを得ん。もし弁才無障碍を得れば、すなわちよく無辺の法を開演せん。もしよく無辺の法を開演せば、すなわちよく慈愍して衆生を度せん。もしよく慈愍して衆生を度すれば、すなわち堅固の大悲心を得ん。もし堅固の大悲心を得れば、すなわちよく甚深の法を愛楽せん。もしよく甚深の法を愛楽すれば、すなわちよく有為の過を捨離せん。もしよく有為の過を捨離すれば、すなわち[キョウ02]慢および放逸を離る。もし[キョウ02]慢および放逸を離るれば、すなわちよく一切衆を兼利す。もしよく一切衆を兼利すれば、すなわち生死に処して疲厭なけんと。略抄。SIN:SYOZEN2-64,65/HON-230,231,232,HOU-341,342 〇後所引文。此有七言四十七行九十四句。所挙偈頌句数雖多。信為根本皆嘆其徳。今引此文。其意在斯。但諸句中雖有所嘆非其信心。展転勝利併為信功。一一句義其意可見。SYOZEN2-288/TAI6-214,215 〇後の所引の文、これに七言四十七行九十四句あり。挙ぐる所の偈頌の句数は多しといえども、信を根本と為て、みなその徳を嘆ず。今この文を引く、その意はここに在り。但し諸句の中に嘆ずる所、その信心にあらざるありといえども、展転の勝利、併しながら信の功たり。一一の句義、その意を見るべし。SYOZEN2-288/TAI6-214,215 ◎論註曰。名如実修行相応。是故論主建言我一心。已上。 ◎『論の註』に曰わく、如実修行相応と名づく、このゆえに論主建めに我一心と言えり。已上。SIN:SYOZEN2-65/HON-232,HOU-342 ◎又言。経始称如是。彰信為能入。已上。 ◎(論註)また言わく、経の始めに如是と称することは、心を彰して能入とす。已上。SIN:SYOZEN2-65/HON-232,HOU-343 〇次論註文。文言雖少。此有二段。二文共是下巻釈也。其中上文讃嘆門釈。下文末後結文而已。SYOZEN2-288/TAI6-254 〇次に『論註』の文。文言は少しといえども、これに二段あり。二文共にこれ下巻の釈なり。その中に上の文は讃嘆門の釈、下の文は末後の結文ならくのみ。SYOZEN2-288/TAI6-254 |