六要鈔会本 第4巻の5(7の内) 信の巻 三心別相問答 欲生釈・白道釈 引文 『大無量寿経』『如来会』・曇鸞『論註』・ 善導『観経義』 |
◎=親鸞聖人『教行信証』の文。 〇=存覚『六要抄』の文 |
『教行信証六要鈔会本』 巻四之五 |
◎次言欲生者。則是如来招喚諸有群生之勅命。即以真実信楽為欲生体也。誠是非大小凡聖定散自力之回向。故名不回向也。然微塵界有情。流転煩悩海。漂没生死海。無真実回向心。無清浄回向心。是故如来矜哀一切苦悩群生海。行菩薩行時。三業所修。乃至一念一刹那。回向心為首得成就大悲心故。以利他真実欲生心廻施諸有海。欲生即是回向心。斯則大悲心。故疑蓋無雑。 ◎(御自釈)次に欲生と言うは、すなわちこれ如来、諸有の群生を招喚したまうの勅命なり。すなわち真実の信楽をもって欲生の体とするなり。誠にこれ、大小・凡聖・定散・自力の回向にあらず。故に不回向と名づくるなり。しかるに微塵界の有情、煩悩海に流転し、生死海に漂没して、真実の回向心なし、清浄の回向心なし。このゆえに如来、一切苦悩の群生海を矜哀して、菩薩の行を行じたまいし時、三業の所修、乃至一念一刹那も、回向心を首として、大悲心を成就することを得たまえるがゆえに、利他真実の欲生心をもって諸有海に回施したまえり。欲生はすなわちこれ回向心なり。これすなわち大悲心なるがゆえに、疑蓋雑わることなし。SIN:J:SYOZEN2-65,66/HON-232,233,HOU-343 ◎是以本願欲生心成就文。 ◎(御自釈)ここをもって本願の欲生心成就の文、SIN:J:SYOZEN2-66/HON-233,HOU-343 ◎経言。至心回向。願生彼国。即得往生。住不退転。唯除五逆誹謗正法。已上。 ◎(大経)経に言わく、至心回向したまえり。かの国に生ぜんと願ずれば、すなわち往生を得、不退転に住せん。唯五逆と誹謗正法とを除くと。已上。SIN:SYOZEN2-66/HON-233,HOU-343 ◎又言。愛楽所有善根回向。願生無量寿国者。随願皆生。得不退転乃至無上正等菩提。除五無間誹謗正法及謗聖者。已上。 ◎(如来会)また言わく、所有の善根回向したまえるを歓喜愛楽して、無量寿国に生ぜんと願ずれば、願に随いてみな生ぜしめ、不退転、乃至、無上正等菩提を得んと。五無間、誹謗正法および謗聖者を除くと。已上SIN:HON-233,HOU-344 〇次願成就文。此非全文。次所引文。文言如前。SYOZEN2-288/TAI6-278 〇次に願成就の文、これ全文にあらず。次の所引の文、文言は前の如し。SYOZEN2-288/TAI6-278 ◎浄土論曰。云何回向。不捨一切苦悩衆生。心常作願。回向為首得成就大悲心故。回向有二種相。一者往相。二者還相。往相者。以己功徳廻施一切衆生。作願共往生彼阿弥陀如来安楽浄土。還相者。生彼土已。得奢摩他毘婆舎那方便力成就。廻入生死稠林教化一切衆生。共向仏道。若往若還。皆為抜衆生渡生死海。是故言回向為首得成就大悲心故。已上。 ◎(論註)『浄土論』に曰わく、云何が回向したまえる。一切苦悩の衆生を捨てずして、心に常に作願すらく、回向を首として大悲心を成就することを得たまえるがゆえにとのたまえり。回向に二種の相あり。一には往相、二には還相なり。往相とは、己が功徳をもって一切衆生に回施したまいて、作願して共にかの阿弥陀如来の安楽浄土に往生せしめたまえり。還相とは、かの土に生じ已りて、奢摩他・毘婆舎那・方便力成就することを得て、生死の稠林に回入し、一切衆生を教化して、共に仏道に向かえしめたまえり。もしは往、もしは還、みな衆生を抜きて生死海を渡せんがためにしたまえり。このゆえに回向為首得成就大悲心故と言えりと。已上。SIN:SYOZEN2-66/HON-233,HOU-344 〇次浄土論。此有三段。初文引在第二巻中。但還相者以下釈文今引加之。於中自初至悲心故。是本論文。回向以下是註釈也。SYOZEN2-288/TAI6-281 〇次に『浄土論』、これに三段あり。初の文は引きて第二巻の中に在り。但し「還相者」以下の釈文は今これを引加う。中に於いて、初より「悲心故」に至るまでは、これ本論の文なり。「回向」以下はこれ註釈なり。SYOZEN2-288/TAI6-281 ◎又云。浄入願心者。論曰。又向説観察荘厳仏土功徳成就・荘厳仏功徳成就・荘厳菩薩功徳成就。此三種成就。願心荘厳。応知。応知者。応知此三種荘厳成就。由本四十八願等清浄願心之所荘厳。因浄故果浄。非無因他因有也。已上。 ◎(論註)また云わく、浄入願心とは、論に曰わく、また向に観察荘厳仏土功徳成就と荘厳仏功徳成就と荘厳菩薩功徳成就を説きつ。この三種の成就は、願心の荘厳したまえるなりと、知る応しといえりと。応知とは、この三種の荘厳成就は、もとの四十八願等の清浄願心の荘厳したまうところなるに由りて、因浄なるがゆえに果浄なり、因なくして他の因あるにはあらざるなりと知る応しとなりと。已上。SIN:SYOZEN2-66,67/HON-233,234,HOU-344,345 〇次所引文。下巻十重解義分中。第四浄入願心釈也。又向説下至云応知。是本論文。応知者下又註釈也。言浄入願心者。浄者三種荘厳。其体無漏。即是果浄。言入意者。酬入因位願心義也。願心即四十八願体亦無漏。即是因浄。六八願心其因浄故。三種荘厳其果亦浄。SYOZEN2-288/TAI6-281 〇次の所引の文は下巻の十重解義分の中に、第四の浄入願心の釈なり。「又向説」の下、「応知」というに至るまでは、これ本論の文なり。「応知者」の下は、また註の釈なり。「浄入願心者」というは、浄とは三種の荘厳、その体無漏なり。即ちこれ果浄なり。入というは、因位の願心に酬入する義なり。願心は即ち四十八願の体、また無漏なり。即ちこれ因浄なり。六八の願心はその因浄なるが故に、三種の荘厳は、その果また浄なり。SYOZEN2-288/TAI6-281 ◎又論曰。出第五門者。以大慈悲観察一切苦悩衆生。示応化身回入生死薗・煩悩林中。遊戲神通至教化地。以本願力回向故。是名出第五門。已上。 ◎(論註)また論に曰わく、出第五門とは、大慈悲をもって一切苦悩の衆生を観察して、応化身を示して、生死の園の煩悩の林の中に回入して、神通に遊戯し教化地に至る。本願力の回向をもってのゆえに。これを出第五門と名づくとのたまえりと。已上。SIN:SYOZEN2-67/HON-234,HOU-344,345 〇後所引文。同第十重利行満足本論文也。此文註釈在第二巻重釈之初。故就彼文加愚解訖。SYOZEN2-288,289/TAI6-281 〇後の所引の文は同じき第十重の利行満足、本論の文なり。この文の註釈は第二巻の重釈の初に在り。故に彼の文に就きて愚解を加え訖んぬ。SYOZEN2-288,289/TAI6-281 ◎光明寺和尚云。又回向発願生者。必須決定真実心中回向願作得生相。此心深信由若金剛。不為一切異見異学別解別行人等之所動乱破壊。唯是決定一心捉正直進。不得聞彼人語。即有進退心生怯弱回顧。落道即失往生之大益也。已上。 ◎(散善義)光明寺の和尚の云わく、また回向発願して生ずる者は、必ず決定して真実心の中に回向したまえる願を須いて、得生の想を作せ。この心深く信ずること、金剛のごとくなるに由りて、一切の異見・異学・別解・別行の人等のために動乱破壊せられず。ただこれ決定して一心に捉って、正直に進みて、かの人の語を聞くことを得ざれ。すなわち進退の心ありて怯弱を生じ、回顧すれば、道に落ちてすなわち往生の大益を失するなりと。已上。SIN:SYOZEN2-67/HON-234,HOU-345 〇次所引文回向心釈。在上所引三心釈中。上者総引。広亘三心。今者別引。限回向心。SYOZEN2-289/TAI6-296 〇次の所引の文は回向心の釈なり。上の所引の三心釈の中に在り。上は総じて引き、広く三心に亘る。今は別して引き、回向心に限る。SYOZEN2-289/TAI6-296 ◎真知。二河譬喩中言白道四五寸者。白道者。白之言対黒也。白者即是選択摂取之白業・往相回向之浄業也。黒者即是無明煩悩之黒業。二乗人天之雑善也。道之言対路。道者則是本願一実之直道。大般涅槃無上之大道也。路者則是二乗三乗万善諸行之小路也。言四五寸者。喩衆生四大五陰也。 ◎(御自釈)真に知りぬ。二河の譬喩の中に、白道四五寸と言うは、白道とは、白の言は黒に対するなり。白は、すなわちこれ選択摂取の白業、往相回向の浄業なり。黒とは、すなわちこれ無明煩悩の黒業、二乗・人天の雑善なり。道の言は、路に対せるなり。道とは、すなわちこれ本願一実の直道、大般涅槃、無上の大道なり。路とは、すなわちこれ二乗・三乗・万善諸行の小路なり。四五寸と言うは、衆生の四大・五陰に喩うるなり。SIN:J:SYOZEN2-67/HON-234,235,HOU-345- 〇真知以下私御釈中。問。道路差別大小難思。如字訓者。路有大訓。殆可配当勝義。云何。答。如比解釈。依一分理一往配釈。是常事也。不可一概。但思今釈。道者理也。又云。道義又有衆妙所寄之文。依此義故。釈云本願一実直通。路字雖有大訓。未及道字之訓。故有此釈。言言四五寸等者。問。四五寸者白道分量。其白道者是信心也。其体清浄。其性真実。五陰四大体性相異。似有法譬不斉之過。云何。答。此疑難決。且述一義。弥陀名号念仏三昧。広大善根無上法也。故華厳云。修大善根念仏三昧。大経説云。一念大利無上功徳。要決釈云。故成大善不廃往生。十因判云即成広大無尽善根。自余文証不遑具挙。依之今師云大信心。云大信海。所行行体是大善故。能信信心亦復広大。何況三心即菩提心。安楽集釈菩提心云。此心広大周遍法界。此心長遠尽未来際。已上。当知所言信心白道。広大無辺実無辺際。就此思之。凡夫行者所発信心。由他力故。是雖広大。貪瞋覆故謂其心微。実非狭小。是於四大五陰所成凡身之上所発心故。云四五寸。若依此義有此釈歟。是以愚推。致此料簡。請後学者用否在心。SYOZEN2-289/TAI6-299 〇「真知」以下、私の御釈の中に、問う、道路の差別は大小思い難し。字訓の如きは、路に大の訓あり。殆ど勝義に配当すべし、云何。答う。かくの如きの解釈は一分の理に依りて、一往の配釈はこれ常の事なり。一概すべからず。但し今の釈を思うに、道とは理なり。また云わく、道の義にまた衆妙所寄の文あり。この義に依るが故に、釈に「本願一実の直通」という。路の字は大の訓ありといえども、未だ道の字の訓に及ばず。故にこの釈あり。「言四五寸」等というは、問う、四五寸とは、白道の分量、その白道とは、これ信心なり。その体清浄なり、その性真実なり。五陰・四大は、体性相異なり、法・譬、不斉の過あるに似たり、云何。答う。この疑は決し難し。且く一義を述ぶ。弥陀の名号、念仏三昧は、広大の善根、無上の法なり。故に『華厳』に「修大善根念仏三昧」といい、『大経』には説きて「一念大利無上功徳」といい、『要決』には釈して「故成大善不廃往生」といい、『十因』には判じて「即成広大無尽善根」という。自余の文証、具に挙ぐるに遑あらず。これに依りて今師は「大信心」といい、「大信海」という。所行の行体はこれ大善なるが故に、能信の信心また広大なり。何に況んや三心即菩提心なり。『安楽集』に菩提心を釈して云わく「この心広大にして法界に周遍す。この心長遠にして未来際と尽くす」と已上。まさに知るべし、いう所の信心の白道は、広大無辺にして実に辺際なし。これに就きてこれを思うに、凡夫の行者の所発の信心は、他力に由るが故に、これ広大なりといえども、貪瞋覆うが故にその心微なりという。実には狭小にあらず。これ四大・五陰所成の凡身の上に於いて発す所の心なるが故に、四五寸という。もしこの義に依りてこの釈あるか。これ愚推を以て、この料簡を致す。請う後の学者、用否、心に在るべし。SYOZEN2-289/TAI6-299 ◎言能生清浄願心者。獲得金剛真心也。本願力回向大信心海故不可破壊。喩之如金剛也。 ◎(御自釈)能生清浄願心と言うは、金剛の真心を獲得するなり。本願力回向の大信心海なるがゆえに、破壊すべからず。これを金剛のごとしと喩うるなり。SIN:J:SYOZEN2-68/-HON-235,HOU-345,346 ◎観経義云道俗時衆等。各発無上心。生死甚難厭。仏法復難忻。共発金剛志。横超断四流。正受金剛心相応一念後。果得涅槃者。抄要。 ◎(玄義分)『観経義』に、道俗時衆等、おのおの無上心を発せども、生死ははなはだ厭いがたく、仏法また忻いがたし。共に金剛の志を発して、横に四流を超断せよ。正しく金剛心を受け、一念に相応して後、果、涅槃を得ん者と云えり。抄要。SIN:SYOZEN2-68/HON-235,HOU-346 〇次観経義。文有三段。就今信心名金剛心。皆引其証。於中初文是玄義分。勧衆偈文。金剛志者。総而言之。広通三心。具三心者。必得横超四流益故。別而言之。此約深心。深心釈云。此心深信由若金剛。是其証也。言四流者。三界見思諸惑是也。一者欲爆流。有二十九物。五部三毒。四諦下疑。十纏是也。言十纏者。無慚無愧嫉慳悔眠掉挙[コン01]沈謂之八纏。加忿与覆云十纏也。二者有瀑流。有二十八物。色無色界五部貪慢。同界四諦各有疑也。三者見爆流。有三十六物。苦下有五。所謂身見辺見戒取見取邪見。集下有二。除身辺戒。滅諦所除全如集諦。道下有三。加戒為異合為十二。三界皆同。故有此数。四者無明瀑流。有十五物。是以三界五部之癡合成此数。謂之百八煩悩而已。是名四瀑流。倶舎論意也。正受等者同偈文也。問。帰三宝偈。普挙因分果分諸位帰仏僧中。為挙極果。先挙因位顕其転勝。果得等者指其極位。即妙覚也。正受等者挙其因位。所謂正受金剛心者。金剛喩定。是入妙覚之無礙道。相応等者。依大品意。即以一念相応之慧。断余残習云正受等。云相応等。皆是指彼等覚後心。果得等者。此即妙覚。是解脱道。而今何証薄地凡夫所発信心。類此等覚金剛心乎。答。如載難勢。等妙二覚仏僧二宝説相皆然。但今所出更非混乱等覚菩薩。断除四十一品無明。証悟四十一分法性。住金剛心。相応一念入其妙覚極果之位。凡聖異浅深雖殊。論其功用共為金剛心之勝利。仍今引之宜得其意。SYOZEN2-289,290/TAI6-315,316 〇次に『観経義』、文に三段あり。今の信心を金剛心と名づくるに就きて、皆その証を引く。中に於いて初の文はこれ『玄義分』勧衆偈の文なり。「金剛志」とは、総じてこれを言わば、広く三心に通ず。三心を具する者は、必ず横超四流の益を得るが故に。別してこれを言わば、これ深心に約す。深心の釈に「この心深く信ぜること、なおし金剛のごとし」という。これその証なり。「四流」というは、三界見思の諸惑これなり。一には欲爆流、二十九物あり。五部の三毒と、四諦の下の疑と、十纏と、これなり。「十纏」というは、無慚と無愧と嫉と慳と悔と眠と掉挙と[コン01]沈と、これを八纏という。忿と覆とを加えて十纏というなり。二には有瀑流、二十八物あり。色・無色界の五部の貪と慢と、同界の四諦におのおの疑あるなり。三には見爆流、三十六物あり。苦の下に五あり。所謂、身見と辺見と、戒取と見取と邪見となり。集の下に二あり。身と辺と戒とを除く。滅諦に除く所は全く集諦の如し。道の下に三あり。戒を加うるを異と為し、合して十二と為す。三界皆同じ。故にこの数あり。四には無明瀑流、十五物あり。これ三界五部の痴を以て合してこの数を成す。これを百八煩悩と謂うのみ。これを四瀑流と名づく。『倶舎論』の意なり。「正受」等とは、同じき偈の文なり。問う。帰三宝の偈に普く因分・果分の諸位を挙ぐとして、仏・僧に帰する中に、極果を挙げんが為に、まず因位を挙げてその転勝を顕わす。「果得」等とは、その極位を指す。即ち妙覚なり。「正受」等とは、その因位を挙ぐ。所謂「正受金剛心」とは、金剛喩定、これ妙覚に入る無礙道なり。「相応」等とは、『大品』の意に依るに、即ち一念相応の慧を以て、余残の習を断ずるを正受等といい、相応等という。皆これ彼の等覚の後心を指す。「果得」等とは、これ即ち妙覚、これ解脱道なり。而るに今何ぞ薄地の凡夫、所発の信心を証すとして、この等覚金剛心に類するや。答う。難勢に載るが如く、等・妙の二覚、仏・僧の二宝、説相みな然なり。但し今出だす所は更に等覚菩薩の四十一品の無明を断除し、四十一分の法性を証悟して、金剛心に住し、一念に相応して、その妙覚極果の位に入ることを混乱するにはあらず。凡聖異にして、浅深殊なりといえども、その功用を論ずるに共に金剛心の勝利たり。仍て今これを引く、宜しくその意を得べし。SYOZEN2-289,290/TAI6-315,316 ◎又云。真心徹到厭苦娑婆。忻楽無為永帰常楽。但無為之境不可軽爾即階。苦悩娑婆無由輒然得離。自非発金剛之志。永絶生死之元。若不親従慈尊。何能免長歎。 ◎(序分義)また云わく、真心徹到して、苦の娑婆を厭い、楽の無為を忻いて、永く常楽に帰すべし。ただし無為の境は、軽爾としてすなわち階〈かな〉うべからず。苦悩の娑婆は、輙然として離るることを得るに由なし。金剛の志を発すにあらずよりは、永く生死の元〈もと〉を絶たんや。もし親〈まのあた〉り慈尊に従いたてまつらずは、何ぞよくこの長歎を免れんと。SIN:SYOZEN2-68/HON-235,HOU-346 〇次所引文。疏序分義欣浄縁釈。此釈観経願我未来以下経文之解釈也。此金剛志帰釈尊心。彼三心者帰弥陀心。二尊雖殊其心是同。故今引之。SYOZEN2-290,291/TAI6-321 〇次の所引の文は『疏』の『序分義』の欣浄縁の釈なり。これは『観経』の「願我未来」以下の経文を釈する解釈なり。この金剛志は釈尊に帰する心、彼の三心は弥陀に帰する心なり。二尊殊なりといえども、その心はこれ同じ。故に今これを引く。SYOZEN2-290,291/TAI6-321 ◎又云。言金剛者即是無漏之体也。已上。 ◎(定善義)また云わく、金剛と言うは、すなわちこれ無漏の体なりと。已上。SIN:SYOZEN2-68/HON-235,HOU-346 〇後一句者。定善義釈。解宝地観。渠下皆以雑色金剛以為底沙之文釈也。上具文云。明渠下底沙作雑宝色。(所引文此次也)。此文雖釈依報勝徳。金剛体性彼此不異。是故引之。SYOZEN2-291/TAI6-324 〇後の一句は『定善義』の釈。宝地観の「渠の下にはみな雑色の金剛を以て、以て底沙とす」の文を解する釈なり。上の具なる文に云わく「渠下の底沙、雑宝の色を作すことを明かす」(所引の文はこの次なり)。この文は依報の勝徳を釈すといえども、金剛の体性は、彼此異ならず。この故にこれを引く。SYOZEN2-291/TAI6-324 |