六要鈔会本 第4巻の(7の内)
 信の巻
 三心問答帰結
  菩提心釈・仏名嘆徳
    引文 曇鸞『論註』・元照・用欽・戒度・
     宗暁『楽邦文類』
◎=親鸞聖人『教行信証』の文。
〇=存覚『六要抄』の文
『教行信証六要鈔会本』 巻四之七

 ◎然就菩提心有二種。一者竪。二者横。又就竪復有二種。一者竪超。二者竪出。竪超・竪出明権実顕蜜大小之教。歴劫迂回之菩提心・自力金剛心・菩薩大心也。亦就横復有二種。一者横超。二者横出。横出者正雑定散他力中之自力菩提心也。横超者斯乃願力回向之信楽。是曰願作仏心。願作仏心即是横大菩提心。是名横超金剛心也。横竪菩提心。其言一而其心雖異。入真為正要。真心為根本。邪雑為錯。疑情為失也。忻求浄刹道俗。深了知信不具足之金言。永応離聞不具足之邪心也。
 ◎(御自釈)しかるに菩提心について二種あり。一には竪、二には横なり。また竪につきて、また二種あり。一には竪超、二には竪出なり。竪超・竪出は権実・顕密・大小の教に明かせり。歴劫迂回の菩提心なり、自力の金剛心、菩薩の大心なり。また横につきて、また二種あり。一には横超、二には横出なり。横出とは、正雑・定散・他力の中の自力の菩提心なり。横超とは、これすなわち願力回向の信楽なり。これを願作仏心と曰う。願作仏心は、すなわちこれ横の大菩提心なり。これを横超の金剛心と名づくるなり。横竪の菩提心、その言一にしてその心異なりといえども、入真を正要し、真心を根本とす。邪雑を錯とし、疑情を失とするなり。忻求浄刹の道俗、深く信不具足の金言を了知して、永く聞不具足の邪心を離るべきなり。SIN:J:SYOZEN2-68,69/HON-236,237,HOU-347,348

 〇然就等者。此有二双四重之釈。所謂竪出竪超横出横超是也。所立差異在文可見。又第六巻及愚禿鈔委有此事。可見彼文。問。今之名目出何典耶。答。楽邦文類第四。桐江択瑛法師。弁横竪二出文。云竪出者。声聞修四諦。縁覚修十二因縁。菩薩修六度万行。此渉地位。譬如及第須自有才学。又如歴任転官須有功効。横出者。念仏求生浄土。譬如蔭叙功由祖父他力不問学業有無。又如覃恩普博功由国王不論歴任浅深。於横出中有定散二善。故善導和尚立専雑二修。雑修者。謂散謾修諸善業回向荘厳也。専修者。身須専礼阿弥陀仏。不雑余礼。口須専称阿弥陀仏。不称余号。不誦余経呪。意須専想阿弥陀仏不修余観。若専修者。十即十生。百即百生。若雑修者。百中或得一両人生。千中或得三五人生。今見世人。有一日礼阿弥陀仏。三千拝者日称阿弥陀仏。十万声者。有昼夜専想阿弥陀仏者。並有感応。斯可験也。已上。本依斯釈。又加私義。問。如今釈者。唯有二出不載二超。故竪出中不分権実。普摂諸教。横出之中不弁浅深。総約浄教。是則定散専雑等也。何加二超而違彼説。答。於聖道門有三乗家。有一乗家。三乗教意不分権実。一乗教意専存権実。今依一乗。可有差別。仍立竪超。別為速疾成仏一門。又聖道意雖立浄教。不及定散弘願分別。又無正助二門差降。依宗家意。既分其差。随而釈中有横超言。依之。択瑛横出之言与高祖師構超之言[キョウ01]合彼此。横一門中出名権教迂回之教。超象実教速疾之道。又対横超。竪中可有超義之故有此分別。乍守本説而開義門。巧叶両師所立名義。尤可依憑。SYOZEN2-293,294/TAI6-362,363
 〇「然就」等とは、これに二双四重の釈あり。所謂、竪出・竪超・横出・横超これなり。所立の差異、文に在りて見つべし。また第六巻及び『愚禿鈔』に委しくこの事あり。彼の文を見つべし。問う。今の名目は何の典に出でたるぞや。答う。『楽邦文類』の第四、桐江の択瑛法師、横竪二出を弁ずる文に云わく「竪出とは、声聞は四諦を修し、縁覚は十二因縁を修し、菩薩は六度万行を修す。これ地位を渉る。譬えば及第の、須く自ら才学あるべきが如し。また歴任転官の須く功効あるべきが如し。横出とは念仏して、浄土に生ぜんことを求む。譬えば蔭叙の功は祖父の他力に由りて学業の有無を問わざるが如し。また恩を覃すこと普博にして功は国王に由りて歴任の浅深を論ぜざるが如し。横出の中に於いて定散の二善あり。故に善導和尚は専雑二修を立つ。雑修とは謂わく散謾にして諸の善業を修して回向荘厳するなり。専修とは、身に須く阿弥陀仏を専礼して、余礼を雑えざるべし。口に須く阿弥陀仏を専称して、余号を称せず、余の経呪を誦せざるべし。意に須く阿弥陀仏を専想して、余観を修せざるべし。もし専修の者は、十は即ち十ながら生じ、百は即ち百ながら生ず。もし雑修の者は、百の中に或いは一両人の生ずることを得、千の中に或いは三・五の人の生ずることを得。今、世人を見るに、一日に阿弥陀仏を礼すること三千拝する者、日に阿弥陀仏を称うるに十万声なる者あり。昼夜に阿弥陀仏を専想する者あり。並びに感応あり。これ験ずべきなり」已上。本この釈に依りて、また私の義を加う。問う。今の釈の如きは、ただ二出ありて二超を載せず。故に竪出の中に権実を分かたず、普く諸教を摂す。横出の中に浅深を弁ぜず、総じて浄教に約す。これ則ち定散専雑等なり。何ぞ二超を加えて、彼の説に違するや。答う。聖道門に於いて、三乗家あり、一乗家あり。三乗教の意は権実を分かたず。一乗教の意は専ら権実を存す。今、一乗に依りて、差別ありべし。仍て竪超を立てて、別に速疾成仏の一門と為す。また聖道の意は浄教を立つといえども、定散弘願の分別に及ばず。また正助二門の差降なし。宗家の意に依るに、既にその差を分かつ。随いて釈の中に横超の言あり。これに依りて、択瑛の横出の言と、高祖師の構超の言と、彼此を[キョウ01]合して、横の一門の中に、出は権教迂回の教に名づけ、超は実教速疾の道に象どる。また横超に対して、竪の中に超の義あるべきが故に、この分別あり。本説を守りながら、而も義門を開きて巧みに両師所立の名義に叶う。尤も依憑すべし。SYOZEN2-293,294/TAI6-362,363


 ◎論註曰。按王舎城所説無量寿経。三輩生中雖行有優劣。莫不発皆無上菩提之心。此無上菩提心即是願作仏心。願作仏心即是度衆生心。度衆生心即是摂取衆生生有仏国土心。是故願生彼安楽浄土者。要発無上菩提心也。若人不発無上菩提心。但聞彼国土受楽無間。為楽故願生。亦当不得往生也。是故言不求自身住持之楽。欲抜一切衆生苦故。住持楽者。謂彼安楽浄土。為阿弥陀如来本願力之所住持。受楽無間也。凡釈回向名義。謂以己所集一切功徳。施与一切衆生。共向仏道。抄出。
 ◎『論註』に曰わく、王舎城所説の『無量寿経』を案ずるに、三輩生の中に行に優劣ありといえども、みな無上菩提の心を発せざるはなし。この無上菩提心は、すなわちこれ願作仏心なり。願作仏心は、すなわちこれ度衆生心なり。度衆生心は、すなわちこれ衆生を摂取して有仏の国土に生ぜしむる心なり。このゆえにかの安楽浄土に生ぜんと願ずる者は、要ず無上菩提心を発するなり。もし人、無上菩提心を発さずして、ただかの国土の受楽間〈ひま〉なきを聞きて、楽のためのゆえに生ぜんと願ぜん、また当に往生を得ざるべきなり。このゆえに、言うこころは、自身住持の楽を求めず、一切衆生の苦を抜かんと欲うがゆえにと。住持楽とは、いわくかの安楽浄土は、阿弥陀如来の本願力のために住持せられて、受楽間〈ひま〉なきなり。おおよそ回向の名義を釈せば、いわく己が集むる所の一切の功徳をもって、一切衆生に施与して、共に仏道に向かえしめたまうなり。抄出。SIN:SYOZEN2-69/HON-237,238,HOU-348,349

 〇次論註文。下巻解義分中。第五善巧摂化章之釈也。名曰善巧摂化意者。以巧方便回向善根摂化衆生之義而已。三輩生中等者。問。寿観両経是開合異。而観経中説未来発心往生之人。謂九品中。中三下三六品是也。寿経三輩共説発心。相違如何。答。雖有異義。且一義云。大経説相順常途説。聖道諸教皆談発心得道義故。観経之中。説未発心皆得往生。由仏力故。諸師所立其義不同。不能具述。問。註家之意許此義耶。答。此有二意。一不許也。今釈或云莫不発皆菩提之心。或云若人不発菩提心故。二所許也。唯嫌三不正許三信往年故也。就第二義。可有即云大経所説菩提心者。則指三信之義趣也。因問。宗家之意依何義耶。答。許未発心之人往生。是為凡夫済度弘願本意故也。凡釈回向名義等者。其意可見。安楽集下云。釈回向名義者。但以一切衆生既有仏性。人人皆有願成仏心。然依所修行業。未満一万劫已来。猶未出火界。不免輪回。是故聖者愍斯長苦。勧回向西為成大益。然回向之功不越於六。何等為六。一者将所修諸業。回向弥陀。既至彼国。還得六通済運衆生。此即不住道也。二回因向果。三回下向上。四回遅向速。此即不住世間。五回施衆生悲念向善。六回入去却分別之心。回向之功只成斯六。已上。今論註文与今回向第五之義。其意同也。SYOZEN2-294,295/TAI6-378,379
 〇次に『論註』の文、下巻解義分の中に、第五の善巧摂化章の釈なり。名づけて善巧摂化という意は、巧方便回向の善根を以て衆生を摂化する義ならくのみ。「三輩生中」等とは、問う、『寿』『観』両経はこれ開合の異なり。而るに『観経』の中には未来発心往生の人を説く。謂わく九品の中に、中三・下三の六品、これなり。『寿経』の三輩には共に発心と説く。相違如何。答う。異義ありといえども、且く一義に云わく、『大経』の説相は常途の説に順ず。聖道の諸教はみな発心得道の義を談ずるが故に。『観経』の中には未発心みな往生を得と説く。仏力に由るが故に。諸師の所立は、その義不同なり。具に述ぶるに能わず。問う。註家の意はこの義を許すや。答う。これに二意あり。一には許さざるなり。今の釈に或いは「みな無上菩提の心を発せざるはなし」といい、或いは「もし人、無上菩提心を発せずして」というが故に。二には許す所なり。ただ三不を嫌いて正しく三信の往年を許すが故なり。第二の義に就きて、即ち『大経』所説の菩提心は、則ち三信を指すという義趣あるべし。因みに問う。宗家の意は何の義に依るや。答う。未発心の人の往生を許す。これ凡夫済度の弘願の本意たるが故なり。「凡そ回向の名義を釈せば」等とは、その意見つべし。『安楽集』の下に云わく「回向の名義を釈せば、但し以みれば一切衆生は既に仏性あり。人人みな願成仏の心あり。然も所修の行業に依りて、未だ一万劫を満たざる已来は、なお未だ火界を出でず、輪回を免がれず。この故に聖者はこの長苦を愍みて、回して西に向かえて、為に大益を成さんことを勧む。然るに回向の功は六を越えず。何等をか六と為る。一には所修の諸業を将て弥陀に回向して、既に彼の国に至りて、還りて六通を得て衆生を済運す。これ即ち不住道なり。二には因を回して果に向かう。三には下を回して上に向かう。四には遅を回して速に向かう。これ即ち不住世間なり。五には衆生に回施して、悲念して善に向かう。六には分別の心を回入し去却す。回向の功はただこの六を成ず」已上。今の『論註』の文と、今の回向の第五の義と、その意同じなり。SYOZEN2-294,295/TAI6-378,379


 ◎元照律師云。他不能為故甚難。挙世未見故希有。
 ◎(阿弥陀経義疏)元照律師の云わく、他の為すこと能わざるがゆえに甚難なり。世挙って未だ見たてまつらざるがゆえに希有なりといえり。SIN:SYOZEN2-69/HON-238,HOU-349

 〇次元照釈。文有三段。共弥陀経義疏文也。初解諸仏互讃之中。諸仏称讃釈迦仏徳。即言能為甚難希有之事経文之釈文也。SYOZEN2-295/TAI6-394
 〇次に元照の釈、文に三段あり。共に『弥陀経義疏』の文なり。初は諸仏互讃の中に、諸仏の釈迦の仏徳を称讃して、即ち「能く甚難希有の事を為す」という経文を解する釈文なり。SYOZEN2-295/TAI6-394


 ◎又云。念仏法門不簡愚智豪賎。不論久近善悪。唯取決誓猛信。臨終悪相十念往生。此乃具縛凡愚屠沽下類。刹那超越成仏之法。可謂世間甚難信也。
 ◎(阿弥陀経義疏)また云わく、念仏の法門は愚痴・豪賎を簡ばず、久近・善悪を論ぜず。ただ決誓猛信を取れば、臨終悪相なれども十念に往生す。これすなわち具縛の凡愚、屠沽の下類、刹那に超越する成仏の法なり。世間甚難信と謂うべきなり。SIN:SYOZEN2-70/HON-238,HOU-349

 〇次文者解有二難中。説法難云。説是一切世間難信之法経文之釈文也。SYOZEN2-295/TAI6-394
 〇次の文は、二の難ある中に、法難を説きて「この一切世間に難信の法を説く」という経文を解する釈文なり。SYOZEN2-295/TAI6-394


 ◎又云。於此悪世修行成仏為難也。為諸衆生説此法門為二難也。承前二難則彰諸仏所讃不虚意。使衆生聞而信受。已上。
 ◎(阿弥陀経義疏)また云わく、この悪世にして修行成仏するを難とするなり。もろもろの衆生のためにこの法門を説くを二の難とするなり。前の二難を承けて、すなわち諸仏所讃の虚しからざる意を彰す。衆生聞きて信受せしめよとなり。已上。SIN:SYOZEN2-70/HON-238,HOU-349

 〇後文即出彼二難釈。問。後釈是為初釈次詞。尤可相隣。承前下為次釈末詞。是顕実文。何共加一具文段。各隔別文前後引耶。答。誠似難思。但加推義。先初文者甚難希有之経文中。含此二難。是故疏主於其科下。有此解釈。而第一難是仏自利。第二之難是仏利他。其利他者説此一切世間難信念仏是也。是故五濁悪世成道。唯是為説此難信法。為顕此義説法難。下故加之歟。次顕実文挙前二難下。相次有便。可思択之。SYOZEN2-295/TAI6-394
 〇後の文は即ち彼の二の難を出だす釈なり。問う。後の釈はこれ初の釈の次の詞たり。尤も相隣るべし。承前の下は次の釈の末の詞たり。これ顕実の文なり。何ぞ共に一具の文段に加えずして、おのおの別の文を隔てて前後に引くや。答う。誠に思い難きに似たり。但し推義を加うるに、まず初の文は甚難希有の経文の中に、この二の難を含む。この故に疏主はその科の下に於いて、この解釈あり。而るに第一の難はこれ仏の自利、第二の難はこれ仏の利他。その利他とは、この一切世間難信の念仏を説く、これなり。この故に五濁悪世の成道は、ただこれこの難信の法を説かんが為なり。この義を顕わさんが為に法難を説く。下に故にこれを加えらるるか。次に顕実の文、前の二の難を挙ぐる下に、相次なるに便あり。これを思択すべし。SYOZEN2-295/TAI6-394


 ◎律宗用欽云。説法難中。良以此法転凡成聖。猶反掌乎。大為容易故。凡浅衆生多生疑惑。即大本云易往而無人。故知難信矣。
 ◎(超玄記)律宗の用欽の云わく、法の難を説く中に、良にこの法をもって凡を転じて聖と成すこと、掌を反すがごとくなるをや。大きにこれ易かるべきがゆえに、凡浅の衆生、多く疑惑を生ぜん。すなわち『大本』に易往而無人と云えり。故に知りぬ、難信なりと。SIN:SYOZEN2-70/HON-238,HOU-349

 〇次用欽釈。釈上義疏解法難文。是故引之。SYOZEN2-295/TAI6-402
 〇次に用欽の釈。上の『義疏』に法難を解する文を釈す。この故にこれを引く。SYOZEN2-295/TAI6-402


 ◎聞持記云。不簡愚智(性有利鈍)、不択豪賎(報有強弱)、不論久近(功有浅深)、不選善悪(行有好醜)、取決誓猛信臨終悪相(即観経下品中生地獄衆火一時倶至等)、具縛凡愚(二惑全在故)、屠沽下類刹那超越成仏之法可謂一切世間甚難信也(屠謂宰殺。沽即[ウン02]売。如此悪人。止由十念便得超往。豈非難信)。
 ◎『聞持記』に云わく、愚智を簡ばず(性に利鈍あり)、豪賎を択ばず(報に強弱あり)、久近を論ぜず(功に浅深あり)、善悪を選ばず(行に好醜あり)、決誓猛信を取れば臨終悪相なれども(すなわち『観経』下品中生に地獄の衆火一時に倶に至る等)、具縛の凡愚(二惑全くあるがゆえに)、屠沽の下類、刹那に成仏の法を超越す、一切世間に甚難信といいつべきなり(屠は謂わく殺を宰どる、沽はすなわち[ウン02]売、かくのごときの悪人、ただ十念に由りてすなわち超往を得、あに難信にあらずや)。SIN:SYOZEN2-70/HON-238,HOU-349,350

 ◎阿弥陀如来、号真実明・平等覚・難思議・畢竟依・大応供・大安慰・無等等・不可思議光。已上。
 ◎(御自釈)阿弥陀如来は、真実明・平等覚・難思議・畢竟依・大応供・大安慰・無等等・不可思議光と号したてまつるなり、と。已上。SIN:J:SYOZEN2-70/HON-239,HOU-350

 〇次聞持記。戒度律師解彼疏書。今所引者釈上所用本書文言。今疏為疎。記釈為註。為令易解所截如此。SYOZEN2-295/TAI6-404
 〇次に『聞持記』、戒度律師の彼の『疏』を解する書なり。今の所引は、上に用うる所の本書の文言を釈す。今疏を疎と為し、記の釈を註と為す。解し易からしめんが為に截する所、かくの如し。SYOZEN2-295/TAI6-404


 ◎楽邦文類後序曰。修浄土者常多。得其門而径造者無幾。論浄土者常多。得其要而直指者或寡矣。曽未聞有以自障自蔽為説者。因得以言之。夫自障莫若愛。自蔽莫若疑。但使疑愛二心了無障礙。則浄土一門。未始間隔。弥陀洪願常自摂持。必然之理也。已上。
 ◎『楽邦文類』の後序に曰わく、浄土を修する者常に多けれども、その門を得て径〈みち〉に造〈いた〉る者幾ばくもなし。浄土を論ずる者常に多けれども、その要を得て直ちに指〈おし〉うる者あるいはすくなし。かつて未だ聞かず、自障自蔽をもって説を為すことある者、得るに因りて、もってこれを言う。それ自障は愛にしくなはし。自蔽は疑にしくはなし。ただ疑・愛の二心をして、ついに障碍なからしむるは、すなわち浄土の一門なり。未だ始めて間隔せず。弥陀の洪願、常に自ずから摂持したまうこと、必然の理なりと。已上。SIN:SYOZEN2-70,71/HON-239,HOU-350

 〇次楽邦文類後序。無為子作。今所引者最初之詞。此奥猶有十七行余。不及具載。有志之人可尋見之。SYOZEN2-295/TAI6-410
 〇次に『楽邦文類』の後序。無為子の作なり。今の所引は最初の詞なり。この奥に猶十七行余あり。具に載するに及ばず。志あらん人はこれを尋ね見るべし。SYOZEN2-295/TAI6-410


 ◎顕浄土真実信文類三 本

 教行信証六要鈔会本巻第四