六要鈔会本 第5巻の4(9の内) 信の巻 重釈要義 真仏弟子 引文 『大無量寿経』『如来会』・ 善導『般舟讃』『往生礼讃』『観念法門』『観経疏』・ 王日休『龍舒浄土文』・用欽『超玄記』・宗暁『楽邦文類』 |
◎=親鸞聖人『教行信証』の文。 〇=存覚『六要抄』の文 |
『教行信証六要鈔会本』 巻五之四 |
◎光明師云。唯恨衆生疑不疑。浄土対面不相忤。莫論弥陀摂不摂。意在専心廻不廻。乃至。或[ドウ01]。従今至仏果。長劫讃仏報慈恩。不蒙弥陀弘誓力。何時何劫出娑婆。乃至。何期今日至宝国。実是娑婆本師力。若非本師知識勧。弥陀浄土云何入。 ◎(般舟讃)光明師の云わく、やや恨むらくは衆生の疑うまじきを疑うことを。浄土対面してあい忤わず、弥陀の摂と不摂を論ずることなかれ。意、専心にして回すると回せざるとにあり。乃至。あるいはいわく、今より仏果に至るまで、長劫に仏を讃めて慈恩を報ぜん。弥陀の弘誓の力を蒙らずは、いずれの時、いずれの劫にか娑婆を出でんと。乃至。いかんが期せん、今日宝国に至ることを。実にこれ娑婆本師の力なり。もし本師知識の勧めにあらずは、弥陀の浄土、云何してか入らんと。SIN:SYOZEN2-77/HON-247,HOU-360 〇次大師釈。総有八文。初釈之中。唯恨等者。誡疑勧信。示其冥応自然不忤。忤玉篇云。五故切逆也。莫論等者。是顕念仏必預摂取不求自益。意在等者。言仏願意唯在専心決定回心。言専心者。即是一心専念心耳。次文是讃弥陀仏恩。出苦娑婆。偏如来恩。次文是歎釈迦仏恩。言本師者。教主釈尊。依二尊力得往生益。為勧報恩引此二文。SYOZEN2-306/TAI6-601 〇次に大師の釈、総じて八文あり。初の釈の中に「唯恨」等とは、疑を誡しめ信を勧めて、その冥応は自然に忤〈たが〉わざることを示す。「忤」は『玉篇』に云わく「五故の切。逆なり」。「莫論」等とは、これ念仏すれば必ず摂取に預りて、求めざるに自ずから益することを顕わす。「意在」等とは、言うこころは、仏願の意は、ただ専心決定して回心するに在り。「専心」というは、即ちこれ一心専念の心ならくのみ。次の文はこれ弥陀の仏恩を讃ず。苦の娑婆を出づることは、偏に如来の恩なり。次の文はこれ釈迦の仏恩を歎ず。「本師」というは教主釈尊なり。二尊の力に依りて往生の益を得。報恩を勧めんが為に、この二文を引く。SYOZEN2-306/TAI6-601 ◎又云。仏世甚難値。人有信慧難。遇聞希有法。斯復最為難。自信教人信。難中転更難。大悲弘普化。真成報仏恩。 ◎(往生礼讃)また云わく、仏世はなはだ値い難し、人、信慧あること難し。たまたま希有の法を聞くこと、これまた最も難しとす。自ら信じ人を教えて信ぜしむること、難きが中に転たまた難し。大悲をして弘く普く化せば、真に仏恩を報ずるに成るべしと。SIN:SYOZEN2-77/HON-247,HOU-360 〇次文初夜礼讃偈也。仏世等者。総明難遇仏出之世。兼含仏法難遇之意。依大経云。如来興世難値難見。諸仏経道難得難聞。菩薩勝法諸波羅密得聞亦難之意故也。遇聞等者。別明難遇浄土之法。希有法者。弥陀教也。依同文云。遇善知識聞法能行。此亦為難之意故也。自信等者。是明自信教他共在真報仏恩。上云能行。其言中含自利利人之二益也。SYOZEN2-306/TAI6-606 〇次の文は『初夜礼讃』の偈なり。「仏世」等とは、総じて仏出の世に遇うこと難きことを明かし、兼て仏法難遇の意を含む。『大経』に「如来の興世、値い難く見たてまつること難し。諸仏の経道、得難く聞き難し。菩薩の勝法、諸波羅蜜、聞くことを得ることまた難し」といえる意に依るが故なり。「遇聞」等とは、別して浄土の法に遇うこと難きことを明かす。「希有法」とは、弥陀の教なり。同じき文に「善知識に遇い、法を聞きて能く行ずること、これまた難しとす」といえる意に依るが故なり。「自信」等とは、これ自ら信じ、他に教うる、共に真に仏恩を報するに在ることを明かす。上に能行という、その言の中に自利利人の二益を含むなり。SYOZEN2-306/TAI6-606 ◎又云。弥陀身色如金山。相好光明照十方。唯有念仏蒙光摂。当知本願最為強。十方如来舒舌証。専称名号至西方。到彼華台聞妙法。十地願行自然彰。 ◎(往生礼讃)また云わく、弥陀の身色は金山のごとし。相好の光明は十方を照らす。ただ念仏のもののみありて、光摂を蒙る。当に知るべし、本願最も強しとす。十方の如来、舌を舒べて証したまうことは、専ら名号を称して西方に至るとなり。かの華台に到りて妙法を聞けば、十地の願行自然に彰ると。SIN:SYOZEN2-77/HON-248,HOU-360 〇次同日中真身観讃。唯有等者。問。経文只説念仏衆生摂取不捨。無遮余言。何云唯耶。答。次下句云本願為強。可知此云唯有之義。如来本発深重願時。選捨諸行不為本願。選取念仏独為本願。因位本願既遮諸行。正覚心光利益何違。所捨行故不照余行。所取行故唯摂念仏。彼此行人摂不応知。故於此讃出三経説。初二句総標当観説。唯有一句。別就当観示摂取益限在念仏。当知等者明大経意。十方等者依小経意。専称等者。別指小経。総明三経名号為宗。十地等者。是明衆生本有具徳。至法性土方可顕現。是顕十地究竟之徳。更非本無今有之徳。若依酬因感果之理。論其自力修入之義。可云成歟。不可云彰。又不可云自然而已。SYOZEN2-306,307/TAI6-610 〇次に同じき日中の真身観の讃。「唯有」等とは、問う、経文にはただ「念仏衆生摂取不捨」と説きて、余を遮する言なし。何ぞ「唯」というや。答。次下の句に本願強しとすという、ここに「唯有」という義を知るべし。如来もと深重の願を発したもう時、諸行を選び捨てて本願とせず。念仏を選取して独り本願と為したもう。因位の本願は既に諸行を遮す。正覚の心光利益は何ぞ違せん。捨る所の行なるが故に余行を照さず。取る所の行なるが故に、唯念仏を摂す。彼此の行人、摂・不、知りぬべし。故にこの讃に於いて三経の説を出だす。初の二句は総じて当観の説を標す。「唯有」の一句は別して当観に就きて摂取の益の限りて念仏に在ることを示す。「当知」等とは、『大経』の意を明かす。「十方」等とは、『小経』の意に依る。「専称」等とは、別して『小経』を指して、総じて三経名号を宗と為ることを明かす。「十地」等とは、これ衆生本有の具徳は、法性の土に至りて方に顕現すべきことを明かす。これ十地究竟の徳を顕わす。更に本無今有の徳にあらず。もし酬因感果の理に依りて、その自力修入の義を論ずれば、成というべきか。彰というべきからず。また自然というべからざるのみ。SYOZEN2-306,307/TAI6-610 ◎又云。但有専念阿弥陀仏衆生。彼仏心光常照是人摂護不捨。総不論照摂余雑業行者此亦是現生護念増上縁。已上。 ◎(観念法門)また云わく、ただ阿弥陀仏を専念する衆生のみありて、かの仏心の光、常にこの人を照らして摂護して捨てたまわず。すべて余の雑業の行者を照摂することを論ぜず。これまたこれ現生護念増上縁なり。已上。SIN:SYOZEN2-78/HON-248,HOU-360 〇次文観念法門釈也。此文同依真身観意。上文云唯。此釈云但。雑業行者不蒙照摂。念仏行人独得光摂。深解経意解釈分明。言心光者。此非光分身相心想其体各別。只就義門宜得其意。以仏慈悲摂受之心所照触光。名之心光。是念仏行相応仏心。其仏心者慈悲為体。是以経云。仏心者大慈悲是。以無縁慈摂諸衆生。已上。是故照触称名行人之大悲光。得心称耳。准之私案。観仏三昧所観所見之光明等。可預身光之名者耶。SYOZEN2-307/TAI6-613 〇次の文は『観念法門』の釈なり。この文は同じく真身観の意に依る。上の文には「唯」といい、この釈には「但」という。雑業の行者は照摂を蒙らず。念仏の行人は独り光摂を得。深く経の意を解すること、解釈分明なり。「心光」というは、これ光に身相心想を分かちてその体各別なるにあらず。ただ義門に就きて宜くその意を得べし。仏の慈悲摂受の心を以て、照触する所の光は、これを心光と名づく。これ念仏の行、仏心に相応す。その仏心とは、慈悲を体と為す。これを以て経に云わく「仏心とは大慈悲これなり。無縁の慈を以て諸の衆生を摂す」已上。この故に称名の行人を照触する大悲の光は心の称を得らくのみ。これに准じて私に案ずるに、観仏三昧の所観所見の光明等は、身光の名に預かるべきものなるや。SYOZEN2-307/TAI6-613 ◎又云。言心歓喜得忍者。此明阿弥陀仏国清浄光明忽現眼前。何勝踊躍。因茲喜故即得無生之忍。亦名喜忍。亦名悟忍。亦名信忍。此乃玄談未標得処。欲令夫人等[キ03]心此益。勇猛専精心想見時。方応悟忍。此多是十信中忍。非解行已上忍也。 ◎(序分義)また云わく、心歓喜得忍と言うは、これは阿弥陀仏国の清浄の光明、たちまちに眼前に現ず。何ぞ踊躍に勝えん。この喜びに因るがゆえに、すなわち無生の忍を得るを、また喜忍と名づく、また悟忍と名づく、また信忍と名づく。これすなわち玄〈はるか〉に談ずるに、未だ得処を標〈あらわ〉さず、夫人をして等しく心にこの益を[キ03]〈ねが〉わしめんと欲う。勇猛専精にして、心、見んと想う時、方に忍を悟るべし。これ多くはこれ十信の中の忍なり、解行已上の忍にはあらざるなりということを明かす。SIN:SYOZEN2-78/HON-248,HOU-361 〇次所引文。序分義中示観縁釈。言心等者。約観成相。但雖外標観門之益。内顕念仏所得之益。所以知者。云清浄業。先約懺悔雖釈清浄。後就念仏滅罪之義釈清浄義。則彼文云。依下観門専心念仏。注想西方念念罪除。故清浄也。已上。其機又云煩悩賊害失此法財。是顕念仏所被之機。故知所得無生之益。是又可在念仏之益。故云踊躍。云因此喜。云得喜忍。是顕信心歓喜得益。言悟忍者悟仏智故。言信忍者即是信心成就相也。上人当巻被引此文。更不被備観門之益。是依念仏得益之辺而所被引也。此乃等者。玄先正説挙其利益。令人[キ03]之。故云玄談。未標等者。雖言得忍。未明分斉。故云未標。勇猛等者。且就観法修行相貌勧其策励。智度論云。禅定智慧非精進者不成。已上。蓋比義也。此多等者。雖為薄地信外凡夫。今依他力超絶強縁成就信根。故就得忍謂之十信。是故上人正信偈云。与韋提等獲三忍即証法性之常楽。下文亦云。獲金剛心者。則与韋提等。即可獲得喜悟信之忍。非解等者。是嫌古来諸師義也。SYOZEN2-307,308/TAI6-616,617 〇次の所引の文は『序分義』の中に示観縁の釈なり。「言心」等とは、観成の相に約す。但し外に観門の益を標すといえども、内に念仏所得の益を顕わす。知る所以は、清浄業というは、まず懺悔に約して清浄を釈すといえども、後に念仏滅罪の義に就きて清浄の義を釈す。則ち彼の文に云わく「下の観門に依りて専心に念仏すれば、想を西方に注めめて、念念に罪除こる。故に清浄なり」已上。その機は、また「煩悩賊害、この法財を失う」という。これ念仏所被の機を顕わす。故に知りぬ、得る所の無生の益は、これまた念仏の益に在るべし。故に「踊躍」という。「この喜に因る」といい、「喜忍を得」という。これ信心歓喜の得益を顕わす。「悟忍」というは、仏智を悟るが故に。「信忍」というは、即ちこれ信心成就の相なり。上人の当巻にこの文を引かるること、更に観門の益に備えられず。これ念仏得益の辺に依りて引かるる所なり。「此乃」等とは、玄〈はるか〉に正説に先だってその利益を挙げて、人をしてこれを[キ03]〈ねが〉わしむ。故に玄談という。「未標」等とは、得忍というといえども、未だ分斉を明かにせず。故に未標という。「勇猛」等とは、且く観法修行の相貌に就きてその策励を勧む。『智度論』に云わく「禅定・智慧は精進にあらざれば成ぜず」已上。蓋しこの義なり。「此多」等とは、薄地信外の凡夫たりといえども、今は他力超絶の強縁に依りて信根を成就す。故に得忍に就きて、これを十信という。この故に上人の『正信偈』に云わく「韋提と等しく三忍を獲て、即ち法性の常楽を証す」。下の文に、また云く「金剛心を獲るとは、則ち韋提と等しく、即ち喜・悟・信の忍を獲得すべし」。「非解」等とは、これ古来諸師の義を嫌うなり。SYOZEN2-307,308/TAI6-616,617 ◎又云。従若念仏者下至生諸仏家已来。正顕念仏三昧功能超絶。実非雑善得為比類。即有其五。一明専念弥陀仏名。二明指讃能念之人。三明若能相続念仏者。此人甚為希有。更無物可以方之。故引芬陀利為喩。言分陀利者。名人中好華。亦名希有華。亦名人中上上華。亦名人中妙好華。此華相伝名蔡華是。若念仏者即是人中好人。人中妙好人。人中上上人。人中希有人。人中最勝人也。四明専念弥陀名著。即観音勢至常随影護。亦如親友知識也。五明今生既蒙此益。捨命即入諸仏之家。即浄土是也。到彼長時聞法。歴事供養。因円果満。道場之座豈[シャ02]。已上。 ◎(散善義)また云わく、若念仏者より下、生諸仏家に至るこのかたは、正しく念仏三昧の功能超絶して、実に雑善をして比類とすることを得るにあらざることを顕す。すなわちその五あり。一には、弥陀仏名を専念することを明かす。二には、能念の人を指讃することを明かす。三には、もしよく相続して念仏する者〈ひと〉、この人ははなはだ希有なりとす、さらに物としてもってこれに方〈たくら〉ぶべきことなきことを明かす。故に芬陀利を引きて喩とす。分陀利と言うは、人中の好華と名づく、また希有華と名づく、また人中の上上華と名づく、また人中の妙好華と名づく。この華あい伝えて蔡華と名づくる、これなり。もし念仏の者は、すなわちこれ人中の好人なり。人中の妙好人なり、人中の上上人なり、人中の希有人なり、人中の最勝人なり。四には、弥陀の名を専念する者は、すなわち観音・勢至、常に随いて影のごとく護りたまうこと、また親友・知識のごとくなることを明かすなり。五には、今生にすでにこの益を蒙れり。命を捨ててすなわち諸仏の家に入らん、すなわち浄土これなり。彼に到れば長時に法を聞き、歴時供養せん。因円かに果満ず。道場の座、あに[シャ02]〈はるか〉ならんやということを明かす。已上。SIN:SYOZEN2-78/HON-248,279,HOU-361 〇次散善義。流通分中。有其七内第四段文。正顕等者。能得仏意深探経旨嘆念仏徳超余雑業。定善義云。自余衆行雖名是善。若比念仏者全非比校也。今文亦云。実非雑善得為比類。二尊正意。大師高判。念仏諸行勝劣宜知。分陀利者。蓮中好華。西天翫之如此桜梅。是故以之喩今行人。憬興師云。分陀利華即白蓮華。水陸華中最為尊勝。依大日経。蓮華有五。一鉢頭摩。二優鉢羅。各有二色。謂赤与白。三倶勿頭。亦有二色。謂赤与白。四泥盧鉢羅。此華極香。従牛糞生。五分荼利迦。葉葉相承円整可愛。最外葉極白。内色漸微黄。此華極香。言蔡華者。是蓮華名。依論語意。蔡者亀也。意亀所遊之華故即云亀。其体蓮華。華中蓮勝。蓮華之中此華殊勝。宜哉此華経為題目。仏亦為眼。豈比凡種。而仏世尊以念仏人譬此好華。尤足為奇。妙法蓮華雖有当体譬喩二義。共所行法。今観経説歎能行人。若約所行定亦応同。能所雖殊。恐顕弥陀妙法同体之深旨歟。又涅槃云。是人中蓮華芬陀利華。已上。而彼文意譬仏説之。准之思之。念仏行人即備如来功徳義分。此喩如彼染香人身有其香気。是則今此弥陀名号。自彼法性無漏果徳所流出之妙好香也。唱之念之。薫口薫心。不知自有無量万徳功徳香気。故潜備仏功徳気分。是故信知弥陀五智功徳。称念名号。本覚心蓮冥漸生長。開発諸法無生甚深一分理也。尤可貴之。即入等者。即是往生即為始益。道場等者。即是成仏即為終益。問。如経文者。先云当座道場。初説成仏之果。次云生諸仏家。後挙往生之益。今釈前後相違如何。答。経依従果向因之義。釈存従因至果之意。影略互顕其義炳然。SYOZEN2-308,309/TAI6-627,628 〇次に『散善義』流通分の中に、その七ある内に、第四段の文なり。「正顕」等とは、能く仏意を得て、深く経旨を探りて念仏の徳の余の雑業に超えたることを嘆ず。『定善義』には「自余の衆行は、これ善と名づくといえども、もし念仏に比すれば全く比校にあらざるなりといい、今の文には、また「実に雑善をもって比類と為ることを得るにあらず」という。二尊の正意、大師の高判、念仏諸行の勝劣、宜しく知るべし。「分陀利」とは、蓮の中の好華、西天にこれを翫ぶこと、ここの桜梅の如し。この故にこれを以て今の行人に喩う。憬興師の云わく「分陀利華は即ち白蓮華なり。水陸の華の中に最も尊勝たり」。『大日経』に依るに、蓮華に五あり。一には鉢頭摩、二には優鉢羅、おのおの二色あり。謂わく赤と白となり。三には倶勿頭、また二色あり、謂わく赤と白となり。四には泥盧鉢羅、この華は極めて香し。牛糞より生ず。五には分荼利迦。葉葉相承て円整にして愛しつべし。最外の葉は極めて白く、内の色は漸く微黄なり。この華は極めて香し。「蔡華」というは、これ蓮華の名なり。『論語』の意に依るに、蔡とは亀なり。意は亀の遊ぶ所の華なるが故に即ち亀という。その体は蓮華なり。華の中に蓮は勝れ、蓮華の中に、この華は殊に勝れたり。宜なるかな、この華は経には題目たり。仏にはまた眼たり。あに凡種に比せんや。而るに仏世尊は念仏の人を以てこの好華に譬えたり。尤も奇と為るに足れり。『妙法蓮華』に当体・譬喩の二義ありといえども、共に所行の法なり。今の『観経』の説は能行の人を歎ず。もし所行に約せば、定んでまた同じかるべし。能所殊るといえども、恐くは弥陀・妙法同体の深旨を顕わすか。また『涅槃』に云わく「これ人中の蓮華、芬陀利華」已上。而るに彼の文の意は仏に譬えてこれを説く。これに准じてこれを思うに、念仏の行人は即ち如来功徳の義分を備う。この喩は彼の染香人の身に、その香気あるが如し。これ則ち今この弥陀の名号は、彼の法性無漏の果徳より流出する所の妙好香なり。これを唱え、これを念ずるに、口に薫じ、心に薫じて、知らざるに自ずから無量万徳の功徳の香気あり。故に潜かに仏の功徳の気分を備う。この故に弥陀の五智の功徳を信知して、名号を称念すれば、本覚の心蓮は冥に漸く生長して諸法無生甚深の一分の理を開発するなり。尤もこれを貴むべし。「即入」等とは、即ちこれ往生、即ち始益たり。「道場」等とは、即ちこれ成仏、即ち終益たり。問う。経文の如きは、まず「当座道場」といいて、初に成仏の果を説き、次に「生諸仏家」といいて、後に往生の益を挙ぐ。今の釈は前後相違すること、如何。答う。経は従果向因の義に依り、釈は従因至果の意を存す。影略互顕す、その義炳然たり。SYOZEN2-308,309/TAI6-627,628 ◎王日休云。我聞無量寿経。衆生聞是仏名信心歓喜乃至一念。願生彼国即得往生住不退転。不退転者。梵語謂之阿惟越致。法華経謂弥勒菩薩所得報地也。一念往生便同弥勒。仏語不虚。此経寔往生之径術・脱苦之神方。応皆信受。已上。 ◎(龍序浄土文)王日休云わく、我『無量寿経』を聞くに、衆生この仏の名を聞きて、信心歓喜し、乃至一念せんもの、かの国に生ぜんと願ずれば、すなわち往生を得、不退転に住すと。不退転とは、梵語にはこれを阿惟越致と謂う。『法華経』には謂わく、弥勒菩薩の所得の報地なり。一念往生、すなわち弥勒に同じ。仏語虚しからず。この経はまことに往生の径術・脱苦の神方なり。みな信受すべしと。已上。SIN:SYOZEN2-79/HON-249,HOU-362 〇次文龍舒浄土文也。龍舒所名。王日休者。字是虚中。云王虚中。此是儒士国学進士。但今引文非日休言。此浄土文三人加跋。其中最初所加参政周大資作。而今直言日休云者是言総也。例如経中雖有其言。為弟子語。総云経言。意云日休所作文云。不著作者。只省略耳。言謂弥勒菩薩等者。涌出品云。我等住阿惟越致地。於是事中亦所不達。已上。弥勒菩薩。釈尊付属当来導師。衆所帰仰。謂所得地阿惟越致。念仏行者更無自力修行之功。只以南無他力一念。往生之時所得同為阿惟越致。歎此奇特。是故引之。SYOZEN2-309/TAI6-635 〇次の文は『龍舒の浄土文』なり。龍舒は所の名。王日休、字はこれ虚中、王虚中という。これはこれ儒士国学進士なり。但し今の引文は日休の言にあらず。この浄土文は三人の跋を加う。その中に最初に加うる所の参政周大資の作なり。而るに今直ちに「日休云」というは、これ言の総せるなり。例せば経の中に、その言ありといえども弟子の語たる、総じて経に言わくというが如し。意は日休が所作の文にいうという。作者を著わさざることは、ただ省略せらるのみ。「謂弥勒菩薩」等というは、『涌出品』に云わく「我等、阿惟越致地に住せる、この事の中に於いて、また達せざる所なり」已上。弥勒菩薩は釈尊付属当来の導師、衆の帰仰する所なり。所得の地をいうに、阿惟越致なり。念仏の行者は更に自力修行の功なく、ただ南無他力の一念を以て往生の時に得る所は、同じく阿惟越致たり。この奇特を歎ず。この故にこれを引く。SYOZEN2-309/TAI6-635 ◎大経言。仏告弥勒。於此世界有六十七億不退菩薩。往生彼国一一菩薩。已曽供養無数諸仏。次如弥勒。 ◎『大経』に言わく、仏、弥勒に告げたまわく、この世界より、六十七億の不退の菩薩ありて、かの国に往生す。一一の菩薩は、すでにむかし無数の諸仏を供養せりき。次いで弥勒のごとしと。SIN:SYOZEN2-79/HON-249,HOU-362 ◎又言。仏告弥勒。此仏土中有七十二億菩薩。彼於無量億那由他百千仏所。種諸善根成不退転。当生彼国。抄出。 ◎(如来会)また言わく、仏、弥勒に告げたまわく、この仏土の中に、七十二億の菩薩あり。彼は無量億那由他百千の仏の所にして、もろもろの善根を種えて不退転を成ぜるなり。当にかの国に生ずべしと。抄出。SIN:SYOZEN2-79/HON-249,HOU-362 〇次大経文。広説此土他方仏土及無量土大小菩薩。皆乗仏智往生彼土。於中今初明大菩薩往生文也。此世界者即是娑婆。次文易見。又言如前。SYOZEN2-309/TAI6-642,643 〇次に『大経』の文。広く此土・他方の仏土及び無量の土の大小菩薩は、みな仏智に乗じて彼の土に往生することを説く。中に於いて、今は初に大菩薩の往生を明かす文なり。「此世界」とは即ちこれ娑婆なり。次の文、見易し。「又言」は前の如し。SYOZEN2-309/TAI6-642,643 ◎律宗用欽師云。至如華厳極唱法華妙談。且未見有普授。衆生一生皆得阿耨多羅三藐三菩提記者。誠所謂不可思議功徳之利也。已上。 ◎(超玄記)律宗の用欽師の云わく、至れること『華厳』の極唱、『法華』の妙談に如かんや。かつて未だ普授あることを見ず。衆生一生にみな阿耨多羅三藐三菩提の記を得ること、誠に謂うところの不可思議功徳の利なり。已上。SIN:SYOZEN2-79/HON-249,HOU-362 〇次用欽釈。是歎往生即至不退。速登一生補処益也。SYOZEN2-310/TAI6-648 〇次に用欽の釈なり。これ往生すれば即ち不退に至りて速かに一生補処に登る益を歎ずるなり。SYOZEN2-310/TAI6-648 ◎真知。弥勒大士窮等覚金剛心故。龍華三会之暁。当極無上覚位。念仏衆生窮横超金剛心故。臨終一念之夕。超証大般涅槃。故曰便同也。加之獲金剛心者。則与韋提等。即可獲得喜悟信之忍。是則往相回向之真心徹到故。籍不可思議之本誓故也。 ◎(御自釈)真に知りぬ。弥勒大士、等覚金剛心を窮むるがゆえに、龍華三会の暁、当に無上覚位を極むべし。念仏衆生は、横超の金剛心を窮むるがゆえに、臨終一念の夕に、大般涅槃を超証す。故に便同と曰うなり。しかのみならず、金剛心を獲る者は、すなわち韋提と等しく、すなわち喜・悟・信の忍を獲得すべし。これすなわち往相回向の真心徹到するがゆえに、不可思議の本誓に籍るがゆえなり。SIN:J:SYOZEN2-79/HON-250,HOU-362,363 〇次私解釈。問。如上所引龍舒文者。弥勧菩薩現在所得阿惟越致不退之位。念仏行者生安楽土同得彼位。弥勧現益。行者当益。其位相同。故云便同。而今釈者。弥勧所得。行者所得。彼此共約極果当益。其意如何。答。以前料簡其意実爾。但今釈意。弥勧菩薩今居等覚補処之位。当来可唱三会正覚。念仏行者。今雖薄地。往生之時便至地上分証涅槃常楽之理。論註云。不断煩悩得涅槃分。已上。般舟讃云。一到即受清虚楽。清虚即是涅槃因。已上。往生礼讃云。即証彼法性之常楽。已上。分極雖殊。開悟是同。前後領解各有其意。SYOZEN2-310/TAI6-651 〇次に私の解釈。問う。上の所引の龍舒の文の如きは、弥勧菩薩の現在に得る所は阿惟越致不退の位なり。念仏の行者は安楽土に生じて同じく彼の位を得。弥勧は現益、行者は当益なり。その位は相同じ。故に「便同」という。而るに今の釈は、弥勧の所得と、行者の所得と、彼此共に極果の当益に約す。その意は如何。答う。以前の料簡は、その意実に爾り。但し今の釈の意は、弥勧菩薩は今等覚補処の位に居して、当来に三会の正覚を唱うべし。念仏の行者は、今は薄地なりといえども、往生の時は便ち地上に至りて分に涅槃常楽の理を証す。『論註』に云わく「煩悩を断ぜずして涅槃の分を得」已上。『般舟讃』に云わく「一たび到りぬれば即ち清虚の楽を受く。清虚は即ちこれ涅槃の因なり」已上。『往生礼讃』に云わく「即ち彼の法性の常楽を証す」已上。分極殊なるといえども、開悟はこれ同じ。前後の領解は、おのおのその意あり。SYOZEN2-310/TAI6-651 ◎禅宗智覚讃念仏行者云。奇哉。仏力難思。古今未有。 ◎(楽邦文類)禅宗の智覚、念仏の行者を讃めて云わく、奇なるかな、仏力難思なれば、古今も未だあらずと。SIN:SYOZEN2-80/HON-250,HOU-363 〇次智覚釈。師作神棲安養賦。載在楽邦文類第五。彼賦総有四百二十一言。其中今此所引十字。其結句也。次上句云。其或誹謗三宝破壊律儀。逼風刀解体之際。当業鏡照形之時。遇善知識現不思議。剣林変七重之行樹。火車化八徳之蓮池。地獄消[エン09]湛爾而怖心全息。天華飛引俄然而化仏迎之。慧眼明心香炉随手。応懺而蓮華不萎。得記而宝林非久。已上如所引。又初句云。弥陀宝刹安養嘉名。処報土而極楽。於十方而最清。二八観門修定慧而冥往。四十大願運散心而化生。爾乃畢世受持。一生帰命。仙人乗雲而聴法。空界作唄而讃詠。紫金台上身登而本願非虚。白玉毫中神化而一心自慶。已上。繋不悉引。聊出冠履。SYOZEN2-310/TAI6-659 〇次に智覚の釈。師は神棲安養の賦を作る。載せて『楽邦文類』の第五に在り。彼の賦は総じて四百二十一言あり。その中に今この所引の十字は、その結句なり。次上の句に云わく「それ或いは三宝を誹謗し、律儀を破壊するも、風刀の体を解くの際に逼り、業鏡の形を照らす時に当りて、善知識に遇いて不思議を現ず。剣林は七重の行樹に変じ、火車は八徳の蓮池に化す。地獄消[エン09]し、湛爾として怖心全く息み、天華飛引し俄然として化仏これを迎う。慧眼は心に明らかに、香炉は手に随う。懺に応じて蓮華は萎まず。記を得て宝林は久しきにあらず」已上、所引の如し。また初の句に云わく「弥陀の宝刹、安養の嘉名、報土に処して楽を極め、十方に於いて最も清し。二八の観門、定慧を修して冥に往き、四十の大願、散心を運びて化生す。爾して乃ち世を畢るまで受持し、一生帰命すれば、仙人は雲に乗りて法を聴き、空界は唄を作して讃詠す。紫金台の上に身登りて、本願虚しきにあらず。白玉毫の中に神化して一心に自ら慶ぶ」已上。繋くして悉くは引かず。聊か冠履を出だす。SYOZEN2-310/TAI6-659 ◎律宗元照師云。鳴呼明教観孰如智者乎。臨終挙観経。讃浄土而長逝矣。達法界孰如杜順乎。勧四衆念仏陀。感勝相而西邁矣。参禅見性孰如高玉智覚乎。皆結社念仏而倶登上品矣。業儒有才孰如劉雷・柳子厚・白楽天乎。然皆秉筆書誠而願生彼土矣。已上。 ◎(楽邦文類)律宗の元照師の云わく、ああ、教観に明らかなること、熟〈たれ〉か智者に如かんや。終わりに臨みて『観経』を挙し、浄土を讃じて長く逝きき。法界に達せること、熟〈たれ〉か杜順に如かんや。四衆を勧め仏陀を念じて、勝相を感じて西に邁〈ゆ〉きき。禅に参わりて性を見ること、熟〈たれ〉か高玉・智覚に如かんや。みな社を結び仏を念じて倶に上品に登りき。業儒、才あるもの、熟〈たれ〉か劉・雷・柳子厚・白楽天に如かんや。しかるにみな筆を秉り誠を書して、かの土に生ぜんと願じきと。已上。SIN:SYOZEN2-80/HON-250,HOU-363 〇次元照釈。同文類三無量院造弥陀像記。凡有六百五十字中。今此所引中間九十二字是也。言嗚呼者。傷歎声也。次上詞云。或束縛於名相。或[エン09]冥於豁達。故有貶念仏為麁行忽浄業為小道。執隅自蔽。盲無所聞。雖聞而不信。雖信而不修。雖修而不勤。於是浄土教門或幾乎息矣。已上。念仏為麁浄業為小。不信不勤所痛有斯。明教等者。三大部中。就彼玄義文句言之。一代高覧数三五返。五時八教一宗恢弘至天台来分別熾盛。是故世挙称其十徳。明其教相智解応知。就観言之。依止観意。止観明静前代未聞。円頓実相一念三千。説己心中所行法門。観解明了亦以可知。臨終等者。霊応伝一天台大師別伝中云。唱二部経為最後聞慧。聴法華竟讃云。法門父母慧解由生。本迹広大微妙難測。乃至。聴無量寿経竟讃曰。四十八願荘厳浄土。華池宝閣。瑞応刪伝云宝樹。易往無人。火車相現能改悔者。尚復往生。況吾戒慧薫修耶。乃至。如入三昧。以大隋開皇十七年歳次丁巳十一月二十四日未時入滅。已上。問。此文之中唯讃大経。云挙観経有何拠乎。答。此文中云火車相現改悔往生。由此文故云挙観経。讃浄土者。讃双巻云。四十八願荘厳浄土之文意也。-SYOZEN2-310,311/TAI6-661,662- 〇次に元照の釈。同じき『文類』の三、無量院に弥陀の像を造る記。凡そ六百五十字ある中に、今この所引は中間の九十二字これなり。「嗚呼」というは、傷歎の声なり。次上の詞に云わく「或いは名相に束縛し、或いは豁達に[エン09]冥す。故に念仏を貶じて麁行と為し、浄業を忽〈ゆるがせ〉にして、小道と為るものあり。隅を執して自ら蔽し、盲にして聞く所なし。聞くといえども、而も信ぜず。信ずといえども而も修せず。修すといえども、而も勤めず。ここに於いて浄土の教門は或いは息むに幾〈ちか〉し」已上。念仏を麁と為し、浄業を小と為す。信ぜず、勤めざる、痛む所ここにあり。「明教」等とは、三大部の中に、彼の『玄義』『文句』に就きてこれを言う。一代の高覧、数三五返。五時八教一宗の恢弘は天台に至りてよりこのかた分別熾盛なり。この故に世挙げてその十徳を称す。その教相に明かなること智解知んぬべし。観に就きてこれを言わば、『止観』の意に依る。止観の明静なること、前代に未だ聞かず。円頓実相一念三千、己心中所行の法門を説く。観解の明了なること、また知んぬべし。「臨終」等とは、『霊応伝』の一の天台大師の別伝の中に云わく「二部の経を唱して最後の聞慧と為す。法華を聴き竟わりて讃じて云わく、法門の父母、慧解の由生なり。本迹広大にして微妙にして測り難し。乃至。無量寿経を聴き竟わりて讃じて曰わく、四十八願、浄土を荘厳す。華池宝閣(瑞応刪伝に宝樹という)。往き易くして人なし。火車相現ずれども、能く改悔すれば、尚また往生す。況んや吾が戒慧薫修せるをや。乃至。三昧に入るが如くして、大隋の開皇十七年歳次丁巳十一月二十四日未の時を以て入滅す」已上。問う。この文の中に、ただ『大経』を讃ず。「観経を挙ぐ」というは何の拠かあるや。答う。この文の中に「火車相現ずれども、改悔すれば往生す」という。この文に由るが故に「観経を挙ぐ」という。「浄土を讃ず」るは『双巻』を讃ず。「四十八願荘厳浄土」という文の意なり。-SYOZEN2-310,311/TAI6-661,662- 〇達法等者。法界唯心華厳経意。隋朝終南杜順法師能達経旨。是故云爾。彼華厳宗震旦弘通五師之中立為初祖。此後智儼法蔵澄観宗密而已。-SYOZEN2-311/TAI6-662- 〇「達法」等とは、法界唯心『華厳経』の意なり。隋朝終南の杜順法師は能く経旨に達す。この故に爾いう。彼の華厳宗、震旦の弘通五師の中に立てて初祖と為す。この後、智儼・法蔵・澄観・宗密ならくのみ。-SYOZEN2-311/TAI6-662- 〇参禅等者。智覚禅師雖禅大祖。念弥陀仏欣西方国造安養賦。心行可知。又有所造。所謂万善同帰集是。彼第二云。問。唯心浄土周遍十方。何得詫質蓮台。棄形安養而興取捨之念。豈達無生之門。欣厭情生。何成平等。答。唯心仏土者。了心方生。如来不思議境界経云。三世一切諸仏皆無所有。唯依自心。菩薩若能了知諸仏及一切法皆唯心量。得随順忍。或入初地。捨身速生極楽仏土。故知識心方生唯心浄土。著境祗堕所縁境中。既明因果無差。乃知心外無法。又平等之門無生之旨。雖即仰教生信。其奈力量未充心浮境強習重。須生仏国以依勝縁忍力易成速行菩薩道。起信論云。衆生初学是法。欲求正信。其心怯弱。以住娑婆不常値仏信心難成。意欲退者。当知如来有勝方便摂護信心。謂以専意念仏因縁。随願得生仏土。常見於仏永離悪道。若人専念西方阿弥陀仏。即得往生。常見仏故。終無有退。往生論云。遊戯地門者。生彼国土得無生忍已。還入生死園。教化地獄救苦衆生。以此因縁求生浄土。十疑論云。智者熾然求生浄土達生体不可得。即是真無生。此謂心浄故即仏土浄。愚者為生所縛聞生即作生解。聞無生即作無生解。不知生即無生無生即生。不達此理。横相是非。此是謗法邪見人也。已上。都有六重問答之中。今挙初重後五略之。登上品者。真歇了禅師浄土説云。如智覚禅師乃宗門之標准浄業之白眉也。興隆仏法勧億万人修白業。臨終預知時至。種種殊勝甚至。舎利鱗砌于身。嘗有撫州一僧。経年旋遶禅師之塔。即今西湖浄慈寺寿。私云具云延寿。禅師塔頭也。人問其故。謂因病入冥。閻王以陽数未艾得放還生。次見殿左。供養画僧一[セツ01]。閻王礼拝勤致。遂扣主吏。此是何人。吏曰抗州永明寺寿禅師也。天下死者。無不経由冥俯案判生。唯此人修行精進径生極楽上品。王以為希有。故図像恭敬。已上。-SYOZEN2-331,332/TAI6-662,663- 〇「参禅」等とは、智覚禅師は禅の大祖なりといえども、弥陀仏を念じ、西方国を欣び、安養の賦を造る。心行知りぬべし。また所造あり、所謂『万善同帰集』これなり。彼の第二に云わく「問う。唯心の浄土は十方に周遍す。何ぞ質を蓮台に詫し、形を安養に棄てて、而も取捨の念を興すことを得ん。あに無生の門に達せんや。欣厭の情生ず。何ぞ平等を成ぜん。答う。唯心の仏土は心を了して方に生ず。如来不思議境界経に云わく「三世一切の諸仏はみな所有なし。ただ自心に依る。菩薩はもし能く諸仏及び一切法はみな唯心の量なりと了知すれば、随順忍を得て、或いは初地に入り、身を捨てて速かに極楽仏土に生ず。故に知んぬ識心は方に唯心の浄土に生ず。境に著すれば、ただ所縁の境の中に堕す。既に因果を明らむるに差なし。乃ち知んぬ、心外に法なしということを。また平等の門、無生の旨、即ち教を仰いで信を生ずるといえども、それ力量は未だ充たず、心浮び、境強く、習重きをいかんせん。須く仏国に生じて以て勝縁に依りて、忍力成じやすく速かに菩薩道を行ずべし。『起信論』に云わく、衆生初めてこの法を学して、正信を求めんと欲するに、その心怯弱にして、娑婆に住せば、常に仏に値わず、信心成じ難きを以て、意に退せんと欲する者は、当に知るべし、如来に勝方便ましまして信心を摂護す。謂わく、意を専らにして念仏する因縁を以て、願に随いて仏土に生ずることを得て、常に仏を見たてまつりて永く悪道を離る。もし人専ら西方の阿弥陀仏を念ずれば、即ち往生することを得。常に仏を見たてまつるが故に、終に退あることなし。『往生論』に云わく、遊戯地門とは、彼の国土に生じて無生忍を得已りて、生死の園に還り入りて、地獄を教化して苦の衆生を救う。この因縁を以て浄土に生ずることを求む。『十疑論』に云わく、智者は熾然に浄土に生ぜんことを求めて、生体不可得なりと達す。即ちこれ真の無生なり。これを心浄なるが故に即ち仏土浄なりという。愚者は生の為に縛せられて生を聞きては即ち生の解を作し、無生を聞きては即ち無生の解を作す。生即無生・無生即生なることを知らず。この理を達せず、横に相是非す。これはこれ謗法邪見の人なり」已上。都て六重の問答ある中に、今は初重を挙げて、後の五はこれを略す。「上品に登る」とは、真歇の了禅師の『浄土説』に云わく「智覚禅師の如きは乃ち宗門の標准、浄業の白眉なり。仏法を興隆し億万人を勧めて白業を修せしむ。臨終に預じめ時の至るを知りて、種種の殊勝甚だ至る。舎利は鱗のごとくに身に砌〈あつ〉まる。嘗て撫州に一の僧あり。年を経て禅師の塔を旋遶す。即ち今の西湖浄慈寺の寿(私に云わく、具には延寿という)禅師の塔頭なり。人その故を問う。謂く病に因りて冥に入りしに、閻王は陽数の未だ艾せざるを以て放〈ゆる〉して還〈また〉生けることを得しむ。次に殿の左を見るに、画僧一[セツ01]を供養せり。閻王礼拝すること勤致なり。遂に主吏に扣〈と〉う、これはこれ何人ぞと。吏の曰わく、抗州永明寺の寿禅師なり。天下に死する者は冥俯を経由して判生を案ぜられざることなし。唯この人のみ修行精進にして径〈ただ〉ちに極楽の上品に生ず。王は希有なりとおもえり。故に像を図して恭敬す」已上。-SYOZEN2-331,332/TAI6-662,663- 〇業儒等者。劉劉遺民。雷雷次宗。共是廬山十八賢中俗士六人之其二也。楽邦文類第三。元照無量院造弥陀像記云。弥陀教観載于大蔵不為不多。然仏化東流数百年間。世人殆無知者。晋慧遠法師居廬山之東林。神機独抜為天下倡。鑿池栽蓮。建堂立誓。専崇浄業。号為白蓮社。当時名僧巨儒不期而自至。慧持道生釈門之俊彦。劉遺民雷次宗文士之豪傑。皆伏膺。請教而預其社焉。是故後世言浄社者。必以東林為始。厥後善導懐感大闡於長安。智覚慈雲盛振于淅石。末流狂妄正道梗塞。上所引或束以下此次也。柳子厚者。是又儒士。官為礼部。専修西方。此人作有龍興寺修浄土院記。此元照記。与此記碑在同文類同巻之中。其記初云。中州之西数万里有国。曰身毒。釈迦牟尼如来示現之地。彼仏言。西方過十万億仏土有世界。曰極楽。仏号無量寿如来。其国無有三毒八難。衆宝以為飾。其人無有十纏九悩。群聖以為友。有能誠心大願帰心是土者。苟念力具足則往生彼国。然後出三界之外。其於仏道無退転者。其言無所欺也。已上。総有四百三十許字。今少挙始多略文耳。白楽天者。字曰居易。太子賓客翰林主人。列名禅派帰心浄土。世皆称之文殊化身。文殊師利阿弥陀経同聞衆中菩薩上首。又為観経耆闍上首。又対法照教以念仏。為其化身自行化他専修西方。誠有由也。白氏画西方浄土[セツ01]記云。我本師釈迦如来説言。従是西方過十万億仏土。有世界号極楽。乃至。諦観此娑婆世界微塵衆生。無賢愚。無貴賤。無幼艾。有起心帰仏者。挙手合掌必先向西方。有怖厄苦悩者開口発声。必先念阿弥陀仏。又範金合土刻石織紋。乃至。印水聚沙童子戯者。莫不卒以阿弥陀仏為上首。不知其然而然。由是而観。是彼如来有大誓願於此衆生。有大因縁於彼国土矣。乃至。弟子居易焚香稽首。跪於仏前起慈悲心。発弘誓願。願此功徳回施一切衆生。一切衆生有如我老者。如我病者。願皆離苦得楽断悪修善。不越南瞻部。便覩西方。白毫大光応念来感。青蓮上品随願往生。従現在身。尽未来際。常得親近而供養也。欲重宣此願而偈讃曰。極楽世界清浄土。無諸悪道及衆苦。願如老身病苦者。同生無量寿仏所。已上。又白詩云。余年七十一。不復事吟哦。看経費眼力。作福畏奔波。無以度心眼。一声阿弥陀。行也阿弥陀。坐也阿弥陀。縦然忙似鑚。不廃阿弥陀。日暮而途遠。余生已蹉[タ06]。普勧法界衆。同念阿弥陀。達人応笑我。多却阿弥陀。達又作麼生。不達又如何。日暮清浄心。但念阿弥陀。已上。-SYOZEN2-313,314/TAI6-663,664- 〇「業儒」等とは、「劉」は劉遺民、「雷」は雷次宗、共にこれ廬山の十八賢の中、俗士六人のその二なり。『楽邦文類』の第三、元照の無量院に弥陀像を造る記に云わく「弥陀の教観は大蔵に載せて多からずとせず。然に仏化東流して数百年間、世人に殆ど知る者なし。晋の慧遠法師は廬山の東林に居して、神機独抜して天下の倡たり。池を鑿り、蓮を栽え、堂を建て、誓を立てて、専ら浄業を崇む。号して白蓮社と為す。当時の名僧・巨儒は期せずして自ずから至る。慧持・道生は釈門の俊彦、劉遺民・雷次宗は文士の豪傑、みな伏膺して、教を請て、その社に預る。この故に後世に浄社という者は、必ず東林を以て始と為す。厥の後に善導・懐感は大いに長安に闡〈ひら〉き、智覚・慈雲は盛んに淅石に振う。末流狂妄して正道梗塞す」。(上の所引の或束以下はこの次なり。)「柳子厚」とは、これまた儒士、官、礼部たり。専ら西方を修す。この人の作に龍興寺に浄土院を修する記あり。この元照の記と、この記碑とは同じき『文類』同巻の中に在り。その記の初に云わく「中州の西、数万里に国あり、身毒という。釈迦牟尼如来示現の地なり。彼の仏の言わく、西方、十万億仏土を過ぎて世界あり、極楽という。仏を無量寿如来と号す。その国は三毒八難あることなし。衆宝を以て飾と為す。その人は十纏九悩あることなし。群聖以て友たり。能く誠心の大願ありて、心をこの土に帰する者は、苟〈まこと〉に念力具足すれば、則ち彼の国に往生す。然して後に三界の外に出ず。それ仏道に於て退転する者なし。その言、欺く所なきなり」已上。総じて四百三十許字あり。今少しき始を挙げて多く文を略すらくのみ。「白楽天」とは、字を居易という。太子の賓客、翰林の主人、名を禅派に列ね、心を浄土に帰す。世みなこれを文殊の化身と称す。文殊師利は『阿弥陀経』の同聞衆の中の菩薩の上首なり。また『観経』の耆闍の上首たり。また法照に対して教うるに念仏を以てす。その化身として、自行化他、専ら西方を修す。誠に由あるなり。白氏は西方浄土の[セツ01]を画する記に云わく「我本師釈迦如来の説きて言わく、これより西方に、十万億の仏土を過ぎて世界あり、極楽と号す。乃至。諦かにこの娑婆世界の微塵の衆生を観ずるに、賢愚となく、貴賤となく、幼艾となく、心を起して仏に帰することある者は、手を挙げて掌を合わせて必すまず西方に向い、怖厄苦悩ある者は口を開きて声を発して、必ずまず阿弥陀仏を念ず。また金に範し、土を合わせ、石を刻み、紋を織り、乃至、水に印し、沙を聚めて、童子の戯るる者は卒〈ことごと〉く阿弥陀仏を以て上首と為ざることなし。その然して然ることを知らず、これに由りて観ずれば、これ彼の如来、大誓願、この衆生にあり、大因縁、彼の国土にあり。乃至。弟子居易、香を焚き稽首し、仏前に跪きて慈悲心を起し、弘誓願を発す。願わくはこの功徳、一切衆生に回施す。一切衆生に我が如く老いたる者、我が如く病める者あらば、願わくはみな離苦・得楽し、断悪修善せん。南瞻部を越えずして、便ち西方を覩る。白毫の大光は念に応じて来感し、青蓮の上品は願に随いて往生せん。現在の身より未来際を尽くすまで、常に親近なることを得て供養せん。重ねてこの願を宣んと欲して、而も偈をもて讃じて曰わく、極楽世界清浄の土には諸の悪道及び衆の苦なし。願わくは老身病苦の者の如き、同じく無量寿仏の所に生ぜん」已上。また白の詩に云わく「余が年七十一、また吟哦を事とせず。経を看れば眼力を費し、福を作せば奔波を畏る。以て心眼を度することなし。一声せよ阿弥陀、行きても阿弥陀、坐しても阿弥陀。たとい忙しきこと鑚るに似たれども、阿弥陀を廃せず。日暮て途遠し。余が生已に蹉[タ06]たり。普く勧む法界の衆、同く阿弥陀を念ぜよ。達せる人は我を笑うべし。多く阿弥陀を却く。達せるもまた作麼生〈そもさん〉、達せざるもまた如何。日暮に清浄の心をもて、ただ阿弥陀を念ぜよ」已上。-SYOZEN2-313,314/TAI6-663,664- 〇然皆等者総結。如上高僧碩儒各達仏教。皆記所解自念西方。令化願生。非唯此人。且挙少耳。所引之文次下詞云。以是観之。自非負剛明卓抜之識。達生死変化之数者。其孰能信於此哉。已上。当知不恃明智博達。急顧生死迅速理数。専憑仏力宜帰西也。-SYOZEN2-314/TAI6-664,665 〇「然皆」等とは総結なり。上の如き高僧・碩儒はおのおの仏教に達す。みな所解を記するに自ら西方を念じ、化をして生を願ぜしむ。唯この人のみにあらず。且く少を挙げらくのみ。所引の文の次下の詞に云わく「これを以てこれを観ずるに、剛明卓抜の識を負い、生死変化の数〈ことわり〉を達する者にあらざらんよりは、それ孰〈たれ〉か能くこれを信ぜんや」已上。当に知るべし、明智博達を恃〈たの〉まず、急に生死迅速の理数を顧みて、専ら仏力を憑み、宜しく西に帰すべきなり。-SYOZEN2-314/TAI6-664,665 |