六要鈔会本 第5巻の5(9の内) 信の巻 重釈要義 仮偽仏弟子 悲歎述懐 引文 『涅槃経』・善導『般舟讃』『法事讃』 |
◎=親鸞聖人『教行信証』の文。 〇=存覚『六要抄』の文 |
『教行信証六要鈔会本』 巻五之五 |
◎言仮者。即是聖道諸機・浄土定散機也。 ◎(御自釈)仮と言うは、すなわちこれ聖道の諸機、浄土定散の機なり。SIN:J:SYOZEN2-80/HON-250,HOU-363 〇言仮等者。集主私釈。SYOZEN2-314/TAI6-671 〇「仮」等というは、集主の私の釈なり。SYOZEN2-314/TAI6-671 ◎故光明師云。仏教多門八万四。正為衆生機不同。 ◎(般舟讃)故に光明師の云わく、仏教多門にして八万四なり、正しく衆生の機、不同なるがためなりと。SIN:SYOZEN2-80/HON-250,251,HOU-363,364 ◎又云。方便仮門等無殊。 ◎(法事讃)また云わく、方便の仮門等しくして殊なしと。SIN:SYOZEN2-80/HON-251,HOU-364 ◎又云。門門不同名漸教。万劫苦行証無生。已上。 ◎(般舟讃)また云わく、門門不同なるを漸教と名づく、万劫苦行して無生を証すと。已上。SIN:SYOZEN2-80/HON-251,HOU-364 〇大師解釈。引三文中。初之二句般舟讃文。次之一句法事讃下。或仮為化。本不同歟。後之二句又般舟讃。此等諸文皆顕聖道八万諸教広被諸機。SYOZEN2-314,315/TAI6-671 〇大師の解釈、三文を引く中に、初の二句は『般舟讃』の文。次の一句は『法事讃』の下。或いは「仮」を「化」と為す、本の不同か。後の二句は、また『般舟讃』。これ等の諸文はみな聖道八万の諸教は広く諸機に被らしむることを顕わす。SYOZEN2-314,315/TAI6-671 ◎言偽者。則六十二見・九十五種之邪道是也。 ◎(御自釈)偽と言うは、すなわち六十二見、九十五種の邪道これなり。SIN:J:SYOZEN2-80/HON-251,HOU-364 ◎涅槃経言。世尊常説。一切外学九十五種皆趣悪道。已上。 ◎『涅槃経』(如来性品)に言わく、世尊常に説きたまわく、一切の外は九十五種を学んで、みな悪道に趣くと。已上。SIN:SYOZEN2-80/HON-251,HOU-364 ◎光明師云。九十五種皆汚世。唯仏一道独清閑。已上。 ◎(法事讃)光明師の云わく、九十五種みな世を汚す、ただ仏の一道のみ独り清閑なりと。已上。SIN:SYOZEN2-80/HON-251,HOU-364 〇言偽等者。明外道教。言六十二見者。依律宗名句意。総就五陰有六十見。先於色陰作其四句。一即色是我。二離色是我。三我大色小色在我中。四色大我小我在色中。下之四陰准之可知。若受若想若行若識。改色一字如前作句。故於一陰各有四見。五陰四見四五之数合成二十。而歴三世有此二十。則成六十。此外別加断常二見。是故総有六十二見。言九十五種者。是挙外道種類。九十五種九十六種。経論異説。除取有由。六師外道弟子各有一十五人。合九十人。師弟合論九十六種。於彼九十六種之中有其一類同小乗計。故除其一云九十五。雖有其計同小乗辺。実是旧法。是故斥言九十六種皆是邪道。九十六者。華厳智論薩婆多論多分之説。九十五者涅槃経説。此経意者。九十六種所計皆是戒禁取見。而於此中。有其一種執真涅槃在四禅等。故不説云直堕三途。依此義辺言九十五。大師解釈由斯説耳。唯仏等者。雖為五種。雖為六種。其外一也。SYOZEN2-315/TAI6-675 〇「偽」等というは、外道の教を明かす。「六十二見」というは、『律宗の名句』の意に依るに、総じて五陰に就きて六十見あり。まず色陰に於いてその四句を作す。一には即色是我、二には離色是我、三には我大色小色在我中、四には色大我小我在色中なり。下の四陰は、これに准じて知るべし。もしは受、もしは想、もしは行、もしは識。色の一字を改めて前の如く句を作す。故に一陰に於いて、おのおの四見あり。五陰の四見、四五の数合して二十と成る。而も三世を歴てこの二十あり。則ち六十と成る。この外別に断常の二見を加う。この故に総じて六十二見あり。「九十五種」というは、これ外道の種類を挙ぐ。九十五種、九十六種。経論の異説にして、除取に由あり。六師外道は弟子おのおの一十五人あり。合せて九十人、師弟合論すれば九十六種なり。彼の九十六種の中に於いて、その一類の小乗の計に同じきあり。故にその一を除きて九十五という。その計は小乗に同じき辺ありといえども、実にはこれ旧法なり。この故に斥けて九十六種みなこれ邪道なりという。九十六とは、『華厳』『智論』『薩婆多論』多分の説、九十五とは、『涅槃経』の説、この経の意は、九十六種の所計はみなこれ戒禁取見なり。而るにこの中に於いて、その一種に真涅槃は四禅等に在りと執するあり。故に説いて直ちに三途に堕すといわず。この義辺に依りて九十五という。大師の解釈はこの説に由るらくのみ。「唯仏」等とは、五種と為すといえども、六種と為すといえども、その外の一なり。SYOZEN2-315/TAI6-675 ◎誠知。悲哉愚禿鸞。沈没於愛欲広海。迷惑於名利太山。不喜入定聚之数。不快近真証之証。可耻可傷矣。 ◎(御自釈)誠に知りぬ。悲しきかな、愚禿鸞、愛欲の広海に沈没し、名利の太山に迷惑して、定聚の数に入ることを喜ばず、真証の証に近づくことを快しまざることを、恥ずべし、傷むべしと。SIN:J:SYOZEN2-80/HON-251,HOU-364 〇誠知等者。傷歎詞也。但雖悲痛。又有所喜。寔是可謂悲喜交流。不喜不快是顕恥傷。入定聚数与近真証。潜表自証。非無喜快。SYOZEN2-315/TAI6-681 〇「誠知」等とは、傷歎の詞なり。但し悲痛すといえども、また喜ぶ所あり。寔〈まこと〉にこれ悲喜交流というべし。「不喜」「不快」はこれ恥傷を顕わす。定聚の数に入ると、真証に近づくと、潜に自証を表わす。喜快なきにあらず。SYOZEN2-315/TAI6-681 |