六要鈔会本 第六巻の(6の内)
 証の巻
 大証釈
  引文 曇鸞『論註』・道綽『安楽集』・善導『観経疏』
  往相回向結釈
◎=親鸞聖人『教行信証』の文。
〇=存覚『六要抄』の文
『教行信証六要鈔会本』 巻六之二

 ◎浄土論曰。荘厳妙声功徳成就者。偈言梵声悟深遠微妙聞十方故。此云何不思議。経言。若人但聞彼国土清浄安楽。剋念願生。亦得往生。即入正定聚。此是国土名字為仏事。安可思議。
 ◎(論註)『浄土論』に曰わく、荘厳妙声功徳成就とは、偈に梵声悟深遠微妙聞十方(梵声の悟り、深遠なり、微妙にして十方に聞ゆ)と言えるが故に。これいかんが不思議なる。経に言わく、もし人ただかの国土の清浄安楽なるを聞きて、剋念して生まれんと願ぜんものと、また往生を得るものとは、すなわち正定聚に入る。これはこれ国土の名字、仏事をなす。いずくんぞ思議すべきやと。SYO:SYOZEN2-104/HON-281,282,HOU-393-

 〇次浄土論。此有五文。第一文者。国土荘厳十七種中。其第十一之荘厳也。今言声者不関音声。是名字也。言経言者。問。指何経耶。答。指覚経也。彼経云。十七我作仏時。令我名字聞八方上下無数仏国。諸仏各於弟子衆中。歎我功徳国土之善。諸天人民。[ナン04]動之類。聞我名字。皆悉踊躍。来生我国。不爾者。我不作仏。已上。問。彼覚経不云即入正定聚。今註何加之。答。経文雖隠。其義必然。云来生我国。即入正定聚也。就正定言今被引之。SYOZEN2-325/TAI7-293
 〇次に『浄土論』。これに五文あり。第一の文は、国土の荘厳十七種の中に、その第十一の荘厳なり。今「声」というは音声に関わらず。これ名字なり。「経言」というは、問う、何の経を指すや。答う、『覚経』を指すなり。彼の経に云わく「十七に我、作仏せん時、我名字をして八方上下無数の仏国に聞かしめん。諸仏おのおの弟子衆の中に於いて、我功徳国土の善を歎ぜん。諸天人民、[ナン04]動の類、我名字を聞きて、皆悉く踊躍して。我国に来生せん。爾らずは、我、作仏せじ」已上。問う。彼の『覚経』に「即ち正定聚に入る」といわず。今『註』に何ぞこれを加うるや。答う。経文に隠れたりといえども、その義必然なり。「来生我国」というは「即入正定聚」なり。正定の言に就きてこれを引かる。SYOZEN2-325/TAI7-293


 ◎荘厳主功徳成就者。偈言正覚阿弥陀法王善住持故。此云何不思議。正覚阿弥陀不可思議。彼安楽浄土為正覚阿弥陀善力住持。云何可得思議邪。住名不異不滅。持名不散不失。如以不朽薬塗種子。在水不蘭。在火不[ショウ04]。得因縁即生。何以故。不朽薬力故。若人一生安楽浄土。後時意願生三界教化衆生。捨浄土命。随願得生。雖生三界雑生火中。無上菩提種子畢竟不朽。何以故。以逕正覚阿弥陀善住持故。
 ◎(論註)荘厳主功徳成就とは、偈に正覚阿弥陀法王善住持(正覚の阿弥陀法王の善く住持したまえり)と言えるが故に。これいかんが不思議なる。正覚の阿弥陀、不可思議にまします。かの安楽浄土は正覚阿弥陀善力のために住持せられたり。いかんが思議することを得べけんや。住は不異不滅に名づく、持は不散不失に名づく。不朽薬をもって種子に塗りて、水に在〈お〉くに蘭れず、火に在くに[ショウ04]〈こ〉がれず、因縁を得てすなわち生ずるがごとし。何をもってのゆえに。不朽薬の力なるがゆえなり。もし人ひとたび安楽浄土に生ずれば、後の時に意に、三界に生まれて衆生を教化せんと願じて、浄土の命を捨てて願に随いて生ずることを得んに、三界雑生の火の中に生ずといえども、無上菩提の種子畢竟じて朽ちず。何をもってのゆえに。正覚阿弥陀の善住持を径るをもってのゆえにと。SYO:SYOZEN2-104,105/-HON-282,HOU-393-

 〇第二文者。同第十二之荘厳也。不異不滅不散不失住持之徳。是又相順不退義故。被引用之。不朽薬者。華厳経説。随義転用。SYOZEN2-325/TAI7-299
 〇第二文は、同じき第十二の荘厳なり。不異・不滅・不散・不失は住持の徳なり。これまた不退の義に相順するが故に、これを引用せらる。「不朽薬」とは『華厳経』の説、随義転用せり。SYOZEN2-325/TAI7-299


 ◎荘厳眷属功徳成就者。偈言如来浄華衆正覚華化生故。此云何不思議。凡是雑生世界。若胎若卵若湿若化。眷属若干。苦楽万品。以雑業故。彼安楽国土莫非是阿弥陀如来正覚浄華之所化生。同一念仏無別道故。遠通夫四海之内皆為兄弟也。眷属無量。焉可思議。
 ◎(論註)荘厳眷属功徳成就とは、偈に如来浄華衆正覚華化生(如来浄華の衆は、正覚の華より化生す)と言えるが故に。これいかんぞ不思議なるや。おおよそこの雑生の世界には、もしは胎、もしは卵、もしは湿、もしは化、眷属若干〈そこばく〉なり。苦楽万品なり。雑業をもってのゆえに。かの安楽国土は、これ阿弥陀如来の正覚浄華の化生するところにあらざることなし。同一に念仏して別の道なきがゆえに。遠く通ずるに、それ四海の内みな兄弟とするなり。眷属無量なり。いずくんぞ思議すべけんや。SYO:SYOZEN2-105/-HON-282,HOU-393,394

 〇第三文者。同第十三之荘厳也。莫非等者。問。於極楽中。胎生化生差別分明。何如此釈。答。彼胎生者。即是化土疑惑仏智行者所生。此化生者。即是報土明信仏智行者所生。今釈最為明真実証之要文歟。同一等者。於第二巻私御釈中。被載此詞。仍於其下新末鈔中。粗加愚解。可見彼鈔。SYOZEN2-325,/TAI7-303,304
 〇第三の文は、同じき第十三の荘厳なり。「莫非」等とは、問う、極楽の中に於いて、胎生・化生の差別は分明なり。何ぞかくの如く釈するや。答う。彼の胎生とは、即ちこれ化土、疑惑仏智の行者の所生なり。この化生とは、即ちこれ報土、明信仏智の行者の所生なり。今の釈は最も真実の証を明かす要文為るか。「同一」等とは、第二巻の私の御釈の中に於いてこの詞を載せらる。よってその下、新末の鈔の中に於いて、ほぼ愚解を加う。彼の鈔を見るべし。SYOZEN2-325,/TAI7-303,304


 ◎又言。願往生者。本則三三之品。今無一二之殊。亦如[シ01][ジョウ01](食陵反)一味。焉可思議。
 ◎(論註)また言わく、往生を願う者、本はすなわち三三の品なれども、今は一二の殊なし。また[シ01][ジョウ01](食陵の反)の一味なるがごとし。いずくんぞ思議すべけんや。SYO:SYOZEN2-105/HON-282,HOU-394

 〇第四文者。同第十六大義門功徳成就文也。本則等者。此有二義。一云於彼二乗及以女人諸根不具等之三類。各有名体。是故挙彼体三名三言之三三。言一二者。体与名也。二云。言三三者。是指九品。言一二者。雖説遇大遇小遇悪九品差別。実無一品二品之殊。何況実有九品差。問。九品説相経文分明。何無殊乎。答。九品在機不関浄土。又説九品是化土相。於実報土更無其差。実不可有地前位故。此義可俟下第六巻料簡而已。問。今此荘厳功徳之文。除本論偈以下註初。有何意耶。答。於上所引眷属成就。明彼浄土正覚浄花純一化生報土之相。爰除数箇荘厳功徳。引当荘厳功徳成就。而略文初。正以本則三三之品今無一二之殊土相。直次正覚浄華之所化生。報土之相。是為顕土無九品也。若依此義。上二義中。以後一義可為集主之本意也。言[シ01][ジョウ01]者二水名也。SYOZEN2-325,326/TAI7-308,309
 〇第四の文は、同じき第十六の大義門功徳成就の文なり。「本則」等とは、これに二義あり。一に云わく、彼の二乗および女人・諸根不具等の三類に於いて、おのおの名体あり。この故に彼の体三・名三を挙げて、これを「三三」という。「一二」というは、体と名となり。二に云わく、「三三」というは、これ九品を指す。「一二」というは、遇大・遇小・遇悪の九品の差別を説くといえども、実に一品・二品の殊なからんや。何に況んや実に九品の差あらんや。問う。九品の説相は経文に分明なり。何ぞ殊なきや。答う。九品は機に在りて浄土に関わらず。また九品を説くは、これ化土の相なり。実報土に於いては更にその差なし。実に地前の位あるべからざるが故に。この義は下の第六巻の料簡を俟つべからくのみ。問う。今この荘厳功徳の文は、本論の偈以下、註の初を除く。何の意あるや。答う。上の所引の眷属成就に於いて、彼の浄土正覚浄花純一化生報土の相を明かす。ここに数箇の荘厳功徳を除き、当荘厳功徳成就を引きて、而の文の初を略すことは、正しく「本則三三之品今無一二之殊」の土の相を以て、直ちに正覚浄華の化生する所の報土の相に次ぐ。これ土に九品なきことを顕わさんが為なり。もしこの義に依らば、上の二義の中に、後の一義を以て集主の本意と為すべきなり。「[シ01][ジョウ01]」というは、二水の名なり。SYOZEN2-325,326/TAI7-308,309


 ◎又論曰。荘厳清浄功徳成就者。偈言観彼世界相勝過三界道故。此云何不思議。有凡夫人煩悩成就。亦得生彼浄土。三界繋業畢竟不牽。則是不断煩悩得涅槃分。焉可思議。已上抄要。
 ◎(論註)また『論』に曰わく、荘厳清浄功徳成就とは、偈に観彼世界相勝過三界道(彼の世界の相を観ずるに、三界の道に勝過せり)と言えるが故に。これいかんぞ不思議なるや。凡夫人の煩悩成就せるありて、またかの浄土に生ずることを得れば、三界の繋業畢竟じて牽かず。すなわちこれ煩悩を断ぜずして涅槃の分を得るなり。いずくんぞ思議すべけんや。已上抄要。SYO:SYOZEN2-105/HON-282,283,HOU-394

 〇第五文者。同荘厳中初荘厳也。観者観察。彼者極楽世界。相者彼清浄相。勝過等者。明非三界之所摂也。註釈之云抑亦近言。是顕其為高妙土也。問。何今逆次引用之耶。答。今此清浄是其総相。是故本論自総開別。而抜簡要引用之時。今以総相結所鈔出之別相歟。有凡等者。言凡夫類雖不断惑。由仏力故得往生也。又得往生即無生故。即契煩悩即菩提等甚深証悟。彼土徳故。涅槃分者。未至極位。故云分也。SYOZEN2-326/TAI7-312
 〇第五の文は、同じき荘厳の中の初の荘厳なり。「観」とは観察、「彼」とは極楽世界、「相」とは彼清浄相、「勝過」等とは三界の所摂にあらざることを明かすなり。『註』にこれを釈して「抑亦近言(そもそもこれ近き言)」なりという。これその高妙の土たることを顕わすなり。問う。何ぞ今逆次にこれを引用するや。答う。今この清浄はこれその総相なり。この故に本論は総より別を開す。而るに簡要を抜きてこれを引用する時、今、総相を以て鈔出する所の別相を結するか。「有凡」等とは、言うこころは、凡夫の類は断惑せずといえども、仏力に由るが故に往生を得となり。また往生を得れば即ち無生なるが故に、即ち煩悩即菩提等の甚深の証悟に契う。彼の土の徳なるが故に。「涅槃分」とは、未だ極位に至らず、故に分というなり。SYOZEN2-326/TAI7-312


 ◎安楽集云。然二仏神力応亦斉等。但釈迦如来不申己能。故顕彼長。欲使一切衆生莫不斉帰。是故釈迦処処嘆帰。須知此意也。是故曇鸞法師正意帰西故。傍大経奉讃曰。安楽声聞菩薩衆。人天智慧咸洞達。身相荘厳無殊異。但順他方故列名。顔容端政無可比。精微妙躯非人天。虚無之身無極体。是故頂礼平等力。已上。
 ◎『安楽集』に云わく、しかるに二仏の神力、また斉等なるべし。ただ釈迦如来、己が能を申べずして、故〈ことさら〉にかの長ぜるを顕したまうこと、一切衆生をして斉しく帰せざることなからしめんと欲してなり。このゆえに釈迦、処処に嘆じて帰せしめたまえり。須らくこの意を知るべしとなり。このゆえに曇鸞法師の正意、西に帰するがゆえに、『大経』に傍えて奉讃して曰わく、安楽の声聞・菩薩衆・人・天、智慧ことごとく洞達せり。身相荘厳殊異なし。ただ他方に順ずるがゆえに名を列ぬ。顔容端政にして比ぶべきなし。精微妙躯にして人天にあらず、虚無の身、無極の体なり。このゆえに平等力を頂礼したてまつると。已上。SYO:SYOZEN2-105,106/HON-283,HOU-394

 〇次安楽集。下巻文也。第八大門有三番中第二。弥陀釈迦二仏比校之段末後文也。文意易見。所引経讃。讃阿弥陀仏偈之文也。今之八句依上所引正報勝文。上解経意。讃意全同。SYOZEN2-326/TAI7-318
 〇次に『安楽集』下巻の文なり。第八大門に三番ある中の第二に、弥陀・釈迦二仏比校の段末後の文なり。文の意は見易し。所引の経の讃は『讃阿弥陀仏偈』の文なり。今の八句は上の所引の正報勝の文に依る。上に経の意を解す。讃の意は全く同じ。SYOZEN2-326/TAI7-318


 ◎光明寺疏云。言弘願者。如大経説。一切善悪凡夫得生者。莫不皆乗阿弥陀仏大願業力為増上縁也。又仏蜜意弘深。教門難曉。三賢十聖弗測〈惻〉所窺。況我信外軽毛。敢知旨趣。仰惟。釈迦此方発遣。弥陀即彼国来迎。彼喚此遣。豈容不去也。唯可懃心奉法畢命為期。捨此穢身即証彼法性之常楽。
 ◎(玄義分)光明寺の疏に云わく、弘願と言うは、『大経』の説のごとし。一切善悪の凡夫、生ずることを得るは、みな阿弥陀仏の大願業力に乗じて、増上縁とせざるはなしとなり。また仏の密意弘深なれば、教門暁りがたし。三賢十聖も測〈惻〉りて窺うところにあらず。況や我信外の軽毛なり。あえて旨趣を知らんや。仰ぎて惟みれば、釈迦はこの方にして発遣し、弥陀はすなわちかの国より来迎したもう。彼には喚ばい、此には遣わす。あに去かざるべけんや。ただ勤心、法に奉えて、畢命を期として、この穢身を捨て、すなわちかの法性の常楽を証すべしと。SYO:SYOZEN2-106/HON-283,HOU-394,395

 〇次大師釈、所引有二。其初文者。観経玄義序題門釈。初自弘願終至縁也。如第二巻鈔新本解。又仏密意者。含二尊意。若約弥陀是顕如来智慧深広。如大経説。如来智慧海深広無涯底。二乗非所測。唯仏独明了。已上。若約釈迦。是顕一代出世大事。其大事者為令衆生往生極楽。入仏知見。即証法性之常楽也。教門難暁者。八万諸教教行区分。求出要類各欲行之。権実浅深難易堪否。凡夫依之易迷難解。若不解了。恐難輙生真実信心。三賢等者。弗窺有二。一者約人。下人不測上人之智。二者約理。如云唯仏与仏乃能究竟故也。況我等者。謂其内証。雖居仏地。示同凡惑引導下機之卑言也。言信外者。此有二義。一是指十信外凡位故。言之信外。言軽毛者。仁王経等。指十信故。二是指十信以外凡位。述謙下言。更不可云入道位。故信外之言。又順此義。軽毛之譬。云通信外。強無咎歟。十信之位。猶如軽毛。況信外哉。唯可等者。懃心安心。奉法起行。畢命為期四修之中。挙長時修摂余三修。捨身者。明往生益。即証等者。即顕証理。言法性者。是則真如。亦是実相。言常楽者。常者即是無量寿体。楽者即是安楽之義。即又法性。聖道浄土二門雖殊。得脱之道共証此理。而聖道門。於此土中即身悟之。浄土之教。依仏願力。生彼土後得此証也。SYOZEN2-326,327/TAI7-321,322
 〇次に大師の釈、所引に二あり。その初の文は、『観経玄義』序題門の釈なり。初に「弘願」より終り「縁也」に至るまで、第二巻の鈔新本の解の如し。「又仏密意」とは、二尊の意を含む。もし弥陀に約せば、これ如来の智慧の深広なることを顕わす。『大経』に説くが如し。「如来の智慧海は深広にして涯底なし。二乗の測る所にあらず。唯仏のみ独り明了なり」已上。もし釈迦に約せば、これ一代出世の大事を顕わす。その大事とは、衆生をして極楽に往生せしめ、仏の知見に入りて、即ち法性の常楽を証せしめんが為なり。「教門暁りがたし」とは、八万の諸教は教行まちまちに分れて、出要を求むる類は、おのおのこれを行ぜしめんと欲するに、権実・浅深・難易・堪否、凡夫はこれに依りて迷い易く解り難し。もし解了せずば、恐らくは輙く真実の信心を生じ難し。「三賢」等とは、窺わざるに二あり。一には人に約す。下人は上人の智を測らず。二には理に約す。「ただ仏と仏とのみ乃ち能く究竟す」というが如きの故なり。「況我」等とは、その内証をいうに、仏地に居すといえども、同じく凡惑を示して下機を引導する卑言なり。「信外」というは、これに二義あり。一にはこれ十信外凡の位を指すが故に、これを信外という。「軽毛」というは、『仁王経』等に十信を指すが故に。二にはこれ十信以外の凡位を指す。謙下の言を述ぶるに、更に道位に入るというべからず。故に信外の言は、またこの義に順ず。軽毛の譬は信外に通ずというに、強ちに咎なきか。十信の位は猶し軽毛の如し。況んや信外をや。「唯可」等とは、「勤心」は安心、「奉法」は起行、「畢命為期」は四修の中に、長時修を挙げて余の三修を摂す。「捨身」とは往生の益を明かす。「即証」等とは、即ち証理を顕わす。「法性」というは、これ則ち真如、またこれ実相なり。「常楽」というは、「常」は即ちこれ無量寿の体、「楽」は即ちこれ安楽の義、即ちまた法性なり。聖道・浄土の二門は殊なりといえども、得脱の道は共にこの理を証す。而に聖道門は此土の中に於いて即身にこれを悟る。浄土の教は、仏願力に依りて、彼の土に生じて後にこの証を得るなり。SYOZEN2-326,327/TAI7-321,322


 ◎又云。西方寂静無為楽。畢竟逍遥離有無。大悲薫心遊法界。分身利物等無殊。或現神通而説法。或現相好入無余。変現荘厳随意出。群生見者。罪皆除。又讃云。帰去来。魔郷不可停。曠劫来。流転六道尽皆逕。到処無余楽。唯聞生死声。畢此生平後入彼涅槃城。已上。
 ◎(定善義)また云わく、西方は寂静無為の楽〈みやこ〉なり。畢竟逍遥として、有無を離れたり。大悲、心に熏じて法界に遊ぶ。分身して物を利すること、等しくして殊なることなし。あるいは神通を現じて法を説き、あるいは相好を現じて無余に入る。変現の荘厳、意に随いて出ず。群生見る者、罪みな除こると。また讃じて云わく、帰去来〈いざいなん〉、魔郷には停まるべからず。曠劫よりこのかた六道に流転して、尽くみな径たり。到るところに余の楽なし、ただ愁歎の声を聞く。この生平を畢えて後、かの涅槃の城に入らんと。已上。SYO:SYOZEN2-106/HON-283,284,HOU-395

 〇次三首讃。定善義中水観讃也。言寂静者浄土徳也。大経上云。其心寂静志無所著。已上。彼嘆法蔵発心之相。此讃浄土無動之徳。依正雖異。其義是同。言無為者。大経説云無為自然。法事讃釈云極楽無為。即是無造作義。楽是対苦。即是極楽。畢竟逍遙同是快楽無窮義也。離有等者。第一義諦妙境界相。殊妙浄土。第一義者。即是中道。故離二辺。大悲等者。大経或云其大悲者深遠微妙。或又説云広若虚空大慈等故。抜苦与楽其意聊異。共是利物。利物之心。彼此平等。依此義故。言之無殊。今所言者。是内証徳。或現等者。明外用徳。言神通者。是約身業。言説法者。是約口業。言相好者。又約身業。入無余者。是約涅槃。即明必至滅度益耳。変現等者。是明本国菩薩衆等。往他方界。皆設変現随意化儀。即被群生。与滅罪益。帰去等者。是約証得住生之義。彼法界身。本来本覚。十劫被機。是非実成。所帰衆生。凡迷更雖不知始覚冥本覚理。而契当之如来力也。余処解釈。或云努力翻迷還本家。或云元来是我法王家。皆此意也。言魔郷者。是娑婆界。四魔[ジョウ02]乱常障仏道。而念仏人由他力故。魔不為碍。不為碍故往生浄土。浄土無魔。故成仏道。故勧可厭此魔郷也。唯聞等者。問。於六道中。欲界六天苦楽猶交。況上二界更無憂苦。二禅喜受。三禅楽受。此等何言有愁歎耶。答。雖言有楽。此非実楽。当巻定善義下云。言三界苦楽者。苦則三途八苦等。楽則人天五欲放逸繋縛等楽。雖言是楽。然是大苦。畢竟無有一念真実楽也。已上。浄穢相対。三界中楽非実楽故。云愁歎也。SYOZEN2-327,328/TAI7-332
 〇次に三首の讃、『定善義』の中の水観の讃なり。「寂静」というは浄土の徳なり。『大経』の上に云わく「その心寂静にして、志、所著なし」已上。彼は法蔵発心の相を嘆じ、これは浄土無動の徳を讃ず。依正異なりといえども、その義はこれ同じ。「無為」というは、『大経』には説きて「無為自然」といい、『法事讃』には釈して「極楽無為」という。即ちこれ造作なき義なり。楽はこれ苦に対す。即ちこれ極楽なり。「畢竟逍遙」は同じくこれ快楽無窮の義なり。「離有」等とは、第一義諦妙境界相、殊妙の浄土なり。第一義とは、即ちこれ中道なり。故に二辺を離る。「大悲」等とは、『大経』に或いは「其大悲者深遠微妙〈常に能くその大悲を修行する者なり。深遠微妙にして覆載せずということなし〉」といい、或いはまた説きて「広若虚空大慈等故〈曠きこと虚空のごとし、大慈等しきがゆえに〉」という。抜苦与楽はその意聊か異なれども、共にこれ利物なり。利物の心は彼此平等なり。この義に依るが故に、これを無殊という。今言う所は、これ内証の徳なり。「或現」等とは、外用の徳を明かす。「神通」というは、これ身業に約す。「説法」というは、これ口業に約す。「相好」というは、また身業に約す。「入無余」とは、これ涅槃に約す。即ち必至滅度の益を明かすらくのみ。「変現」等とは、これ本国の菩薩衆等は他方界に往きて、みな変現随意の化儀を設けて、即ち群生に被しめて、滅罪の益を与うることを明かす。「帰去」等とは、これ証得住生の義に約す。彼の法界身は本来本覚。十劫は機に被らしむ。これ実成にあらず。所帰の衆生は、凡迷更に始覚は本覚に冥ずる理を知らずといえども、而もこれに契当するは如来の力なり。余処の解釈に、或いは「努力翻迷還本家」といい、或いは「元来是我法王家」という。皆この意なり。「魔郷」というは、これ娑婆界。四魔[ジョウ02]乱して常に仏道を障う。而るに念仏の人は他力に由るが故に、魔は碍を為さず。碍を為さざるが故に浄土に往生す。浄土には魔なし。故に仏道を成ず。故にこの魔郷を厭うべしと勧むるなり。「唯聞」等とは、問う、六道の中に於いて、欲界の六天は苦楽なお交る。況んや上の二界には更に憂苦なし。二禅は喜受、三禅は楽受。これらは何ぞ愁歎ありというや。答う、楽ありというといえども、これ実の楽にあらず。当巻『定善義』の下に云わく「三界の苦楽というは、苦は則ち三途八苦等、楽は則ち人天の五欲放逸繋縛等の楽なり。これ楽というといえども、然もこれ大苦なり。畢竟じて一念真実の楽あることなきなり」已上。浄穢相対するに、三界の中の楽は実の楽にあらざるが故に、愁歎というなり。SYOZEN2-327,328/TAI7-332


 ◎夫案真宗教行信証者。如来大悲回向之利益。故若因若果。無有一事非阿弥陀如来清浄願心之所回向成就。因浄故果亦浄也。応知。
 ◎(御自釈)それ真宗の教行信証を案ずれば、如来の大悲回向の利益なり。故に、もしは因、もしは果、一事として阿弥陀如来の清浄願心の回向成就したまえるところにあらざることあることなし。因浄なるがゆえに、果また浄なり。知るべしとなり。SYO:J:SYOZEN2-106/HON-284,HOU-395

 〇夫案以下至披論註。私御釈也。是明回向。於中自初至云応知。略結往相。SYOZEN2-328/TAI7-337
 〇「夫案」以下、「披論註」に至るまでは私の御釈なり。これ回向を明かす。中に於いて、初より「応知」というに至るまでは、略して往相を結す。SYOZEN2-328/TAI7-337