六要鈔会本 第六巻の(6の内)
 証の巻
 還相回向
   還相回向釈
   引文 『浄土論』出第五門・
     曇鸞『論註』「起勧生信」「勧行体相」
◎=親鸞聖人『教行信証』の文。
〇=存覚『六要抄』の文
『教行信証六要鈔会本』 巻六之三

 ◎二言還相回向者。則是利他教化地益也。則是出於必至補処之願。亦名一生補処之願。亦可名還相回向之願也。
 ◎(御自釈)二に還相の回向と言うは、すなわちこれ利他教化地の益なり。すなわちこれ必至補処の願より出でたり。また一生補処の願と名づく。また還相回向の願と名づくべきなり。SYO:J:SYOZEN2-106,107/HON-284,HOU-395,396

 〇云二言下。至之願也。総標還相。SYOZEN2-328/TAI7-339
 〇「二言」という下、「之願也」に至るまでは、総じて還相を標す。SYOZEN2-328/TAI7-339


 ◎顕註論。故不出願文。可披論註。
 ◎(御自釈)『註論』に顕れたり。故に願文を出ださず。『論の註』を披くべし。SYO:J:SYOZEN2-106,107/HON-284,HOU-395,396

 〇顕註論下至披論註。先標所引。次正出文。文有三段。論与註也。SYOZEN2-328/TAI7-344
 〇「顕註論」の下、「披論註」に至るまでは、まず所引を標し、次に正しく文を出だす。文に三段あり。『論』と『註』となり。SYOZEN2-328/TAI7-344


 ◎浄土論曰。出第五門者。以大慈悲観察一切苦悩衆生示応化身。回入生死薗煩悩林中。遊戲神通至教化地。以本願力回向故。是名出第五門。已上。
 ◎『浄土論』に曰わく、出第五門とは、大慈悲をもって一切苦悩の衆生を観察して、応化の身を示す。生死の園、煩悩の林の中に回入して、神通に遊戯して教化地に至る。本願力の回向をもってのゆえに。これを出第五門と名づく。已上。SYO:SYOZEN2-107/HON-284,HOU-396

 〇初文利行満足章文。第三巻本。引此論文。第二巻奥被引註釈。於其註釈。載推義訖。SYOZEN2-329/TAI7-345,346
 〇初の文は利行満足の章の文。第三巻の本にこの論文を引き、第二巻の奥に註釈を引かる。その註釈に於いて推義を載せ訖りぬ。SYOZEN2-329/TAI7-345,346


 ◎論註曰。還相者。生彼土已。得奢摩他・毘婆舎那・方便力成就。回入生死稠林。教化一切衆生。共向仏道。若往若還。皆為抜衆生渡生死海。是故言回向為首得成就大悲心故。
 ◎『論の註』に曰わく、還相とは、かの土に生じ已りて、奢摩他・毘婆舎那・方便力成就することを得て、生死の稠林に回入して、一切衆生を教化し、共に仏道に向かえしめたまえり。もしは往、もしは還、みな衆生を抜いて、生死海を渡せんがためなり。このゆえに回向を首として、大悲心を成就することを得るがゆえにと言えりと。SYO:SYOZEN2-107/HON-285,HOU-396

 〇次之文者。第二起観生信章中。回向門下分二種中。還相回向之註釈也。奢摩他者。此翻云止。毘婆舎那此翻云観。方便力者。即回向也。故下善巧摂化章中。釈巧方便回向文云。以後其身而身先故。名巧方便。此中言方便者。謂作願摂取一切衆生。共同生彼安楽仏国。彼仏国即是畢竟成仏道路。無上方便也。已上。言稠林者。稠玉篇云。直留切。密也。広韻云。直由切。稠也。多也。林玉篇云。力金切。平土有叢木。広韻云。力尋切。地上有叢木。故稠林者。不謂善悪。喩繋多義。十地論云。稠林者。衆多義故。難知義故。已上。SYOZEN2-329,/TAI7-349
 〇次の文は、第二の起観生信章の中の回向門の下に二種を分かつ中の還相回向の註釈なり。「奢摩他」とは、此には翻じて止という。「毘婆舎那」は此には翻じて観というと。「方便力」とは即ち回向なり。故に下の善巧摂化の章の中に、巧方便回向を釈する文に云わく「その身を後にして、身を先にするを以ての故に巧方便と名づく。この中に方便というは、謂く、作願して一切衆生を摂取して、共に同じく彼の安楽仏国に生ぜしむ。彼の仏国は即ちこれ畢竟成仏の道路、無上の方便なり」已上。「稠林」というは、「稠」は『玉篇』に云わく「直留の切、密なり」。『広韻』に云わく「直由の切。稠なり、多なり」。「林」は『玉篇』に云わく「力金の切。平土に叢木あり」。『広韻』に云わく「力尋の切。地上に叢木あり」。故に稠林とは、善悪を謂わず、繋多の義に喩う。『十地論』に云わく「稠林とは衆多の義なるが故に、難知の義なるが故に」已上。SYOZEN2-329/TAI7-349


 ◎又言。即見彼仏。未証浄心菩薩。畢竟得証平等法身。与浄心菩薩。与上地諸菩薩。畢竟同得寂滅平等故。平等法身者。八地已上法性生身菩薩也。寂滅平等之法也。以得此寂滅平等法故名為平等法身。以平等法身菩薩所得故名為寂滅平等法也。此菩薩得報生三昧。以三昧神力。能一処一念一時。遍十方世界。種種供養一切諸仏及諸仏大会衆海。能於無量世界無仏法僧処。種種示現。種種教化度脱一切衆生。常作仏事。初無往来想・供養想・度脱想。是故此身名為平等法身。此法名為寂滅平等法。未証浄心菩薩者。初地已上七地以還諸菩薩也。此菩薩亦能現身。若百若千若万若億若百千万億無仏国土。施作仏事。要作心入三昧乃能非不作心。以作心故名為未証浄心。此菩薩願生安楽浄土即見阿弥陀仏。見阿弥陀仏時。与上地諸菩薩畢竟身等法等。龍樹菩薩・婆薮槃頭菩薩輩。願生彼者。当為此耳。
 ◎(論註)また言わく、すなわちかの仏を見たてまつれば、未証浄心の菩薩、畢竟じて平等法身を得証す。浄心の菩薩と、上地のもろもろの菩薩と、畢竟じて同じく寂滅平等を得るがゆえにとのたまえり。平等法身とは、八地已上の法性生身の菩薩なり。寂滅平等の法なり。この寂滅平等の法を得るをもってのゆえに、名づけて平等法身とす。平等法身の菩薩の所得なるをもってのゆえに、名づけて寂滅平等の法とするなり。この菩薩は報生三昧を得。三昧神力をもって、よく一処、一念、一時に十方世界に遍じて、種種に一切諸仏および諸仏の大会衆海を供養す。よく無量世界の仏法僧ましまさざるところにして、種種に示現し、種種に一切衆生を教化し度脱して、常に仏事を作すに、初めより往来の想・供養の想・度脱の想なし。このゆえにこの身を名づけて平等法身とす。この法を名づけて寂滅平等の法とす。未証浄心の菩薩とは、初地已上、七地以還のもろもろの菩薩なり。この菩薩、またよく身を現ずること、もしは百、もしは千、もしは万、もしは億、もしは百千万億、無仏の国土にして仏事を施作して、かならず作心す。三昧に入るとも、いましよく作心せざるにあらず。作心をもってのゆえに、名づけて未証浄心とす。この菩薩、安楽浄土に生まれて、すなわち阿弥陀仏を見んと願ず。阿弥陀仏を見たてまつるとき、上地のもろもろの菩薩と、畢竟じて身等しく法等し。龍樹菩薩・婆薮般豆菩薩の輩、彼に生ぜんと願ずるは、当にこのためなるべしならくのみと。SYO:SYOZEN2-107,108/HON-285,286,HOU-396,397-

 〇後之文者。第三観行体相。就明依正二十九句荘厳成就。如来八種功徳之中。第八荘厳功徳成就有三段内。今文第三正釈住持行相以下。至第十重利行満足章中。別約近等五門。配礼拝等之五念門。併被引之。SYOZEN2-329,/TAI7-351
 〇後の文は、第三の観行体相に、依正二十九句の荘厳成就を明かすに就きて、如来八種の功徳の中の、第八の荘厳功徳成就に、三段ある内、今の文は第三に正しく住持の行相を釈する以下、第十重の利行満足の章の中に、別して近等の五門に約して、礼拝等の五念門に配するに至るまで、併せ引かるるなり。SYOZEN2-329,/TAI7-351

 〇此文意者。生極楽者。皆登八地。即証法身寂滅極理。為此義者。云得十信三賢之位。又有九品差別之相。皆是仮説。只是約機。以契平等法身証悟。為真実証。被引此文者。為顕此意。能得此意。可見此文。問。極楽生位不関七地已還位耶。答。得無生忍。其位不同。或約初地。或約八地。若依初地得忍之説。可云広通七地已還。今就深位先拠八地。未証等者。問。起信論云。証法身者。従浄心地乃至菩薩究竟地。已上。依彼論意。浄心地者。是指初地。究竟地者。是指十地。然者何以七地已還。名為未証浄心菩薩。答。是如前述。謂証真如。初地八地其説相分。思彼論意。立浄心名。約証真如。今言未証。約有作心。即云功用無功用是。問。初地已下菩薩。已得無分別智。何云作心。答。此有分極。彼已雖得無分別智。若猶相望八地已上。是作意也。又或義云。依法相意。七地已還於第六識。有漏無漏令雑起故。若其有漏現起之時。猶必可有作意分別。是故判云非不作意。言身等者。是指相好荘厳等也。言法等者。指所説也。龍樹菩薩婆薮般頭菩薩等者。問。天親賢位。龍樹聖位。彼此何同。答。雖有地上地前不同。分有所得。是故類同。是以撲揚讃天親云。位居明徳。道隣極喜。已上。又弘決云。天親龍樹内鑑冷然。已上。或依隣近。或依内鑑為一双也。問。地上菩薩願生極楽。其義難思。所以然者。浄穢差別在心染浄。於境本来無染浄差。初地以上既断無明分顕我性。身居報土任連自聞報仏説法。所見境界報土儀式。何更願生彼浄土耶。故探玄記云。十住已去不退菩薩所住名為浄土。已上。地前猶爾。地上何願。答。雖有多義。且出一義。生身得忍以捨依身願生他方浄土故也。是更非如凡夫願生故。大論云。若得無生法忍。断一切結使。死時捨此肉身。已上。涅槃疏云。分段質碍煩悩雖尽。必須捨報。已上。蓋此義也。SYOZEN2-329,330/TAI7-354,355-
 〇この文の意は、極楽に生ずる者は、みな八地に登りて即ち法身寂滅の極理を証す。この義の為には、十信・三賢の位を得といい、また九品差別の相ある、皆これ仮説なり。ただこれ機に約す。平等法身の証悟に契うを以て、真実の証と為す。この文を引かるるは、この意を顕わさんが為なり。能くこの意を得て、この文を見るべし。問う。極楽の生位は七地已還の位に関わらざるや。答う。無生忍を得ること、その位不同なり。或いは地〈初地〉に約し、或いは八地に約す。もし初地得忍の説に依らば、広く七地已還に通ずというべし。今は深位に就きて、まず八地に拠る。「未証」等とは、問う、『起信論』に云わく「証法身とは、浄心地より、乃至、菩薩究竟地なり」已上。彼の論の意に依るに、浄心地とはこれ初地を指す。究竟地とは、これ十地を指す。然れば何ぞ七地已還を以て、名づけて未証浄心の菩薩と為すや。答う、これ前に述ぶるが如し。謂わく、真如を証すること、初地・八地、その説相い分かれたり。彼の論の意を思うに、浄心の名を立つることは証真如に約す。今、未証というは、有作心に約す。即ち功用無功用という、これなり。問う、初地已上〈已下〉の菩薩は已に無分別智を得。何ぞ作心という。答う、これに分極あり。彼は已に無分別智を得といえども、もし猶八地已上に相望すれば、これ作意なり。また或る義に云わく、法相の意に依れば、七地已還は第六識に於いて、有漏無漏雑起せしむるが故に。もしその有漏現起の時はなお必ず作意分別あるべし。この故に判じて非不作意という。「身等」というは、これ相好荘厳等を指すなり。「法等」というは、所説を指すなり。「龍樹菩薩婆・薮般頭菩薩」等とは、問う、天親は賢位、龍樹は聖位なり。彼此何ぞ同じからん。答う、地上・地前の不同ありといえども、分に所得あり。この故に類同す。これを以て撲揚は天親を讃じて云わく「位は明徳に居し、道は極喜に隣りす」已上。また『弘決』に云わく「天親・龍樹、内鑑冷然なり」已上。或いは隣近に依り、或いは内鑑に依りて一双と為すなり。問う、地上菩薩の極楽に生ぜんと願ずる、その義思い難し。然る所以は、浄穢の差別は心の染浄に在り。境に於いて本来、染浄の差なし。初地以上は既に無明を断じて分に我性を顕わし、身は報土に居して任連に自ずから報仏の説法を聞く。所見の境界は報土の儀式なり。何ぞ更に彼の浄土に生ぜんことを願ぜんや。故に『探玄記』に云わく「十住已去、不退の菩薩の所住を名づけて浄土と為す」已上。地前なお爾り。地上は何ぞ願ぜん。答う、多義ありといえども、且く一義を出だす。生身得忍は依身を捨てて他方の浄土に生ぜんと願ずるを以ての故に。これ更に凡夫の願生の如くにはあらざるが故に。『大論』に云わく「もし無生法忍を得つれば、一切の結使を断じて、死する時にこの肉身を捨つ」已上。『涅槃の疏』に云わく「分段の質碍は煩悩尽くといえども、必ず須く報を捨つべし」已上。蓋しこの義なり。SYOZEN2-329,330/TAI7-354,355-


 ◎問曰。案十地経。菩薩進趣階級。漸有無量功勲。逕多劫数然後乃得此。云何見阿弥陀仏時。畢竟与上地諸菩薩身等法等邪。答曰。畢竟者。未言即等也。畢竟不失此等故言等耳。
 ◎(論註)問うて曰わく、『十地経』を案ずるに、菩薩、進趣階級、ようやく無量の功勲あり。多くの劫数を径。然して後、いましこれを得。いかんぞ阿弥陀仏を見たてまつる時、畢竟じて上地のもろもろの菩薩と身等しく法等しきや。答えて曰わく、畢竟は未だすなわち等しというにはあらずとなり。畢竟じてこの等しきことを失せざるがゆえに、等しと言うならくのみ。SYO:SYOZEN2-108/-HON-286,HOU-397-

 ◎問曰。若不即等。復何得言菩薩。何登初地。以漸増進。自然当与仏等。何仮言与上地菩薩等。答曰。菩薩於七地中得大寂滅。上不見諸仏可求。下不見衆生可度。欲捨仏道証於実際。爾時若不得十方諸仏神力加勧。即便滅度与二乗無異。菩薩若往生安楽見阿弥陀仏。即無此難。是故須言畢竟平等。
 ◎(論註)問うて曰わく、もしすなわち等しからずは、また何ぞ菩薩と言うことを得ん。ただ初地に登れば、もってようやく増進して、自然に当に仏と等しかるべし。何ぞ仮に上地の菩薩と等しと言うや。答えて曰わく、菩薩七地の中にして大寂滅を得れば、上、諸仏の求むべきを見ず、下、衆生の度すべきを見ず。仏道を捨てて実際を証せんと欲す。その時にもし十方諸仏の神力加勧を得ずは、すなわち滅度して二乗と異なけん。菩薩もし安楽に往生して阿弥陀仏を見たてまつるに、すなわちこの難なけん。このゆえに須らく畢竟平等と言うべし。SYO:SYOZEN2-108/-HON-286,HOU-397-

 〇菩薩於七地中等者。問。大寂滅者。是何義乎。答。実相理地不立一塵。若至此位。其悟窮極。由此義故云大寂滅。問。一切菩薩皆於七地証寂滅耶。答。若約証理之至極者。皆可然也。問。於此位中。不見諸仏及以衆生有何故耶。答。以住無生極理之故。不見上求下化相也。但此義者。約根本智。若是令約後得智辺。可有上求下化相也。問。縦雖穢土修行得道。於第七地。必蒙諸仏加勧力者。何為往生安楽徳乎。答。穢土修行雖蒙加勧。本居浄土蒙其加勧。其徳猶以殊勝故也。問。七地已上諸菩薩等。更不可願生極楽耶。答。任常途義。不許其義。所以然者。七地已還。悲増菩薩為利益他以慈悲心受分段身。是故可有猶願極楽。八地已上。縦令雖為悲増菩薩。必得変易。故不可願生極楽歟。但加短解。可有猶願生極楽義。所謂極楽諸仏本家。何仏菩薩而不求生。是故九品往生経云。無量寿仏亦九品浄域三摩地。即是諸仏境界。如来所居。三世諸仏従此成正覚。已上。普賢文殊等大菩薩。願往生者。即此故也。集主深意有此義歟。-SYOZEN2-330,331/TAI7-355-
 〇「菩薩於七地中」等とは、問う、大寂滅とは、これ何の義ぞや。答う、実相の理地には一塵をも立てず。もしこの位に至るぬれば、その悟窮極す。この義に由るが故に大寂滅という。問う、一切菩薩はみな七地に於いて寂滅を証するや。答う、もし証理の至極に約せば、皆然るべきなり。問う、この位の中に於いて、諸仏および衆生を見ざる、何の故かあるや。答う、無生の極理に住するを以ての故に、上求下化の相を見ざるなり。但しこの義は根本智に約す。もしこれ後得智の辺に約せしめば、上求下化の相あるべきなり。問う、たとい穢土修行の得道なりといえども、第七地に於いて、必ず諸仏の加勧力を蒙るとは、何ぞ往生安楽の徳と為すや。答う、穢土の修行は加勧を蒙るといえども、本、浄土に居してその加勧を蒙るは、その徳は猶以て殊勝なるが故なり。問う、七地已上の諸の菩薩等は、更に極楽に生ぜんことを願ずべからざるや。答う、常途の義に任せば、その義を許さず。然る所以は、七地已還は悲増の菩薩にして、他を利益せんが為に慈悲心を以て分段の身を受く。この故になお極楽を願ずることあるべし。八地已上は、たとい悲増の菩薩たりといえども、必す変易を得る。故に極楽に生ぜんと願ずべからざるか。但し短解を加う。なお極楽に生ぜんと願ずる義あるべし。いわゆる極楽は諸仏の本家、何れの仏・菩薩か而も生ずることを求めざらん。この故に『九品往生経』に云わく「無量寿仏、また九品浄域の三摩地は、即ちこれ諸仏の境界、如来の所居なり。三世の諸仏はここより正覚を成ず」已上。普賢・文殊等の大菩薩の往生を願ずるは、即ちこの故なり。集主の深意、この義あるか。-SYOZEN2-330,331/TAI7-355-


 ◎復次無量寿経中。阿弥陀如来本願言。設我得仏他方仏土諸菩薩衆。来生我国。究竟必至一生補処。除其本願自在所化。為衆生故。被弘誓鎧。積累徳本。度脱一切。遊諸仏国修菩薩行。供養十方諸仏如来。開化恒砂無量衆生。使立無上正真之道。超出常倫。諸地之行現前。修習普賢之徳。若不爾者不取正覚。按此経推彼国菩薩。或可不従一地至一地。言十地階次者。是釈迦如来於閻浮提一応化道耳。他方浄土何必如此。五種不思議中。仏法最不可思議。若言菩薩必従一地至一地無超越之理。未敢詳也。譬如有樹名曰好堅。是樹地生百歳。乃具一日長高百丈。日日如此。計百歳之長。豈類修松邪。見松生長。日不過寸。聞彼好堅。何能不疑即日。有人聞釈迦如来証羅漢於一聴。制無生於終朝。謂是接誘之言。非称実之説。聞此論事亦当不信。夫非常之言不入常人之耳。謂之不然。亦可其宜也。
 ◎(論註)また次に『無量寿経』の中に、阿弥陀如来の本願に言わく、設い我仏を得たらんに、他方仏土のもろもろの菩薩衆、我が国に来生して、究竟して必ず一生補処に至らん。その本願の自在の所化、衆生のためのゆえに、弘誓の鎧を被て、徳本を積累し、一切を度脱せしめ、諸仏の国に遊びて、菩薩の行を修し、十方諸仏如来を供養し、恒沙無量の衆生を開化して、無上正真の道を立せしめんをば除く。常倫に超出し、諸地の行現前し、普賢の徳を修習せん。もししからずは正覚を取らじと。この経を按じて、かの国の菩薩を推するに、あるいは一地より一地に至らざるべし。十地の階次というは、これ釈迦如来、閻浮提にして、一の応化道ならくのみ。他方の浄土は、何ぞ必ずしもかくのごとくならん。五種の不思議の中に、仏法最も不可思議なり。もし菩薩必ず一地より一地に至りて、超越の理なしと言わば、未だ敢えて詳らかならざるなり。譬えば樹あり、名づけて好堅と曰う。この樹、地より生じて百歳ならん。いまし具に一日に長高なること百丈なるがごとし。日日にかくのごとし。百歳の長を計るに、あに修松に類せんや。松の生長するを見るに、日に寸を過ぎず。かの好堅を聞きて、何ぞよく即日を疑わざらん。人ありて、釈迦如来、羅漢を一聴に証し、無生を終朝に制したまえるを聞きて、これ接誘〈とる、こしらう〉の言にして、称実の説にあらずと謂〈おも〉えり。この論事を聞きて、また当に信ぜざるべし。それ非常の言は常人の耳に入らず。これをしからずと謂えり。またそれ宜しかるべきなり。SYO:SYOZEN2-108,109/-HON-286,287,HOU-397,398-

 〇復次等者。問。引二十二願。其要如何。答。初地已上七地已還。願生極楽可有二要。謂一為免於第七地証実際難。二為諸位速疾超越。其中為顕超越之益。引当願也。問。願意如何。答。諸仏土中。或有悉経十地階位。自一至二。乃至自九至十之土。或有超昇直登等覚。速至補処。如来因中。見彼諸土。選択之時愍諸菩薩十地修行経歴劫数。発起超越諸位速至補処之願。但所除者。有利他願暫施自在利生而已。只任意楽。更非願力之有偏也。言言十地階次等者。問。如案起信論大意者。為怯弱機。示超証義。為懈慢機示歴劫義。説此義趣。正決判云。無有超過法故。以七地菩薩皆逕三阿僧祇劫。已上。如此説者。超証方便。経劫実義。而今釈意。忽以矛盾。如何。答。起信論意。所判実爾。常途性相又以是同。但如性宗者。多許超証。各別宗旨不可異論。何況今釈所判。不亘穢土超証。十地階次只是釈迦一代化道。対之専述浄土超証他力願意。於超証義許与不許。不及成諍。非相違歟。五種不思議中等者。註当章中。上所挙之国土体相之下釈云。諸経統言。有五種不可思議。一者衆生多少不可思議。二者業力不可思議。三者龍力不可思議。四者禅定力不可思議。五者仏法力不可思議。已上。譬如等者。大論十云。譬如有樹名好堅。是樹在地中百歳。枝葉具足一日出生高百丈。是樹出已。欲求大樹以蔭其身。是時林中有神語好堅言。世中無大汝者。諸樹皆当在汝蔭中。仏亦如是。無量阿僧祗劫。在菩薩地中生。一日於菩提樹下金剛座処。実知一切諸法相。得成仏道。已上。天台云。好堅処地芽已百囲。已上。百囲百歳彼此相違。有異説歟。不須和会。又或説云。此樹梵言曰諾瞿陀。亦梵言云尼拘律陀。此云無節。即好堅也。或又此樹翻為楊柳云云。此譬喩意。以松生長一日一寸比自一地至其一地。以好堅樹一日百丈。況彼浄土超証義也。有人等者。今引頓悟即証之例。助彼超越速疾益也。問。上指十地階次施設。言為釈尊一代化道。今挙一聴終朝之証。為釈迦仏化道之益。何相違耶。答。漸頓空有半満権実随他随自。皆在釈迦一仏設化。但言閻浮一化道者。顕彼説中十地階次為其一途随宜之説。彼此随機各蒙教益。皆不相違。-SYOZEN2-331,332/TAI7-355,356,357
 〇「復次」等とは、問う、二十二願を引くは、その要、如何。答う、初地已上、七地已還、極楽に生ぜんと願ずる二の要あるべし。謂わく、一には第七地に於いて実際を証する難を免ぜられんが為なり。二には諸位速疾超越の為、その中に超越の益を顕わさんが為に、当願を引くなり。問う、願の意は如何。答う、諸仏の土の中に、或いは悉く十地の階位を経て、一より二に至り、乃至、九より十に至る土あり。或いは超昇して直ちに等覚に登り、速に補処に至るあり。如来の因中に、彼の諸土を見て、選択の時、諸の菩薩十地の修行の劫数を経歴することを愍みて、諸位を超越して速に補処に至る願を発起したもう。但し除く所の者は、利他の願ありて暫く自在の利生を施すのみ。ただ意楽に任ず。更に願力の偏あるにあらざるなり。「言十地階次」等というは、問う、『起信論』の大意を案ずる如きは、怯弱の機の為に超証の義を示し、懈慢の機の為に歴劫の義を示す。この義趣を説き、正しく決判して云わく「超過の法あることなきが故に、七地の菩薩はみな三阿僧祇劫を逕るを以てなり」已上。この説の如きは、超証は方便、経劫は実義なり。而に今の釈の意は、忽に以て矛盾す、如何。答う、『起信論』の意は、判ずる所は実に爾り。常途の性相は、また以てこれ同じ。ただ性宗の如きは、多く超証を許す。各別の宗旨、異論すべからず。何に況んや今の釈の判ずる所は穢土の超証に亘らず。十地の階次はただこれ釈迦一代の化道なり。これに対して、専ら浄土の超証他力の願意を述ぶ。超証の義に於いて、許と許さざると、諍いを成すに及ばず。相違にあらざるか。「五種不思議中」等とは、註〈経〉の当章の中に、上に挙ぐる所の国土体相の下の釈に云わく「諸経に統べて言うに、五種の不可思議あり。一には衆生多少不可思議、二には業力不可思議、三には龍力不可思議、四には禅定力不可思議、五には仏法力不可思議なり」已上。「譬如」等とは、『大論』の十に云わく「譬えば樹ありて好堅と名づく。この樹は地中に在ること百歳。枝葉具足す。一日に出生する高さ百丈なるが如し。この樹は出で已りて、大樹を求めて以てその身を蔭さんと欲す。この時に林の中に神ありて好堅に語りて言わく、世の中に汝より大なる者なし。諸樹みな当に汝が蔭の中に在るべし。仏もまたかくの如し。無量阿僧祗劫に菩薩地の中に在りて生ず。一日菩提樹下に於いて金剛座に処す。実に一切の諸法の相を知りて、仏道を成ずることを得」已上。天台の云わく「好堅は地に処して芽は已に百囲」已上。百囲と百歳とは彼此相違す。異説あるか。須く和会すべからず。また或る説に云わく「この樹、梵言には諾瞿陀という。また梵言に尼拘律陀という。此には無節という。即ち好堅なり。或いはまたこの樹を翻じて楊柳と為す」云云。この譬喩の意は、松の生長すること一日一寸なるを以て、一地よりその一地に至るに比す。好堅樹の一日に百丈なるを以て、彼の浄土の超証の義に況するなり。「有人」等とは、今、頓悟即証の例を引きて、彼の超越速疾の益を助くるなり。問う、上には十地階次の施設を指して、釈尊一代の化道の為という。今は一聴終朝の証を挙げて釈迦仏化道の益と為す。何ぞ相違せるや。答う、漸頓・空有・半満・権実・随他随自、みな釈迦一仏の設化に在り。ただし閻浮の一の化道というは、彼の説の中の十地の階次はその一途随宜の説たることを顕わす。彼此、機に随いて、おのおの教益を蒙る。みな相違せず。-SYOZEN2-331,332/TAI7-355,356,357


 ◎略説八句示現如来自利利他功徳荘厳次第成就。応知。此云何次第。前十七句是荘厳国土功徳成就。既知国土相。応知国土之主。是故次観仏荘厳功徳。彼仏若為荘厳於何処坐。是故先観座。既知座已。宜知座主。是故次観仏荘厳身業。既知身業。応知有何声名。是故次観仏荘厳口業。既知名聞。宜知得名所以。是故次観仏荘厳心業。既知三業具足。応知為人天大師堪受化者是誰。是故次観大衆功徳。既知大衆有無量功徳。宜知上首者誰。是故次観上首。上首是仏。既知上首恐同長劫。是故次観主。既知是主。主有何増上。是故次観荘厳不虚作住持。八句次第成也。
 ◎(論註)略して八句を説きて、如来の自利利他の功徳荘厳、次第に成就したまえるを示現したまえるなりと、知るべし。これはいかんが次第する。前の十七句は、これ荘厳国土の功徳成就なり。既に国土の相を知りぬ。国土の主を知るべし。このゆえに次に仏の荘厳功徳を観ず。かの仏もし荘厳をなして、いずれの処に於いてか坐したまえる。このゆえにまず座を観ずべし。既に座を知り、すでに宜しく座主を知るべし。このゆえに次に仏の身業を荘厳したまえるを観ず。既に身業を知りぬ。いずれの声名かましますと知るべし。このゆえに次に仏の口業を荘厳したまえるを観ず。既に名聞を知りぬ。宜しく得名の所以を知るべし。このゆえに次に仏の心業を荘厳したまえるを観ず。既に三業具足したまえるを知りぬ。人天の大師となりて化を受くるに堪えたる者〈ひと〉は、これ誰ぞと知るべし。このゆえに次に大衆の功徳を観ず。既に大衆、無量の功徳いますことを知りぬ。宜しく上首は誰ぞと知るべし。このゆえに次に上首を観ず。上首はこれ仏なり。既に上首を知りぬ。恐らくは長幼に同じきことを。このゆえに次に主を観ず。既にこの主を知りぬ。主いかなる増上かましますと。このゆえに次に荘厳不虚作住持を観ず。八句の次第成ぜるなり。SYO:SYOZEN2-109/-HON-287,288,HOU-398,399-

 〇略説等者。是結文也。問。次第成就応知等者。為指自利利他次第如何。答。是明如来八種功徳生起次第。但其八種。論彼法体。併為自利利他功徳置而不論。雖然今正所言次第。不関二利。只明八種功徳生起。生起次第具見註釈。SYOZEN2-333/TAI7-392
 〇「略説」等とは、これ結文なり。問う、「次第成就応知」等とは、自利利他の次第を指すとやせん、如何。答う、これ如来八種の功徳の生起次第を明かす。但しその八種は、彼の法体を論ずるに、併ら自利利他の功徳と為ることを置きて論ぜず。然りといえども、今正しく言う所の次第は、二利に関わらず。ただ八種の功徳の生起を明かす。生起の次第は具に註釈に見えたり。SYOZEN2-333/TAI7-392


 ◎観菩薩者。云何観察菩薩荘厳功徳成就。観察菩薩荘厳功徳成就者。観察菩薩有四種正修行功徳成就。応知。真如是諸法正体。体如而行。則是不行。不行而行。名如実修行。体唯一如。而義分為四。是故四行以一正統之。
 ◎(論註)菩薩を観ぜば、いかんが菩薩の荘厳功徳成就を観察する。菩薩の荘厳功徳成就を観察せば、かの菩薩を観ずるに、四種の正修行功徳成就したまえることあり。まさに知るべしと。真如はこれ諸法の正体なり。体、如にして行ずれば、すなわちこれ不行なり。不行にして行ずるを、如実修行と名づく。体はただ一如にして、義をもて分かちて四とす。このゆえに四行は、一をもって正しくこれを統〈つか〉ぬ。SYO:SYOZEN2-109,110/-HON-288,HOU-399-

 〇観察菩薩荘厳之中。論文有三。一云何下標牒章目。二観彼下標有四種荘厳功徳。三何者下正釈四種荘厳。二註之中。真如等者。大乗止観云。問曰。云何名此心為真如。答曰。一切諸法依此心有。以心為体。望於諸法。法悉虚妄。有即非有。対此虚偽法故因為真。又復諸法雖実非有。但以虚妄因縁而有生滅之相。然彼虚法生時。此心不生。諸法滅時。此心不滅。不生故不増。不減故不滅。以不生不滅不増不減故名之為真。三世諸仏及以衆生同以此一浄心為体。凡聖諸法自有差別異相。而此真心無異無相。故名為如。已上。又天台云。万法是真如。由不変故。真如是万法。由随縁故。已上。就言真如諸法正体。可有二意。一諸法皆是虚妄之相。真如一法唯是真実。其真如者是心一法。若依此義。言諸法中唯此一真。是正体也。上所挙之大乗止観叶此意歟。二真如体相。不限一心。森羅万像三千諸法莫非真如。就其相望。雖有随縁不変之異。色心諸法莫非真如。若依此義。諸法悉是真如正体。是故釈云諸法正体。天台正意可合此義。不行等者。無分別相。相応真如所修行故。言不行者是約体如。於其正体離情執故。言而行者。約正修行。於其所行無作意故。三正釈中功徳荘厳為四種故。文有四段。省文言之。一不動遍至供仏化生。二一念遍至利益群生。三一切世界讃嘆諸仏。四無三宝処住持荘厳。SYOZEN2-333,334/TAI7-397,397-
 〇観察菩薩荘厳の中に、論文に三あり。一に「云何」の下は章目を牒することを標す。二に「観彼」の下は四種の荘厳功徳あることを標す。三に「何者」の下は正しく四種の荘厳を釈す。二に註の中に「真如」等とは、『大乗止観』に云わく「問うて曰わく、云何ぞこの心を名づけて真如と為すや。答えて曰わく、一切の諸法はこの心に依りて有り。心を以て体と為す。諸法に望むるに、法は悉く虚妄なり。有は即ち有に非ず。この虚偽の法に対するが故に因りて真と為す。また諸法は実に有に非ずといえども、ただ虚妄の因縁を以て而も生滅の相あり。然も彼の虚法の生ずる時、この心は生ぜず。諸法の滅する時、この心は滅せず。生ぜざるが故に増せず。減ぜざるが故に滅せず。不生・不滅・不増・不減なるを以ての故に、これを名づけて真と為す。三世の諸仏および衆生は同じくこの一浄心を以て体と為す。凡聖の諸法は自ずから差別異相あれども、而もこの真心は異なく、相なし。故に名づけて如と為す」已上。また天台の云わく「万法はこれ真如なり。不変に由るが故に。真如はこれ万法なり。随縁に由るが故に」已上。真如は諸法の正体というに就きて二の意あるべし。一には諸法は皆これ虚妄の相、真如の一法、唯これ真実なり。その真如とは、これ心の一法なり。もしこの義に依らば、言うこころは、諸法の中に唯この一真なり。これ正体なり。上に挙ぐる所の『大乗止観』はこの意に叶うか。二には真如の体相は一心に限らず。森羅万像・三千の諸法は真如にあらざることなし。その相望に就きて随縁・不変の異あるといえども、色心の諸法は真如にあらざることなし。もしこの義に依らば、諸法は悉くこれ真如の正体なり。この故に釈して諸法の正体という。天台の正意はこの義に合すべし。「不行」等とは、分別の相なし。真如に相応して修行する所なるが故に。「不行」というは、これ体如に約す。その正体に於いて情執を離るるが故に。「而行」というは、正修行に約す。その所行に於いて作意なきが故に。三に正釈の中に、功徳荘厳は四種と為すが故に、文に四段あり。文を省してこれをいわば、一には不動遍至供仏化生、二には一念遍至利益群生、三には一切世界讃嘆諸仏、四には無三宝処住持荘厳なり。SYOZEN2-333,334/TAI7-397,397-


 ◎何者為四。一者於一仏土身不動搖。而遍十方種種応化。如実修行常作仏事。偈言安楽国清浄。常転無垢輪。化仏菩薩日如須弥住持故。開諸衆生淤泥華故。八地已上菩薩常在三昧。以三昧力身不動本処。而能遍至十方供養諸仏教化衆生。無垢輪者仏地功徳也。仏地功徳無習気煩悩垢。仏為諸菩薩常転此法輪。諸大菩薩亦能以此法輪開導一切無暫時休息。故言常転。法身如日。而応化身光遍諸世界也。言日未足以明不動。復言如須弥住持也。淤泥華者。経言。高原陸地不生蓮華。卑湿淤泥乃生蓮華。此喩凡夫在煩悩泥中為菩薩開導。能生仏正覚華。諒夫紹隆三宝常使不絶。
 ◎(論註)何ものをか四とする。一には、一仏土において身動揺せずして十方に遍す。種種に応化して実のごとく修行して、常に仏事を作す。偈に安楽国は清浄にして、常に無垢輪を転ず。化仏菩薩は、日の須弥に住持するがごときのゆえにと言えり。もろもろの衆生の淤泥華を開かしむるがゆえにと。八地已上の菩薩は、常に三昧にありて、三昧力をもって、身、本処を動ぜずしてよく遍く十方に至りて、諸仏を供養し、衆生を教化す。無垢輪とは仏地の功徳なり。仏地の功徳は、習気煩悩の垢ましまさず。仏、もろもろの菩薩のために常にこの法輪を転ず。もろもろの大菩薩、またよくこの法輪をもって、一切を開導して暫時も休息なけん。故に常転と言う。法身は日のごとくにして、応化身の光、もろもろの世界に遍ずるなり。言うこころは、日は未だもって不動を明かすに足らざれば、また如須弥住持と言うなり。淤泥華とは、経に言わく、高原の陸地には、蓮華を生ぜず。卑湿の淤泥に、いまし蓮華を生ずと。これは、凡夫、煩悩の泥の中にありて、菩薩のために開導せられて、よく仏の正覚の華を生ずるに喩うるなり。諒〈まこと〉にそれ三宝を紹隆して常に絶えざらしむと。SYO:SYOZEN2-110/-HON-288,HOU-399,400-

 〇第一段中無垢輪者。問。今註釈初約八地已上所行。後約仏地。一師所釈。於一科中何忽相違。又智光云。初地已上菩薩。亦能以此法輪開導一切。已上。旁以未審。就中既言仏地功徳不謂初地八地已上。於因位中何転之耶。答。既云無垢。今釈之意属仏功徳。其義可然。雖然或云八地已上。或云初地。各約分転。共無所違。次至于云因位之中不可転者。非究竟者是不為難。其上蒙仏加力故也。淤泥華者。問。指何華乎。答。言淤者濁。言泥者水。生濁水華是蓮華也。淤泥譬之衆生煩悩。華譬仏性。或又淤泥喩之性徳。華喩修徳。云経言者。維摩経也。-SYOZEN2-334/TAI7-398-
 〇第一段の中に「無垢輪」とは、問う、今の註釈は、初は八地已上の所行に約し、後は仏地に約す。一師の所釈、一科の中に於いて何ぞ忽に相違せるや。また智光の云わく「初地已上の菩薩は、また能くこの法輪を以て一切を開導す」已上。旁以ていぶかし。中に就きて既に仏地功徳といいて、初地八地已上といわず。因位の中に於いて何ぞこれを転ずるや。答う、既に無垢という。今釈の意は仏の功徳に属す。その義然るべし。然りといえども、或いは八地已上といい、或いは初地という。おのおの分転に約す。共に違する所なし。次に因位の中に転ずべからずというに至りては、究竟にあらざればこれ難しとせず。その上は仏の加力を蒙るが故なり。「淤泥華」とは、問う、何の華を指すや。答う、「淤」というは濁、泥というは水なり。濁水に生〈な〉る華はこれ蓮華なり。淤泥はこれを衆生の煩悩に譬え、華を仏性に譬う。或いはまた淤泥はこれを性徳に喩え、華を修徳に喩う。「経言」というは『維摩経』なり。-SYOZEN2-334/TAI7-398-


 ◎二者彼応化身。一切時不前不後。一心一念放大光明。悉能遍至十方世界教化衆生。種種方便修行所作。滅除一切衆生苦故。偈言無垢荘厳光。一念及一時。普照諸仏会。利益諸群生故。上言不動而至。容或至有前後。是故復言一念一時無前無後也。
 ◎(論註)二には、かの応化身、一切の時、前ならず後ならず、一心一念に、大光明を放ちて、ことごとくよく遍く十方世界に至りて、衆生を教化す。種種に方便し、修行所作、一切衆生の苦を滅除するがゆえに。偈に無垢荘厳光、一念及一時、普照諸仏会、利益諸群生(無垢荘厳の光、一念および一時に、普く諸仏の会を照らして、もろもろの群生を利益す)と言えるが故にと。上に、不動にして至ると言えり。あるいは至るに前後あるべし。このゆえにまた一念一時、前ならず後ならずと言えるなり。SYO:SYOZEN2-110/-HON-288,289,HOU-400-

 〇第二段中無垢光者。輪光雖異無垢義同。准上応知。-SYOZEN2-334/TAI7-398-
 〇第二段の中に「無垢光」とは、輪と光と異るといえども、無垢の義は同じ。上に准じて知るべし。-SYOZEN2-334/TAI7-398-


 ◎三者彼於一切世界無余照諸仏会。大衆無余広大無量。供養恭敬讃嘆諸仏如来功徳。偈言雨天楽華衣妙香等。供養讃諸仏功徳。無有分別心故。無余者。明遍至一切世界一切諸仏大会。無有一世界一仏会不至也。肇公言。法身無像而殊形並応至韻。無言而玄籍弥布。冥権無謀而動与事会。蓋斯意也。
 ◎(論註)三には、かれ一切の世界において、余なくもろもろの仏会を照らす。大衆余なく広大無量にして、諸仏如来の功徳を供養し恭敬し讃嘆す。偈に雨天楽華衣、妙香等供養、讃諸仏功徳、無有分別心(天の楽、華、衣、妙香等を雨りて、諸仏の功徳を供養し讃ずるに、分別の心あることなし)と言えるが故にと。無余とは、遍く一切の世界、一切の諸仏大会に至りて、一世界一仏会として至らざることあることなきを明かすなり。肇公の言わく(註維摩)、法身は像なくして形を殊にす。ならびに至韻に応ず。言なくして玄籍いよいよ布き、冥権、謀なくして動じて事と会すと。けだしこの意なり。SYO:SYOZEN2-110,111/-HON-289,HOU-400-

 〇第三段中肇公言者。問。是指誰人指何書乎。答。羅什三蔵有其四子。各為英傑。世称之言生肇融叡。生者道生。肇者僧肇。融者道融。叡者僧叡。今肇公者。即僧肇也。此人造論曰之肇論。依維摩経所記書也。彼論序云。夫聖智無知而万品倶照。次法身下如今所引。此釈之意。三論宗旨甚深義理不及輙述。詞雖幽玄。総而言之。是則不行而行意也。-SYOZEN2-334/TAI7-398,399-
 〇第三段の中に「肇公言」とは、問う、これ誰人を指し、何れの書を指すや。答う、羅什三蔵にその四子あり。おのおの英傑たり。世にこれを称して生・肇・融・叡という。生とは道生、肇とは僧肇、融とは道融、叡とは僧叡なり。今の肇公とは即ち僧肇なり。この人、論を造る。これを『肇論』という。『維摩経』に依りて記する所の書なり。彼の論の序に云わく「それ聖智は無知にして万品倶に照す」。次法身の下は今の所引の如し。この釈の意なり。三論の宗旨、甚深の義理は輙く述ぶるに及ばず。詞は幽玄なりといえども、総じてこれを言わば、これ則ち不行而行の意なり。-SYOZEN2-334/TAI7-398,399-


 ◎四者彼於十方一切世界無三宝処。住持荘厳仏法僧宝功徳大海。遍示令解如実修行。偈言何等世界無仏法功徳宝。我願皆往生示仏法如仏故。上三句雖言遍至。皆是有仏国土。若無此句。便是法身有所不法。上善有所不善。観行体相竟。
 ◎(論註)四には、かれ十方一切の世界に、三宝ましまさぬ処において、仏法僧宝功徳の大海を住持し荘厳して、遍く示して、如実の修行を解らしむ。偈に何等世界無仏法功徳宝。我願皆往生示仏法如仏(何等の世界なりと、仏法功徳の宝なきには、我、皆往生して仏法を示すこと仏のごとくならんと願ず)と言えるがゆえにと。上の三句は、遍く至ると言うといえども、みなこれ有仏の国土なり。もしこの句なくは、すなわちこれ法身、法ならざる所あらん。上善、善ならざる所あらん。観行体相竟りぬ。SYO:SYOZEN2-111/-HON-289,HOU-400,401-

 〇第四段中言上三句雖言等者。此述当段利益周備。其意見註。不能更述。然而猶粗解其意。上三句者。於有仏国挙遍至徳。未顕無仏世界利益。今至此句彰無仏法功徳宝処住持行相。是故利物於此円満。功徳於此具足而已。問。三段句数各有一四句偈之故十二句也。何云三句。准初標者。可云四種。若依章段。可云三章三段等歟。如何。答。唯識論云。名詮自性。句詮差別。已上。就差別義云句無過。即下釈中国土荘厳云十七句。如来荘厳称曰八句。菩薩荘厳又云四句。皆此意也。於外典中。又有其例。謂以絶句四韻等作。雖為一首。称一句詩。是常事也。可准拠歟。便是等者。無三宝処利益。若闕欲明可有法身不遍上善不具之過意也。言上善者。諸大菩薩所得善法功徳等也。智光疏釈当章意云。然諸大菩薩。普於十方無量世界。若有三宝処。若無三宝処。受五種生随其所応救済有情令修仏法。此中且就無三宝処。菩薩受生示法令行。已上。五種生者。一除災生。二随類生。三大勢生。四増上生。五最勝生。同疏列之。具雖解釈依繁略之。若欲知者可見彼疏。-SYOZEN2-334,335/TAI7-399
 〇第四段の中に「上三句雖言」等というは、これ当段の利益の周備せることを述ぶ。その意は註に見えたり、更に述ぶるに能わず。然るになお、ほぼその意を解す。上の三句は有仏の国に於いて遍至の徳を挙ぐ。未だ無仏の世界の利益を顕わさず。今、この句に至りて仏法功徳の宝なき処の住持の行相を彰わす。この故に利物はここに於いて円満し、功徳はここに於いて具足すらくのみ。問う、三段の句数は、おのおの一四句偈ある故に十二句なり。何ぞ三句というや。初の標に准ぜば四種というべし。もし章段に依らば三章・三段等というべきか、如何。答う、『唯識論』に云わく「名は自性を詮し、句は差別を詮す」已上。差別の義に就きて句というに過なし。即ち下の釈の中に、国土の荘厳を十七句といい、如来の荘厳を称して八句といい、菩薩の荘厳をまた四句という。皆この意なり。外典の中に於いて、またその例あり。謂わく絶句四韻等の作を以て、一首たりといえども、一句の詩と称うる、これ常の事なり。准拠すべきか。「便是」等とは、無三宝処の利益、もし闕くれば法身不遍・上善不具の過あるべきことを明かさんと欲する意なり。「上善」というは、諸の大菩薩所得の善法功徳等なり。智光の疏に当章の意を釈して云わく「然も諸の大菩薩は普く十方無量世界の、もしは三宝ある処、もしは三宝なき処に於いて、五種の生を受けてその所応に随いて有情を救済し、仏法を修せしむ。この中に且く無三宝処に就きて、菩薩は生を受けて法を示して行ぜしむ」已上。五種の生とは、一には除災生、二には随類生、三には大勢生、四には増上生、五には最勝生なり。同じき疏に、これを列ぬ。具に解釈すといえども、繁に依りてこれを略す。もし知らんと欲せば、彼の疏を見るべし。-SYOZEN2-334,335/TAI7-399