六要鈔会本 第六巻の5(6の内) 証の巻 還相回向 引文 曇鸞『論註』「善巧摂化」「離菩提障」 「順菩提門」「名義摂対」 |
◎=親鸞聖人『教行信証』の文。 〇=存覚『六要抄』の文 |
『教行信証六要鈔会本』 巻六之五 |
◎善巧摂化者。 ◎(論註)善巧摂化とは、SYO:SYOZEN2-113/-HON-292,HOU-403- 〇善巧摂化章中有二。初標章目。解章目者。言善巧者。是方便也。此義可見摩訶止観。言方便者如下註釈。言摂化者。摂摂受義。化化導也。是則摂化利益衆生。以巧方便回向善也。問。就言摂化可有能摂所摂乎。答。広略止観修行能摂。以此功徳施衆生者。所摂義也。SYOZEN2-337,338/TAI7-469 〇善巧摂化の章の中に二あり。初に章目を標す。章目を解せば、「善巧」というは、これ方便なり。この義は『摩訶止観』を見るべし。「方便」というは、下の註釈の如し。「摂化」というは、摂は摂受の義、化は化導なり。これ則ち衆生を摂化利益するに、巧方便回向の善を以てするなり。問う、摂化というに就きて能摂・所摂あるべきか。答う、広略止観の修行は能摂、この功徳を以て衆生に施するは所摂の義なり。SYOZEN2-337,338/TAI7-469 ◎如是菩薩。奢摩他毘婆舎那。広略修行。成就柔軟心。柔軟心者。謂広略止観相順修行。成不二心也。譬如以水取影。清静相資而成就也。 ◎(論註)かくのごとき菩薩、奢摩他と毘婆舎那と、広略修行して、柔軟心を成就すと。柔軟心とは、謂わく広略の止観、相順し修行して、不二の心を成ず。譬えば水をもって影を取るに、清と静と相資けて成就するがごとしとなり。SYO:SYOZEN2-113/-HON-292,HOU-403- 〇如来以下是正釈也。此有四段。第一段。明止観相順成柔軟心。柔軟心者見今註意。随順義也。智光疏云。柔軟心者。謂不二心。広略止観相順修行成不二心。已上。全同今釈。不二心者。止観二法不相離心。此乃相応其義即是柔軟心也。SYOZEN2-338/TAI7-473 〇「如来」以下はこれ正釈なり。これに四段あり。第一段には、止観相順じて柔軟心を成ずることを明かす。「柔軟心」とは、今の註の意を見るに、随順の義なり。智光の疏に云わく「柔軟心とは、謂わく不二の心なり。広略止観相順修行して不二の心を成ず」已上。全く今の釈に同じ。「不二心」とは、止・観の二法は相離せざる心、これ乃ち相応、その義即ちこれ柔軟の心なり。SYOZEN2-338/TAI7-473 ◎如実知広略諸法。如実知者。如実相而知也。広中二十九句。略中一句。莫非実相也。 ◎(論註)実のごとく広略の諸法を知るとのたまえり。実の如く知るというは、実相のごとく而も知るなり。広の中の二十九句と、略の中の一句と、実相にあらざることなきなり。SYO:SYOZEN2-113/-HON-292,HOU-403- 〇如実知下第二段也。是明広略皆実相也。SYOZEN2-338/TAI7-478 〇「如実知」の下は第二段なり。これ広略みな実相なることを明かすなり。SYOZEN2-338/TAI7-478 ◎如是成就巧方便回向。如是者。如前後広略皆実相也。以知実相故則知三界衆生虚妄相也。知衆生虚妄則生真実慈悲也。知真実法身則起真実帰依也。慈悲之与帰依巧方便在下。 ◎(論註)かくのごとく巧方便回向を成就したまえりとのたまえり。かくのごとくというは、前後の広略、みな実相なるがごとし。実相を知るをもってのゆえに、すなわち三界の衆生の虚妄の相を知るなり。衆生の虚妄を知れば、すなわち真実の慈悲を生ずるなり。真実の法身を知るは、すなわち真実の帰依を起こすなり。慈悲と帰依と巧方便とは、下にありと。SYO:SYOZEN2-113/-HON-292,HOU-403,404- 〇如是成下第三段也。当段正明成巧方便回向之意。言知衆生虚妄則生真実慈悲也者。是巧方便之慈悲心。即是下化衆生心也。次下釈云。知真実法身等者。上求菩提。言帰依者。即智慧也。慈悲乃至在下者。指下障菩提門之中智慧慈悲及方便也。SYOZEN2-338/TAI7-479 〇「如是成」の下は第三段なり。当段に正しく巧方便回向を成ずる意を明かす。「衆生の虚妄を知れば、すなわち真実の慈悲を生ずるなり」というは、これ巧方便の慈悲心は、即ちこれ下化衆生の心なり。次下の釈に云わく「真実の法身を知る」等とは、上求菩提、「帰依」というは、即ち智慧なり。「慈悲 (乃至) 在下」とは、下の障菩提門の中の智慧慈悲及び方便を指すなり。SYOZEN2-338/TAI7-479 ◎何者菩薩巧方便回向。菩薩巧方便回向者。謂説礼拝等五種修行。所集一切功徳善根。不求自身住持之楽。欲抜一切衆生苦故。作願摂取一切衆生。共同生彼安楽仏国。是名菩薩巧方便回向成就。案王舎城所説無量寿経。三輩生中雖行有優劣。莫不発皆無上菩提之心。此無上菩提心即是願作仏心。願作仏心即是度衆生心。度衆生心。即是摂取衆生生有仏国土心。是故願生彼安楽浄土者。要発無上菩提心也。若人不発無上菩提心。但聞彼国土受楽無間。為楽故願生。亦当不得往生也。是故言不求自身住持之楽。欲抜一切衆生苦故。住持楽者。謂彼安楽浄土。為阿弥陀如来本願力之所住持。受楽無間也。凡釈回向名義。謂以己所集一切功徳。施与一切衆生。共向仏道。巧方便者。謂菩薩願。以己智慧火焼一切衆生煩悩草木。若有一衆生不成仏。我不作仏。而衆生未尽成仏。菩薩已自成仏。譬如火[テン03](聴念反)欲[テン03](聴歴反)一切草木焼令使尽。草木未尽火[テン03]已尽。以後其身而身先故名方便。此中言方便者。謂作願摂取一切衆生共同生彼安楽仏国。彼仏国即是畢竟成仏道路。無上方便也。 ◎(論註)何者か菩薩の巧方便回向なる。菩薩の巧方便回向とは、謂わく礼拝等の五種の修行を説く。所集の一切の功徳善根は、自身住持の楽を求めず。一切衆生の苦を抜かんと欲するがゆえに、一切衆生を摂取して、共に同じくかの安楽仏国に生ぜしめんと作願す。これを菩薩の巧方便回向成就と名づくとのたまえり。王舎城所説の『無量寿経』を案ずるに、三輩生の中に、行に優劣ありといえども、みな無上菩提の心を発せざるはなし。この無上菩提心は、すなわちこれ願作仏心なり。願作仏心は、すなわちこれ度衆生心なり。度衆生心は、すなわちこれ衆生を摂取して有仏の国土に生ぜしむる心なり。このゆえにかの安楽浄土に生ぜんと願ずる者は、かならず無上菩提心を発すべし。もし人、無上菩提の心を発さずして、ただかの国土の受楽無間なるを聞きて、楽のためのゆえに生ぜんと願ずるは、また当に往生を得ざるべきなり。このゆえに、自身住持の楽を求めず、一切衆生の苦を抜かんと欲すがゆえにと言えり。住持楽とは、謂わく、かの安楽浄土は、阿弥陀如来の本願力のために住持せられて、楽を受くること間なきなり。おおよそ回向の名義を釈せば、謂わく己が所集の一切の功徳をもって、一切衆生に施与して、共に仏道に向かえしめたまえりと。巧方便とは、謂わく菩薩願ずらく、己が智慧の火をもって、一切衆生の煩悩の草木を焼かんとしたまえり。もし一衆生として成仏せざることあらば、我仏に作らじと。しかるに衆生未だことごとく成仏せざるに、菩薩すでに自ら成仏したまえることは、譬えば火[テン03](聴念の反)の、一切の草木を[テン03]〈摘〉(聴歴の反)〈つ・はさ〉んで、焼きて尽くさしめんと欲するに、草木未だ尽きざるに、火[テン03]すでに尽くるがごとし。その身を後にして、而して身を先にするをもってのゆえに、方便と名づく。この中に方便と言うは、謂わく作願して一切衆生を摂取して、共に同じくかの安楽仏国に生ぜしむるなり。かの仏国は、すなわちこれ畢竟成仏の道路、無上の方便なり。SYO:SYOZEN2-113,114/-HON-292,293,HOU-404,405- 〇何者以下。当段重委明巧方便回向之義。案王舎城所説等者。始自此文至向仏道。第三巻本被引載之。是故於彼旧本鈔中。粗記此事。仍今略之。但所相残。聊可述之。問。五念門中所列回向。与今回向同異如何。答。其義是同。回向意楽不可替故。問。五念門者所回行体。今回向者能回心也。能所已異何云同耶。答。五念門中。前四門者是所回向。第五門者能回向也。能所合論名之五念。彼此回向其心同也。問。観経所説三心第三与今回向。同異如何。答。於此同異者重重有義。先第三心有其三重。於中初二不可同之。彼自利故。後一可同。彼約利他。今回向又約利他故。又縦雖為第三重心。更不可同。観経三心。定散諸機各別所発自力心也。今回向者。如来利他回向心也。若約此義。大以為異。但又約彼観経三心大経三信和会終成一心之時。此三信者如来発起他力大信也。約此義辺。又為同也。譬如等者。喩欲利他先得自利之令然也。[テン03]玉篇云。雉戟切。[テン03]投也。弁也。已上。広韻云。擲直炙切。投也。撥也。振也。摘説文上同。已上。摘玉篇云。多革切。拓果樹実。已上。広韻云。陟革切。手取也。又他歴切。已上。或本両所共用[テン03]字。或有上[テン03]下摘之本。[テン03]摘両字通用無咎。但於上[テン03]本書。多本記聴念反。皆以不審。如此反者。可在去声五十五六艶[テン01]韻。而於彼韻。更無此字。恐後人誤載此反歟。所勘載之字書之反。足為指南。後賢宜決此愚意也。SYOZEN2-338,339/TAI7-483,484 〇「何者」以下は、当段に重ねて委しく巧方便回向の義を明かす。「案王舎城所説」等とは、始めこの文より「向仏道」に至るまでは、第三巻の本にこれを引き載せらる。この故に彼の旧本の鈔の中に於いて、ほぼこの事を記す。仍て今はこれを略す。但し相残る所は、聊かこれを述ぶべし。問う、五念門の中に列ぬる所の回向と、今の回向と、同異如何。答う、その義はこれ同じ。回向の意楽は替るべからざるが故に。問う、五念門は所回の行体、今の回向は能回の心なり。能所已に異なり、何ぞ同じというや。答う、五念門の中に前の四門は、これ所回向、第五門は能回向なり。能所合論して、これを五念と名づく。彼此の回向は、その心同じなり。問う、『観経』所説の三心の第三と、今の回向と、同異如何。答う、この同異に於いては重重に義あり。まず第三の心にその三重あり。中に於いて初の二はこれに同ずべからず。彼は自利なるが故に。後の一は同ずべし。彼は利他に約す。今の回向はまた利他に約するが故に。またたとい第三重の心たりといえども、更に同ずべからず。『観経』の三心は定散諸機各別にして発す所の自力の心なり。今の回向は如来利他の回向心なり。もしこの義に約せば、大いに以て異と為す。但しまた彼の『観経』の三心と、『大経』の三信と和会して終に一心と成るに約する時は、この三信は如来発起他力の大信なり。この義辺に約すれば、また同じと為すなり。「譬如」等とは、利他を欲すれば、まず自利を得るが然らしむるに喩うなり。[テン03]は『玉篇』に云わく「雉戟の切。[テン03]投なり、弁なり」已上。『広韻』に云わく「擲は直炙の切。投なり、撥なり、振なり」。摘は『説文』は上に同じ、已上。摘は『玉篇』に云わく「多革の切。果樹の実を拓〈ひろ〉うなり」已上。『広韻』に云わく「陟革の切。手取なり。また他歴の切」已上。或る本は両所共に[テン03]の字を用る。或いは上は[テン03]、下は摘なる本あり。[テン03]摘の両字は通用するに咎なし。但し上の[テン03]の本に於いて書す多くの本に「聴念反」を記す。皆以て不審。この反の如きは、去声の五十五六艶[テン01]の韻に在るべし。而るに彼の韻に於いて、更にこの字なし。恐らくは後の人、誤りてこの反を載するか。勘え載る所の字書の反、指南と為るに足れり。後賢、宜しくこの愚意を決すべきなり。SYOZEN2-338,339/TAI7-483,484 ◎障菩提門者。 ◎(論註)障菩提門とは、SYO:SYOZEN2-114/-HON-293,HOU-405- 〇障菩提門章中有二。初標章目。問。於此章目其義難思。十重解義皆是修道。何立障碍菩提門耶。答。意云遠離障菩提門。是故初列十重名云離菩提障。今又下設総別解釈。皆云遠離。以前後釈顕其相違。今文略也。SYOZEN2-339/TAI7-498 〇障菩提門の章の中に二あり。初に章目を標す。問う、この章目に於いて、その義思い難し。十重の解義は皆これ修道なり。何ぞ菩提門を障碍することを立つるや。答う、意は障菩提門を遠離すという。この故に初に十重を列ねて名づけて離菩提障という。今また下に総別の解釈を設くるに、みな遠離という。前後の釈を以てその相違を顕わす。今は文の略せるなり。SYOZEN2-339/TAI7-498 ◎菩薩如是善知回向成就。即能遠離三種菩提門相違法。何等三種。一者依智慧門。不求自楽。遠離我心貪著自身故。知進守退曰智。知空無我曰慧。依智故不求自楽。依慧故遠離我心貪著自身。 ◎(論註)菩薩、かくのごとく善く回向成就を知れば、すなわちよく三種菩提門相違の法を遠離するなり。何等か三種なる。一には智慧門に依りて自楽を求めず、我心、自身に貪着するを遠離せるがゆえにとのたまえり。進を知りて退を守るを智と曰う。空無我を知るを慧と曰う。智に依るがゆえに自楽を求めず、慧に依るがゆえに、我心、自身を貪着するを遠離せり。SYO:SYOZEN2-114/-HON-293,HOU-405- 〇菩薩以下是正釈也。此有四段。初三段者明依三門離三障義。謂依智慧慈悲方便。如次遠離貪著自身。無安衆生。供養自身。後一段者是総結也。SYOZEN2-339/TAI7-500 〇「菩薩」以下はこれ正釈なり。これに四段あり。初の三段は三門に依りて三障を離るる義を明かす。謂わく智慧・慈悲・方便に依りて、次の如く貪著自身・無安衆生・供敬〈供養〉自身を遠離す。後の一段は、これ総結なり。SYOZEN2-339/TAI7-500 〇第一段中。知進等者。於俗諦法分別善悪。願進恐退守自身也。進進仏道。退退堕也。所言智者世俗智也。問。知空無我最可云智。如何。答。法門配当不必一准。各依一義。又約体一。其義不違。SYOZEN2-339/TAI7-500,501 〇第一段の中に、「知進」等とは、俗諦の法に於いて善悪を分別して、進を願じ、退を恐れて、自身を守るなり。進は仏道に進む。退は退堕なり。言う所の智とは世俗智なり。問う、空無我を知るは最も智というべし、如何。答う、法門の配当は必ずしも一准ならず。おのおの一義に依る。また体に約すれば一なり。その義は違せず。SYOZEN2-339/TAI7-500,501 ◎二者依慈悲門。抜一切衆生苦。遠離無安衆生心故。抜苦曰慈。与楽曰悲。依慈故抜一切衆生苦。依悲故遠離無安衆生心。 ◎(論註)二には慈悲門に依りて、一切衆生の苦を抜きて、無安衆生心を遠離せるがゆえにとのたまえり。苦を抜くを慈と曰う。楽を与うるを悲と曰う。慈に依るがゆえに一切衆生の苦を抜き、悲に依るがゆえに無安衆生心を遠離せり。SYO:SYOZEN2-115/-HON-293,HOU-405- 〇第二段中。抜苦等者。問。倶舎論云。慈悲無瞋性。乃至。此行相如次与楽及抜苦。已上。与今相違如何。答。毘曇義然。常依此説。涅槃経云。為諸衆生除無利養。是名大慈。故与衆生無量利楽。是名大悲。已上。此経所説。順今註釈。彼是異説不及和会。SYOZEN2-340,/TAI7-503 〇第二段の中に、「抜苦」等とは、問う、『倶舎論』に云わく「慈悲は無瞋の性。(乃至) この行相は次の如く与楽と及び抜苦となり」已上。今と相違、如何。答う、毘曇の義は然なり。常にこの説に依る。『涅槃経』に云わく「諸の衆生の為に無利養を除く。これを大慈と名づく。故に衆生に無量の利楽を与う。これを大悲と名づく」已上。この経の所説は今の註釈に順ず。彼是の異説は和会するに及ばず。SYOZEN2-340,/TAI7-503 ◎三者依方便門。隣愍一切衆生心。遠離供養恭敬自身心故。正直曰方。外己曰便。依正直故生憐愍一切衆生心。依外己故遠離供養恭敬自身心。 ◎(論註)三には方便門に依りて、一切衆生を憐愍したもう心、自身を供養し恭敬する心を遠離せるがゆえにとのたまえり。正直を方と曰い、外己を便と曰う。正直に依るがゆえに、一切衆生を憐愍する心を生ず。外己に依るがゆえに自身を供養し恭敬する心を遠離せり。SYO:SYOZEN2-115/-HON-293,294,HOU-405- 〇第三門中。言正直者。不見怨親尊卑之相。普於一切総起平等憐愍之想。言外己者。外者後也。己者自也。対言外己有内他義。内者前也。問。此門之中既云憐愍一切衆生。即慈悲歟。然者二三両門有何別耶。答。上門是約抜苦与楽。是則所作。今門只云憐愍衆生。是能作心以之為異。凡言三門差別義者。初依智慧不求自楽。次依慈悲抜苦与楽。後依方便憐愍一切。離自供敬。又以三門約其自利利他辺者。第一自利。第二利他。第三門者並約自他。言憐愍等是利他義。遠離等者是自利也。是私領解。先達未談定有誤歟。後賢宜定。SYOZEN2-340/TAI7-505 〇第三門の中に、「正直」というは、怨親尊卑の相を見ず。普く一切に於いて総じて平等憐愍の想を起こす。「外己」というは、外とは後なり。己とは自なり。外己というに対して内他の義あり。内とは前なり。問う、この門の中に既に「一切衆生を憐愍す」という。即ち慈悲か。然らば二・三の両門は何の別かあるや。答う、上の門はこれ抜苦与楽に約す。これ則ち所作なり。今の門にはただ憐愍衆生という。これ能作の心、これを以て異と為す。凡そ三門差別の義をいわば、初は智慧に依りて自楽を求めず。次は慈悲に依りて抜苦与楽す。後は方便に依りて一切を憐愍して、自供敬を離る。また三門を以てその自利利他の辺に約さば、第一は自利、第二は利他、第三門は並べて自他に約す。「憐愍」等というは、これ利他の義、「遠離」等とは、これ自利なり。これ私の領解なり。先達は未だ談ぜず、定めて誤あるか。後賢宜く定むべし。SYOZEN2-340/TAI7-505 ◎是名遠離三種菩提門相違法。 ◎(論註)これを三種の菩提門相違の法を遠離すと名づく。SYO:SYOZEN2-115/-HON-294,HOU-405- ◎順菩提門者。 ◎(論註)順菩提門とは、SYO:SYOZEN2-115/-HON-294,HOU-405- 〇順菩提門章中有二。初標章目。其章目意。翻次上門可得其意。所謂上門離菩提障。今門即顕順菩提意。上下相対其意可見。SYOZEN2-340/TAI7-508 〇順菩提門の章の中に二あり。初に章目を標す。その章目の意は次上の門に翻じてその意を得べし。いわゆる上の門は離菩提障、今の門は即ち順菩提の意を顕わす。上下相対して、その意を見るべし。SYOZEN2-340/TAI7-508 ◎菩薩遠離如是三種菩提門相違法。得三種随順菩提門法満足故。何等三種。一者無染清浄心。以不為自身求諸楽故。菩提是無染清浄処。若為身求楽。即違菩提。是故無染清浄心是順菩提門。二者安清浄心。以抜一切衆生苦故。菩提是安穏一切衆生清浄処。若不作心抜一切衆生離生死苦。即便違菩提。是故抜一切衆生苦是順菩提門。三者楽清浄心。以令一切衆生得大菩提故。以摂取衆生生彼国土故。菩提是畢竟常楽処。若不令一切衆生得畢竟常楽。則違菩提。此畢竟常楽依何而得。依大乗〈大義〉門。大乗〈大義〉門者。謂彼安楽仏国土是也。是故。又言以摂取衆生生彼国土故。是名三種随順菩提門法満足。応知。 ◎(論註)菩薩、かくのごときの三種の菩提門相違の法を遠離して、三種の随順菩提門の法満足することを得たまえるがゆえなり。何等か三種なる。一には無染清浄心。自身のために諸楽を求めざるをもってのゆえにと。菩提はこれ無染清浄の処なり。もし身のために楽を求めば、すなわち菩提に違しなん。このゆえに無染清浄心は、これ菩提門に順ずるなり。二には安清浄心。一切衆生の苦を抜くをもってのゆえにとのたまえり。菩提はこれ一切衆生を安穏ならしむる清浄の処なり。もし作心して一切衆生を抜きて生死の苦を離れしめずは、すなわち菩提に違しなん。このゆえに一切衆生の苦を抜くは、これ菩提門に順ずるなり。三には楽清浄心。一切衆生をして大菩提を得しむるをもってのゆえに、衆生を摂取してかの国土に生ぜしむるをもってのゆえにとのたまえり。菩提はこれ畢竟常楽の処なり。もし一切衆生をして畢竟常楽を得しめずは、すなわち菩提に違しなん。この畢竟常楽は何に依りてか得る、大乗門〈大義門〉に依るなり。大乗門〈大義門〉とは、謂わくかの安楽仏国土これなり。このゆえにまた、衆生を摂取してかの国土に生ぜしむるをもってのゆえにと言えり。これを三種の随順菩提門の法満足と名づく、知るべし。SYO:SYOZEN2-115/-HON-294,HOU-405,406- 〇次菩薩下是正釈也。此有四段。初三段者対初三段。後一段者対後一段。可得其意。SYOZEN2-340/TAI7-510 〇次に「菩薩」の下は、これ正釈なり。これに四段あり。初の三段は初の三段に対し、後の一段は後の一段に対して、その意を得べし。SYOZEN2-340/TAI7-510 ◎名義摂対者。 ◎(論註)名義摂対とは、SYO:SYOZEN2-115/-HON-294,HOU-406- 〇名義摂対章中有二。初標章目。釈章目者。名者指上所列智慧慈悲方便三種之名。義者即彼三種所具之義。又名能詮義所詮也。言摂対者。摂者。相摂対者相対。相対上下而相摂之。其摂対者。即論文曰以三種門摂取般若。般若摂取方便是也。SYOZEN2-340/TAI7-513 〇名義摂対の章の中に二あり。初に章目を標す。章目を釈せば、「名」とは上に列する所の智慧・慈悲・方便の三種の名を指す。「義」とは、即ち彼の三種所具の義、また、名は能詮、義は所詮なり。「摂対」というは、「摂」とは相摂、「対」とは相対、上下を相対してこれを相摂す。その摂対とは、即ち論文に「三種の門を以て般若を摂取す。般若は方便を摂取す」という、これなり。SYOZEN2-340/TAI7-513 ◎向説智慧・慈悲・方便三種門摂取般若。般若摂取方便。応知。般若者達如之慧名。方便者通権之智称。達如則心行寂滅。通権則備省衆機之智。備応而無知。寂滅之慧亦無知而備省。然則智慧・方便相縁而動。相縁而静。動不失静。智慧之功也。静不廃動。方便之力也。是故智慧・慈悲・方便摂取般若。般若摂取方便。応知者。謂応知智慧・方便是菩薩父母。若不依智慧・方便。菩薩法則不成就。何以故。若無智慧為衆生時。則堕顛倒。若無方便観法性時。則証実際。是故応知。 ◎(論註)さきに、智慧・慈悲・方便の三種の門は、般若を摂取し、般若は方便を摂取すと説きつ。知るべしと。般若とは如に達するの慧の名なり。方便とは権に通ずるの智の称なり。如に達すれば、すなわち心行寂滅なり。権に通ずれば、すなわち備に衆機を省るの智なり。備に応じて無知なり。寂滅の慧は、また無知にして備に省る。しかればすなわち智慧と方便とあい縁じて動じ、あい縁じて静なり。動の静を失せざるは智慧の功なり。静、動を廃せざるは方便の力なり。このゆえに智慧と慈悲と方便とは般若を摂取し、般若は方便を摂取す。知るべしとは、謂わく智慧と方便とは、これ菩薩の父母なり。もし智慧と方便とに依らずは、菩薩の法則、成就せずということを知るべしと。何をもってのゆえに。もし智慧なくして衆生のためにする時は、すなわち顛倒に堕し、もし方便なくして法性を観ずる時は、すなわち実際を証す。このゆえに知るべしという。SYO:SYOZEN2-115,116/-HON-294,295,HOU-406,407- 〇向説智慧慈悲等下是正釈也。此有三段。今其初也。言向説者。指上離菩提障章也。此中意明智恵等三摂取般若。般若摂取方便義也。般若等者達如慧等者。即是実智。言方便者。是権智也。問。言般若者三種外歟。答。三種内也。謂智慧中取其実智是則慧也。問。所言般若三種内者何論相摂。答。上約権智。是世俗智。即是能摂。下般若者是約実智。即真諦智。是所摂也。問。何所摂中不挙慈悲。答。摂方便也。達如等者已下註釈大意。此明権実二智互不相離。寂滅省機共不相妨。動静不失功力自然。仰衆機下之智之上。或本載有省機二字。文言義理共備宜歟。一一文義四論幽旨。不及輙解。有智之人不滞文歟。SYOZEN2-341/TAI7-517 〇「向説智慧慈悲」等の下は、これ正釈なり。これに三段あり。今はその初なり。「向説」というは、上の離菩提障の章を指すなり。この中の意は智恵等の三は般若を摂取し、般若は方便を摂取する義を明かすなり。「般若等者達如慧」等とは、即ちこれ実智なり。「方便」というは、これ権智なり。問う、般若というは三種の外か。答う、三種の内なり。謂わく、智慧の中にその実智を取る、これ則ち慧なり。問う、言う所の般若は三種の内ならば、何ぞ相摂を論ぜん。答う、上は権智に約す。これ世俗智、即ちこれ能摂なり。下の般若はこれ実智に約す。即ち真諦智、これ所摂なり。問う、何ぞ所摂の中に慈悲を挙げざるや。答う、方便に摂するなり。「達如」等とは、已下註釈の大意は、これ権実二智は互に相離せず、寂滅省機は共に相妨げず、動静失せずして、功力自然なることを明かす。そもそも「衆機」の下、「之智」の上に、或る本に載せて「省機」の二字あり。文言義理、共に備わりて宜しきか。一一の文義、四論の幽旨、輙すく解するに及ばず。有智の人は文に滞らざらんか。SYOZEN2-341/TAI7-517 ◎向説遠離我心貪著自身・遠離無安衆生心・遠離供養恭敬自身心。此三種法遠離障菩提心。応知。諸法各有障碍相。如風能障静。土能障水。湿能障火。五黒十悪障人天。四顛倒障声聞果。此中三種不遠離障菩提心。応知者。若欲得無障。当遠離此三種障碍也。 ◎(論註)さきに遠離我心貪着自身、遠離無安衆生心、遠離供養恭敬自身心を説きつ。この三種の法は障菩提心を遠離するなりと、知るべしと。諸法におのおの障碍相あり。風はよく静を障う。土はよく水を障う。湿はよく火を障う。五黒十悪は人天を障う。四顛倒は声聞の果を障うるがごとし。この中の三種は、菩提を障うる心を遠離せず。知るべしとは、もし無障を得んと欲わば、当にこの三種の障碍を遠離すべしとなり。SYO:SYOZEN2-116/-HON-295,HOU-407- 〇向説遠離我心以下。第二段也。言向説者。同指離菩提障章也。此中意明挙上遠離之心。此三種離菩提之障碍者也。明障碍中。五黒等者。黒是悪業即五悪也。是故或有言五悪本。言五悪者。不持五戒。言十悪者翻十善也。SYOZEN2-341/TAI7-525 〇「向説遠離我心」以下は第二段なり。「向説」というは、同じく離菩提障の章を指すなり。この中の意は上の遠離の心を挙げて、この三種は菩提の障碍を離るるを明かす者なり。障碍を明かす中に、「五黒」等とは、黒はこれ悪業、即ち五悪なり。この故に或いは五悪という本あり。五悪というは、五戒を持たず。十悪というは、十善に翻するなり。SYOZEN2-341/TAI7-525 ◎向説無染清浄心・安清浄心・楽清浄心。此三種心。略一処成就妙楽勝真心。応知。楽有三種。一者外楽。謂五識所生楽。二者内楽。謂初禅二禅三禅意識所生楽。三者法楽(五角反)楽(魯各反)。謂智慧所生楽。此智慧所生楽従愛仏功徳起。是遠離我心・遠離無安衆生心・遠離自供養心。是三種心清浄増進。略為妙楽勝真心。妙言其好。以此楽縁仏生故。勝言勝出三界中楽。真言不虚偽不顛倒。 ◎(論註)さきに無染清浄心と安清浄心と楽清浄心とを説きつ。この三種の心は略して一処にして妙楽勝真心を成就したまえり、知るべしと。楽に三種あり。一には外楽、謂わく五識所生の楽なり。二には内楽、謂わく初禅・二禅・三禅の意識所生の楽なり。三には法楽(五角の反)楽(魯各の反)〈ほう・がく・らく〉、謂わく智慧所生の楽なり。この智慧所生の楽は、仏功徳を愛するより起これり。この遠離我心と遠離無安衆生心と遠離自供養心と、この三種の心、清浄に増進して、略して妙楽勝真心と為る。妙の言はそれ好なり。この楽は仏を縁じて生ずるをもってのゆえに。勝の言は三界の中の楽に勝出せり。真の言は虚偽ならず、顛倒せざるなり。SYO:SYOZEN2-116/-HON-295,296,HOU-407- 〇向説無染清浄以下。第三段也。言向説者。是指順菩提門之章。当段之意。挙彼門中三種之心。成一妙楽勝真心也。楽有等者。問。五識所生楽者。欲色界中何耶。答。今註釈意欲界楽也。問。楽分外内。其義如何。答。言外楽者。彼前五識相応之楽縁外境生。是故称云外門転也。言内楽者。此是意識所生楽故。不従外生。是故号曰内門転也。問。於欲界中。又有意識相応之楽。即是喜受。何不挙之。答。以外門転為外楽故。彼内門転不加之也。問。如此義者。下内楽中何不摂之。答。内楽約定。此以散故。非内摂也。問。是猶難思。有三楽中不尽楽過。須言四楽別立之歟。答。欲界意識相応楽者。約五受辺是喜受也。既是云喜不摂楽中。是有何過。問。如今所立。約五受者只第三定心悦名楽。余処皆喜。此義唯識倶舎等意。共以不違。今依何義。初二三禅総称楽耶。答。依五受辺誠如所難。若依三受不分身心。総云苦楽。今之註釈。依三受故総言之楽。敢無違耳。問。於此三楽。云何分別定散世間及出世間并漏与無漏等之義耶。答。約定散者。初一唯散。次二是定。但第三楽。又有通散。聞法歓喜。愛仏功徳之分別等是散故也。世出世者。初一世間。次一是通世間出世。外道所得是世間禅。聖者所得出世間也。後一出世。漏無漏者。初一有漏。彼前五識因位一向有漏故也。次一是通漏与無漏。所謂外道及凡夫等。是有漏也。聖者所得是無漏也。後一楽者。約所縁法一向無漏。約能縁機又通有漏。地前機等有漏故也。SYOZEN2-341,342/TAI7-528,529 〇「向説無染清浄」以下は第三段なり。「向説」というは、これ順菩提門の章を指す。当段の意は彼の門の中の三種の心を挙げて、一妙楽勝真心を成ずるなり。「楽有」等とは、問う、五識所生の楽とは、欲色界の中には何ぞや。答う、今の註釈の意は欲界の楽なり。問う、楽に外内を分かつ、その義、如何。答う、「外楽」というは、彼の前の五識相応の楽は外境を縁じて生ず。この故に称して外門転というなり。「内楽」というは、これはこれ意識所生の楽なるが故に、外より生ぜず。この故に号して内門転というなり。問う、欲界の中に於いて、また意識相応の楽あり。即ちこれ喜受なり。何ぞこれを挙げざる。答う、外門転を以て外楽と為すが故に。彼の内門転をば、これを加えざるなり。問う、かの義の如くならば、下の内楽の中に何ぞこれを摂せざるや。答う、内楽は定に約す。これは散なるを以ての故に、内の摂にあらざるなり。問う、これなお思い難し。三楽の中に楽を尽くさざる過あり。須く四楽といいて別にこれを立つべきか。答う、欲界の意識相応の楽は、五受の辺に約すれば、これ喜受なり。既にこれ喜という、楽の中に摂せざる、これ何の過あらん。問う、今の所立の如きならば、五受に約せばただ第三定の心悦を楽と名づく。余処はみな喜なり。この義『唯識』『倶舎』等の意、共に以て違せず。今は何の義に依りてか、初・二・三禅を総じて楽と称するや。答う、五受の辺に依らば、誠に所難の如し。もし三受に依れば身心を分かたず、総じて苦楽という。今の註釈は三受に依るが故に総じてこれを楽という。敢て違することならくのみ。問う、この三楽に於いて、云何が定・散・世間と及び出世間并びに漏と無漏と等の義を分別するや。答う、定散に約せば、初の一はただ散、次の二はこれ定なり。但し第三の楽は、また散に通ずることあり。法を聞きて歓喜し、仏の功徳を愛するの分別等は、これ散なるが故なり。世・出世とは、初の一は世間、次の一はこれ世間・出世に通ず。外道の所得はこれ世間禅、聖者の所得は出世間なり。後の一は出世なり。漏・無漏とは、初の一は有漏、彼の前の五識は因位一向有漏なるが故なり。次の一はこれ漏と無漏とに通ず。いわゆる外道と及び凡夫等は、これ有漏なり。聖者の所得はこれ無漏なり。後の一の楽とは、所縁の法に約すれば一向無漏、能縁の機に約すれば、また有漏に通ず。地前の機等は有漏なるが故なり。SYOZEN2-341,342/TAI7-528,529 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