六要鈔会本 第六巻の(6の内)
 証の巻
 還相回向
   還相釈引文 曇鸞『論註』「願事成就」「利行満足」
   還相回向結釈・往還二回向結釈
◎=親鸞聖人『教行信証』の文。
〇=存覚『六要抄』の文
『教行信証六要鈔会本』 巻六之六

 ◎願事成就者。
 ◎(論註)願事成就とは、SYO:SYOZEN2-116/-HON-296,HOU-407-

 〇願事成就章中有二。初標章目。其章目者。願者乃是論文所列智慧心等四種之心。是菩提心。事者乃是五念門行。依此願行得生彼土。言之成就。此是自行成就相也。SYOZEN2-342/TAI7-533
 〇願事成就の章の中に二あり。初に章目を標す。その章目とは、「願」とは乃ちこれ論文に列する所の智慧心等の四種の心、これ菩提心なり。「事」とは乃ちこれ五念門の行。この願行に依りて彼の土に生ずることを得、これを成就という。これはこれ自行成就の相なり。SYOZEN2-342/TAI7-533


 ◎如是菩薩。智慧心・方便心・無障心・勝真心。能生清浄仏国土。応知。応知者。謂応知此四種清浄功徳能得生彼清浄仏国土。非是他縁而生也。
 ◎(論註)かくのごとく菩薩、智慧心と方便心と無障心と勝真心をもって、よく清浄仏国土に生じたまえり、知るべしとのたまえり。知るべしとは、謂わくこの四種の清浄の功徳、よくかの清浄仏国土に生ずることを得しむ。これ他の縁をもって而して生ずるにはあらずということを知るべしとなり。SYO:SYOZEN2-116,117/-HON-296,HOU-407-

 〇次如是下是正釈也。此有二段。今其初也。当段意明智等四心。生清浄土。智慧心者。障菩提門章中。所言権実二智。方便心者。同第三門正直外己之心是也。無障心者。即三遠離之心是也。勝真心者。是指名義摂対章中所言妙楽勝真心也。非是等者。是斥非因。若不決之。義当戒取。是明依彼弥陀願力往生浄土。非不由願而得生也。SYOZEN2-342,343/TAI7-536
 〇次に「如是」の下は、これ正釈なり。これに二段あり。今はその初なり。当段の意は智等の四心は、清浄の土に生ずることを明かす。「智慧心」とは、障菩提門の章の中に言う所の権実二智なり。「方便心」とは、同じき第三門の正直外己の心、これなり。「無障心」とは、即ち三の遠離の心、これなり。「勝真心」とは、これ名義摂対の章の中に言う所の妙楽勝真心を指すなり。「非是」等とは、これ非因を斥く。もしこれを決ずは、義は戒取に当る。これ彼の弥陀の願力に依りて浄土に往生す、願に由らずして生ずることを得るにあらずということを明かすなり。SYOZEN2-342,343/TAI7-536


 ◎是名菩薩摩訶薩随順五種法門。所作随意自在成就。如向所説。身業・口業・意業・智業・方便智業随順法門故。随意自在者。言此五種功徳力能生清浄仏土。出没自在也。身業者礼拝也。口業者讃嘆也。意業者作願也。智業者観察也。方便智業者回向也。言此五種業和合。則是随順往生浄土法門。自在業成就。
 ◎(論註)これを菩薩摩訶薩、五種の法門に随順して、所作、意に随いて自在に成就したまえりと名づく。さきの所説のごときの身業・口業・意業・智業・方便智業は、法門に随順せるがゆえにと。随意自在とは、言うこころは、この五種の功徳力をもって、よく清浄仏土に生ぜしめて、出没自在なるなり。身業とは礼拝なり。口業とは讃嘆なり。意業とは作願なり。智業とは観察なり。方便智業とは回向なり。この五種の業和合すれば、すなわちこれ往生浄土の法門に随順して、自在の業成就したまえりと言えり。SYO:SYOZEN2-117/-HON-296,HOU-407,408-

 〇次是名下明上四心随順五念法門而已。出没等者。此有二義。一云入出門也。是入四門而出一門。自利利他自在義也。二云得生之後入出随意化他之行任運自在。不必入出二門意也。身業等者。三業配当。其文易見。言智業者。観察常照。智慧力故。言之智業。方便智業回向也者。言方便者。是巧方便回向義故。如此釈也。SYOZEN2-343/TAI7-540,541
 〇次に「是名」の下は、上の四心は五念法門に随順することを明かすらくのみ。「出没」等とは、これに二義あり。一に云わく、入出の門なり。これ四門に入りて、而も一門に出づ。自利利他自在の義なり。二に云わく、得生の後、入出は意に随いて、化他の行は任運自在なるなり。必ずしも入出二門の意ならざるなり。「身業」等とは、三業の配当、その文見易し。「智業」というは、観察して常に照らす。智慧力なるが故に、これを智業という。「方便智業とは回向なり」とは、「方便」というは、これ巧方便回向の義なるが故に、かくの如く釈するなり。SYOZEN2-343/TAI7-540,541


 ◎利行満足者。
 ◎(論註)利行満足とは、SYO:SYOZEN2-117/-HON-296,HOU-408-

 〇利行満足章中有二。一標章目者。章目顕著義理灼然。所謂自利利他之行満足。速証仏果義也。一部玄旨。於此窮極。五門所期今円満也。SYOZEN2-343/TAI7-544
 〇利行満足の章の中に二あり。一に章目を標すとは、章目は顕著にして、義理は灼然なり。いわゆる自利利他の行満足して、速かに仏果を証する義なり。一部の玄旨はここに於いて窮極し、五門の所期は今円満するなり。SYOZEN2-343/TAI7-544


 ◎復有五種門。漸次成就五種功徳。応知。何者五門。一者近門。二者大会衆門。三者宅門。四者屋門。五者薗林遊戲地門。此五種示現入出次第相。入相中。初至浄土是近相。謂入大乗正定聚。近阿耨多羅三藐三菩提。入浄土已。便入如来大会衆数。入衆数已。当至修行安心之宅。入宅已。当至修行所居屋宇(尤挙反)修行成就已。当至教化地。教化地即是菩薩自娯楽地。是故出門称薗林遊戲地門。
 ◎(論註)また五種の門あり、漸次に五種の功徳を成就したまえりと、知るべしと。何ものか五門なる。一には近門、二には大会衆門、三には宅門、四には屋門、五には園林遊戯地門なり。この五種は、入出の次第の相を示現せしむ。入の相の中に、初めに浄土に至るはこれ近相なり。謂わく大乗正定の聚に入りぬれば、阿耨多羅三藐三菩提に近づくなり。浄土に入り已れば、すなわち如来の大会衆の数に入るなり。衆の数に入り已りぬれば、当に修行安心の宅に至るべし。宅に入り已れば、当に修行所居の屋宇(尤挙の反)に至るべし。修行成就し已りぬれば、当に教化地に至るべし。教化地はすなわちこれ菩薩の自ら娯楽する地なり。このゆえに出門を園林遊戯地門と称すと。SYO:SYOZEN2-117/-HON-296,HOU-408-


 〇正釈之中分文為五。而於其中。一復有五下至称園林遊戯地門。総挙五門明其行相。二此五種下至出功徳。略標入出功徳之相。三自此入出至尽所引。(第五功徳相)明依礼等五念之因得彼近等五門之益。問。本書之文五科之内。後之二段其説如何。答。四菩薩入下至自利也。約入出門。分別自利利他二益。五菩薩如下至局分也。此明以依五念行故。二利成就終得阿耨菩提果也。問。於一章中有其所除。有何由乎。答。如此本文未必悉引。依要除取。強無別由。就中今文於第二巻引用之故。今被略歟。SYOZEN2-343/TAI7-547
 〇正釈の中に文を分かちて五と為す。而もその中に於いて、一に「復有五」の下、「称園林遊戯地門」に至るまでは、総じて五門を挙げてその行相を明かす。二に「此五種」の下、「出功徳」に至るまでは、略して入出功徳の相を標す。三に「此入出」より、所引(第五功徳相)を尽くすに至るまでは、礼等の五念の因に依りて彼の近等の五門の益を得ることを明かす。問う、本書の文、五科の内、後の二段、その説、如何。答う、四に「菩薩入」の下、「自利也」に至るまでは、入出の門に約して、自利利他の二益を分別す。五に「菩薩如」の下、「局分也」に至るまでは、これ五念の行に依るを以ての故に、二利成就して終に阿耨菩提の果を得ることを明かすなり。問う、一章の中に於いてその除く所あり。何の由かあるや。答う、かくの如く本文は未だ必ずしも悉く引かず。要に依りて除取す。強ちに別の由なし。中に就きて今の文は第二巻に於いてこれを引用するが故に、今、略せらるるか。SYOZEN2-343/TAI7-547

 〇問。初科之中云安心宅所居屋宇。宅屋之別如何。答。宅廣韻云。[トウ10]伯切。居也。説文託也。人所投託也。釈名宅択也。択吉処而営之也。屋玉篇云。於鹿切。舎也。又王屋山名。広韻云。烏谷切。舎也。具也。淮南子曰。舜築牆茨屋。風俗通曰。屋止也。以此字訓。粗加愚推。就其初後聊配当歟。所謂宅字言投云託。叶初至義。屋字云具。乃是具足。止即止住。案両字義。始終義也。問。以礼拝等如次。必為近等五門転入因歟。又其次第不可必然。只依五念得五門歟。答。此約浅深。一往判属。総於娑婆所修五念浄土生因。其生因者。偏是帰命無碍光故。一心念仏。仏本願力正生因也。生浄土後転入五門。又約堅義。如其次第。若約横義。此五門益。同時獲得。一念具足。自然証悟推而可知。SYOZEN2-343,345/TAI7-548
 〇問う、初科の中に「安心の宅」「所居の屋宇」という。宅・屋の別は如何。答う、宅は『廣韻』に云わく「[トウ10]伯の切。居なり」。『説文』に「託なり。人の投託する所なり」。『釈名』に「宅は択なり。吉処を択びて、これを営するなり」。屋は『玉篇』に云わく「於鹿の切。舎なり。又王屋は山の名」。『広韻』に云わく「烏谷の切。舎なり、具なり」。『淮南子』に曰わく「舜、牆を築きて屋を茨く」。『風俗通』に曰わく「屋は止なり」。この字訓を以て、ほぼ愚推を加うるに、その初後に就きて聊か配当するか。いわゆる宅の字をば投といい、託という。初て至る義に叶う。屋の字をば具という。乃ちこれ具足、止は即ち止住なり。両字の義を案ずるに、始終の義なり。問う、礼拝等を以て次の如く、必ず近等の五門転入の因と為るか。またその次第は必ずしも然るべからず。ただ五念に依りて五門を得るか。答う、これは浅深に約して一往判属す。総じて娑婆に於いて修する所の五念は浄土の生因なり。その生因とは、偏にこれ無碍光に帰命するが故に、一心に念仏するなり。仏の本願力は正しき生因なり。浄土に生じて後、五門に転入す。また堅の義に約せば、その次第の如し。もし横の義に約せば、これ五門の益は同時に獲得し、一念に具足す。自然の証悟、推して知るべし。SYOZEN2-343,345/TAI7-548


 ◎此五種門。初四種門成就入功徳。第五門成就出功徳。
 ◎(論註)この五種の門は、初の四種の門は入の功徳を成就したまえり。第五門は出の功徳を成就したまえりとのたまえり。SYO:SYOZEN2-,/-HON-296,297,HOU-408-

 〇第二配釈。SYOZEN2-344/TAI7-558
 〇第二は配釈。SYOZEN2-344/TAI7-558


 ◎此入出功徳何者是。
 ◎(論註)この入出の功徳は、何ものかこれなるや。SYO:SYOZEN2-117/-HON-296,HOU-408-

 ◎釈、言入第一門者。以礼拝阿弥陀仏為生彼国故。得生安楽世界。是名第一門。礼仏願生仏国。是初功徳相。
 ◎(論註)釈すらく、入第一門というは、阿弥陀仏を礼拝して、かの国に生まれんとするをもってのゆえに、安楽世界に生うまるることを得しむ。これを第一門と名づく。仏を礼して仏国に生ぜんと願ずるは、これ初の功徳の相なり。SYO:SYOZEN2-117/-HON-297,HOU-408-

 ◎入第二門者。以讃嘆阿弥陀仏。随順名義称如来名。依如来光明智相修行故。得入大会衆数。是名入第二門。依如来名義讃嘆。是第二功徳相。
 ◎(論註)入の第二門とは、阿弥陀仏を讃嘆し、名義に随順して、如来の名を称せしめ、如来の光明智相に依りて修行するをもってのゆえに、大会衆の数に入ることを得しむ。これを入の第二門と名づくと。如来の名義に依りて讃嘆する、これ第二の功徳相なり。SYO:SYOZEN2-117,118/-HON-297,HOU-408,409-

 ◎入第三門者。以一心専念作願生彼。修奢摩他寂静三昧行故。得入蓮華蔵世界。是名入第三門。為修寂静止故一心願生彼国。是第三功徳相。
 ◎(論註)入の第三門とは、一心に専念し作願して、彼に生じて奢摩他寂静三昧の行を修するをもってのゆえに、蓮華蔵世界に入ることを得しむ。これを入の第三門と名づく。寂静止を修するがためのゆえに、一心にかの国に生ぜんと願ず、これ第三の功徳の相なり。SYO:SYOZEN2-118/-HON-297,HOU-409-

 〇第三段中。問。得入蓮華蔵世界者。是何土耶。答。指極楽也。秘蔵記云。華蔵極楽名異処一。取意。問。初近門中。或云初至浄土。或云得生安楽。是極楽也。次入大会衆門之後。今得入之蓮華蔵界。何同処乎。答。智光疏云。無量寿仏所居住処。准此世界。随義為名。已上。極楽華蔵雖是同処。約其浅深換其名歟。当巻中明真実証故。薄地底下初生凡夫。由仏願力即登地上。速進八地已上之位。皆得寂滅平等之法。此義真実甚深之故。約此義辺。故云得入蓮華蔵界。是則蓮華蔵世界者。盧舎那仏所居之処。報身土故。為顕真証。故標此名。但至于云近門宅門有其差者。不動極楽浄土之名。即復可有華蔵界号。如天台云。豈離伽耶別求常寂。非寂光外別有娑婆。已上。准彼解釈深可思之。SYOZEN2-344/TAI7-560,561-
 〇第三段の中に、問う、「得入蓮華蔵世界」とは、これ何の土なるや。答う、極楽を指すなり。『秘蔵記』に云わく「華蔵と極楽とは名は異にして処は一なり」取意。問う、初の近門の中に、或いは初て浄土に至るといい、或いは安楽に生ずることを得という。これ極楽なり。次に大会衆門に入りて後に、今、蓮華蔵界に入ることを得。何ぞ同処ならん。答う、智光の疏に云わく「無量寿仏所居の住処は、この世界に准ずるに、義に随いて名と為す」已上。極楽と華蔵と、これ同処なりといえども、その浅深に約してその名を換うるか。当巻の中に真実の証を明かすが故に。薄地底下初生の凡夫は仏願力に由りて即ち地上に登り、速かに八地已上の位に進みて、みな寂滅平等の法を得。この義は真実甚深なるが故に、この義辺に約す故に、蓮華蔵界に入ることを得という。これ則ち蓮華蔵世界とは、盧舎那仏所居の処、報身の土なるが故に、真証を顕わさんが為の故にこの名を標す。但し近門・宅門、その差ありというに至りては、極楽浄土の名を動ぜずして、即ちまた華蔵界の号あるべし。天台にいうが如し「あに伽耶を離れて別に常寂を求めんや。寂光の外に別に娑婆あるにあらず」已上。彼の解釈に准じて深くこれを思うべし。SYOZEN2-344/TAI7-560,561-


 ◎入第四門者。以専念観察彼妙荘厳。修毘婆舎那故。得到彼所受用種種法味楽。是名入第四門。種種法味楽者。毘婆舎那中。有観仏国土清浄味・摂受衆生大乗味・畢竟住持不虚作味・類事起行願取仏土味。有如是等無量荘厳仏道味故言種種。是第四功徳相。

 ◎(論註)入の第四門とは、かの妙荘厳を専念し観察して、毘婆舎那を修せしむるをもってのゆえに、かの所に到ることを得て、種種の法味楽を受用せしむ。これを入の第四門と名づくと。種種の法味楽とは、毘婆舎那の中に、観仏国土清浄味・摂受衆生大乗味・畢竟住持不虚作味・類事起行願取仏土味あり。かくのごときらの無量の荘厳仏道の味あるがゆえに、種種と言えり。これ第四の功徳相なり。SYO:SYOZEN2-118/-HON-297,HOU-409-

 〇同第四段。類事起行願取仏土味者。此有二義。一約浄土解。浄仏国土成就衆生之起行等種類無量。於彼悉受其法味也。二約穢土解。是託事観。託事観者。華厳経云。菩薩在家当願。衆生捨離家難入空法中。孝養父母当願。衆生一切護養永得大安。乃至。若上楼閣当願。衆生昇仏法堂得微妙法。若在聚会当願。衆生究竟解脱到如来処。已上。往生要集又有此義。彼中巻云。問。凡夫行人逐物意移。何常得起念仏之心。答。彼若不能直爾念仏。応寄事事勧発其心。謂遊戯談咲時。願於極楽界宝池宝林中。与天人聖衆如是娯楽。若憂苦時願共衆生離苦生極楽。若対尊徳当願。生極楽如是奉世尊。若見卑賤当願。生極楽利楽孤独類。已上。私案両義。前義為親。論文既云得到彼処受用種種法味楽。文言無争為彼土益如上已述。五念是為此土修因。五門於彼所得果也。問。不可有許於彼修行五念義耶。答。可有於彼亦具修行五念義也。一切菩薩。自初発意至成仏果。皆悉莫非五念修行故也。-SYOZEN2-345/TAI7-561-
 〇同じき第四段。「類事起行願取仏土味」とは、これに二義あり。一には浄土に約して解す。浄仏国土成就衆生の起行等種類無量なり。彼に於いて悉くその法味を受くるなり。二には穢土に約して解う。これ託事観なり。託事観とは、『華厳経』に云わく「菩薩、家に在りては当に願ずべし、衆生は家難を捨離して空法の中に入らんと。父母に孝養しては、当に願ずべし、衆生一切護養して永く大安を得んと。(乃至)もし楼閣に上りては、当に願ずべし、衆生は仏法堂に昇りて微妙の法を得んと。もし聚会に在りては、当に願んずべし、衆生は究竟解脱して如来の処に到らんと」已上。『往生要集』にまたこの義あり。彼の中巻に云わく「問う、凡夫の行人は物を逐いて意移る。何ぞ常に念仏の心を起こすことを得んや。答う、彼はもし直爾に念仏すること能わずは、応に事事に寄せてその心を勧発すべし。謂わく遊戯・談咲の時には願ぜよ、極楽界の宝池宝林の中にして、天人聖衆とかくの如く娯楽せんと。もし憂苦の時は願ぜよ、衆生と共に苦を離れて極楽に生ぜんと。もし尊徳に対しては、当に願ずべし、極楽に生じて、かくの如く世尊に奉らんと。もし卑賤を見ては、当に願ずべし、極楽に生じて孤独の類を利楽せんと」已上。私に両義を案するに、前の義を親なりと為す。論文は既に「かの処に到ることを得て、種種の法味の楽を受用せしむ」という。文言は争いなく彼土の益たること、上に已に述ぶるが如し。五念はこれこの土の修因たり。五門は彼にして得る所の果なり。問う、彼に於いて五念を修行することを許す義あるべからざるや。答う、彼に於いてまた具に五念を修行する義あるべきなり。一切の菩薩は初発意より、仏果を成ずるに至るまで、皆悉く五念の修行にあらざることなきが故なり。-SYOZEN2-345/TAI7-561-


 ◎出第五門者。以大慈悲観察一切苦悩衆生。示応化身回入生死薗煩悩林中。遊戲神通至教化地。以本願力回向故。是名出第五門。示応化身者。如法華経普門示現之類也。遊戲有二義。一者自在義。菩薩度衆生。譬如師子搏鹿所為不難如似遊戲。二者度無所度義。菩薩観衆生。畢竟無所有。雖度無量衆生。実無一衆生得滅度者。示度衆生如似遊戲。言本願力者。示大菩薩於法身中。常在三昧而現種種身・種種神通・種種説法。皆以本願力起。譬如阿修羅琴雖無鼓者。而音曲自然。是名教化地第五功徳相。已上抄出。
 ◎(論註)出の第五門とは、大慈悲をもって一切苦悩の衆生を観察して、応化身を示して、生死の園、煩悩の林の中に回入して、神通に遊戯し、教化地に至る。本願力の回向をもってのゆえに。これを出の第五門と名づくと。応化の身を示すとは、『法華経』の普門示現の類のごときなり。遊戯に二の義あり。一には自在の義。菩薩、衆生を度すること、譬えば師子の鹿を摶つに所為難からざるがごときは、遊戯するがごとし。二には度無所度の義なり。菩薩、衆生を観ずるに畢竟じて有る所なし。無量の衆生を度すといえども、実に一衆生として滅度を得る者なし。衆生を度さんと示すこと、遊戯するがごとし。本願力と言うは、大菩薩、法身の中において、常に三昧にましまして、而して種種の身、種種の神通、種種の説法を現ずることを示すこと、みな本願力より起これるをもってなり。譬えば阿修羅の琴の鼓する者なしといえども、音曲自然なるがごとし。これを教化地の第五の功徳相と名づくと。已上抄出。SYO:SYOZEN2-118/-HON-297,298,HOU-409

 〇同第五段。如法華者。是指観音随類示現応機化度之利生也。是則現身挙三十三。為説法者標十九種。此菩薩者極楽上首蓮華部尊。利益広大慈悲超倫。是故出之為応化身之本拠耳。師子等者。師子猛獣鹿者小獣。搏之最易。故譬菩薩済度衆生得其自在神通力也。搏玉篇云。補洛切。手撃也。広韻同之。譬如阿修等者。彼琴自然発音之徳。同天宝幢准彼宜知。観経云。又有楽器懸処虚空。如天宝幢。不鼓自鳴。已上。疏定善義釈此文云。楼外荘厳宝楽飛空声流法響。昼夜六時如天宝幢。無思成自事也。已上。立五趣時。修羅之中勝者摂天。劣者摂鬼。故可准知。-SYOZEN2-345,346/TAI7-561,562
 〇同じき第五段。「如法華」とは、これ観音随類示現応機化度の利生を指すなり。これ則ち身を現ずることは三十三を挙げ、為に法を説くことは十九種を標す。この菩薩は極楽の上首、蓮華部の尊、利益広大にして、慈悲は倫に超えたり。この故にこれを出だして、応化身の本拠と為らくのみ。「師子」等とは、師子は猛獣、鹿は小獣。これを搏つこと最も易し。故に菩薩は衆生を済度するにその自在神通力を得るに譬うるなり。搏は『玉篇』に云わく「補洛の切。手に撃つなり」。『広韻』はこれに同じ。「譬如阿修」等とは、彼の琴の自然に音を発する徳は、天の宝幢に同じ、彼に准じて宜く知るべし。『観経』に云わく「また楽器の虚空に懸処するあり。天の宝幢の如し。鼓せざるに自ずから鳴る」已上。『疏』の『定善義』にこの文を釈して云わく「楼外の荘厳、宝楽、空に飛びて、声、法響を流す。昼夜六時に天の宝幢のごとし、思なくして自事を成す」已上。五趣と立つる時は、修羅の中に勝るる者を天に摂し、劣なる者を鬼に摂す。故に准知すべし。-SYOZEN2-345,346/TAI7-561,562


 ◎爾者大聖真言。誠知。証大涅槃藉願力回向。還相利益顕利他正意。是以論主宣布広大無碍一心。普遍開化雑染堪忍群萌。宗師顕示大悲往還回向。慇懃弘宣他利利他深義。仰可奉持。特可頂戴矣
 ◎(御自釈)しかれば大聖の真言、誠に知りぬ。大涅槃を証することは、願力の回向に藉りてなり。還相の利益は、利他の正意を顕すなり。ここをもって論主は広大無碍の一心を宣布して、あまねく雑染堪忍の群萠を開化し、宗師は大悲往還の回向を顕示して、慇懃に他利利他の深義を弘宣したまえり。仰ぎて奉持すべし、特に頂戴すべしと。SYO:J:SYOZEN2-118,119/HON-298,HOU-410

 〇爾者已下。私御釈也。是為総結。其意可見。SYOZEN2-346/TAI7-582
 〇「爾者」已下は私の御釈なり。これを総結と為す。その意見つべし。SYOZEN2-346/TAI7-582


 ◎顕浄土真実証文類 四

 教行信証六要鈔会本第六