六要鈔会本 第七巻の2(5の内) 真仏土の巻 真仏土釈 引文 『涅槃経』 |
◎=親鸞聖人『教行信証』の文。 〇=存覚『六要抄』の文 |
『教行信証六要鈔会本』 巻七之二 |
◎涅槃経言。又解脱者名曰虚無。虚無即是解脱。解脱即是如来。如来即是虚無。非作所作。乃至。真解脱者不生不滅。是故解脱即是如来。如来亦爾。不生不滅不老不死不破不壊。非有為法。以是義故。名曰如来入大涅槃。乃至。 ◎『涅槃経』(四相品)に言わく、また解脱は、名づけて虚無と曰う。虚無はすなわちこれ解脱なり。解脱はすなわちこれ如来なり。如来はすなわちこれ虚無なり。非作の所作なり。乃至。真解脱とは不生不滅なり。このゆえに解脱はすなわちこれ如来なり。如来また爾なり。不生不滅・不老不死・不破不壊にして、有為の法にあらず。この義をもってのゆえに、名づけて如来入大涅槃と曰う。乃至。SINBUTU:SYOZEN2-123/HON-303,304,HOU-414- 〇次涅槃経文。問。此経聖道為聖之説。非今所依。随而所引経文之中。無一句而説浄土文。何引之乎。答。雖為聖道所依之経。如来教法元無二故。二門雖異。和会無違。集主御意。深達此義明了弥陀名義功徳全為涅槃無上極理。以此義故。明真仏土極談已証。故被引用涅槃妙文。於第三本被引用彼経之下。粗述義畢。閑案大経一部説相。弥陀功徳説為五智。五智功徳説為無上。其経文云。於此諸智疑惑不信。然猶信罪福。修習善本。此諸衆生生彼宮殿寿五百歳。乃至。其有菩薩生疑惑者。為失大利。是故応当明信諸仏無上智慧。已上。又云。其有得聞。彼仏名号。歓喜踊躍乃至一念。当知此人為得大利。則是具足無上功徳。已上。今所言之無上智慧無上功徳。是則無上涅槃之義。言智慧者。於三徳中且挙般若。此中即具法身解脱之徳。阿弥陀者即為三徳之秘蔵故。弥陀仏智既云無上。涅槃極理又云無上。二種無上。其体是一。自余皆是有上之法。其義必然。瑜伽論云。復次云何有上法。謂除涅槃。余一切法。已上。又諸法中。大般涅槃為無上義。見智度論。凡大師意。名号功徳即涅槃徳。法事讃云。極楽無為涅槃界。随縁雑善恐難生。故使如来選要法教念弥陀専復専。已上。今此一偈。既讃極楽以為無上涅槃之界。而云随縁雑善難生。専念弥陀以為生因。故知所遮雑善等者。有上法故不生涅槃無上之土。唯勧称名。以無上法可生涅槃無上土故。以之言之。阿弥陀者涅槃名号。故処処釈皆顕涅槃弥陀一法之深旨耳。事讃又云。弥陀妙果号云無上涅槃。已上。般舟讃云。念仏即是涅槃門者。是顕称名為能入門。以涅槃理為所入城者。所入城者即浄土也。以其義故。或云直取涅槃城。或云入彼涅槃城。又般舟讃云。若往若還皆得益。本国他方亦無二。悉是涅槃平等法。諸仏智慧亦同然。已上。於其究竟平等功徳。而依別願立名之時。号阿弥陀。是故信知阿弥陀義。称其名号。自諸凡夫不平等見。所起罪悪自然消除。涅槃平等無上功徳自然円満。名号功徳往生勝利。決定不空。以之可知。問。若云爾者。不知如此深理之輩。不可輙得生浄土乎。答。知与不知共得往生。得往生者。只依信心。一家解釈其意分明。凡諸経中。雖未必悉顕説弥陀名義功徳。謂其密意。諸仏内証甚深至理。併在弥陀。大師釈云。諸経頓教文義歴然。蓋此謂也。而世以為浄土法門。浅近有相。只是如来慰喩一途方便化門。不及諸宗無相極談。集主之意。為破此見。粗示自解。彼甚深理。更以不離阿弥陀仏仏智無上涅槃平等之深理故。為欲識人。引此等経。被顕此義。尤可仰之。SYOZEN2-350,351,352/TAI8-72,73 〇次に『涅槃経』の文。問う、この経は聖道為聖の説、今の所依にあらず。随いて、所引の経文の中に一句として浄土を説く文なし。何ぞこれを引くや。答う、聖道所依の経たりといえども、如来の教法は元より無二なるが故に、二門異なるといえども、和会すれば違することなし。集主の御意は、深くこの義に達して明かに弥陀の名義功徳は全く涅槃無上の極理たることを了す。この義を以ての故に、真仏土極談の已証を明かすとして、故らに『涅槃』の妙文を引用せらる。第三の本に彼の経を引用せらる下に於いて、ほぼ義を述べ畢わりぬ。閑に『大経』一部の説相を案ずるに、弥陀の功徳を説きて五智と為す。五智の功徳を説きて無上と為す。その経文に云わく「この諸智に於いて疑惑して信ぜず。しかもなお罪福を信じ善本を修習す。このもろもろの衆生、かの宮殿に生まれて寿五百歳、(乃至)それ菩薩ありて疑惑を生ずる者は大利を失すとす。この故にまさに明らかに諸仏無上の智慧を信ずべし」已上。また云わく「それ、彼の仏の名号を聞くことを得て、歓喜踊躍して乃至一念することあらん。当に知るべし、この人は大利を得とす。則ちこれ無上の功徳を具足するなり」已上。今言う所の無上智慧・無上功徳は、これ則ち無上涅槃の義なり。「智慧」というは、三徳の中に於いて且く般若を挙ぐ。この中に即ち法身・解脱の徳を具す。阿弥陀とは即ち三徳の秘蔵たるが故に、弥陀の仏智を既に無上といい、涅槃の極理をまた無上という。二種の無上は、その体これ一なり。自余は皆これ有上の法なること、その義必然なり。『瑜伽論』に云わく「また次に云何なるか有上の法、謂わく涅槃を除きて、余の一切の法なり」已上。また諸法の中に、大般涅槃を無上とるす義は『智度論』に見えたり。凡そ大師の意は、名号の功徳は即ち涅槃の徳なり。『法事讃』に云わく「極楽は無為涅槃の界なり。随縁の雑善は恐らくは生じ難し。故に如来は要法を選びて教えて弥陀を念ずること、専らにして、また専ならしむ」已上。今この一偈は、既に極楽を讃じて以て無上涅槃の界と為す。而も随縁の雑善は生じ難しといいて、専念弥陀を以て生因と為す。故に知りぬ、遮する所の雑善等は有上の法なるが故に、涅槃無上の土に生ぜず。ただ称名を勧むることは、無上の法は涅槃無上の土に生ずべきを以ての故に、これを以てこれを言うに、阿弥陀とは涅槃の名号なり。故に処処の釈はみな涅槃弥陀一法の深旨を顕わすらくのみ。『事讃』にまた云わく「弥陀の妙果を号して無上涅槃という」已上。『般舟讃』に云わく「念仏は即ちこれ涅槃門」とは、これ称名を能入の門と為し、涅槃の理を以て所入の城と為すことを顕わすものなり。所入の城とは即ち浄土なり。その義を以ての故に、或いは「直ちに涅槃の城を取らん」といい、或いは「彼の涅槃の城に入らん」という。また『般舟讃』に云わく「もしは往、もしは還、みな益を得。本国・他方また二なし。悉くこれ涅槃平等の法なり。諸仏の智慧また同じく然なり」已上。その究竟平等の功徳に於いて、而も別願に依りて名を立つる時は阿弥陀と号す。この故に阿弥陀の義を信知して、その名号を称するに、諸の凡夫不平等の見より起す所の罪悪は自然に消除して、涅槃平等無上の功徳は自然に円満す。名号の功徳、往生の勝利、決定して空しからず。これを以て知るべし。問う、もし爾りといわば、かくの如きの深理を知らざらん輩は、輙く浄土に生ずることを得べからずや。答う、知ると知らざると、共に往生を得。往生を得ることは、ただ信心に依る。一家の解釈は、その意分明なり。凡そ諸経の中に未だ必ずしも悉く弥陀の名義の功徳を顕説せずといえども、その密意を謂うに、諸仏の内証、甚深の至理は、併せて弥陀に在り。大師の釈して「諸経に頓教の文義歴然なり」という、蓋しこの謂なり。而るに世以ておもえらく、浄土の法門は浅近有相にして、ただこれ如来慰喩の一途、方便の化門なり、諸宗の無相の極談に及ばずと。集主の意は、この見を破せんが為に、ほぼ自解を示す。彼の甚深の理は、更に以て阿弥陀仏仏智無上涅槃平等の深理を離れざるが故に、識らんと欲わん人の為に、これらの経を引きてこの義を顕わさる。尤もこれを仰ぐべし。SYOZEN2-350,351,352/TAI8-72,73 ◎又解脱者名無上上。乃至。無上上者。即真解脱。真解脱者即是如来。乃至。若得成於阿耨多羅三藐三菩提已。無愛無疑。無愛無疑即真解脱。真解脱者即是如来。乃至。如来者即是涅槃。涅槃者即是無尽。無尽者即是仏性。仏性者即是決定。決定者即是阿耨多羅三藐三菩提。迦葉菩薩白仏言。世尊。若涅槃・仏性・決定・如来。是一義名。云何説言有三帰依。仏告迦葉。善男子。一切衆生怖畏生死故求三帰。以三帰故則知仏性・決定・涅槃。善男子。有法名一義異。有法名義倶異。名一義異者。仏・常法・常比丘僧常。涅槃・虚空皆亦是常。是名名一義異。名義倶異者。仏名為覚。法名不覚。僧名和合。涅槃名解脱。虚空名非善亦名無碍是為名義倶異。善男子。三帰依者亦復如是。略出。 ◎(涅槃経・四相品)また解脱とは無上上と名づく。乃至。無上上はすなわち真解脱なり。真解脱は、すなわちこれ如来なり。乃至。もし阿耨多羅三藐三菩提を成ずることを得已りて、無愛無疑なり。無愛無疑はすなわち真解脱なり。真解脱はすなわちこれ如来なり。乃至。如来はすなわちこれ涅槃なり。涅槃はすなわちこれ無尽なり。無尽はすなわちこれ仏性なり。仏性はすなわちこれ決定なり。決定はすなわちこれ阿耨多羅三藐三菩提なり。迦葉菩薩、仏に白して言さく、世尊、もし涅槃と仏性と決定と如来と、これ一義の名ならば、いかんぞ説きて三帰依ありとのたまうやと。仏、迦葉に告げたまわく、善男子、一切衆生、生死を怖畏するがゆえに、三帰を求む。三帰をもってのゆえに、すなわち仏性と決定と涅槃とを知る。善男子、法の名一・義異なるあり。法の名義倶異なるあり。名一・義異とは、仏と常法と常比丘僧とは常なり。涅槃・虚空、みなまたこれ常なり。これを名一・義異と名づく。名義倶異とは、仏を名づけて覚とす、法を不覚と名づく、僧を和合と名づく、涅槃を解脱と名づく、虚空を非善と名づく、また無碍と名づく。これを名義倶異とす。善男子、三帰依とはまたかくのごとし。略出。SINBUTU:SYOZEN2-123,124/-HON-304,HOU-414,415 〇名一義異等者。通於三宝涅槃虚空。云常名一。仏法僧異云義異歟。名義倶異等者。仏法僧等其名皆異。覚不覚等其名皆異故。倶異之義其意易見。SYOZEN2-352/TAI8-79 〇「名一・義異」等とは、三宝と涅槃と虚空とに通じて、常というを一と名づく。仏と法と僧と異なるを義異というか。「名義倶異」等とは、仏・法・僧等は、その名みな異なり。覚・不覚等は、その名みな異なるが故に。倶異の義、その意は見やすし。SYOZEN2-352/TAI8-79 ◎又言。光明者名不羸劣。不羸劣者名曰如来。又光明者名為智慧。已上。 ◎(涅槃経・四依品)また言わく、光明とは不羸劣に名づく。不羸劣とは、名づけて如来と曰う。また光明は名づけて智慧とすと。已上。SINBUTU:SYOZEN2-124/HON-304,HOU-415 ◎又言。善男子。一切有為皆是無常。虚空無為。是故為常。仏性無為。是故為常。虚空者即是仏性。仏性者即是如来。如来者即是無為。無為者即是常。常者即是法。法者即是僧。僧即無為。無為者即是常。乃至。善男子。譬如従牛出乳。従乳出酪。従酪出生蘇。従生蘇出熟蘇。従熟蘇出醍醐。醍醐最上。若有服者衆病皆除。所有諸薬悉入其中。善男子。仏亦如是。従仏出十二部経。従十二部経出修多羅。従修多羅出方等経。従方等経出般若波羅蜜。従般若波羅蜜出大涅槃。猶如醍醐。言醍醐者喩於仏性。仏性者即是如来。善男子。如是義故。説言如来所有功徳無量無辺不可称計。抄出。 ◎(涅槃経・聖行品)また言わく、善男子、一切有為はみなこれ無常なり。虚空は無為なり、このゆえに常とす。仏性は無為なり、このゆえに常とす。虚空はすなわちこれ仏性なり、仏性はすなわちこれ如来なり、如来はすなわちこれ無為なり、無為はすなわちこれ常なり、常はすなわちこれ法なり、法はすなわちこれ僧なり、僧はすなわち無為なり、無為はすなわちこれ常なり。乃至。善男子、譬えば牛より乳を出だす、乳より酪を出だす、酪より生蘇を出だす、生蘇より熟蘇を出だす、熟蘇より醍醐を出だす、醍醐最上なり。もし服することある者は、衆病みな除こる。あらゆるもろもろの薬は、ことごとくその中に入るがごとし。善男子、仏もまたかくのごとし。仏より十二部経を出だす、十二部経より修多羅を出だす、修多羅より方等経を出だす、方等経より般若波羅蜜を出だす、般若波羅蜜より大涅槃を出だす。なおし醍醐のごとし。醍醐というは、仏性に喩う。仏性は、すなわちこれ如来なり。善男子、かくのごときの義のゆえに、説きて、如来所有の功徳は無量無辺不可称計と言えり。抄出。SINBUTU:SYOZEN2-124,125/HON-304,305,HOU-415,416 〇譬如従牛等者。雪山有草名曰忍辱。牛食其草乳所出味言之五味。天台喩之立五時教。乳即華厳。酪是阿含。生蘇方等。熟蘇般若。醍醐法華与涅槃也。下合譬云仏亦如是等是也。従仏等者。十二部経先指華厳。修多羅者次指阿含。方等般若大涅槃者在文顕露。仏性等者即涅槃也。経説一切衆生悉有仏性故也。SYOZEN2-352/TAI8-93,94 〇「譬如従牛」等とは、雪山に草あり、名づけて忍辱という。牛のその草を食して、乳より出だす所の味、これを五味という。天台はこれに喩えて五時の教を立つ。乳は即ち華厳、酪はこれ阿含、生蘇は方等、熟蘇は般若、醍醐は法華と涅槃となり。下の合譬に「仏もまたかくのごとし」等、これなり。「従仏」等とは、「十二部経」はまず華厳を指す。「修多羅」とは次に阿含を指す。「方等」「般若」「大涅槃」は文に在りて顕露なり。「仏性」等とは即ち涅槃なり。経に「一切衆生悉有仏性」と説くが故なり。SYOZEN2-352/TAI8-93,94 ◎又言。善男子。道有二種。一者常。二者無常。菩薩之相亦有二種。一者常。二者無常。涅槃亦爾。外道道名為無常。内道道者名之為常。声聞縁覚所有菩提。名為無常。菩薩諸仏所有菩提。名之為常。外解脱者名為無常。内解脱者名之為常。善男子。道与菩提及以涅槃。悉名為常。一切衆生常為無量煩悩所覆。無慧眼故不能得見。而諸衆生為欲見修戒定慧。以修行故見道菩提及以涅槃。是名菩薩得道菩提涅槃。道之性相実不生滅。以是義故不可投持。乃至。道者雖無色像可見。称量可知。而実有用。乃至。如衆生心。雖非是色。非長非短。非麁非細。非縛非解非見。法而亦是有。抄出 ◎(涅槃経・梵行品)また言わく、善男子、道に二種あり。一は常、二は無常なり。菩薩〈菩提〉の相に、また二種あり。一は常、二は無常なり。涅槃もまたしかなり。外道の道を名づけて無常とす、内道の道をば、これを名づけて常とす。声聞・縁覚所有の菩提を名づけて無常とす、菩薩・諸仏の所有の菩提、これを名づけて常とす。外の解脱は名づけて無常とす、内の解脱はこれを名づけて常とすと。善男子、道と菩提とおよび涅槃と、ことごとく名づけて常とす。一切衆生は、常に無量の煩悩のために覆われて慧眼なきがゆえに、見ることを得ることあたわず。而るにもろもろの衆生、戒定慧を修するを見んと欲うがために、修行をもってのゆえに、道と菩提とおよび涅槃とを見る。これを菩薩は道菩提涅槃を得と名づく。道の性相は実に不生滅なり。この義をもってのゆえに、捉持すべからず。乃至。道は色像の見つべく、称量して知るべきことなしといえども、しかも実に用あり。乃至。衆生の心のごときは、これ色にあらず、長にあらず短にあらず、麁にあらず細にあらず、縛にあらず解にあらず、見にあらずといえども、法としてまたこれ有なりと。抄出。SINBUTU:SYOZEN2-125/HON-305,HOU-416 ◎又言。善男子。有大楽故名大涅槃。涅槃無楽。以四楽故名大涅槃。何等為四。一者断諸楽故。不断楽者則名為苦。若有苦者不名大楽。以断楽故則無有苦。無苦無楽乃名大楽。涅槃之性無苦無楽。是故涅槃名為大楽。以是義故名大涅槃。復次善男子。楽有二種。一者凡夫。二者諸仏。凡夫之楽無常敗壊。是故無楽。諸仏常楽。無有変易。故名大楽。復次善男子。有三種受。一者苦受。二者楽受。三者不苦不楽受。不苦不楽是亦為苦。涅槃雖同不苦不楽。然名大楽。以大楽。故名大涅槃。二者大寂静故名為大楽。涅槃之性是大寂静。何以故。遠離一切[カイ01]閙法故。以大寂故名大涅槃。三者一切智故名為大楽。非一切智不名大楽。諸仏如来一切智故名為大楽。以大楽故名大涅槃。四者身不壊故名為大楽。身若可壊則不名楽。如来之身金剛無壊。非煩悩身無常之身。故名大楽。以大楽故名大涅槃。已上。 ◎(涅槃経・徳王品)また言わく、善男子、大楽あるがゆえに大涅槃と名づく。涅槃は無楽なり。四楽をもってのゆえに大涅槃と名づく。何等をか四とする。一つには諸楽を断ずるがゆえに。楽を断ぜざるは、すなわち名づけて苦とす。もし苦ある者は大楽と名づけず。楽を断ずるをもってのゆえに、すなわち苦あることなし。無苦・無楽をすなわち大楽と名づく。涅槃の性は無苦・無楽なり。このゆえに涅槃を名づけて大楽とす。この義をもってのゆえに大涅槃と名づく。また次に善男子、楽に二種あり、一には凡夫、二には諸仏なり。凡夫の楽は無常敗壊なり、このゆえに無楽なり。諸仏は常楽なり、変易あることなきがゆえに大楽と名づく。また次に善男子、三種の受あり。一には苦受、二には楽受、三には不苦不楽受なり。不苦不楽はこれまた苦とす。涅槃も不苦不楽に同じといえども、しかも大楽と名づく。大楽をもってのゆえに大涅槃と名づく。二には大寂静のゆえに名づけて大楽とす。涅槃の性はこれ大寂静なり。何をもってのゆえに、一切[カイ01]閙〈[カイ01] イツワリ。 閙 イツワリ〉の法を遠離せるゆえに。大寂をもってのゆえに大涅槃と名づく。三には一切智のゆえに名づけて大楽とす。一切智にあらざるをば大楽と名づけず。諸仏如来は一切智のゆえに名づけて大楽とす。大楽をもってのゆえに大涅槃と名づく。四には身不壊のゆえに名づけて大楽とす。身もし壊るべきは、すなわち楽と名づけず。如来の身は金剛にして壊るることなし。煩悩の身、無常の身にあらず、ゆえに大楽と名づく。大楽をもってのゆえに大涅槃と名づく。已上。SINBUTU:SYOZEN2-125,126/HON-305,306,HOU-416,417 〇有大楽故名大涅槃等者。名彼浄土。或曰極楽。或曰安楽。是順涅槃大楽之義。故浄土論名義摂対之章中云。向説無染清浄心安清浄心楽清浄心。此三種心略一処成就妙楽勝真心。己上。彼土成就浄妙楽故。縁仏土心又成此心。案此等義。涅槃之理与阿弥陀。全以契会。但涅槃者。従理之称。弥陀名号随事之号。事理似異事理不二。畢竟平等終無差別。是解云楽涅槃之理表極楽義。SYOZEN2-352,353/TAI8-109,110 〇「大楽あるが故に大涅槃と名づく」等とは、彼の浄土を名づけて、或いは極楽といい、或いは安楽という。これ涅槃大楽の義に順う。故に『浄土論』の名義摂対の章の中に云わく「さきに説きつる、無染清浄心と安清浄心と楽清浄心と、この三種の心は、略して一処に妙楽勝真心を成就す」己上。彼の土は浄妙の楽を成就するが故に、仏土を縁ずる心は、またこの心を成ず。これらの義を案ずるに、涅槃の理と阿弥陀と、全く以て契会す。但し涅槃とは、理に従る称、弥陀の名号は事に随える号なり。事理、異なるに似たれども、事理不二、畢竟平等にして終に差別なし。ここに楽というは涅槃の理、極楽を表する義を解す。SYOZEN2-352,353/TAI8-109,110 ◎又言。不可称量不可思議故。得名為大般涅槃。以純浄故名大涅槃。云何純浄。浄有四種。何等為四。一者二十五有名為不浄。能永断故得名為浄。浄即涅槃。如是涅槃亦得名有而是涅槃。実非是有。諸仏如来随世俗故説涅槃有。譬如世人非父言父。非母言母。実非父母而言父母。涅槃亦爾。随世俗故説言諸仏有大涅槃。二者業清浄故。一切凡夫業不清浄故無涅槃。諸仏如来業清浄故。故名大浄。以大浄故名大涅槃。三者身清浄故。身若無常則名不浄。如来身常故名大浄。以大浄故名大涅槃。四者心清浄故。心若有漏名曰不浄。仏心無漏故名大浄。以大浄故名大涅槃。善男子。是名善男子善女人。抄出。 ◎(涅槃経・徳王品)また言わく、不可称量・不可思議なるがゆえに、名づけて大般涅槃とすることを得。純浄をもってのゆえに大涅槃と名づく。いかんが純浄なる。浄に四種あり。何等をか四とする。一には二十五有を名づけて不浄とす。よく永く断ずるがゆえに、名づけて浄とすることを得。浄すなわち涅槃なり。かくのごときの涅槃、また有と名づくることを得。而して涅槃は実にこれ有にあらず。諸仏如来、世俗に随うがゆえに涅槃は有なりと説きたまえり。譬えば世人の、父にあらざるを父と言い、母にあらざるを母と言う、実に父母にあらずして父母と言うがごとし。涅槃もまたしかなり。世俗に随うがゆえに、説きて諸仏大涅槃ありと言えり。二には業清浄のゆえに。一切凡夫の業は、不清浄のゆえに涅槃なし。諸仏如来は業清浄のゆえに、故に大浄と名づく。大浄をもってのゆえに大涅槃と名づく。三には身清浄のゆえに。身もし無常なるを、すなわち不浄と名づく。如来の身は常なるがゆえに大浄と名づく。大浄をもってのゆえに大涅槃と名づく。四には心清浄のゆえに。心もし有漏なるを名づけて不浄と曰う。仏心は無漏なるがゆえに大浄と名づく。大浄をもってのゆえに大涅槃と名づく。善男子、これを善男子・善女人と名づくと。抄出。SINBUTU:SYOZEN2-126,127/HON-306,307,HOU-417,418 ◎又言。善男子。諸仏如来煩悩不起。是名涅槃。所有智慧於法無碍。是為如来。如来非是凡夫声聞縁覚菩薩。是名仏性。如来身心智慧遍満無量無辺阿僧祇土無所障碍。是名虚空。如来常住無有変易。名曰実相。以是義故。如来実不畢竟涅槃。是名菩薩。已上。 ◎(涅槃経・徳王品)また言わく、善男子、諸仏如来は煩悩起こらず。これを涅槃と名づく。所有の智慧、法において無碍なり。これを如来とす。如来はこれ凡夫・声聞・縁覚・菩薩にあらず。これを仏性と名づく。如来は身心も智慧も無量無辺阿僧祇の土に遍満したもう。障碍するところなし。これを虚空と名づく。如来は常住にして変易あることなければ、名づけて実相と曰う。この義をもってのゆえに、如来は実に畢竟涅槃にあらざる、これを菩薩と名づくと。已上。SINBUTU:SYOZEN2-127/HON-307,HOU-418 ◎又言。迦葉菩薩言。世尊。仏性者常。猶如虚空。何故如来説言未来。如来。若言一闡提輩無善法者。一闡提輩於其同学同師父母親族妻子豈当不生愛念心邪。如其生者。非是善乎。仏言。善哉善哉善男子。快発斯問。仏性者猶如虚空。非過去非未来非現在。一切衆生有三種身。所謂過去・未来・現在。衆生未来具足荘厳清浄之身而得見仏性。是故我言仏性未来。善男子。或為衆生。或時説因為果。或時説果為因。是故経中。説命為食。見色名触。未来身浄故説仏性。世尊。如仏所説義。如是者。何故説言一切衆生悉有仏性。善男子。衆生仏性雖現在無。不可言無。如虚空。性雖無。現在不得言無。一切衆生雖復無常。而是仏性常住無変。是故我於此経中。説衆生仏性非内非外猶如虚空。非内非外如其虚空有。内外者虚空。不名為一為常。亦不得言一切処有。虚空雖復非内非外。而諸衆生悉皆有之。衆生仏性亦復如是。如汝所言一闡提輩。若有身業・口業・意業・取業・求業・後業・解業如是等業。悉是邪業。何以故。不求因果故。善男子。如訶梨勒果根莖枝葉華実悉苦。一闡提業亦復如是。已上。 ◎(涅槃経・迦葉品)また言わく、迦葉菩薩の言わく、世尊、仏性は常なり、なおし虚空のごとし。なにがゆえぞ、如来説きて未来と言うやと。如来、もし一闡提の輩善法なしと言わば、一闡提の輩、それ同学・同師・父母・親族・妻子において、あに当に愛念の心を生ぜざるべきや。もしそれ生ぜば、これ善にあらずやと。仏の言わく、善いかな、善いかな、善男子、快くこの問いを発せり。仏性はなお虚空のごとし。過去にあらず、未来にあらず、現在にあらず。一切衆生に三種の身あり、いわゆる過去・未来・現在なり。衆生、未来に荘厳清浄の身を具足し、而して仏性を見ることを得ん。このゆえに我は、仏性は未来なりと言えりと。善男子、あるいは衆生のために、ある時は因を説きて果とす。ある時は果を説きて因とす。このゆえに経の中に命を説きて食とす。色を見て触と名づく。未来の身浄なるがゆえに仏性と説く。世尊、仏の所説の義のごとし。かくのごとくならば、なにがゆえぞ説きて、一切衆生悉有仏性と言えるや。善男子、衆生の仏性は現在に無なりといえども、無と言うべからず。虚空の性は現在に無なりといえども、無と言うことを得ざるが如し。一切衆生また無常なりといえども、しかもこれ仏性は常住にして変なし。このゆえに我この経の中において、衆生の仏性は非内非外にして、なお虚空の非内非外なるがごとしと説く。もしそれ虚空に内外あらば、虚空なれども、名づけて一とし常とせず。また一切処に虚空ありと言うことを得ず。また非内非外なりといえども、しかももろもろの衆生ことごとくみなこれありとす。衆生の仏性もまたかくのごとし。汝が言うところの一闡提の輩のごときんば、もし身業・口業・意業・取業・求業・施業・解業かくのごときらの業あれども、ことごとくこれ邪業なり。何をもってのゆえに、因果を求めざるがゆえにと。善男子、訶梨勒果の根・茎・枝・葉・華・実、ことごとく苦きがごとし。一闡提の業もまたかくのごとし。已上。SINBUTU:SYOZEN2-127,128/HON-307,308,HOU-418,419 ◎又言。善男子。如来具足知諸根力。是故善解分別衆生上中下根。能知是人転下作中。能知是人転中作上。能知是人転上作中。能知是人転中作下。是故当知。衆生根性無有決定。以無定故。或断善根。断已還生。若諸衆生根性定者。終不先断断已復生。亦不応説一闡提輩堕於地獄寿命一劫。善男子。是故如来説一切法無有定相。迦葉菩薩白仏言。世尊。如来具足知諸根力。定知善星当断善根。以何因縁聴其出家。仏言。善男子。我於往昔初出家時。吾吾弟難陀・従弟阿難・提婆達多・子羅[ゴ02]羅。如是等輩皆悉随我出家修道。我若不聴善星出家。其人次当得紹王位。其力自在当壊仏法。以是因縁我便聴其出家修道。善男子。善星比丘若不出家。亦断善根。於無量世都無利益。今出家已雖断善根。能受持戒供養恭敬耆舊長宿有徳之人。修習初禅乃至四禅。是名善因。如是善因能生善法。善法既生。能修習道。既修習道。当得阿耨多羅三藐三菩提。是故我聴善星出家。善男子。若我不聴善星比丘出家受戒。則不得称我為如来具足十力。乃至。善男子。如来善知衆生如是上中下根。是故称仏具知根力。迦葉菩薩白仏言。世尊。如来具足是知根力。是故能知一切衆生上中下根利鈍差別。随人随意随時故。名如来知諸根力。乃至。或有説言犯四重禁作・五逆罪・一闡提等皆有仏性。乃至。 ◎(涅槃経・迦葉品)また言わく、善男子、如来は知諸根力を具足したまえり。このゆえに衆生の上・中・下の根を善く解し分別して、能くこの人は下を転じて中と作ると知り、能くこの人は中を転じて上と作ると知り、能くこの人は上を転じて中と作ると知り、能くこの人は中を転じて下と作ると知る。このゆえに当に知るべし、衆生の根性に決定あることなし。定なきをもってのゆえに、あるいは善根を断ず、断じ已りて還りて生ず。もしもろもろの衆生の根性定ならば、終に先に断じ、断じ已りてまた生ぜじ。また、一闡提の輩、地獄に堕して寿命一劫なりと説くべからずと。善男子、このゆえに如来、一切の法は定相あることなしと説きたまえり。迦葉菩薩、仏に白して言さく、世尊、如来は知諸根力を具足したまえり。定んで、善星は当に善根を断ずべしと知りたまわん。何の因縁をもって、その出家を聴したもうやと。仏の言わく、善男子、我往昔において、初に出家せん時、吾が弟の難陀・従弟の阿難・提婆達多、子の羅[ゴ02]羅、かくのごときらの輩、みなことごとく我に随いて出家して道を修しき。我もし善星が出家を聴さずんば、その人次に当に王位を紹ぐことを得べし。その力自在にして、当に仏法を壊すべし。この因縁をもって、我すなわち、その出家修道を聴す。善男子、善星比丘もし出家せずんば、また善根を断ぜん、無量世においてすべて利益なけん。いま出家し已りて善根を断ずといえども、よく戒を受持して、耆旧・長宿・有徳の人を供養し恭敬し、初禅乃至四禅を修習す。これを善因と名づく。かくのごときの善因はよく善法を生ず。善法既に生ずれば、よく道を修習せん。既に道を修習すれば、当に阿耨多羅三藐三菩提を得べし。このゆえに我、善星が出家を聴す。善男子、もし我、善星比丘が出家受戒を聴さずば、すなわち我を称して如来具足十力とすることを得ざらんと。乃至。善男子、如来善く、衆生のかくのごとき上中下の根を知ろしめす。このゆえに、仏を具知根力と称せん。迦葉菩薩、仏に白して言さく、世尊、如来はこの知根力を具足したまえり。このゆえによく一切衆生の上中下の根・利鈍の差別を知ろしめして、人に随い、意に随い、時に随うがゆえに、如来を知諸根力と名づけたてまつる。乃至。あるいは説きて、四重禁を犯し、五逆罪を作り、一闡提等みな仏性ありと言うことあり。乃至。SINBUTU:SYOZEN2-128,129/HON-308,309,HOU-419,420,421- ◎如来世尊。為国土故。為時節故。為他語故。為人故。為衆根故。於一法中作二種説。於一名法説無量名。於一義中説無量名。於無量義説無量名。云何一名説無量名。猶如涅槃。亦名涅槃。亦名無生。亦名無出。亦名無作。亦名無為。亦名帰依。亦名窟宅。亦名解脱。亦名光明。亦名灯明。亦名彼岸。亦名無畏。亦名無退。亦名安処。亦名寂静。亦名無相。亦名無二。亦名一行。亦名清涼。亦名無闇。亦名無碍。亦名無静。亦名無濁。亦名広大。亦名甘露。亦名吉祥。是名一名作無量名。云何一義説無量名。猶如帝釈。乃至。云何於無量義説無量名。如仏如来名。為如来義異名異。亦名阿羅呵。義異名異。亦名三藐三仏陀。義異名異。亦名船師。亦名導師。亦名正覚。亦名明行足。亦名大師子王。亦名沙門。亦名婆羅門。亦名寂静。亦名施主。亦名到彼岸。亦名大医王。亦名大象王。亦名大龍王。亦名施眼。亦名大力士。亦名大無畏。亦名宝聚。亦名商主。亦名得解脱。亦名大丈夫。亦名天人師。亦名大分陀利。亦名独無等侶。亦名大福田。亦名大智海。亦名無相。亦名具足八智。如是一切義異名異。善男子。是名無量義中説無量名。復有一義説無量名。所謂如陰。亦名為陰。亦名顛倒。亦名為諦。亦名為四念処。亦名四食。亦名四識住処。亦名為有。亦名為道。亦名為時。亦名為衆生。亦名為世。亦名第一義。亦名三修。謂身戒心。亦名因果。亦名煩悩。亦名解脱。亦名十二因縁。亦名声聞辟支仏。仏亦名地獄餓鬼畜生人天。亦名過去現在未来。是名一義説無量名。善男子。如来世尊。為衆生故。広中説略。略中説広。第一義諦説為世諦。説世諦法為第一義諦。略出。 ◎(涅槃経・迦葉品)如来世尊は、国土のためのゆえに、時節のためのゆえに、他語のためのゆえに、人のためのゆえに、衆根のためのゆえに、一法の中において二種の説を作す、一名の法において無量名を説く、一義の中において無量の名を説く、無量の義において無量の名を説く。いかんが一名に無量の名を説くや。なお涅槃のごとし。また涅槃と名づく、また無生と名づく、また無出と名づく、また無作と名づく、また無為と名づく、また帰依と名づく、また窟宅と名づく、また解脱と名づく、また光明と名づく、また燈明と名づく、また彼岸と名づく、また無畏と名づく、また無退と名づく、また安処と名づく、また寂静と名づく、また無相と名づく、また無二と名づく、また一行と名づく、また清涼と名づく、また無闇と名づく、また無碍と名づく、また無諍と名づく、また無濁と名づく、また広大と名づく、また甘露と名づく、また吉祥と名づく。これを一名に無量名を作ると名づく。いかんが一義に無量の名を説くや。なおし帝釈のごとし。乃至。いかんが無量の義において無量の名を説くや。仏如来のごとし。名ずけて如来とす。義異にして名異なりと。また阿羅呵と名づく、義異にして名も異なり。また三藐三仏陀と名づく、義異にして名も異なり。また船師と名づく、また導師と名づく、また正覚と名づく、また明行足と名づく、また大師子王と名づく、また沙門と名づく、また婆羅門と名づく、また寂静と名づく、また施主と名づく、また到彼岸と名づく、また大医王と名づく、また大象王と名づく、また大龍王と名づく、また施眼と名づく、また大力士と名づく、また大無畏と名づく、また宝聚と名づく、また商主と名づく、また得解脱と名づく、また大丈夫と名づく、また天人師と名づく、また大分陀利と名づく、また独無等侶と名づく、また大福田と名づく、また大智海と名づく、また無相と名づく、また具足八智と名づく。かくのごとき一切、義異にして名も異なり。善男子、これを無量義の中に無量の名を説くと名づく。また一義に無量の名を説くことあり。いわゆる陰のごとし。また名づけて陰とす、また顛倒と名づく、また名づけて諦とす、また名づけて四念処とす、また四食と名づく、また四識住処と名づく、また名づけて有とす、また名づけて道とす、また名づけて時とす、また名づけて衆生とす、また名づけて世とす、また第一義と名づく、また三修と名づく、謂わく身・戒・心なり、また因果と名づく、また煩悩と名づく、また解脱と名づく、また十二因縁と名づく、また声聞・辟支仏と名づく、仏をまた地獄・餓鬼・畜生・人・天と名づく、また過去・現在・未来と名づく、これを一義に無量の名を説くと名づく。善男子、如来世尊、衆生のためのゆえに、広の中に略を説く、略の中に広を説く。第一義諦を説きて世諦とす。世諦の法を説きて第一義諦とすと。略出。SINBUTU:SYOZEN2-129,130/-HON-310,311,HOU-420,421,422 ◎又言。迦葉復言。世尊第一義諦亦名為道。亦名菩提。亦名涅槃。乃至。 ◎(涅槃経・梵行品)また言わく、迦葉また言さく、世尊、第一義諦をまた名づけて道とす、また菩提と名づく、また涅槃と名づくと。乃至。SINBUTU:SYOZEN2-130/HON-311,HOU-422 ◎又言。善男子。我以経中説如来身。凡有二種。一者生身。二者法身。言生身者。即是方便応化之身。如是身者。可得言是生老病死・長短黒白・是此是彼・是学無学。我諸弟子聞是説已。不解我意唱言。如来定説仏身是有為法。法身即是常楽我浄。永離一切生老病死・非白非黒・非長非短・非此非彼・非学非無学。若仏出世及不出世。常不動無有変易。善男子。我諸弟子聞是説已。不解我意唱言。如来定説仏身是無為法。 ◎(涅槃経・迦葉品)また言わく、善男子、我以て経の中に説かく。如来の身におおよそ二種あり。一には生身、二には法身なり。生身と言うは、すなわちこれ方便応化の身なり。かくのごとき身は、これ生老病死、長短黒白、これは此・これは彼、これは学・無学なりと言うことを得べし。我がもろもろの弟子、この説を聞き已りて、我が意を解らざれば、唱えて言わく、如来定んで仏身はこれ有為の法なりと説かんと。法身はすなわちこれ常楽我浄なり。永く一切の生老病死、非白非黒、非長非短、非此非彼、非学非無学を離れたまえり。もしは仏の出世、および不出世に常に動ぜずして変易あることなけん。善男子、我がもろもろの弟子この説を聞き已りて、我が意を解さずして、唱えて言わく、如来は定んで仏身はこれ無為の法なりと説きたまえりと。SINBUTU:SYOZEN2-130,131/HON-311,312,HOU-422,423 ◎又言。如我所説十二部経。或随自意説。或随他意説。或随自他意説。乃至。善男子。如我所説。十住菩薩少見仏性。是名随他意説。何以故名少見。十住菩薩得首楞厳等三昧三千法門。是故声聞自知当得阿耨多羅三藐三菩提。不見一切衆生定得阿耨多羅三藐三菩提。是故我説十住菩薩少分見仏性。善男子。我常宣説一切衆生悉有仏性。是名随自意説。一切衆生不断不滅。乃至得阿耨多羅三藐三菩提。是名随自意説。一切衆生悉有仏性。煩悩覆故不能得見。我説如是。汝説亦爾。是名随自他意説。善男子。如来或時為一法故説無量法。抄出。 ◎(涅槃経・迦葉品)また言わく、我が所説の十二部経のごときは、あるいは随自意の説、あるいは随他意の説あり。あるいは随自他意説あり。乃至。善男子、我が所説のごとき、十住の菩薩は少しき仏性を見る、これを随他意説と名づく。何をもってのゆえに少見と名づくるや。十住の菩薩は首楞厳経等の三昧・三千の法門を得たり。このゆえに声聞自ら当に阿耨多羅三藐三菩提を得べきことを知りて、一切衆生の定んで阿耨多羅三藐三菩提を得んことを見ず、このゆえに我、十住の菩薩、少分、仏性を見ると説くなり。善男子、常に一切衆生悉有仏性と宣説する、これを随自意説と名づく。一切衆生は不断不滅にして、乃至阿耨多羅三藐三菩提を得る、これを随自意説と名づく。一切衆生はことごとく仏性あれども、煩悩覆えるがゆえに見ることを得ることあたわずと。我が説、かくのごとし。汝が説も、またしかなりと。これを随自他意説と名づく。善男子、如来ある時は一法のためのゆえに無量の法を説く。抄出。SINBUTU:SYOZEN2-131/HON-312,HOU-423 ◎又言。一切覚者名為仏性。十住菩薩不得名為一切覚故。是故雖見而不明了。善男子。見有二種。一者眼見。二者聞見。諸仏世尊眼見仏性。如於掌中観阿摩勒菓。十住菩薩聞見仏性。故不了了。十住菩薩唯能自知定得阿耨多羅三藐三菩提。而不能知一切衆生悉有仏性。善男子。復有眼見。諸仏如来。十住菩薩眼見仏性復有聞見。一切衆生乃至九地聞見仏性。菩薩若聞一切衆生悉有仏性。心不生信。不名聞見。乃至。師子吼菩薩摩訶薩言。世尊。一切衆生不能得知如来心相。当云何観能得知邪。善男子。一切衆生実不能知如来心相。若欲観察而得知者。有二因縁。一者眼見。二者聞見。若見如来所有身業。当知是則為如来也。是名眼見。若観如来所有口業。当知是則為如来也。是名聞見。若見色貌。一切衆生無与等者。当知是則為如来也。是名眼見。若聞音声微妙最勝。不同衆生所有音声。当知是則為如来也。是名聞見。若見如来所作神通。為為衆生。為為利養。若為衆生不為利養。当知是則為如来也。是名眼見。若観如来。以他心智観衆生時。為利養説。為衆生説。若為衆生不為利養。当知是則為如来也。是名聞見。略出。 ◎(涅槃経・師子吼品)また言わく、一切覚者を名づけて仏性とす。十住の菩薩は名づけて一切覚とすることを得ざるがゆえに、このゆえに見るといえども明了ならず。善男子、見に二種あり。一には眼見、二には聞見なり。諸仏世尊は眼に仏性を見そなわすこと、掌の中において阿摩勒菓を観ずるがごとし。十住の菩薩は仏性を聞見すれども、ことさらに了了ならず。十住の菩薩、ただ能く自ら定んで阿耨多羅三藐三菩提を得ることを知り、一切衆生はことごとく仏性ありと知ることあたわず。善男子、また眼見あり。諸仏如来なり。十住の菩薩は仏性を眼見す。また聞見することあり。一切衆生乃至九地までは仏性を聞見す。菩薩もし一切衆生ことごとく仏性ありと聞けども、心に信を生ぜずんば聞見と名づけずと。乃至。師子吼菩薩摩訶薩の世尊に言わく、一切衆生は如来の心相を知ることを得ることあたわず、当にいかんが観じて知ることを得べきやと。善男子、一切衆生は実に如来の心相を知ることあたわず。もし観察して知ることを得んと欲わば、二の因縁あり。一には眼見、二には聞見なり。もし如来所有の身業を見たてまつらん、当に知るべし、これすなわち如来とするなり。これを眼見と名づく。もし如来所有の口業を観ぜん、当に知るべし、これすなわち如来とするなり。これを聞見と名づく。もし色貌を見たてまつること、一切衆生の与に等しき者なけん。当に知るべし、これすなわち如来とするなり。これを眼見と名づく。もし音声微妙最勝なるを聞かん、衆生所有の音声には同じからじと。当に知るべし、これすなわち如来とするなり。これを聞見と名づく。もし如来所作の神通を見たてまつらんに、衆生のためとやせん、利養のためとやせん。もし衆生のためにして利養のためにせざらんは、当に知るべし、これすなわち如来とするなり。これを眼見と名づく。もし如来を観ずるに、他心智をもって衆生を観そなわしたもう時、利養のために説き、衆生のために説かん。もし衆生のためにして利養のためにせざらんは、当に知るべし、これすなわち如来とするなり。これを聞見と名づく。略出。SINBUTU:SYOZEN2-131,132/HON-312,313,HOU-423,424,425 〇以純浄故名大涅槃等者。弥陀依正皆是清浄。是又所表弥陀涅槃一法義也。大経十二光仏之中有清浄光。平等覚経阿弥陀仏名為無量清浄平等覚。又理趣経云得自性清浄法性如来。月灯三昧経云離垢穢如来。共是弥陀如来名也。離垢穢者即清浄義。又智論中。判彼浄土名云一乗清浄無量寿世界。十住毘婆沙論。或讃此仏云無量清浄慧。或礼云帰命清浄人。当知涅槃清浄理与弥陀同。是就浄義解阿弥陀無上涅槃一法深旨者也。集主処処引此経文。非此義者。為難領解。仍加推義。如形解之。短解有恐。只仰冥慮有所違者。後賢宜改。只述大意。一一文言不及具解。SYOZEN2-353,/TAI8-115,116 〇「純浄を以ての故に大涅槃と名づく」等とは、弥陀の依正は皆これ清浄なり。これまた弥陀と涅槃と一法なる義を表する所なり。『大経』の十二光仏の中には清浄光あり。『平等覚経』には阿弥陀仏を名づけて無量清浄平等覚となす。また『理趣経』には「得自性清浄法性如来」といい、『月灯三昧経』には「離垢穢如来」という。共にこれ弥陀如来の名なり。離垢穢とは即ち清浄の義なり。また『智論』の中には彼の浄土を判じて名づけて「一乗清浄無量寿世界」という。『十住毘婆沙論』には、或いはこの仏を讃じて「無量清浄慧」といい、或は礼して「帰命清浄人」という。当に知るべし、涅槃清浄の理と弥陀と同じということを。これ浄の義に就きて阿弥陀無上涅槃一法の深旨を解すものなり。集主は処処にこの経文を引く。この義にあらずは領解し難しと為す。仍て推義を加えて、形の如くこれを解す。短解恐れあり。ただ冥慮を仰ぐ、違う所あらば、後賢宜しく改むべし。ただ大意を述ぶ。一一の文言は具に解するに及ばず。SYOZEN2-353,/TAI8-115,116 |