六要鈔会本 第七巻の5(5の内) 真仏土の巻 真仏土釈 引文 善導『観経疏』「序分義」「定善義」『法事讃』・ 憬興『述文賛』・飛錫『念仏三昧宝王論』 真仏土結釈・真仮対弁 |
◎=親鸞聖人『教行信証』の文。 〇=存覚『六要抄』の文 |
『教行信証六要鈔会本』 巻七之五 |
◎又云。従我今楽生弥陀已下。正明夫人別選所求。此明弥陀本国四十八願。願願皆発増上勝因。依因起於勝行。依行感於勝果。依果感成勝報。依報感成極楽。依楽顕通悲化。依於悲化顕開智慧之門。然悲心無尽。智亦無窮。悲智双行。即広開甘露。因茲法潤普摂群生也。諸余経典勧処弘多。衆聖斉心皆同指讃。有此因縁致使如来蜜遣夫人別選也。 ◎(序分義)また云わく、我今楽生弥陀より已下は正しく夫人別して所求を選ぶことを明かす。これは弥陀の本国四十八願なることを明かす。願願みな増上の勝因を発せり。因に依って勝行を起こし、行に依って勝果を感ず。果に依って勝報を感成せり。報に依って極楽を感成せり。楽に依って悲化を顕通す。悲化に依って智慧の門を顕開せり。しかるに悲心無尽にして智また無窮なり。悲・智双行して、すなわち広く甘露を開けり。これに因って法潤普く群生を摂したまうなり。諸余の経典に勧むるところ弘く多し。衆聖、心を斉しくしてみな同じく指讃したまう。この因縁ありて、如来密に夫人を遣わして別して選ばしむることを致すなり。SINBUTU:SYOZEN2-139/HON-321,HOU-432 〇次序分義。欣浄縁文。有八句中。今此所引第七科釈。於当科中分文為五。一弥陀以下。約大経意顕弥陀仏本願別意。二依楽已下。依観経意明釈迦仏摂生之益。三諸余已下。総依一代。別依三経。広明衆経普勧西方。四衆聖以下。述十方仏同讃之証。五有此已下。総結夫人別選意也。約大経中言本国者。本是対末。諸仏浄土称為末国。弥陀浄土号曰本国。斯乃弥陀諸仏本師。極楽諸土本国故也。四十等者。明選取由。其由有二。一荘厳勝故。第六科云。夫人総見十方仏国。並悉精華。欲比極楽荘厳。全非比況。已上。礼讃釈云。四十八願荘厳起。超諸仏刹最為精。已上。二本願勝故。大経上云。超発無上殊勝之願。已上。又云。我建超世願。必至無上道。已上。是則弥陀仏智所成真妙報土。不隔無善薄地凡夫。仏力横引直取涅槃。諸仏浄土皆依機見感其優劣。西方浄土不仮機功。唯拠仏徳。全不由機判優劣故。是為別意超勝宗旨。夫人選取在此二耳。言勝因者。是六八願。言勝行者。是六度行。言勝果者。即是菩提。言勝報者。即涅槃也。依観経中言悲化者。約利他益。智慧門者。約自利徳。広開等者。序題門云。灑於甘露。潤於群萌。蓋其義也。但彼釈者。総叙一代。此釈意者。別約真門。言甘露者。不死妙薬即無量寿常住法也。大経上説八功徳水之功能云。清浄香潔味如甘露。已上。礼讃釈云。洗心甘露水。己上。是皆浄土殊妙徳也。是故今開甘露門者。即開浄土真門意也。是則一代八万諸教。皆悉帰入弥陀仏智一乗義也。法潤等者。且説定散。先摂衆機遂令引入弘願意也。依衆経中。勧処等者。総亘化前。別依三経。雖有隠顕。皆明釈迦一代設化仏意在顕安養往詣之本懐也。総結文中。致使等者。問。経云我今楽生極楽。如其文者。夫人只自選取之歟。今釈如何。答。証定釈義。深得経旨釈成此義。仰可信之。是故此鈔第一序云。釈迦韋提選安養。已上。此釈之趣守今釈也。故彼序下粗註愚解。SYOZEN2-367,368/TAI8-286,287 〇次に『序分義』欣浄縁の文、八句ある中に、今この所引は第七の科の釈なり。当科の中に於いて文を分ちて五とす。一に「弥陀」以下は『大経』の意に約して弥陀仏本願の別意を顕わし、二に「依楽」已下は、『観経』の意に依りて釈迦仏摂生の益を明かす。三に「諸余」已下は、総じては一代に依り、別しては三経に依りて、広く衆経に普く西方を勧むることを明かす。四に「衆聖」以下は、十方仏同讃の証を述ぶ。五に「有此」已下は、総じて夫人別選の意を結するなり。『大経』に約する中に「本国」というは、本はこれ末に対す。諸仏の浄土を称して末国とす。弥陀の浄土を号して本国という。これ乃ち弥陀は諸仏の本師、極楽は諸土の本国なるが故なり。「四十」等とは、選取の由を明かす。その由に二あり。一には荘厳勝れたるが故に。第六の科に云わく「夫人は総じて十方の仏国を見るに、並びに悉く精華なれども、極楽の荘厳に比せんと欲するに、全く比況にあらず」已上。『礼讃』の釈に云わく「四十八願の荘厳より起こる。諸仏の刹に超えて最も精たり」已上。二には本願勝たるが故に。『大経』の上に云わく「無上殊勝の願を超発す」已上。また云わく「我、超世の願を建つ。必ず無上道に至らん」已上。これ則ち弥陀仏智所成の真妙の報土は無善薄地の凡夫を隔てず。仏力の横に引きて直ちに涅槃を取らしむ。諸仏の浄土はみな機見に依りてその優劣を感ず。西方の浄土は機の功を仮らず、ただ仏徳に拠る。全く機に由りて優劣を判ぜざるが故に。これを別意超勝の宗旨と為す。夫人の選取はこの二に在るのみ。「勝因」というは、これ六八の願。「勝行」というは、これ六度の行。「勝果」というは、即ちこれ菩提。「勝報」というは、即ち涅槃なり。『観経』に依る中に「悲化」というは、利他の益に約す。「智慧門」とは、自利の徳に約す。「広開」等とは、序題門に云わく「甘露を灑ぎて群萌を潤す」。蓋しその義なり。但し彼の釈は総じて一代を叙し、この釈の意は別して真門に約す。「甘露」というは不死の妙薬、即ち無量寿常住の法なり。『大経』の上に八功徳水の功能を説きて云わく「清浄香潔にして味は甘露の如し」已上。『礼讃』の釈に云わく「心を洗う甘露の水」己上。これ皆浄土殊妙の徳なり。この故に今、甘露門を開くとは、即ち浄土の真門を開く意なり。これ則ち一代八万の諸教は皆悉く弥陀の仏智一乗に帰入する義なり。「法潤」等とは、且く定散を説きて、まず衆機を摂し、遂に弘願に引入せしむる意なり。衆経に依る中に、「勧処」等とは、総じては化前に亘り、別しては三経に依る。隠顕ありといえども、みな釈迦一代の設化仏意は安養往詣の本懐を顕わすに在あることを明かすなり。総結の文の中に、「致使」等とは、問う、経に「我今楽生極楽」という。その文の如きは、夫人ただ自らこれを選取するか。今の釈は如何。答う、証定の釈義は、深く経旨を得てこの義を釈成す。仰いてこれを信ずべし。この故にこの鈔の第一の序に云わく「釈迦、韋提をして安養を選ばしめたまえり」已上。この釈の趣は今の釈を守るなり。故に彼の序の下に、ほぼ愚解を註す。SYOZEN2-367,368/TAI8-286,287 ◎又云。西方寂静無為楽。畢竟逍遥離有無。大悲薫心遊法界。分身利物等無殊。帰去来。魔郷不可停。曠劫来。流転六道尽皆経。到処無余楽。唯聞生死声。畢此生平後入彼涅槃城。 ◎(定善義)また云わく、西方寂静無為の楽〈みやこ〉は、畢竟逍遥として有無を離れたり。大悲、心に薫じて法界に遊ぶ。分身して物を利すること等しくして殊なることなし。帰去来〈いざいなん〉、魔郷には停まるべからず。曠劫よりこのかた六道に流転して、ことごとくみな経たり。到る処に余の楽なし、ただ愁歎の声を聞く。この生平を畢えて後、かの涅槃の城に入らんと。SINBUTU:SYOZEN2-139/HON-321,HOU-432 〇次二文者。共定善義水観讃也。今此二文第四巻初被引用之。故於其下聊述義訖。問。何故両処被引之乎。答。如已前述。此書元自只文集也。毎有其要不憚繁重。明真実証。顕真仏土。順其義故各被引歟。将又第四。此両文中。初文余残。或現神通而説法等具被引之。今除彼文一四句偈。聊有加減。可謂差別。SYOZEN2-368/TAI8-298 〇次の二文は、共に『定善義』水観の讃なり。今この二文は第四巻の初にこれを引用せらる。故にその下に於て聊か義を述べ訖りぬ。問う、何が故ぞ両処にこれを引かるるや。答う、已に前に述ぶるが如く、この書は元よりただ文集なり。その要ある毎に繁重を憚らず。真実の証を明かし、真仏土を顕わすに、その義に順ずるが故に、おのおの引かるるか。はたまた第四には、この両文の中に、初の文の余残「或現神通而説法」等は具にこれを引かる。今は彼の文の一四句偈を除く。聊か加減あり。差別ありというべし。SYOZEN2-368/TAI8-298 ◎又云。極楽無為涅槃界。随縁雑善恐難生。故使如来選要法。教念弥陀専復専。 ◎(法事讃)また云わく、極楽は無為涅槃の界なり。随縁の雑善、恐らくは生まれがたし。故に如来、要法を選びて、教えて弥陀を念ぜしめて、専らにしてまた専らならしめたまえり。SINBUTU:SYOZEN2-139,140/HON-321,HOU-433 〇次法事讃下巻釈也。極楽等者。大経下云。彼仏国土無為自然。已上。涅槃界者。生彼土者。即証法性常楽故也。是依必至滅度願也。随縁等者。是指雑行。序分義云。随縁起行擬作進道資粮。何其六賊知聞競来侵奪。已上。恐難生者。明彼雑行不得生也。此文消釈少善不生之文釈故。雖恐慮言。意存不生。言要法者。是指念仏。是非定散二善要門。般舟讃云先求要行入真門。玄義分云浄土之要難逢。是也。専復専者。再言専者。慇懃意也。又上専者。此表一心。其下専者是表一行。又上専者是対雑行。下対助業。各有其意。共可存之。SYOZEN2-368,369/TAI8-300,301- 〇次に『法事讃』下巻の釈なり。「極楽」等とは、『大経』の下に云わく「彼の仏国土は無為自然なり」已上。「涅槃界」とは、彼の土に生ずる者は、即ち法性の常楽を証するが故なり。これ必至滅度の願に依りてなり。「随縁」等とは、これ雑行を指す。『序分義』に云わく「随縁起行して進道の資粮を作らんと擬するに、何ぞそれ六賊知聞して競い来たりて侵奪するや」已上。「恐難生」とは、彼の雑行は生ずることを得ざることを明かすなり。この文は少善不生を消釈する文釈なるが故に、恐慮の言なりといえども、意は不生を存す。「要法」というは、これ念仏を指す。これ定散二善の要門にはあらず。『般舟讃』に「まず要行を求めて真門に入らん」といい、『玄義分』に「浄土の要は逢い難し」という、これなり。「専復専」とは、再たび専というは慇懃の意なり。また上の専は、これ一心を表わす。その下の専は、これ一行を表わす。また上の専は、これ雑行に対し、下は助業に対す。おのおのその意あり。共にこれを存ずべし。SYOZEN2-368,369/TAI8-300,301- ◎又云。従仏逍遥帰自然。自然即是弥陀国。無漏無生還即真。行来進比常随仏。証得無為法性身。 ◎(法事讃)また云わく、仏に従いて逍遥して自然に帰す。自然はすなわちこれ弥陀国なり。無漏無生還りてすなわち真なり。行来進止に常に仏に随いて、無為法性身を証得す、と。SINBUTU:SYOZEN2-140/HON-321,HOU-433 〇次文又同下巻讃也。帰自然者。大経上云。建立常然無衰無変。已上。是明国土自然之義。又云皆受自然虚無之身無極之体。是明正報自然之徳。言無漏者。無漏染故。言無生者。悟法忍故。-SYOZEN2-369/TAI8-301- 〇次の文は、また同じき下巻の讃なり。「帰自然」とは、『大経』の上に云わく「建立常然にして衰なく、変なし」已上。これ国土自然の義を明かす。また云わく「みな自然虚無の身、無極の体を受く」。これ正報自然の徳を明かす。「無漏」というは漏染なきが故に。「無生」というは法忍を悟るが故に。-SYOZEN2-369/TAI8-301- ◎又云。弥陀妙果号曰無上涅槃。已上抄出。 ◎(法事讃)また云わく、弥陀の妙果をば号して無上涅槃と曰う。已上抄出。SINBUTU:SYOZEN2-140/HON-321,HOU-433 〇次少文者。同後序釈。上言極楽無為等者。已判極楽名為無為涅槃之界。而遮随縁雑善難生。唯勧専専称名一因。是故応知阿弥陀者涅槃名号。今釈亦顕弥陀涅槃一法之義。以之思之。例又可謂無上涅槃妙果号曰阿弥陀歟。-SYOZEN2-369/TAI8-301 〇次の少文は、同じき後序の釈なり。上に「極楽無為」等というは、已に極楽を判じて名づけて無為涅槃の界とす。而るに随縁の雑善は生じ難しと遮して、ただ専専称名の一因を勧む。この故に阿弥陀とは涅槃の名号なりということを知るべし。今の釈はまた弥陀涅槃一法の義を顕わす。これを以てこれを思うに、例してまた無上涅槃の妙果を号して阿弥陀というというべきか。-SYOZEN2-369/TAI8-301 ◎憬興師云。無量光仏(非算数故)。無辺光仏(無縁不照故)。無碍光仏(無有人法而能障故)。無対光仏(非諸菩薩之所及故)。光炎王仏(光明自在更無為上故)。清浄光仏(従無貪善根而現故。亦除衆生貪濁之心也。無貪濁之心故云清浄)。歓喜光仏(従無瞋善根而生故。能除衆生瞋恚盛心故)。智慧光仏(従無癡善根心起。復除衆生無明品心故)。不断光仏(仏之常光恒為照益故難思光仏 非諸二乗所惻度故)。無称光仏(亦非余乗等所堪説故)。超日月光仏(日応恒照不周。娑婆一耀之光故)。皆是蒙光触身者。身心柔濡願之所致也。已上抄要。 ◎(述文讃)憬興師の云わく、無量光仏、算数にあらざるがゆえに。無辺光仏、縁として照らさざることなきがゆえに。無碍光仏、人法としてよく障うることあることなきがゆえに。無対光仏、諸菩薩の及ぶところにあらざるがゆえに。光炎王仏、光明自在にして更に上とすることなきがゆえに。清浄光仏、無貪の善根よりして現ずるがゆえに、また衆生貪濁の心を除くなり。貪濁の心なきがゆえに清浄と云う。歓喜光仏、無瞋の善根よりして生ずるがゆえに、よく衆生の瞋恚盛心を除くがゆえに。智慧光仏、無痴の善根の心より起こる、また衆生の無明品心を除くがゆえに。不断光仏、仏の常光恒に照益をなすがゆえに。難思光仏、もろもろの二乗の測度するところにあらざるがゆえに。無称光仏、また余乗等の堪え説くところにあらざるがゆえに。超日月光仏、日、恒に照らすこと周からず、娑婆一耀の光なるべきがゆえに。みなこれ光触を身に蒙る者は、身心柔軟の願の致すところなり。已上抄要。SINBUTU:SYOZEN2-140/HON-322,HOU-433 〇次興釈者。大経義疏。中巻文也。十二光釈其意可見。皆是等者。次釈自言其衆生。至言皆蒙解脱文中之結文也。所引次上具解釈云。三垢滅者。即除障利。身意歓喜即生善利。苦得休息者。即抜苦利。皆蒙解脱者。即得楽利。已上。非今所引。身心柔軟願者。第三十三願也。SYOZEN2-369/TAI8-306 〇次に興の釈は『大経の義疏』中巻の文なり。十二光の釈は、その意見つべし。「皆是」等とは、次に「其有衆生」というより、「皆蒙解脱」というに至るまでの文を釈する中の結文なり。所引の次上の具なる解釈に云わく「三垢滅とは、即ち障を除くの利なり。身意歓喜は即ち善を生ずるの利なり。苦、休息を得るとは、即ち抜苦の利なり。皆蒙解脱とは、即ち得楽の利なり」已上、今の所引にあらず。身心柔軟の願とは第三十三の願なり。SYOZEN2-369/TAI8-306 ◎爾者。如来真説・宗師釈義。明知。顕安養浄刹真報土。惑染衆生於此不能見性。所覆煩悩故。経言我説十住菩薩少分見仏性。故知。到安楽仏国即必顕仏性。由本願力回向故。亦経言衆生未来具足荘厳清浄之身而得見仏性。 ◎(御自釈)しかれば、如来の真説、宗師の釈義、明らかに知りぬ、安養浄刹は真の報土なることを顕す。惑染の衆生、ここにして性を見ることあたわず、煩悩に覆わるるがゆえに。経〈涅槃経〉には、我、十住の菩薩、少分仏性を見ると説くと言えり。故に知りぬ、安楽仏国に到れば、すなわち必ず仏性を顕す、本願力の回向に由るがゆえに。また経〈涅槃経〉には、衆生、未来に清浄の身を具足し荘厳して、而して仏性を見ることを得ると言えり。SINBUTU:J:SYOZEN2-140/HON-322,HOU-433,434 ◎起信論曰。若知雖説無有能説可説。亦無能念可念名為随順。若離於念名為得入。得入者真如三昧也。況乎無念之位在於妙覚。蓋以了心初生之相也。而言知初相者。所謂無念非菩薩十地所知。而今之人尚未階十信。即不依馬鳴大士。従説入無説。従念入於無念。略抄。 ◎(念仏三昧宝王論)『起信論』に曰わく、もし説くといえども、能説のありて説くべきことあることなく、また能念の念ずべきもなしと知るを、名づけて随順とす。もし念を離るるを名づけて得入とす。得入とは、真如三昧なり。いわんや無念の位は妙覚にあり。けだしもって了心は初生の相なり。而して初相を知ると言うは、いわゆる無念なり。菩薩十地の知るところにあらず。しかるに今の人、なお未だ十信に階わず、すなわち馬鳴大士の説より無説に入り、念より無念に入るに依らざらんや。略抄。SINBUTU:SYOZEN2-141/HON-322,323,HOU-434 〇爾者已下是総結文。私御釈也。於中為二。先自文初至言略抄。明諸経意此土衆生難見仏性。由仏力故。至安楽国必見仏性。為証此義。引起信論。明契無念下位不易。是故従念可至無念。所言念者。意在念仏。言無念者。於彼当開法性無生之悟意也。惑染等者。上所引之涅槃経云。一切衆生。悉有仏性。煩悩覆故不能得見。已上。専依此文今有此解。又無上依経云。法身体遍諸衆生。客塵煩悩為所覆。不知我身有如来。流転生死無出期。已上。玄義釈云。但以垢障覆深。浄体無由顕照。已上。此等意也。経言我説十住等者。当巻上引涅槃経中。既有此言。今依其意。是故不更載経名也。SYOZEN2-370/TAI8-309,310 〇「爾者」已下はこれ総結の文、私の御釈なり。中に於いて二とす。まず文の初より、「略抄」というに至るまでは、諸経の意は、此土の衆生は仏性を見ること難し、仏力に由るが故に安楽国に至りて必ず仏性を見ることを明かす。この義を証せんが為に『起信論』を引きて、無念に契うことは下位は易からず、この故に念より無念に至るべきことを明かす。言う所の念とは、意は念仏に在り。無念というは、彼にして当に法性無生の悟を開くべき意なり。「惑染」等とは、上に引く所の『涅槃経』に云わく「一切衆生、悉く仏性あり。煩悩覆うが故に見ることを得ること能わず」已上。専らこの文に依りて今この解あり。また『無上依経』に云わく「法身の体は諸の衆生に遍す。客塵の煩悩に覆わるるが為に、我身に如来あることを知らず。生死に流転して出期なし」已上。『玄義』の釈に云わく「但し垢障覆うこと深きを以て、浄体、顕照するに由なし」已上。これらの意なり。「経言我説十住」等とは、当巻の上に『涅槃経』を引く中に、既にこの言あり。今その意に依る。この故に更に経名を載せざるなり。SYOZEN2-370/TAI8-309,310 ◎夫按報者。由如来願海酬報果成土。故曰報也。 ◎(御自釈)それ報を案ずれば、如来の願海に由って果成の土を酬報したまえり。故に報と曰うなり。SINBUTU:J:SYOZEN2-141/HON-323,HOU-434- 〇次夫案下。此明就願有真与仮。随又於仏有差降也。SYOZEN2-370/TAI8-325 〇次に「夫案」の下は、これ願に就きて真と仮とあり、随いてまた仏に於いて差降あることを明かすなり。SYOZEN2-370/TAI8-325 ◎然就願海有真有仮。是以復就仏土有真有仮。由選択本願之正因成就真仏土。言真仏者。大経言無辺光仏無碍光仏。又言諸仏中之王也。光明中之極尊也。已上。論曰帰命尽十方無碍光如来也。言真土者。大経言無量光明土。或言諸智土。已上。論曰究竟如虚空。広大無辺際也。言往生者。大経言皆受自然虚無之身無極之体。已上。論曰如来浄華衆正覚華化生。又云同一念仏無別道故。已上。又云難思議往生是也。 ◎(御自釈)しかるに願海について、真あり仮あり。ここをもってまた仏土について、真あり、仮あり。選択本願の正因に由って、真仏土を成就せり。真仏と言うは、『大経』には無辺光仏・無碍光仏と言えり。また、諸仏中の王なり、光明中の極尊なりと言えり。已上。『論』には帰命尽十方無碍光如来と曰えるなり。真土と言うは、『大経』には無量光明土と言えり。あるいは諸智土と言えり。已上。『論』には、究竟して虚空のごとし、広大にして辺際なしと曰うなり。往生と言うは、『大経』には皆受自然虚無之身無極之体と言えり。已上。『論』には、如来浄華衆正覚華化生と曰えり。また、同一に念仏して、別の道なきが故にと云えり。已上。また、難思議往生と云える、これなり。SINBUTU:J:SYOZEN2-141/-HON-323,324,HOU-434,435- 〇無量光明等者。於当巻初所標。是也。SYOZEN2-370/TAI8-327 〇「無量光明」等とは、当巻の初に於いて標する所、これなり。SYOZEN2-370/TAI8-327 ◎仮之仏土者。在下応知。既以真仮皆是酬報大悲願海。故知報仏土也。良仮仏土業因千差。土復応千差。是名方便化身化土。由不知真仮。迷失如来広大恩徳。因茲今顕真仏真土。斯乃真宗之正意也。経家論家之正説。浄土宗師之解義。仰可敬信。特可奉持也。可知。 ◎(御自釈)仮の仏土とは、下にありて知るべし。すでにもって真仮みなこれ大悲の願海に酬報せり。故に知りぬ、報仏土なりということを。良に仮の仏土の業因千差なれば、土もまた千差なるべし。これを方便化身化土と名づく。真仮を知らざるに由って、如来広大の恩徳を迷失するなり。これに因って、いま真仏真土を顕す。これすなわち真宗の正意なり。経家・論家の正説、浄土宗師の解義、仰いで敬信すべし、特に奉持すべきなり。知るべしと。SINBUTU:J:SYOZEN2-141,142/-HON-324,HOU-435,436 〇良仮仏土業因等者。問。弥陀浄土既是報土。謂其生因只是称名念仏一行。云因云土。可有千差其義不当如何。答。弥陀浄土本雖報土。三身化用皆立浄土以導群生。何為一機不現化土。是故念仏必生願力成就報土。自力随縁諸善万行。雖得往生。所生浄土皆是化土。雑善業因千差万別。感見化土。又以可同。因果炳然。莫敢疑耳。SYOZEN2-370/TAI8-336 〇「良仮仏土業因」等とは、問う、弥陀の浄土は既にこれ報土、その生因をいうに、ただこれ称名念仏の一行なり。因といい、土といい、千差あるべきこと、その義当らず、如何。答う、弥陀の浄土は、もと報土なりといえども、三身の化用はみな浄土を立して以て群生を導く。何ぞ一機の為に化土を現ぜざらん。この故に念仏すれば必ず願力成就の報土に生ず。自力随縁の諸善万行は、往生を得といえども、所生の浄土は皆これ化土なり。雑善の業因は千差万別なれば、感見の化土、また以て同じかるべし。因果炳然なり。敢て疑うことなからくのみ。SYOZEN2-370/TAI8-336 ◎顕浄土真実真仏土文類 五 教行信証六要鈔会本 第七 |