六要鈔会本 第8巻の3(4の内) 化身土の巻 要門釈 三経隠顕問答 『大経』『観経』三心一異問答・隠顕釈 |
◎=親鸞聖人『教行信証』の文。 〇=存覚『六要抄』の文 |
『教行信証六要鈔会本』 巻八之三 |
◎問。大本三心与観経三心。一異云何。答。依釈家之意按無量寿仏観経者。有顕彰隠密義。言顕者。即顕定散諸善。開三輩・三心。然二善・三福非報土真因。諸機三心自利各別。而非利他一心。如来異方便・忻慕浄土善根。是此経之意。即是顕義也。言彰者。彰如来弘願。演暢利他通入一心。縁達多・闍世悪逆。彰釈迦微咲素懐。因韋提別選正意。開闡弥陀大悲本願。斯乃此経隠彰義也。 ◎(御自釈)問う。『大本』の三心と、『観経』の三心と、一異いかんぞや。答う。釈家の意に依って、『無量寿仏観経』を案ずれば、顕彰隠密の義あり。顕というは、すなわち定散諸善を顕し、三輩・三心を開く。しかるに二善・三福は報土の真因にあらず。諸機の三心は自利各別にして利他の一心にあらず。如来の異の方便、欣慕浄土の善根なり。これはこの経の意なり。すなわちこれ顕の義なり。彰というは、如来の弘願を彰わし、利他通入の一心を演暢す。達多・闍世の悪逆に縁って、釈迦微笑の素懐を彰わす。韋提別選の正意に因って、弥陀大悲の本願を開闡す。これすなわちこの経の隠彰の義なり。KESINDO:J:-HON-331,HOU-441,442- 〇次問答中。問意可見。其答之中。言釈家者導大師也。今就観経被述自解。顕彰等者。問。於顕与彰有何別乎。答。今釈之意。顕帯方便。彰標実義。随勘字訓。顕広韻云。呼典切。明著。玉篇云。虚典切。明也。彰広韻云。渚良切。明也。玉篇云。諸楊切。明也。彼此字訓。雖似無異。如宋韻者。明上云著。明明義歟。軼唯云明。是故顕属分明顕示之義。彰字聊属隠示義歟。分別之釈非無由耳。言縁達多闍世等者。如第一巻。彰釈迦微咲素懐者。経云。爾時世尊即便微咲。已上。序分義云。此明如来以見夫人。願生極楽。更請得生之行。称仏本心。又顕弥陀願意。因斯二請広開浄土之門。非直韋提得去。有識聞之皆往。有斯益故。所以如来微咲也。已上。問。言二請者。上欣浄縁之別去行思惟正受二請是也。其二請者。是在定善。其定善者非仏本願。何称仏心為微咲由。答。観経所説定散弘願之三門也。而説定散為顕弘願。選択集云。又説定散為顕念仏超過余善。若無定散何顕念仏特秀。例如法花秀三説上。若無三説何顕法華第一。故今定散為廃而説。念仏為立而説。已上。故請定善顕随他教。其定善外仏開散善応散動機。其散機中猶有不堪廃悪修善。仏為其機説念仏行。依是義故。初所微咲。雖約定機。仏之本懐。遂在念仏。今此解釈顕此義也。因韋提者。別所求意。経文及以序分義釈如第一巻鈔中所出。可見彼文。SYOZEN2-385,386/TAI8-528 〇次に問答の中に、問の意、見つべし。その答の中に「釈家」というは導大師なり。今『観経』に就きて自解を述べらる。「顕彰」等とは、問う、顕と彰とに於いて何の別あるや。答う、今の釈の意は、顕は方便を帯し、彰は実義を標す。随いて字訓を勘うるに、顕は『広韻』に云わく「呼典の切。明著なり」。『玉篇』に云わく「虚典の切。明なり」。彰は『広韻』に云わく「渚良の切。明なり」。『玉篇』に云わく「諸楊の切。明なり」。彼此の字訓は異なきに似たりといえども、『宋韻』の如きは明の上に著という。明明の義か。ただ明というに軼〈す〉ぎたり。この故に顕をば分明顕示の義に属し、彰の字をば聊か隠示の義に属するか。分別の釈は由なきにあらざるのみ。「縁達多闍世」等というは、第一巻の如し。「釈迦、微咲の素懐を彰わす」とは、経に云わく「その時に世尊、すなわち微咲したまう」已上。「序分義」に云わく「これ、如来、夫人を見たまうに、極楽に生れんと願じ、更に得生の行を請するを以て、仏の本心に称〈かな〉い、また弥陀の願意を顕すことを明かす。この二請に因りて、広く浄土の門を開く。直ちに韋提の去ることを得るのみにあらず、有識はこれを聞きて皆往く。この益あるが故に、所以に如来微笑したまう」已上。問う、「二請」というは、上の欣浄縁の別去行、思惟・正受の二請これなり。その二請は、これ定善に在り。その定善は仏の本願にあらず。何ぞ仏心に称いて微咲の由と為るや。答う、『観経』の所説は定・散・弘願の三門なり。而るに定散を説くことは弘願を顕わさんが為なり。『選択集』に云わく「また定散を説くことは、念仏の余善に超過せることを顕さんが為なり。もし定散なくは、何ぞ念仏の特に秀たることを顕さん。例せば法華の三説の上に秀でたるが如し。もし三説なくは、何ぞ法華の第一なることを顕さん。故に今定散は廃のために而も説き、念仏三昧は立のために而も説く」已上。故に定善を請するは随他の教を顕わす。その定善の外に、仏は散善を開して散動の機に応ず。その散機の中に、なお廃悪修善に堪えざるあり。仏はその機の為に念仏の行を説く。この義に依るが故に、初に微咲する所は、定機に約すといえども、仏の本懐は遂に念仏に在り。今この解釈はこの義を顕わすなり。「因韋提」とは、別所求の意なり。経文および序分義の釈は第一巻の鈔の中に出す所の如し。彼の文を見るべし。SYOZEN2-385,386/TAI8-528 ◎是以経言教我観於清浄業処。言清浄業処者。則是本願成就報土也。言教我思惟者。即方便也。言教我正受者。即金剛真心也。言諦観彼国浄業成者。応観知本願成就尽十方無碍光如来也。言広説衆譬。則十三観是也。 ◎(御自釈)ここをもって経に「教我観於清浄業処」と言えり。「清浄業処」と言うは、すなわちこれ本願成就の報土なり。「教我思惟」と言うは、すなわち方便なり。「教我正受」と言うは、すなわち金剛の真心なり。「諦観彼国浄業成者」と言うは、本願成就の尽十方無碍光如来を観知すべしとなり。「広説衆譬」と言えり、すなわち十三観これなり。KESINDO:J:SYOZEN2-147/-HON-331,332,HOU-442- 〇教我等者。問。今此文者欣浄縁下通所求也。未関西方。何云本願成就土耶。答。元自所言此一段者。今師聖人己心領解。隠彰意也。通別所求十方西方転入教義。更非可濫。故今所指。雖亘十方。遂其所尅志在西方。故従本意釈之無過。暫遊心於常途所談教門之外。可信深意徹到趣也。教我思惟等者。問。窺大師釈。思惟即是観前方便。正受即是約観成位。而今料簡。於釈思惟。雖云方便。不云定前。其意不詳。又解正受何云金剛真心也耶。答。此義乃又隠彰意也。先釈思惟。不言観前。不分深浅。只顕定善為方便義。如来方便。答。請随他之教故也。次以正受配真心意。定散弘願次第転入。観経密意。此乃散動根機。定善不堪之時。行彼散善。於其散善廃悪修善難成之時。終帰念仏正得往生見仏之益。故就落居如此釈之。諦観彼国浄業等者。問。序分義釈。解此文云。正明凡惑障深心多散動。若不頓捨攀縁。浄境無由得現。此即正教安心住行。若依此法。名為浄業成也。已上。如此釈者。如所教之心行観修名浄業成。是約能観。而今相違有二。何者。一先約所観。二縦為所観。云彼国故。可為依報。何約正報。答。疑難一往似有其理。但序分釈。且就観門論業成故。依此方法。如説修観名浄業成。故約能観道理宜然。但有能観定有所観。今就所観所設料簡。其義不違。随而彼釈既云浄境無由得現。故以観成境現為詮。而其観法実難成故。遂乗弘願見仏往生可実益故。以其義辺有此自解。是故約其所観。無咎。次所観中可有主伴。故先約主。即今釈中既云浄境。浄境之中広含二報。是故諸師多存此義。謂浄影云。汝観彼国勧観依果。浄業成者勧観正報。諸仏菩薩及与三品往生人等名浄業者。已上。又龍興云。諦観彼国浄業成者。如其次第観二清浄。謂器世間清浄。衆生世間清浄。已上。又元照云。浄業成者。総目彼土依正二報。已上。今之所述。旁非無拠。所言浄境真実報土。其教主者是尽十方無碍光仏。故云爾也。言広等者。問。今以定善名為衆譬。有何証乎。意又如何。答。序分義中。不釈此事。但浄影云。以此方日水等相。並以此方仏菩薩像。類度彼方。名為衆譬。已上。又元照云。極楽境界衆未識。以物比擬故云衆譬。已上。此外諸師各雖設釈。大概無異故不悉挙。其証如斯。義意粗見此等解釈。SYOZEN2-386,387,388/TAI8-551,552 〇「教我」等とは、問う、今この文は欣浄縁の下の通所求なり。未だ西方に関〈あず〉からず。何ぞ本願成就の土というや。答う、もとより言う所、この一段は、今師聖人己心の領解、隠彰の意なり。通・別の所求、十方西方転入の教義は更に濫すべきにあらず。故に今指す所は十方に亘るといえども、遂にその尅する所、志は西方に在り。故に本意に従いてこれを釈するに過なし。暫く心を常途所談の教門の外に遊ばしめ、深意徹到の趣を信ずべきなり。「教我思惟」等とは、問う、大師の釈を窺うに、思惟は即ちこれ観の前方便、正受は即ちこれ観成の位に約す。而るに今の料簡は思惟を釈するに於いて、方便というといえども、定前といわず。その意、詳らかならず。また正受を解するに何ぞ「金剛真心也」というや。答う、この義は乃ちまた隠彰の意なり。まず思惟を釈するに、観前といわず、深浅を分たず、ただ定善は方便たる義を顕わす。如来方便答請随他之教〈如来の方便して請に答うる随他の教〉なるが故なり。次に正受を以て真心に配する意は、定散・弘願、次第に転入するは、『観経』の密意なり。これ乃ち散動の根機は、定善不堪の時、彼の散善を行ずるに、その散善に於いて廃悪修善は成じ難き時、終に念仏に帰して正しく往生見仏の益を得。故に落居に就きて、かくの如くこれを釈す。「諦観彼国浄業」等とは、問う、「序分義」の釈にこの文を解して云わく「正しく凡惑障り深くして心多く散動す。もし頓に攀縁を捨てずば、浄境現ずることを得るに由なきことを明かす。これ即ち正しく安心住行を教う。もしこの法に依らば、名づけて浄業成ずとす」已上。この釈の如きは、教うる所の心行の如く観修するを浄業成と名づく。これ能観に約す。而るに今相違するに二あり。何となれば、一にはまず所観に約す。二にはたとい所観たりとも、彼の国というが故に、依報たるべし。何ぞ正報に約するや。答う、疑難は一往その理あるに似たり。但し序分の釈は且く観門に就きて業成を論ずるが故に、この方法に依りて、説の如く修観するを浄業成と名づく。故に能観に約することは道理宜しく然るべし。但し能観あらば定んで所観あり。今は所観に就きて設くる所の料簡なり。その義、違せず。随いて、彼の釈は既に「浄境、現ずることを得るに由なし」という。故に観成じて境現ずるを以て詮と為す。而るにその観法は実に成じ難きが故に、遂に弘願に乗じて見仏往生すること、実益なるべきが故に。その義辺を以てこの自解あり。この故にその所観に約するに咎なし。次に所観の中に主伴あるべし。故にまず主に約す。即ち今の釈の中に既に「浄境」という。浄境の中に広く二報を含す。この故に諸師は多くこの義を存す。謂わく、浄影の云わく「汝観彼国は勧めて依果を観ず。浄業成とは勧めて正報を観ず。諸仏・菩薩と及び三品の往生人等とを浄業者と名づく」已上。また龍興の云わく「諦観彼国浄業成者とは、その次第の如く二清浄を観ず。謂わく器世間清浄と衆生世間清浄となり」已上。また元照の云わく「浄業成とは、総じて彼の土の依正二報に目づく」已上。今の述ぶる所は、旁に拠なきにあらず。言う所の浄境は真実報土なり。その教主とはこれ尽十方無碍光仏なり。故に爾いうなり。「言広」等とは、問う、今、定善を以て名づけて衆譬と為すこと、何の証かあるや。意また如何。答う、「序分義」の中にこの事を釈せず。ただ浄影の云わく「この方の日水等の相を以てし、並びにこの方の仏菩薩の像を以て、彼の方に類度するを、名づけて衆譬と為す」已上。また元照の云わく「極楽の境界は、衆は未だ識らず。物を以て比擬す。故に衆譬という」已上。この外の諸師はおのおの釈を設くるといえども、大概異なきが故に悉く挙げず。その証はかくの如し。義の意はほぼこれ等の解釈に見えたり。SYOZEN2-386,387,388/TAI8-551,552 ◎言汝是凡夫心想羸劣。則是彰為悪人往生機也。 ◎(御自釈)汝是凡夫心想羸劣と言えり、すなわちこれ悪人往生の機たることを彰すなり。KESINDO:J:SYOZEN2-147,148/-HON-332,HOU-442- 〇汝是凡夫心想等者。序分義云。韋提実是菩薩。仮示凡身。我等罪人。無由比及。為断此疑故言汝是凡夫也。已上。般舟讃云。韋提則是女人相。貪瞋具足凡夫位。已上。縦雖大権。今約凡教発起本意。以謂凡夫為浄教致。故有此釈。SYOZEN2-388/TAI8-572 〇「汝是凡夫心想」等とは、「序分義」に云わく「韋提は実にこれ菩薩なり、仮に凡身を示す。我等は罪人なり。比及するに由なし。この疑いを断ぜんが為に、故に汝是凡夫という」已上。『般舟讃』に云わく「韋提は則ちこれ女人の相。貪瞋具足の凡夫の位なり」已上。たとい大権なりといえども、今は凡教発起の本意に約すれば、凡夫というを以て浄教の致と為す。故にこの釈あり。SYOZEN2-388/TAI8-572 ◎言諸仏如来有異方便。則是定散諸善顕為方便之教也。 ◎(御自釈)諸仏如来有異方便と言えり、すなわちこれ定散諸善は方便の教たることを顕すなり。KESINDO:J:SYOZEN2-148/-HON-332,HOU-442- 〇諸仏如来有異等者。問。玄義分云。日想水想氷想乃至十三観已来。尽名異方便。已上。如今釈者。異方便言偏在定善。何言定散為方便乎。答。経文説言異方便者。正指定善。故釈十三。是故釈云方便由序。言方便者十三定善。言由序者。示観縁也。但大師釈異方便言。雖約定善。再往論之可通十六。故般舟讃。述此義云。定散倶回入宝国。則是如来異方便。已上。玄義釈者任経顕説。般舟讃者探仏密意。今家依彼生讃釈也。SYOZEN2-388/TAI8-575,576 〇「諸仏如来有異」等とは、問う、「玄義分」に云わく「日想・水想・氷想、乃至、十三観已来を尽く異の方便と名づく」已上。今の釈の如きは、「異の方便」の言は偏に定善に在り。何ぞ定散を方便と為すというや。答う、経文に説きて「異の方便」というは、正しく定善を指す。故に「十三」と釈す。この故に釈して「方便の由序」という。方便というは十三定善なり。「由序」というは示観縁なり。但し大師は異の方便の言を釈するに、定善に約すといえども、再往、これを論ぜば十六に通ずべし。故に『般舟讃』にこの義を述べて云わく「定散倶に回すれば宝国に入る。則ちこれ如来の異の方便なり」已上。「玄義」の釈は経の顕説に任す。『般舟讃』は仏の密意を探る。今家は彼の生讃の釈に依るなり。SYOZEN2-388/TAI8-575,576 ◎言以仏力故見彼国土。斯乃顕他力之意也。 ◎(御自釈)以仏力故見彼国土と言えり、これすなわち他力の意を顕すなり。KESINDO:J:SYOZEN2-148/-HON-332,HOU-442- 〇以仏力故見彼等者。釈云。此明夫人領解仏意。如上光台所見。謂是已能向見。世尊開示。始知是仏方便之恩。已上。彼約釈迦。此存弥陀。彼被見土。此在往生。准拠示之。故云顕意。SYOZEN2-388,/TAI8-579 〇「以仏力故見彼」等とは、釈に云わく「これ夫人、仏意を領解するに、上の光台の所見のごときは、これ已に能く向に見つと謂いき。世尊開示したまいて、始めてこれ仏の方便の恩なりと知る」已上。彼は釈迦に約し、これは弥陀を存す。彼は見土に被らしむ。これは往生に在り。准拠してこれを示す。故に意を顕わすという。SYOZEN2-388,/TAI8-579 ◎言若仏滅後諸衆生等。即是未来衆生顕為往生正機也。 ◎(御自釈)若仏滅後諸衆生等と言えり、すなわちこれ未来の衆生、往生の正機たることを顕すなり。KESINDO:J:SYOZEN2-148/-HON-332,HOU-442- 〇若仏滅後諸衆等者。釈云。正明夫人悲心為物。同己往生。永逝娑婆長遊安楽。已上。又云此明夫人挙出苦機。此等罪業極深。又不見仏。不蒙加備。云何見於彼国也。已上。如来大悲本被未来。故於往生為正機也。SYOZEN2-388/TAI8-581,582 〇「若仏滅後諸衆」等とは、釈に云わく「正しく夫人の悲心、物の為にすること、己が往生に同じく、永く娑婆を逝きて、長く〈とこしなえ〉に安楽に遊ばしめんということを明かす」已上。また云わく「これ夫人、苦機を挙出して、これらの罪業極めて深ければ、また仏を見たてまつらず、加備を蒙らずは、いかんが彼の国を見たてまつるべきということを明かす」已上。如来の大悲は本、未来に被らしむ。故に往生に於いて正機たり。SYOZEN2-388/TAI8-581,582 ◎言若有合者名為麁想。是顕定観難成也。 ◎(御自釈)若有合者名為麁想と言えり、これ定観成じがたきことを顕すなり。KESINDO:J:SYOZEN2-148/-HON-332,HOU-442- 〇若有合者名為等者。像観意也。問。当観釈云。従令与修多羅合下。至見極楽世界已来。弁観邪正之相。已上。何為定観難成証耶。答。弁邪正者意在難成。修観之人未必悉応合修多羅。若不合者則妄想也。難成之義其意可知。SYOZEN2-388,389/TAI8-586,587 〇「若有合者名為」等とは、像観の意なり。問う、当観の釈に云わく「令与修多羅合より下、見極楽世界に至る已来は、観の邪正の相を弁ず」已上。何ぞ定観難成の証とするや。答う、邪正を弁ずる者は、意は難成に在り。修観の人は未だ必ずしも悉く修多羅に合すべからず。もし合せざれば則ち妄想なり。難成の義、その意、知りぬべし。SYOZEN2-388,389/TAI8-586,587 ◎言於現身中得念仏三昧。即是顕定観成就之益以獲念仏三昧為観益。即以観門為方便之教也。 ◎(御自釈)於現身中得念仏三昧と言えり、すなわちこれ、定観成就の益は念仏三昧を獲るをもって観の益とすることを顕す、すなわち観門をもって方便の教とせるなり。KESINDO:J:SYOZEN2-148/-HON-332,HOU-442,443- 〇於現身中得念等者。是又像観之結文也。問。今所言之念仏三昧。観称之中指何法乎。答。念仏三昧兼亘観称。観念三昧約真身観観成之位。称念三昧則同観念所詮之法。念仏衆生摂取不捨之益是也。彼観所詮摂取不捨。是為弥陀願意宗旨。集主聖人深達其義有此釈也。尋云。当文釈云。正明尅念修観現蒙利益。已上。尅念等者。是指当観。現蒙等者。指下真身。只就観門所釈之也。何約称念。答。於云現蒙利益之言。有其重重。初修像観。次得真観。得真観後帰摂取益。蒙其摂取在称念故。広引三経成為称益。今釈専顕経極致也。SYOZEN2-389/TAI8-590 〇「於現身中得念」等とは、これまた像観の結文なり。問う、今いう所の念仏三昧は、観称の中に何の法を指すや。答う、念仏三昧は兼て観・称に亘る。観念三昧は真身観観成の位に約す。称念三昧は則ち同じき観念所詮の法、念仏衆生摂取不捨の益、これなり。彼の観の詮ずる所は摂取不捨、これを弥陀願意の宗旨と為す。集主聖人は深くその義に達してこの釈あるなり。尋ねて云わく、当文の釈に云わく「正しく尅念修観して現に利益を蒙ることを明かす」已上。「尅念」等とは、これ当観を指す。「現蒙」等とは、下の真身を指す。ただ観門に就きてこれを釈する所なり。何ぞ称念に約するや。答う、現蒙利益という言に於いて、その重重あり。初に像観を修し、次に真観を得。真観を得て後に摂取の益に帰す。その摂取を蒙ることは称念に在るが故に、広く三経を引きて称の益たることを成ず。今の釈は専ら経の極致を顕わすなり。SYOZEN2-389/TAI8-590 ◎言発三種心即便往生。又言復有三種衆生当得往生。依此等文。就三輩有三種三心。復有二種往生。 ◎(御自釈)発三種心即便往生と言えり。また、復有三種衆生当得往生と言えり。これらの文に依るに、三輩について三種の三心あり、また二種の往生あり。KESINDO:J:SYOZEN2-148/-HON-332,HOU-443- 〇発三種心即便等者。明信心人必得往生。其往生者是報土也。復有等者。定散諸機。世戒行人。復有往生。但化土也。依此等者。明於三輩各有三心。即上所言復有三種衆生往生是也。SYOZEN2-389/TAI8-595,596 〇「発三種心即便」等とは、信心の人は必ず往生を得ることを明かす。その往生とはこれ報土なり。「復有」等とは、定散の諸機、世・戒・行の人、また往生あり。ただし化土なり。「依此」等とは、三輩に於いておのおの三心あることを明かす。即ち上に言う所の「復有三種衆生」の往生これなり。SYOZEN2-389/TAI8-595,596 ◎良知。此乃此経有顕彰・隠蜜之義。二経三心将談一異。応善思量也。大経・観経依顕義異。依彰義一也。可知。 ◎(御自釈)良に知りぬ、これいましこの経に顕彰隠密の義あることを。二経の三心、将に一異を談ぜんとす。善く思量すべきなり。『大経』『観経』、顕の義に依れば異なり、彰の義に依れば一なり。知るべし。KESINDO:J:SYOZEN2-148/-HON-332,333,HOU-443 〇良知已下至云可知。是弁両経所説三心。依顕与彰有異同也。SYOZEN2-389/TAI8-601 〇「良知」已下、「可知」というに至るまでは、これ両経所説の三心を弁ず。顕と彰と異同あるに依りてなり。SYOZEN2-389/TAI8-601 |