六要鈔会本 第9巻の(6の内)
 化身土の巻
 三経隠顕問答
  真門釈
  引文 『大無量寿経』『如来会』『平等覚経』『観経』
    『小経』・善導『観経疏』『法事讃』『般舟讃』
    『往生礼讃』・元照『阿弥陀経義疏』・
    智円『阿弥陀経疏』
◎=親鸞聖人『教行信証』の文。
〇=存覚『六要抄』の文
『教行信証六要鈔会本』 巻九之三

 ◎夫濁世道俗。応速入円修至徳真門願難思往生。就真門之方便。有善本有徳本。復有定専心。復有散専心。復有定散雑心。雑心者。大小凡聖一切善悪。各以助正間雑心称念名号。良教者頓而根者漸機。行者専而心者間雑。故曰雑心也。定散之専心者。以信罪福心願求本願力。是名自力之専心也。善本者如来嘉名。此嘉名者。万善円備。一切善法之本。故曰善本也。徳本者如来徳号。此徳号者。一声称念。至徳成満。衆禍皆転。十方三世徳号之本。故曰徳本也。然則釈迦牟尼仏。開演功徳蔵勧化十方濁世。阿弥陀如来。本発果遂之誓(二十願也)悲引諸有群生海。然則釈迦牟尼仏。開演功徳蔵勧化十方濁世。阿弥陀如来。本発果遂之誓悲引諸有群生海。既而有悲願。名植諸徳本之願。復名係念定生之願。復名不果遂者之願。亦可名至心回向之願也。
 ◎(御自釈)それ濁世の道俗、速やかに円修至徳の真門に入りて、難思往生を願うべし。真門の方便に就きて、善本あり、徳本あり。また定専心あり、また散専心あり、また定散雑心あり。雑心とは、大小・凡聖・一切善悪、おのおの助正間雑の心をもって名号を称念す。良に教は頓にして根は漸機なり。行は専にして心は間雑す。故に雑心というなり。定散の専心は、罪福を信ずる心をもって本願力を願求す、これを自力の専心と名づくるなり。善本とは如来の嘉名なり。この嘉名は万善円備せり、一切善法の本なり。故に善本というなり。徳本とは如来の徳号なり。この徳号は、一声称念するに、至徳成満し、衆禍みな転ず、十方三世の徳号の本なり。故に徳本というなり。しかればすなわち釈迦牟尼仏は、功徳蔵を開演して、十方濁世を勧化したまう。阿弥陀如来は、もと果遂の誓い(二十願なり)を発して、諸有の群生海を悲引したまえり。すでにして悲願います。植諸徳本の願と名づく、また係念定生の願と名づく、また不果遂者の願と名づく。また至心回向の願と名づくべきなり。KESINDO:J:SYOZEN2-157,158/-HON-346,347,HOU-457,458-

 〇第三段者。就二十願述其大意。又出得名。大意可見。言得名者。植諸徳本。不果遂者。至心回向。共就経文有此願名。係念定生真源名之。黒谷拠此。SYOZEN2-400/TAI9-138
 〇第三段は、二十の願に就きてその大意を述ぶ。また得名を出だす。大意見つべし。得名というは、「植諸徳本」「不果遂者」「至心回向」。ともに経文に就きてこの願名あり。「係念定生」は真源のこれに名づく。黒谷はこれに拠る。SYOZEN2-400/TAI9-138

 ◎是以大経願言。設我得仏。十方衆生聞我名号係念我国。植諸徳本至心回向欲生我国。不果遂者不取正覚。
 ◎ここをもって『大経』の願に言わく、設い我、仏を得たらんに、十方の衆生、我が名号を聞きて、念を我が国に係けて、もろもろの善本を植えて、心を至し回向して、我が国に生ぜんと欲わん。果遂せずは正覚を取らじ。KESINDO:SYOZEN2-158/HON-347,HOU-458

 〇次引文中。所引願者第二十也。当願意者。偏憑善本徳本功力。不信仏智難思他力。雖然終依係念之因。令果遂也。問。言果遂者。御廟黒谷共判三生果遂之義。今師同乎。答。三生之義不可違害。問。当願之益。為化土者所果遂者。可為報土往生益歟。答。一生聞名。一生化生。一生報土。如此得意果遂之益可報土耳。大経下云。若此衆生。識其本罪深自悔責。求離彼処。即得如意往詣無量寿仏所。已上。指彼往詣仏所之時。云果遂也。問。彼転生者。不改其生何三生乎。答。雖不改生。離三種障。得三種益。義当転生。例如変易生死是也。SYOZEN2-401/TAI9-144,145
 〇次の引文の中に、所引の願は第二十なり。当願の意は、偏に善本徳本の功力を憑みて、仏智難思の他力を信ぜず。然りといえども、終に係念の因に依りて果遂せしむるなり。問う、「果遂」というは、御廟・黒谷共に三生果遂の義を判ず。今師同じや。答う、三生の義は違害すべからず。問う、当願の益、化土たらば、果遂する所は報土往生の益たるべきか。答う、一生聞名、一生化生、一生報土。かくの如く意を得ば、果遂の益は報土なるべからくのみ。『大経』の下に云わく「もしこの衆生、その本罪を識りて深く自ら悔責して、彼の処を離れんと求めば、即ち意の如く無量寿仏の所に往詣することを得ん」已上。彼の往詣仏所の時を指して果遂というなり。問う、彼の転生とは、その生を改めずして、何ぞ三生ならんや。答う、生を改めずといえども、三種の障を離れて、三種の益を得る義は転生に当る。例せば変易生死の如き、これなり。SYOZEN2-401/TAI9-144,145


 ◎又言。於此諸智疑惑不信。然猶信罪福修習善本願生其国。此諸衆生生彼宮殿。
 ◎(大経)また言わく、この諸智において疑惑して信ぜず、しかるになお罪福を信じて、善本を修習して、その国に生ぜんと願ぜん。このもろもろの衆生、かの宮殿に生まると。KESINDO:SYOZEN2-158/HON-347,HOU-458

 〇次又言者。同下巻文。是説衆生疑惑仏智信罪福者受胎生也。此下所引就果遂益出説名号之利諸文。SYOZEN2-401/TAI9-152
 〇次に「又言」とは、同じき下巻の文なり。これ衆生の仏智を疑惑して罪福を信ずる者は胎生を受くることを説くなり。この下の所引は果遂の益に就きて名号の利を説く諸文を出だす。SYOZEN2-401/TAI9-152


 ◎又言。若人無善本。不得聞此経。清浄有戒者。乃獲聞正法。已上。
 ◎(大経)また言わく、もし人、善本なければ、この経を聞くことを得ず。清浄に戒をたもてる者、いまし正法を聞くことを獲んと。已上。KESINDO:SYOZEN2-158/HON-348,HOU-458

 〇次又言者。三十偈文。SYOZEN2-401/TAI9-155
 〇次に「又言」とは、三十偈の文なり。SYOZEN2-401/TAI9-155


 ◎無量寿如来会言。若我成仏。無量国中所有衆生。聞説我名。以己善根回向極楽。若不生者不取菩提。已上。
 ◎『無量寿如来会』に言わく、もし我、成仏せんに、無量国の中の所有の衆生、我が名を説かんを聞きて、もって己が善根として極楽に回向せん。もし生ぜずは菩提を取らじと。已上。KESINDO:SYOZEN2-158/HON-348,HOU-458

 〇次所引者如来会文。以不果遂説不生者。所言果遂即往生故。SYOZEN2-401/TAI9-158
 〇次の所引は『如来会』の文なり。不果遂を以て不生と説くは、言う所の果遂は即ち往生なるが故に。SYOZEN2-401/TAI9-158


 ◎平等覚経言。非有是功徳人。不得聞是経名。唯有清浄戒者。乃還聞斯正法。悪・[キョウ02]慢・蔽・懈怠。難以信於此法。宿世時見仏者。楽聴聞世尊教。人之命希可得。仏在世甚難値。有信専〈信慧〉不可致。若聞見精進求。已上。
 ◎『平等覚経』に言わく、この功徳あるにあらざる人は、この経の名を聞くことを得ず。ただ清浄に戒をたもてる者、いまし還りてこの正法を聞く。悪と[キョウ02]慢と蔽と懈怠とは、もってこの法を信ずること難し。宿世の時に仏を見たてまつる者、楽〈この〉みて世尊の教を聴聞せん。人の命、希に得べし。仏、世にましませどもはなはだ値いがたし。信専あること〈信慧ありて〉致るべからず。もし聞見せば精進にして求めよと。已上。KESINDO:SYOZEN2-158,159/HON-348,HOU-458,459

 〇次覚経文。五言六言字数雖異。文言義趣大同大経三十偈矣。SYOZEN2-401/TAI9-160
 〇次に『覚経』の文なり。五言と六言と、字数異なるといえども、文言・義趣は大に『大経』の三十偈に同じ。SYOZEN2-401/TAI9-160


 ◎観経言。仏告阿難。汝好持是語。持是語者。即是持無量寿仏名。已上。
 ◎『観経』に言わく、仏、阿難に告げたまわく、汝よくこの語を持て。この語を持てというは、すなわちこれ無量寿仏の名を持てとなりと。已上。KESINDO:SYOZEN2-159/HON-348,HOU-459

 〇次観経文。至経流通付属仏名之仏語也。SYOZEN2-401/TAI9-163
 〇次に『観経』の文なり。経の流通に至りて仏名を付属する仏語なり。SYOZEN2-401/TAI9-163


 ◎阿弥陀経言。不可以少善根福徳因縁得生彼国。聞説阿弥陀仏執持名号。已上。
 ◎『阿弥陀経』に言わく、少善根福徳の因縁をもって、かの国に生ずることを得べからず。阿弥陀仏を説くを聞きて名号を執持せよ。已上。KESINDO:SYOZEN2-159/HON-348,HOU-459

 〇次小経文。至生彼国説少善根不生之義。聞説已下所説名号執持益也。SYOZEN2-401/TAI9-167
 〇次に『小経』の文なり。「生彼国」に至るまでは少善根不生の義を説く。「聞説」已下は名号執持の益を説く所なり。SYOZEN2-401/TAI9-167


 ◎光明寺和尚云。自余衆行雖名是善。若比念仏者。全非比校也。是故諸経中。処処広讃念仏功能。如無量寿経四十八願中。唯明専念弥陀名号得生。又如弥陀経中。一日七日専念弥陀名号得生。又十方恒沙諸仏証誠不虚也。又此経定散文中。唯標専念名号得生。此例非一也。広顕念仏三昧竟。
 ◎(定善義)光明寺和尚の云わく、自余の衆行、これ善と名づくといえども、もし念仏に比ぶれば、全く比校にあらざるなり。この故に諸経の中に処処に広く念仏の功能を讃めたり。『無量寿経』の四十八願の中のごとき、ただ弥陀の名号を専念して生まるることを得と明かす。また『弥陀経』の中のごとし、一日・七日、弥陀の名号を専念して生を得と。また、十方恒沙の諸仏の証誠虚しからざるなり。またこの経(観経)の定散の文の中に、ただ、名号を専念して生を得と標す。この例一にあらざるなり。広く念仏三昧を顕し竟りぬ。KESINDO:SYOZEN2-159/HON-348,349,HOU-459

 〇次所引等者宗家解釈。総有九段。初定善義。解経念仏摂取文釈。標三経意。其文可見。SYOZEN2-401/TAI9-198,169
 〇次の所引等は宗家の解釈なり。総じて九段あり。初は定善義、経の念仏摂取の文を解する釈なり。三経の意を標す。その文見つべし。SYOZEN2-401/TAI9-198,169


 ◎又云。又決定深信弥陀経中十方恒沙諸仏証勧一切凡夫決定得生。乃至。諸仏言行不相違失。縦令釈迦指勧一切凡夫。尽此一身専念専修。捨命已後定生彼国者。即十方諸仏悉皆同讃同勧同証。何以故。同体大悲故。一仏所化即是一切仏化。一切仏化即是一仏所化。即弥陀経中説。乃至。又勧一切凡夫。一日七日一心専念弥陀名号。定得往生。次下文云。十方各有恒河沙等諸仏。同讃釈迦。能於五濁・悪時・悪世界・悪衆生・悪煩悩・悪邪・無信盛時。指讃弥陀名号勧励衆生。称念必得往生。即其証也。又十方仏等恐畏衆生不信釈迦一仏所説。即共同心同時。各出舌相遍覆三千世界説誠実言。汝等衆生。皆応信是釈迦所説所讃所証。一切凡夫不問罪福多少・時節久近。但能上尽百年。下至一日七日。一心専念弥陀名号。定得往生必無疑也。是故一仏所説一切仏同証誠其事也。此名就人立信也。抄要。
 ◎(散善義)また云わく、また決定して、『弥陀経』の中に、十方恒沙の諸仏、一切凡夫を証勧して、決定して生ずることを得と深信せよ。乃至。諸仏は言行あい違失したまわず。たとい釈迦、指〈おし〉えて一切凡夫を勧めて、この一身を尽くして専念専修して、捨命已後定んでかの国に生まるるは、すなわち十方の諸仏ことごとくみな同じく讃め、同じく勧め、同じく証したまう。何をもっての故に、同体の大悲の故に。一仏の所化はすなわちこれ一切仏の化なり。一切仏の化は、すなわちこれ一仏の所化なり。すなわち『弥陀経』の中に説かく。乃至。また一切凡夫人を勧めて、一日・七日、一心に弥陀の名号を専念すれば、定んで往生を得んと。次ぎ下の文に云わく、十方におのおの恒河沙等の諸仏ましまして、同じく釈迦を讃めたまわく、よく五濁、悪時・悪世界・悪衆生・悪煩悩・悪邪無信の盛んなる時において、弥陀の名号を指讃して、衆生を勧励して称念せしむれば、必ず往生を得と。すなわちその証なり。また十方仏等、衆生の釈迦一仏の所説を信ぜざらんことを恐畏れて、すなわち共に同心・同時におのおの舌相を出だしてあまねく三千世界に覆いて、誠実の言を説きたまわく、汝等衆生、みなこの釈迦の所説・所讃・所証を信ずべし。一切凡夫、罪福の多少、時節の久近を問わず、ただよく上百年を尽くし、下一日・七日に至るまで、一心に弥陀の名号を専念すれば、定んで往生を得ること、必ず疑いなきなり。このゆえに一仏の所説は、一切仏同じくその事を証誠したまうなり。これを人に就きて信を立つと名づくるなり。抄要。KESINDO:SYOZEN2-159,160/HON-349,HOU-459,460

 〇次所引文。又云決定深信等者。散善義釈。就三経意釈深信中。依弥陀経解釈以下。取要被引。第三巻本由具被載三心之釈有此文。故其所引下粗加註畢。仍不重解。問。第三引之。何重引耶。答。第三広引。当巻略引。又於両巻互有除取。非無異也。得生之下言乃至者。又深信〈深心〉下四重難中。至第四云推験明知二十丁半余所除是也。但所除内至大益也十八丁余。第三巻本引之故除。又深心下四十余行。彼巻同除。但此文云諸仏言行不相違失縦令十字。彼巻除之此巻引之。経中説下言乃至者。所云釈迦讃嘆極楽種種荘厳十字是也。SYOZEN2-401,402/TAI9-173
 〇次の所引の文「又云決定深信」等とは、「散善義」の釈なり。三経の意に就きて深信を釈する中に、『弥陀経』に依る解釈以下、要を取りて引かる。第三巻の本に具に三心の釈を載せらるるに由りて、この文あり。故にその所引の下にほぼ註を加え畢りぬ。よりて重ねて解せず。問う、第三にこれを引く、何ぞ重ねて引くや。答う、第三には広く引き、当巻には略して引く。また両巻に於いて互に除取あり。異なきにあらざるなり。「得生」の下に「乃至」というは、「又深信〈深心〉」の下、四重の難の中に、第四に「推験明知」というに至るまで、二十丁半余、除く所これなり。ただし除く所の内、「大益也」に至るまで十八丁余は、第三巻の本にこれを引くが故に除く。「又深心」の下、四十余行は彼の巻に同じく除く。ただしこの文に「諸仏言行不相違失縦令」という十字は、彼の巻にこれを除きて、この巻にこれを引く。「経中説」の下に「乃至」というは、「釈迦讃嘆極楽種種荘厳」という所の十字、これなり。SYOZEN2-401,402/TAI9-173


 ◎又云。然望仏願意者。唯勧正念称名。往生義疾不同雑散之業。如此経及諸部中処処広嘆。勧令称名将為要益也。応知。
 ◎(散善義)また云わく、しかるに仏願の意を望むに、ただ正念を勧め、名を称せしむ。往生の義の疾きことは、雑散の業に同じからず。この経および諸部の中に、処処に広く嘆ずるがごときは、勧めて名を称せしむるを将に要益とせんとするなり。知るべしと。KESINDO:SYOZEN2-160/HON-350,HOU-460

 〇次所引文。又云然望仏願等者。散善義釈。解下上品称仏名故我来迎汝之文釈也。其上文云。所聞化讃。但述称仏之功我来迎汝。不論聞経之事。已上。雑散業者聞経題者。是雑行也。又喰受心令浮散故名雑散業。称名業者是正業也。摂散住心故不同也。如此等者。此有三義。一云指三部経。謂此経者即是観経。及諸部者即指大小二部経也。二云指一代教。如此経者是指三部。諸部中者広指諸経。三云広以一代諸大乗経。今収浄土三部意也。SYOZEN2-402/TAI9-179
 〇次の所引の文、「又云然望仏願」等とは、「散善義」の釈に、下上品の「称仏名故、我来迎汝」の文を解する釈なり。その上の文に云わく「所聞の化讃、ただ称仏の功を述べて、我来りて汝を迎うといいて聞経の事を論ぜず」已上。「雑散業」とは、経題を聞くは、これ雑行なり。また喰受の心、浮散しむるが故に雑散の業と名づく。称名の業は、これ正業なり。散を摂して心を住せしむるが故に同じからざるなり。「如此」等とは、これに三義あり。一に云わく、三部経を指す。謂わく「此経」とは即ちこれ『観経』、「及諸部」とは即ち『大』『小』二部の経を指すなり。二に云わく、一代教を指す。「如此経」とは、これ三部を指し、「諸部中」とは広く諸経を指す。三に云わく、広く一代の諸大乗経を以て、今、浄土の三部に収むる意なり。SYOZEN2-402/TAI9-179


 ◎又云。従仏告阿難汝好持是語已下。正明付属弥陀名号流通於遐代。上来雖説定散両門之益。望仏本願意。在衆生一向専称弥陀仏名。
 ◎(散善義)また云わく、仏告阿難汝好持是語より已下は、正しく弥陀の名号を付嘱して、遐代に流通することを明かす。上よりこのかた定散両門の益を説くといえども、仏の本願の意を望むれば、衆生をして一向に専ら弥陀仏の名を称せしむるにありと。KESINDO:SYOZEN2-160/HON-350,HOU-460,461

 〇次所引者同流通釈。解上所引付属阿難仏語釈也。SYOZEN2-401/TAI9-181
 〇次の所引は同じき流通の釈、上の所引の付属阿難仏語を解する釈なり。SYOZEN2-401/TAI9-181


 ◎又云。極楽無為涅槃界。随縁雑善恐難生。故使如来選要法教念弥陀専復専。
 ◎(法事讃)また云わく、極楽は無為涅槃の界なり。縁に随う雑善、恐らくは生じがたし。故に如来、要法を選びて、教えて弥陀を念ぜしめて、専らにしてまた専らならしめたまえり。KESINDO:SYOZEN2-160/HON-350,HOU-461

 ◎又云。劫欲尽時五濁盛。衆生邪見甚難信。専専指授帰西路。為他破壊還如故。曠劫已来常如此。非是今生始自悟。正由不遇好強縁。致使輪回難得度。
 ◎(法事讃)また云わく、劫尽きんと欲する時、五濁盛んなり。衆生邪見にしてはなはだ信じがたし。専らにして専らなれと指授して西路に帰せしむれども、他のために破壊せられて還りて故〈もと〉のごとし。曠劫よりこのかた常にかくのごとし。これ今生に始めて自ら悟るにあらず。正しく好き強縁に遇わざるに由りて、輪回して得度しがたからしむることを致すと。KESINDO:SYOZEN2-160,161/HON-350,HOU-461

 ◎又云。種種法門皆解脱。無過念仏往西方。上尽一形至十念三念五念仏来迎。直為弥陀弘誓重。致使凡夫念即生。
 ◎(法事讃)また云わく、種種の法門みな解脱すれども、念仏して西方に往くに過ぎたるはなし。上一形を尽くし、十念・三念・五念に至るまで、仏来迎したまう。直ちに弥陀の弘誓重きによって、凡夫をして念ずればすなわち生ぜしむることを致すと。KESINDO:SYOZEN2-161/HON-350,HOU-461

 〇次所引文。三段共是事讃下釈。其中初解経少善不生意讃。次両偈者是明五濁劫末衆生邪見難信。意在勧発堅固信心永絶輪回。後一偈半。或載一句。或載二句。処処引之。諸教念仏対比勝劣簡要文也。SYOZEN2-402/TAI9-184
 〇次の所引の文、三段ともにこれ『事讃』の下の釈なり。その中に初は経の少善不生の意を解する讃なり。次の両偈はこれ五濁劫末の衆生は邪見にして信じ難きことを明かす。意は堅固の信心を勧発して永く輪回を絶つるに在り。後の一偈半は、あるいは一句を載せ、あるいは二句を載せて、処処にこれを引く。諸教と念仏と、勝劣を対比する簡要の文なり。SYOZEN2-402/TAI9-184


 ◎又云。一切如来設方便。亦同今日釈迦尊。随機説法皆蒙益。各得悟解入真門。乃至。仏教多門八万四。正為衆生機不同。欲覓安身常住処。先求要行入真門。
 ◎(般舟讃)また云わく、一切如来、方便を設けたまうこと、また今日の釈迦尊に同じ。機に随いて法を説く、みな益を蒙る。おのおの悟解を得て真門に入れと。乃至。仏教多門にして八万四なり。正しく衆生の機不同なるがためなり。安身常住の処を覓〈もと〉めんと欲わば、先ず要行を求めて真門に入れと。KESINDO:SYOZEN2-161/HON-350,351,HOU-461

 〇次両偈者般舟讃文。初文一切如来等者。是明諸仏道同之義。随機等者是明諸教一分利益。根性利者皆蒙益也。各得等者。明彼諸教終入真門為其益也。言乃至者。門門不同八万四下九行是也。次一偈内初之二句第三巻末。略雖引之。今於当巻全引一偈。仏教等者。是又正明一代説教普応諸機。下根修行。若不成者不可輙得常住之果。故勧可入西方門也。SYOZEN2-403,/TAI9-193
 〇次の両偈は『般舟讃』の文なり。初の文に「一切如来」等とは、これ諸仏道同の義を明かす。「随機」等とは、これ諸教の一分の利益を明かす。根性利なる者はみな益を蒙るなり。「各得」等とは、彼の諸教は終に真門に入るをその益とすることを明かすなり。「乃至」というは「門門不同八万四」の下九行これなり。次の一偈の内に初の二句は第三巻の末に略してこれを引くといえども、今、当巻に於いて全く一偈を引く。「仏教」等とは、これまた正しく一代説教普く諸機に応ずることを明かす。下根の修行、もし成ぜずは、輙く常住の果を得べからず。故に西方の門に入るべしと勧むるなり。SYOZEN2-403,/TAI9-193


 ◎又云。爾比日自見聞諸方道俗。解行不同専修有異。但使専意作者。十即十生。修雑不至心者。千中無一。已上。(智昇法師礼懺儀文云光明寺礼讃也。)
 ◎(往生礼讃)また云わく、それこのごろ自ら諸方の道俗を見聞するに、解行不同にして専修に異あり。ただ意を専らにして作さしむる者は、十はすなわち十ながら生ず。雑を修するは至心ならざる者は、千が中にひとりもなし。已上。(智昇法師「礼懺儀」の文に云わく「光明寺の礼讃なり」。)KESINDO:SYOZEN2-161/HON-351,HOU-461,462

 〇次所引文。又云等者。礼讃序釈。結前専雑二修得失釈也。千中等者。問。前許一二三五往生。今何相違。答。与奪意也。与許少分。奪云無一。又依教意。於化土生且許一二三五往生。而自力道化益猶難。故所見聞現在得益未得其証。故云千中無其一也。SYOZEN2-403/TAI9-195
 〇次の所引文、「又云」等とは『礼讃』の序の釈。前の専雑二修の得失を結する釈なり。「千中」等とは、問う、前には一・二・三・五の往生を許す。今何ぞ相違するや。答う、与奪の意なり。与て少分を許し、奪いて無一という。また教意に依るに、化土の生に於いてしばらく一・二・三・五の往生を許す。しかるに自力の道は化益なお難し。故に見聞する所、現在の得益は未だその証を得ず。故に千が中にその一もなしというなり。SYOZEN2-403/TAI9-195


 ◎元照律師弥陀経義疏云。如来欲明持名功勝。先貶余善為少善根。所謂布施・持戒・立寺・造像・礼誦・坐禅・懺念・苦行・一切福業。若無正信回向願求。皆為少善。非往生因。若依此経執持名号。決定往生。即知。称名是多善根・多福徳也。昔作此解人尚遅疑。近得襄陽石碑経本文理冥符。始懐深信。彼云。善男子善女人。聞説阿弥陀仏。一心不乱専称名号。以称名故諸罪消滅。即是多功徳・多善根・多福徳因縁。已上。
 ◎元照律師の『弥陀経義疏』に云わく、如来、持名の功の勝れたることを明かさんと欲す。先ず余善を貶しめ少善根とす。いわゆる布施・持戒・立寺・造像・礼誦・坐禅・懴念・苦行・一切の福業、 もし正信なければ、回向願求するにみな少善とす。往生の因にあらず。もしこの経に依りて名号を執持せば、決定して往生せん。すなわち知りぬ、称名はこれ多善根・多福徳なりと。むかしこの解を作ししに、人なお遅疑しき。近く襄陽の石碑の経本を得て、文理冥符せり。始めて深信を懐く。彼に云わく、善男子・善女人、阿弥陀仏を説くを聞きて、一心にして乱れず、名号を専称せよ。称名をもってのゆえに、諸罪消滅す。すなわちこれ多功徳・多善根・多福徳の因縁なりと。已上。KESINDO:SYOZEN2-161/HON-351,HOU-462

 〇次元照釈。文意易見。但就碑経。問。選択集中。勘載龍舒浄土文云。自一心不乱而下云。専持名号。以称名故諸罪消滅。即是多善根福徳因縁。今世伝本脱此二十一字。已上。今所用者以持為称。又多功徳三字加増。又福徳上有多一字。字数増減相違云何。答。試出二義。一経説不可思議功徳。論判真実功徳相。故言雖略之。義必可在。故云功徳。既是無上大利功徳。大通多勝。故曰為多善根福徳。皆悉円備。故福徳上加多字歟。二於石碑本有異本歟。持称両字即由此耳。SYOZEN2-403/TAI9-199,200
 〇次に元照の釈。文意見やすし。ただし碑の経に就きて、問う、『選択集』の中に龍舒の浄土文を勘え載せて云わく「一心不乱より、しかも下に云わく、専ら名号を持つ。称名を以ての故に諸罪消滅す。即ちこれ多善根福徳の因縁なり。今の世に伝る本にはこの二十一字を脱す」已上。今用いる所は「持」を以て「称」とす。また「多功徳」の三字加増す。まら「福徳」の上に「多」の一字あり。字数の増減の相違は云何。答う、試みに二義を出だす。一には経に「不可思議功徳」と説き、論に「真実功徳相」と判ず。故に言にはこれを略すといえども、義は必ず在るべし。故に「功徳」という。既にこれ無上大利の功徳なり。大は多勝に通ず。故に曰て「多善根福徳」とす。皆悉く円備せり。故に福徳の上に「多」の字を加うるか。二には石碑の本に於いて異本あるか。「持」「称」の両字は即ちこれに由るらくのみ。SYOZEN2-403/TAI9-199,200


 ◎孤山疏云。執持名号者。執謂執受。持謂住持。信力故執受在心。念力故住持不忘。已上。
 ◎(智円・小経疏)孤山の疏に云わく、執持名号とは、執はいわく執受なり、持はいわく住持なり。信力のゆえに執受、心にあり。念力のゆえに住持して忘れずと。已上。KESINDO:SYOZEN2-162/HON-351,HOU-462

 〇次所用文。弧山疏者智円法師小経疏也。執持等者智度論云。信力故受。念力故持。已上。寂師大経義記下釈受持義云。受者作心領納故。持者得記不忘。已上。故此等之釈其意皆同。SYOZEN2-403,404/TAI9-203
 〇次の所用の文。弧山の疏とは智円法師の『小経の疏』なり。「執持」等とは、『智度論』に云わく「信力の故に受く。念力の故に持つ」已上。寂師『大経義記』の下に受持の義を釈して云わく「受とは心の領納を作すが故に。持とは記を得て忘れず」已上。故にこれらの釈、その意みな同じ。SYOZEN2-403,404/TAI9-203