六要鈔会本 第9巻の4(6の内) 化身土の巻 三経隠顕問答 真門釈 引文 『大無量寿経』『涅槃経』『華厳経』・ 善導『般舟讃』『往生礼讃』『法事讃』『法事讃』 真門結釈 真門の失・悲歎述懐 三願転入 |
◎=親鸞聖人『教行信証』の文。 〇=存覚『六要抄』の文 |
『教行信証六要鈔会本』 巻九之四 |
◎大本言。如来興世難値難見。諸仏経道難得難聞。菩薩勝法諸波羅蜜得聞亦難。遇善知識聞法能行。此亦為難。若聞斯経信楽受持。難中之難無過此難。是故我法如是作。如是説。如是教。応当信順如法修行。已上。 ◎(大経)『大本』に言わく、如来の興世、値い難く見たてまつり難し。諸仏の経道、得難く聞き難し。菩薩の勝法、諸波羅蜜、聞くことを得ることまた難し。善知識に遇い、法を聞き、よく行ずること、これまた難しとす。もしこの経を聞きて信楽受持すること、難の中の難、これに過ぎて難きはなけん。このゆえに我が法、かくのごとく作し、かくのごとく説き、かくのごとく教う。まさに信順して、法のごとく修行すべし。已上。KESINDO:SYOZEN2-162/HON-351,352,HOU-462 〇次大本者。大経下巻流通文也。仏語弥勒其有已下為流通中。有四段内。第一嘆経勧学有五。於其五中。今所引者四五両段。自所引初(但正自上仏語弥勒)至云之難無遏此難。四挙難勧信。故我法下至云信順如法修行。五結勧修行。第四挙難勧信之中。又分為二。自文之初至亦為難。是先約総。若聞已下次約別也。約総之中。依浄影意。難値等者。生当仏時。名之為値。目覩称見。此皆難也。難得等者。手得経巻。名之為得。耳聴曰聞。亦可領誦。目之為得。耳喰称聞。此等皆難。菩薩等者。菩薩勝下。明其行法聞之甚難。遇善知識能行亦難。明修行難。約別之中。難中等者。約対前三。(今所言者除見仏難)明此経中修学最難。余義余法処処宜説。開顕浄土教人往生。独此一経為是最難。已上遠意。就此釈意。私有所解。所謂初中至聞亦難。広約一代。正為之総。於其文中。如来等者。於仏在世約其仏宝。諸仏已下。於其滅後是約法宝。菩薩等者。是約僧宝。遇善等者。是雖属総。帯別意歟。是則此文存浄教意。其中今約起行之辺。若聞已下別中之別。謂約安心得此信心難中難也。結此信行。下説信順如法修行。且依一流口伝宗旨。且就一分短慮領解。聊以記之。他不可与。述愚意耳。第五結勧修行文中。是故等者。浄影師云。言我法者。挙此経法。如是作者。此経宣説弥陀如来修願修行。得身得土名如是作。如是説者。如来為衆宣説名如是説。如是教者。如来上来教人往生名如是教。已上。義寂師云。如是作者。謂神通輪令彼発心故。如是説者。謂記説輪。知心而説故。如是教者。謂教誡輪。教授教誡故。已上。SYOZEN2-404,405/TAI9-204,205 〇次に「大本」とは、『大経』の下巻流通の文なり。「仏語弥勒其有」已下を流通とする中に、四段ある内、第一の嘆経勧学に五あり。その五の中に於いて、今の所引は四・五両段、所引の初より(ただし正しくは上の「仏語弥勒」より)、「之難無遏此難」というに至る四に難を挙げて信を勧む。「故我法」より下、「信順如法修行」というに至るまでは、五に結して修行を勧む。第四に難を挙げて信を勧むる中に、また分かちて二とす。文の初より、「亦為難」に至るまでは、これまず総に約す。「若聞」已下は、次に別に約するなり。総に約する中に、浄影の意に依るに、「難値」等とは、「生れて仏時に当る、これを名づけて値とす。目に覩るを見と称す。これみな難なり」(無量寿経義疏)。「難得」等とは、「手に経巻を得、これを名ずけて得とす。耳に聴くを聞という。また領誦すべし、これを目づけて得とす。耳に喰するを聞と称す。これらみな難し」(無量寿経義疏)。「菩薩」等とは、「菩薩勝の下は、その行法、これを聞くこと甚だ難きことを明かす。善知識に遇、能く行ずること、また難しとは、修行の難きことを明かす」(無量寿経義疏)。別に約する中に、「難中」等とは、「前の三に約対す。(今言う所は見仏の難を除く)。この経の中に修学すること最も難きことを明かす。余義・余法は処処に宜しく説くべし。浄土を開顕し、人を教えて往生せしむ。独りこの一経、これ最難とす」(無量寿経義疏)。已上、遠の意。この釈の意に就きて、私に解する所あり。所謂、初の中に「聞亦難」に至るまでは、広く一代に約す。正しくこれを総とす。その文の中に於いて、「如来」等とは、仏の在世に於いてその仏宝に約す。「諸仏」已下は、その滅後に於いて、これ法宝に約す。「菩薩」等とは、これ僧宝に約す。「遇善」等とは、これ総に属すといえども、別の意を帯するか。これ則ちこの文は浄教の意を存す。その中に今は起行の辺に約す。「若聞」已下は別の中の別なり。謂く、安心に約してこの信心を得ること難中の難なり。この信行を結して、下に「信順如法修行」と説く。かつは一流口伝の宗旨に依りて、かつは一分短慮の領解に就きて、聊か以てこれを記す。他は与〈くみ〉すべからず、愚意を述ぶらくのみ。第五に結して修行を勧むる文の中に、「是故」等とは、浄影師(無量寿経義疏)の云わく「我法というは、この経法を挙ぐ。如是作とは、この経は弥陀如来の修願修行を宣説して、身を得、土を得るを如是作と名づく。如是説とは、如来、衆の為に宣説するを如是説と名づく。如是教とは、如来、上来に人を教えて往生せしむるを如是教と名づく」已上。義寂師の云わく「如是作とは、謂く神通輪、彼をして発心せしむるが故に。如是説とは、謂く記説輪、心を知りて説くが故に。如是教とは、謂く教誡輪、教授・教誡するが故に」已上。SYOZEN2-404,405/TAI9-204,205 ◎涅槃経言。如経中説。一切梵行因善知識。一切梵行因雖無量。説善知識則已摂尽。如我所説。一切悪行邪見。一切悪行因雖無量。若説邪見則已摂尽。或説。阿耨多羅三藐三菩提。信心為因。是菩提因雖復無量。若説信心則已摂尽。 ◎『涅槃経』(迦葉品)に言わく、経の中に説くがごとし、一切梵行の因は善知識なり。一切梵行の因、無量なりといえども、善知識を説けばすなわちすでに摂尽しぬ。我が所説のごとし。一切悪行は邪見なり。一切悪行の因、無量なりといえども、もし邪見を説けばすなわちすでに摂尽しぬ。あるいは説かく、阿耨多羅三藐三菩提は信心を因とす。この菩提の因、また無量なりといえども、もし信心を説けばすなわちすでに摂尽しぬ。KESINDO:SYOZEN2-162/HON-352,HOU-463 〇次涅槃経文。是上大経就説知識信心勝徳。雖為他経。竊会上文。即如上来処処述之。弥陀名号涅槃義故。付其内証。被得合之。今師已証有由者也。此経所引有其三段。如経中者。是初讃説善知識徳。并信心益。SYOZEN2-405/TAI9-213 〇次に『涅槃経』の文。これ上に『大経』に知識信心の勝徳を説くに就きて、他経たりといえども、竊に上の文を会す。即ち上来処処にこれを述ぶるが如し。弥陀の名号は涅槃の義なるが故に、その内証に付て、これを得合せらる。今師の已証、由あるものなり。この経の所引にその三段あり。「如経中」とは、これ初に善知識の徳、并びに信心の益を讃説す。SYOZEN2-405/TAI9-213 ◎又言。善男子。信有二種。一者信。二者求。如是之人雖復有信不能推求。是故名為信不具足。信復有二種。一従聞生。二従思生。是人信心従聞而生。不従思生。是故名為信不具足。復有二種。一信有道。二信得者。是人信心唯信有道。都不信有得道之人。是名為信不具足。復有二種。一者信正。二者信邪。言有因果有仏法僧。是名信正。言無因果三宝性異信諸邪語富闌那等。是名信邪。是人雖信仏法僧宝。不信三宝同一性相。雖信因果。不信得者。是故名為信不具足。是人成就不具足信。乃至。 ◎(涅槃経・迦葉品)また言わく、善男子、信に二種あり。一には信、二には求なり。かくのごときの人は、また信ありといえども、推求することあたわず。この故に名づけて信不具足とす。信にまた二種あり。一には聞より生ず。二には思より生ず。この人の信心は聞よりして生じて、思より生ぜず、この故に名づけて信不具足とす。また二種あり。一には道あることを信ず。二には得者を信ず。この人の信心は、ただ道あることを信じて、すべて得道の人あることを信ぜず。これを名づけて信不具足とす。また二種あり。一には信正、二には信邪なり。因果あり、仏・法・僧ありと言わん、これを信正と名づく。因果なし、三宝の性、異なりと言いて、もろもろの邪語を信ずる富闌那等なり。これを信邪と名づく。この人、仏・法・僧宝を信ずといえども、三宝同一の性相なりと信ぜず。因果を信ずといえども得者を信ぜず。このゆえに名づけて信不具足とす。この人、不具足の信を成就すと。乃至KESINDO:SYOZEN2-162,163/HON-352,HOU-463- ◎善男子。有四善事獲得悪果。何等為四。一者為勝他故読誦経典。二者為利養故受持禁戒。三者為他属故而行布施。四者為非想非非想処故繋念思惟。是四善事得悪果報。若人修習如是四事。是名没・没已還出・出已還没。何故名没。楽三有故。何故名出。以見明故。明者即是聞戒・施・定。何以故還出没。増長邪見生[キョウ02]慢故。是故我於経中説偈。若有衆生楽諸有。為有造作善悪業。是人迷失涅槃道。是名暫出還復没。行於黒闇生死海雖得解脱。雑煩悩。是人還受悪果報。是名暫出還復没。 ◎(涅槃経・迦葉品)善男子、四の善事ありて、悪果を獲得せん。何等をか四とする。一には勝他のための故に経典を読誦す。二には利養のための故に禁戒を受持す。三には他属のための故にして布施を行ぜん。四には非想非非想処のための故に繋念思惟す。この四の善事は悪果報を得ん。もし人かくのごときの四事を修習せん、これを、没し、没し已りて還りて出で、出で已りて還りて没すと名づく。何がゆえぞ没と名づくるや。三有を楽うが故に。何がゆえぞ出と名づくるや。明を見るをもってのゆえに。明とはすなわちこれ戒・施・定を聞くなり。何をもってのゆえに還りて出没するや。邪見を増長し、[キョウ02]慢を生ずるが故に。この故に我、経の中において偈を説かく、もし衆生ありて諸有を楽んで、有のために善悪の業を造作する、この人は涅槃道を迷失するなり。これを暫出還復没と名づく。黒闇生死海を行じて解脱を得といえども、煩悩を雑するは、この人還りて悪果報を受く、これを暫出還復没と名づくと。KESINDO:SYOZEN2-163/-HON-352,353,HOU-463,464- ◎如来則有二種涅槃。一者有為。二者無為。有為涅槃無常。常楽我浄無為涅槃。有常人深信是二種戒倶有因果。是故名為戒。戒不具足。是人不具信戒二事。所楽多聞亦不具足。云何名為聞不具足。如来所説十二部経。唯信六部未信六部。是故名為聞不具足。雖復受持是六部経。不能読誦為他解説。無所利益。是故名為聞不具足。又復受是六部経已。為論議故。為勝他故。為利養故。為諸有故。持読誦説。是故名為聞不具足。略抄。 ◎(涅槃経・迦葉品)如来にすなわち二種の涅槃あり。一には有為、二には無為なり。有為涅槃は無常なり。常楽我浄は無為涅槃なり。常人ありて、深くこの二種の戒ともに善果ありと信ず。この故に名づけて戒とす。戒不具足とは、この人は信戒二事を具せず。所楽多聞を、また具足せず。いかんが名づけて聞不具足とする。如来の所説は十二部経なり。ただ六部を信じて未だ六部を信ぜず。この故に名づけて聞不具足とす。またこの六部の経を受持すといえども、読誦して他のために解説することあたわずして、利益するところなし。この故に名づけて聞不具足とす。またこの六部の経を受け已りて、論議のための故に、勝他のための故に、利養のための故に、諸有のための故に、持読誦説せん。この故に名づけて聞不具足とすと。略抄。KESINDO:SYOZEN2-163/-HON-353,HOU-464 〇又言之下。次説信不具足之相。令知信相。又又言下。後説譬喩又嘆知識。初段可見。SYOZEN2-405/TAI9-218 〇「又言」の下は、次に信不具足の相を説きて、信の相を知らしむ。また「又言」の下は、後に譬喩を説きて、また知識を嘆ず、初の段は見つべし。SYOZEN2-405/TAI9-218 〇第二段中。言是名没没已等者。彼経第三十二巻云。如恒河辺有七種人。恐畏冦賊則入河中。第一人者入水即沈。第二人者雖没還出。出已復没。第三人者没已即出。出更不没。第四人者入已便没。没已還出。出已即住遍観四方。第五人者入已即沈。沈已還出。出已即住。住已観方。観已即去。第六人者入已即去。浅処即住観賊近遠。第七人者既至彼岸登上大山。無復恐怖。離諸怨賊。受大快楽。已上。此是譬喩。合譬意者。第一闡提。第二造悪。第三内凡。第四四果。第五支仏。第六菩薩。第七仏也。此中今出第二人也。云何名為聞不等者。問。此所引文全載以在第三巻末。何重引耶。答。彼所引者其文非多。今一具文所引是多。広略為異。又第三巻以聞具足欲顕信心。当巻之中。以不具足欲顕不信。両処所引非無異耳。SYOZEN2-405/TAI9-218,219 〇第二段の中に「是名没没已」等とは、彼の経(涅槃経・師子吼品)の第三十二巻に云わく「恒河の辺に七種人ありて、冦賊を恐畏して則ち河の中に入り、第一の人は水に入りて即ち沈み、第二の人は没ずといえども還りて出でて、出で已りてまた没す。第三の人は没し已りて即ち出で、出でて更に没せず。第四の人は入り已りて便ち没す。没し已りて還りて出ず。出で已りて即ち住して遍く四方を観る。第五の人は入り已りて即ち沈む。沈み已りて還りて出ず。出で已りて即ち住す。住し已りて方を観る。観已りて即ち去る。第六の人は入り已りて即ち去る。浅処に即ち住して賊の近遠を観る。第七の人は既に彼岸に至りて大山に登り上りて、また恐怖〈おそれ〉なし。もろもろの怨賊を離れて大快楽を受くるが如し」已上。これはこれ譬喩なり。譬の意を合せば、第一は闡提、第二は造悪、第三は内凡、第四は四果、第五は支仏、第六は菩薩、第七は仏なり。この中に今は第二の人を出だすなり。「云何名為聞不」等とは、問う、この所引の文は全く載せて以て第三巻の末に在り。何ぞ重ねて引くや。答う、彼の所引はその文多きにあらず。今は一具の文にして所引これ多し。広・略を異とす。また第三巻には聞具足を以て信心を顕わさんと欲す。当巻の中には、不具足を以て不信を顕わさんと欲す。両処の所引、異なきにあらざらくのみ。SYOZEN2-405/TAI9-218,219 ◎又言。善男子。第一真実善知識者。所謂菩薩諸仏。世尊。何以故。常以三種善調御故。何等為三。一者畢竟軟語。二者畢竟呵責。三者軟語呵責。以是義故。菩薩諸仏即是真実善知識也。復次善男子。仏及菩薩為大医故名善知識。何以故。知病知薬。応病授薬故。得如良医善八種術。先観病相。相有三種。何等為三。謂風・熱・水。風病之人授之蘇油。熱病之人授之石蜜。水病之人授之薑湯。以知病根授薬得差。故名良医。仏及菩薩亦復如是。知諸凡夫病有三種。一者貪欲。二者瞋恚。三者愚癡。貪欲病者教観骨相。瞋恚病者観慈悲相。愚癡病者観十二縁相。以是義故。諸仏菩薩名善知識。善男子。譬如船師善度人故名大船師。諸仏菩薩亦復如是。度諸衆生生死大海。以是義故名善知識。抄出。 ◎(涅槃経・徳王品)また言わく、善男子、第一の真実善知識とは、いわゆる菩薩、諸仏なり。世尊、何をもっての故に。常に三種を以て善調御するが故なり。何等か三とするや。一には畢竟軟語、二には畢竟呵責、三には軟語呵責。この義をもっての故に、菩薩・諸仏はすなわちこれ真実の善知識なり。また次に善男子、仏および菩薩は大医と為るが故に、善知識と名づく。何をもっての故に。病を知りて薬を知りて、病に応じて薬を授くるが故に。たとえば良医のごとし。八種の術を善くせり。まず病相を観ずるに、相に三種あり。何等か三とするや。いわく風・熱・水なり。風病の人にはこれに蘇油を授く。熱病の人にはこれに石蜜を授く。水病の人にはこれに薑湯を授く。病根を知るをもって、薬を授くるに差〈い〉ゆることを得。故に良医と名づく。仏および菩薩またかくのごとし。もろもろの凡夫の病、三種ありと知ろしめす。一には貪欲、二には瞋恚、三には愚痴。貪欲の病には教ゆるに骨相を観ぜしむ。瞋恚の病には慈悲相を観ぜしむ。愚痴の病には十二縁相を観ぜしむ。この義をもっての故に、諸仏・菩薩を善知識と名づく。善男子、たとえば船師の善く人を度すが故に大船師と名づくるがごとし。諸仏・菩薩もまたかくのごとし。もろもろの衆生をして生死の大海を度す。この義をもっての故に善知識と名づくと。抄出。KESINDO:SYOZEN2-164/HON-353,354,HOU-464,465 〇第三段中。第一真実善知等者。問。已以諸仏並諸菩薩為善知識。雖伝浄教凡夫知識難関其分。更不可有仰信義歟。答。尅体言之其本可在仏与菩薩。但慥相承如来教意令伝来者。又即可為善知識也。諸教相承皆以如此。彼等不必仏菩薩等。何限浄教。就中観経中下已下四品知識。皆是凡夫。末代劣機。遇其知識可得往生。是仏意也。SYOZEN2-405,406/TAI9-230,231 〇第三段の中に、「第一真実善知」等とは、問う、已に諸仏並びに諸菩薩を以て善知識とす。浄教を伝うといえども、凡夫の知識はその分に関わること難し。更に仰信の義あるべからざるは。答う、体に尅してこれを言わば、その本は仏と菩薩とに在るべし。ただし慥〈たし〉かに如来の教意を相承して伝来せしむ者は、また即ち善知識とすべきなり。諸教の相承はみな以てかくの如し。彼等は必ずしも仏菩薩等ならず。何ぞ浄教に限らん。中に就きて『観経』中下已下の四品の知識は、皆これ凡夫、末代の劣機は、その知識に遇いて往生を得べし。これ仏意なり。SYOZEN2-405,406/TAI9-230,231 ◎華厳経言。汝念善知識。生我如父母。養我如乳母。増長菩提分。如医療衆疾。如天灑甘露。如日示正道。如月転浄輪。 ◎(四十華厳・普賢行願品)『華厳経』に言わく、汝、善知識を念ぜよ。我を生ずる、父母のごとし。我を養う、乳母のごとし。菩提分を増長す、衆疾を医療するがごとし。天の、甘露を灑ぐがごとし。日の、正道を示すがごとし。月の、浄輪を転ずるがごとし。KESINDO:SYOZEN2-164/HON-354,HOU-465 ◎又言。如来大慈悲。出現於世間。普為諸衆生。転無上法輪。如来無数劫。勤苦為衆生。云何諸世間。能報大師恩。已上。 ◎(八十華厳・入法界品)また言わく、如来大慈悲、世間に出現して、普くもろもろの衆生のために、無上法輪を転じたまう。如来、無数劫に勤苦せしことは衆生のためなり。いかんがもろもろの世間、よく大師の恩を報ぜんと。已上。KESINDO:SYOZEN2-164/HON-354,HOU-465 〇次華厳経文。又有二段。初文総説善知識義。次又別説如来大恩。言大師者。即是釈迦牟尼仏也。SYOZEN2-406/TAI9-236 〇次に『華厳経』の文。また二段あり。初の文は総じて善知識の義を説く。次はまた別して如来の大恩を説く。「大師」というは、即ちこれ釈迦牟尼仏なり。SYOZEN2-406/TAI9-236 ◎光明寺和尚云。唯恨衆生疑不疑。浄土対面不相忤。莫論弥陀摂不摂。意在専心回不回。或[ドウ01]従今至仏果。長劫讃仏報慈恩。不蒙弥陀弘誓力。何時何劫出娑婆。何期今日至宝国。実是娑婆本師力。若非本師知識勧。弥陀浄土云何入。得生浄土報慈恩。 ◎(般舟讃)光明寺の和尚の云わく、ただ恨むらくは、衆生の疑うまじきを疑うことを。浄土対面して相忤〈そむ〉かず。弥陀の摂と不摂とを論ずることなかれ。意専心にして回すると回せざるにあり。あるいはいわく、今より仏果に至るまで、長劫に仏を讃めて慈恩を報ぜん。弥陀の弘誓の力を蒙らずは、いずれの時いずれの劫にか娑婆を出でん。いかんしてか今日宝国に至ることを期せん。実にこれ娑婆本師の力なり。もし本師知識の勧めにあらずんば、弥陀の浄土いかんぞ入らん。浄土に生まるることを得て慈恩を報ぜよと。KESINDO:SYOZEN2-164,165/HON-355,HOU-465,466 〇次大師釈。此有四段。初之三偈及一句者。般舟讃文。初偈之中。莫論等者。誡疑碍心勧不疑心。不疑心者即信心也。浄土等者。日中礼云。行者傾心常対目者乃此意也。忤者。玉篇云。五故切。逆也。広韻云。宜故切。逆也。莫論等者。明仏引摂与不引摂由其回心与不回心。次一偈者。此非其次。其中間隔七十九行。讃仏等者。讃弥陀恩。次下句云不蒙等。弥陀故也。次一偈者中隔一句。言本師者是讃釈迦。前後相并嘆二尊也。次一句即同次也。生浄土者本師力也。得生乃又報仏恩也。SYOZEN2-406/TAI9-239,240 〇次に大師の釈。これに四段あり。初の三偈及び一句は『般舟讃』の文なり。初偈の中に「莫論」等とは、疑碍の心を誡めて不疑心を勧む。不疑の心とは即ち信心なり。「浄土」等とは、「日中礼」(往生礼讃)に云わく「行者、心を傾けて常に目に対せよ」とは乃ちこの意なり。「忤」とは、『玉篇』に云わく「五故の切。逆なり」。『広韻』に云わく「宜故の切。逆なり」。「莫論」等とは、仏の引摂と不引摂とは、その回心と不回心とに由ることを明かす。次の一偈は、これ、その次にあらず。その中間に七十九行を隔つ。「讃仏」等とは、弥陀の恩を讃ず。次下の句に「不蒙」等というは、弥陀なるが故なり。次の一偈は中に一句を隔つ。「本師」というは、これ釈迦を讃ず。前後相并せて二尊を嘆ずるなり。次の一句は即ち次に同じきなり。浄土に生ずるは本師の力なり。生ずることを得れば乃ちまた仏恩を報ずるなり。SYOZEN2-406/TAI9-239,240 ◎又云。仏世甚難値。人有信慧難。遇聞希有法。此復最為難。自信教人信。難中転更難。大悲弘普化(弘=智昇法師懺悔文也)。真成報仏恩。 ◎(往生礼讃)また云わく、仏世はなはだ値いがたし。人、信慧あること難し。たまたま希有の法を聞くこと、これまた最も難しとす。自ら信じ人を教えて信ぜしむること、難が中にうたたまた難し。大悲弘く普く化するは、(弘=智昇法師の懺悔の文なり)真に仏恩を報ずるに成ると。KESINDO:SYOZEN2-165/HON-355,HOU-466 〇第二段文。仏世之下。此八句者初夜礼也。仏世等者。経説如来興世等意。人有等者。経説聞法能行等意。自信等者。経説若聞斯経等意。大悲等者。総結上来聞法能行信楽受持之勝益也。伝字与弘各依一本。共不乖歟。伝即伝通。弘弘通也。SYOZEN2-406/TAI9-245 〇第二段の文、「仏世」の下、この八句は初夜の礼なり。「仏世」等とは、経に「如来興世」(大経)等と説く意なり。「人有」等とは、経に「聞法能行」(大経)等と説く意なり。「自信」等とは、経に「若聞斯経」(大経)等と説く意なり。「大悲」等とは、総じて上来の聞法能行・信楽受持の勝益を結するなり。「伝」の字、「弘」とおのおの一本に依る。共に乖かざるか。伝は即ち伝通、弘は弘通なり。SYOZEN2-406/TAI9-245 ◎又云。帰去来。他郷不可停。従仏帰本家。還本国一切行願自然成。悲喜交流。深自度。不因釈迦仏開悟。弥陀名願何時聞。荷仏慈恩実難報。 ◎(法事讃)また云わく、帰去来〈いざいなん〉、他郷には停まるべからず。仏に従いて、本家に帰せよ。本国に還りぬれば、一切の行願自然に成ず。悲喜交わり流る。深く自ら度るに、釈迦仏の開悟に因らずは、弥陀の名願いずれの時にか聞かん。仏の慈恩を荷いても、実に報じ難しと。KESINDO:SYOZEN2-165/HON-355,HOU-466 〇第三段文。帰去等者。第三巻末所引用之疏定善義水観之讃。蓋一轍也。彼云魔郷。此云他郷。一字雖殊大意是同。帰家等者。日中礼云努力翻迷還本家也。今此鈔本云帰本家。流布本無本之一字。是異本歟。云本家者。宛如礼讃云本国也。縦無本字本家義也。一切等者。十地願行自然成也。悲喜等者。唱讃偈也。是又頂載二世尊恩述難報志。今此一偈。雖為別段不云又云。仍属前段。SYOZEN2-406,407/TAI9-248 〇第三段の文、「帰去」等とは、第三巻の末に引用する所の疏の「定善義」水観の讃、蓋し一轍なり。彼に「魔郷」といい、ここには「他郷」という。一字殊なるといえども、大意はこれ同じ。「帰家」等とは、「日中の礼」に「努力翻迷還本家(つとめて迷いを翻して本家に還れ)」(往生礼讃)というなり。今この鈔本に「帰本家」という。流布本には本の一字なし。これ異本か。「本家」というは、宛も『礼讃』に「本国」というが如きなり。たとい「本」の字なくとも本家の義なり。「一切」等とは、十地の願行自然に成ずるなり。「悲喜」等とは、唱讃の偈なり。これまた二世尊の恩を頂載して報じ難き志を述ぶ。今この一偈は別段たりといえども、「又云」といわず。よって前段に属す。SYOZEN2-406,407/TAI9-248 ◎又云。十方六道同此輪回無際。循循沈愛波而沈苦海。仏道人身難得今已得。浄土難聞今已聞。信心難発今已発。已上。 ◎(法事讃)また云わく、十方六道、同じくこれ輪回して際なし、循循として愛波に沈む。しかして苦海に沈す。仏道の人身得難くして今すでに得たり。浄土聞き難くして今すでに聞けり。信心発し難くして今すでに発せり。已上。KESINDO:SYOZEN2-165/HON-355,HOU-466 〇第四段。初十方等者。同後序文。先述生死輪回無際。然後述於難得人身難聞浄土難発信心。忽得。忽聞。忽発而已。SYOZEN2-407/TAI9-251 〇第四段。初に「十方」等とは、同じき後序の文なり。まず生死の輪回無際なることを述べ、然して後に難得の人身、難聞の浄土、難発の信心に於いて、忽に得、忽に聞き、忽に発すことを述ぶらくのみ。SYOZEN2-407/TAI9-251 ◎真知。専修而雑心者。不獲大慶喜心。故宗師云無念報彼仏恩。雖作業行心生軽慢。常与名利相応故。人我自覆不親近同行善知識故。楽近雑縁自障障他往生正行故。悲哉垢障凡愚。自従無際已来。助正間雑。定散心雑故。出離無其期。自度流転輪回。超過微塵劫。[ハ01]帰仏願力。[ハ01]入大信海。良可傷嗟。深可悲嘆。凡大小聖人・一切善人。以本願嘉号為己善根故。不能生信。不了仏智。不能了知建立彼因故。無入報土也。 ◎(御自釈)真に知りぬ。専修にして雑心なるものは大慶喜心を獲ず。故に宗師(善導・往生礼讃)は、かの仏恩を念報することなし、業行を作すといえども心に軽慢を生じて、常に名利と相応するが故に、人我おのずから覆いて同行善知識に親近せざるが故に、楽〈この〉んで雑縁に近づきて、往生の正行を自障障他するが故にと云えり。悲しきかな、垢障の凡愚、無際よりこのかた、助正間雑し、定散心雑〈まじ〉わるが故に、出離その期なし。自ら流転輪回を度るに、微塵劫を超過すれども、仏願力に帰しがたく、大信海に入りがたし。良に傷嗟すべし〈傷=いたみ。嗟=なげく〉。深く悲歎すべし。おおよそ大小聖人、一切善人、本願の嘉号をもって己が善根とするが故に、信を生ずることあたわず、仏智を了らず。かの因を建立せるを了知することあたわざるが故に、報土に入ることなきなり。KESINDO:J:SYOZEN2-165,166/-HON-356,HOU-467- ◎是以愚禿釈鸞仰論主解義。依宗師勧化。久出万行諸善之仮門。永離双樹林下之往生。回入善本徳本真門。偏発難思往生之心。然今特出方便真門。転入選択願海。速離難思往生心。欲遂難思議往生。果遂之誓良有由哉。爰久入願海深知仏恩。為報謝至徳[セキ01]真宗簡要。恒常称念不可思議徳海。弥喜愛斯。特頂戴斯也。 ◎(御自釈)ここをもって、愚禿釈の鸞、論主の解義を仰ぎ、宗師の勧化に依って、久しく万行諸善の仮門を出でて、永く双樹林下の往生を離る。善本・徳本の真門に回入して、ひとえに難思往生の心を発しき。しかるにいま特に方便の真門を出でて、選択の願海に転入せり。速やかに難思往生の心を離れて、難思議往生を遂げんと欲う。果遂の誓い、良に由あるかな。ここに久しく願海に入りて、深く仏恩を知れり。至徳を報謝せんがため、真宗の簡要を[セキ01]〈ひろ〉うて、恒常に不可思議の徳海を称念す。いよいよこれを喜愛し、特にこれを頂戴するなり。KESINDO:J:SYOZEN2-166/-HON-356,357,HOU-467,468- 〇真知以下私御釈也。無念等者。礼讃前序判雑修失之解釈也。十三失内。初之九失於当巻始既挙之訖。今所引者彼失余残第十以下四失是也。悲哉等者。集主被述悲情意也。大小等者本願嘉号。蓋是如来不可思議他力功徳。而准諸善為已善根故不生信。是故不入真報土也。釈意如斯。久出等者。万行諸善是聖道意。双樹林下是約観経。十九願意。善本徳本是約小経。二十願意。及是難思往生心也。選択願海是大経意。即難思議往生是也。果遂等者。如此展転従仮入真。出方便門入真実門。即果遂願之所成也。是偏今師不共別意。人不知之。可仰信也。SYOZEN2-407/TAI9-254 〇「真知」以下は私の御釈なり。「無念」等とは、『礼讃』の前序に雑修の失を判ずる解釈なり。十三の失の内に、初の九の失は当巻の始めに於いて既にこれを挙げ訖りぬ。今の所引は彼の失の余残、第十以下の四の失これなり。「悲哉」等とは、集主の、悲情を述べらるる意なり。「大小」等とは、本願の嘉号は蓋しこれ如来不可思議他力の功徳なり。しかるに諸善に准じて已が善根とす。故に信を生ぜず。この故に真報土に入らざるなり。釈の意はかくの如し。「久出」等とは、万行諸善はこれ聖道の意なり。「双樹林下」はこれ『観経』に約す。十九の願の意なり。「善本徳本」はこれ『小経』に約す。二十の願の意、及ちこれ難思往生の心なり。「選択願海」はこれ『大経』の意、即ち難思議往生これなり。「果遂」等とは、かくの如く展転して、仮より真に入る。方便の門を出でて真実の門に入る。即ち果遂の願の成ずる所なり。これ偏に今師不共の別意、人これを知らず、仰いで信ずべきなり。SYOZEN2-407/TAI9-254 |