六要鈔会本 第9巻の(6の内)
 化身土の巻
 聖浄二道判
 正像末法
   引文 最澄『末法灯明記』
◎=親鸞聖人『教行信証』の文。
〇=存覚『六要抄』の文
『教行信証六要鈔会本』 巻九之六

 ◎披閲末法灯明記(最澄制作)曰。
 ◎『末法灯明記』(最澄制作)を披閲するに曰わく。KESINDO:SYOZEN2-168/HON-360,HOU-471,472-

 〇披閲等者。自此已下至当巻終(但六本也)。悉是末法灯明記文。作者最澄。謚号伝教。山家大師。本書位署即云伝教大師作集。是則後人所安之。此書是演仏法王法治化之理。乃明真諦俗諦相依之義。又正像末三時異故。機有利鈍。故於一法皆有讃毀。互有取捨。如此事等具以明之。一一文言不能具解。引用意者此記之意。能修之機所学之教。機教相順可獲益故。具明末世五濁衆生無戒放逸修行難立。故引相勧浄教修行。偏欲令知一称仏名一生信者。所作功徳。終不虚也。SYOZEN2-410,411/TAI9-326
 〇「披閲」等とは、これより已下、当巻の終(ただし六の本なり)に至るまでは、悉くこれ『末法灯明記』の文なり。作者は最澄、謚号は伝教、山家の大師なり。本書の位署に即ち「伝教大師作集」という。これ則ち後人のこれを安ずる所なり。この書はこれ仏法王法治化の理を演べ、乃ち真諦俗諦相依の義を明かす。また正像末の三時異なるが故に、機に利鈍あり。故に一法に於いて、みな讃毀あり。互に取捨あり。かくの如きの事等、具に以てこれを明かす。一一の文言は具に解すること能わず。引用の意は、この記の意なり。能修の機、所学の教、機教あい順じて益を獲べきが故に、具に末世五濁の衆生は無戒放逸にして修行立し難きことを明かす。故に引きて浄教の修行をあい勧めて、偏に一たび仏名を称し、一たび信を生ずるは、所作の功徳は終に虚しからずと知らしめんと欲するなり。SYOZEN2-410,411/TAI9-326


 ◎夫範衛一如以流化者法王。光宅四海以乗風者仁王。然則仁王・法王互顕而開物。真諦・俗諦遞因而弘教。所以玄籍盈宇内。嘉猶溢天下。爰愚僧等率容天網。俯仰厳科。未遑寧処。然法有三時。人亦三品。化制之旨依時興讃。毀讃之文遂人取捨。夫三古之運減衰不同。後五之機慧悟又異。豈拠一途済。就一理整乎。故詳正像末之旨際。試彰破持僧之事。於中有三。初決正像末。次定破持僧事。後挙教比例。
 ◎(末法灯明記)それ一如に範衛してもって化を流す者は法王、四海に光宅してもって風に乗ずる者は仁王なり。しかればすなわち仁王・法王、たがいに顕れて物を開し、真諦・俗諦、たがいに因りて教を弘む。このゆえに玄籍宇の内に盈ち、嘉猶天下に溢てり。ここに愚僧等、率して天網に容り、俯して厳科を仰ぐ、未だ寧処するに遑あらず。しかるに法に三時あり。人また三品なり。化制の旨、時に依りて興讃す。毀讃の文、人に遂〈したが〉って取捨す。それ三古〈三石〉の運、減衰同じからず、後五の機、慧悟また異なり。あに一途に拠りて済わんや、一理につきて整〈ただ〉さん〈ととのえん〉や。故に正像末の旨際を詳らかにして、試みに破持僧の事を彰さん。中において三あり。初には正像末を決す。次に持破僧の事を定む。後に教を挙げて比例す。KESINDO:SYOZEN2-168,169/HON-360,HOU-471,472-

 〇於中等者三段総標。SYOZEN2-411/TAI9-333
 〇「於中」等とは、三段の総標なり。SYOZEN2-411/TAI9-333


 ◎初決正像末。出諸説不同。且述一説。大乗基引賢劫経言。仏涅槃後。正法五百年。像法一千年。此千五百年。釈迦法滅尽。不言末法。准余所説。尼不順八敬而懈怠故。法不更増。故不依彼。又涅槃経。於末法中有十二万大菩薩衆。持法不滅。此拠上位故亦不同。
 ◎(末法灯明記)初に正像末を決するに、諸説を出だすこと同じからず。しばらく一説を述せん。大乗基(弥勒上生経疏)、『賢劫経』を引きて言わく、仏涅槃の後、正法五百年、像法一千年ならん、この千五百年〈の後〉、釈迦の法滅尽せんと。末法を言わず。余の所説に准うるに、尼、八敬に順わずして懈怠なるが故に、法更に増せず。故に彼によらず。また『涅槃経』に、末法の中において、十二万の大菩薩衆ましまして、法を持ちて滅せずと。これは上位に拠るが故にまた同じからず。KESINDO:SYOZEN2-168,169/-HON-360,361,HOU-472-

 〇初決已下其別釈也。大乗基者。法相祖師慈恩大師窺基是也。賢劫経者。旧云賢劫三昧経也。有十三巻。或為十巻。法護訳之。於正像法時節延促。雖有多説。常存二説。一正法像法各一千年。二正法五百。像法千年。故正法時是異説也。而基師意今依正法五百之説。引賢劫経成此義也。此千五百年者。本書於年字下有後一字。有異本歟。有彼字本最叶理歟。准余等者。賢劫経外指余経説。是依諸説雖可満足正法千年。依許女人出家得度減其半分。爰千年義云尼以修八敬不減。而今言尼不順等者。若修八敬雖不可減。云不修故不更増也。不依彼者。言是不依八敬而已。言八敬者。律名句云。一百歳尼礼初夏比丘足。二不得罵謗比丘。三不得挙比丘罪説其過失。四従僧受戒。五従僧出罪。六半月求教授。七依僧安居。八依僧自恣。已上。又引涅槃証末法中持法不滅。菩薩所堪不関凡愚。是故今云拠上位等。亦不同者。同字是又異本為用。同字用字各有一途。若依同字是云菩薩凡夫不同。若依用字。不被凡夫。言凡愚輩更不慣彼上位菩薩持法意也。SYOZEN2-411/TAI9-342
 〇「初決」已下はその別釈なり。「大乗基」とは、法相の祖師、慈恩大師窺基これなり。『賢劫経』とは、旧に『賢劫三昧経』というなり。十三巻あり、或いは十巻とす。法護これを訳す。正像の法の時節の延促に於いて、多説ありといえども、常に二説を存す。一には正法・像法おのおの一千年。二には、正法は五百、像法は千年なり。故に正法の時はこれ異説なり。しかるに基師の意は今、正法五百の説に依りて、『賢劫経』を引きてこの義を成ずるなり。「此千五百年」とは、本書は「年」の字の下に於いて「後」の一字あり。異本あるか。彼〈後〉の字ある本、最も理に叶うか。「准余」等とは、『賢劫経』の外に余経の説を指す。これ諸説に依らば、正法千年を満足すべしといえども、女人の出家得度を許すに依りてその半分を減ず。ここに千年の義には、尼は八敬を修するを以て減ぜずという。しかるに今「尼不順」等というは、もし八敬を修せば減ずべからずといえども、修せざるが故に「更に増せず」というなり。「不依彼」とは、言わば、これ八敬に依らざらくのみ。「八敬」というは、『律の名句』に云わく「一には百歳の尼は初夏の比丘の足を礼す。二には比丘を罵謗することを得ず。三には比丘の罪を挙げその過失を説くことを得ず。四には僧に従いて受戒す。五には僧に従いて出罪す。六には半月、教授を求む。七には僧に依りて安居す。八には僧に依りて自恣す」已上。また『涅槃』を引きて末法の中に法を持ちて滅せざることは、菩薩の堪ゆる所、凡愚に関らざることを証す。この故に今「上位に拠る」等という。「亦不同」とは、「同」の字これまた異本に「用」とす。「同」の字と「用」の字と、おのおの一途あり。もし「同」の字に依らば、これ菩薩と凡夫と同じからずという。もし「用」の字に依らば、凡夫に被らしめず。言うこころは、凡愚の輩は更に彼の上位の菩薩の法を持つことを慣〈なら〉わざる意なり。SYOZEN2-411/TAI9-342


 ◎問。若爾者。千五百年之内行事云何。答。依大術経。仏涅槃後初五百年。大迦葉等七賢聖僧。次第持正法不滅。五百年後。正法滅尽。至六百年後。九十五種外道競起。馬鳴出世伏諸外道。七百年中。龍樹出世摧邪見幢。於八百年。比丘縦逸。僅一二有得道果。至九百年。奴為比丘婢為尼。一千年中。開不浄観。瞋恚不欲。千一百年。僧尼嫁娶。毀謗僧毘尼。千二百年。諸僧尼等倶有子息。千三百年。袈裟変白。千四百年。四部弟子皆如猟師。売三宝物。爰曰。千五百年。拘[セン01]弥国有二僧。互起是非遂殺害。仍教法蔵於龍宮也。涅槃十八及仁王等復有此文。準此等経文。千五百年後無有戒定慧也。故大集経五十一言。我滅度後初五百年。諸比丘等於我正法解脱堅固(初得聖果名為解脱)。次五百年。禅定堅固。次五百年。多聞堅固。次五百年。造寺堅固。後五百年。闘諍堅固。白法隠没云云。此意。初三分五百年。如次戒定慧三法堅固得住。即上所引正法五百年。像法一千二時是也。造寺已後並是末法。故基般若会釈云。正法五百年・像法一千年。此千五百年後之。正法滅尽。故知。已後是属末法。
 ◎(末法灯明記)問う。もししからば、千五百年の内の行事いかんぞや。答う。『大術経』(摩訶摩耶経)に依るに、仏涅槃の後の初めの五百年には、大迦葉等の七賢聖僧、次第に正法を持ちて滅せず。五百年の後、正法滅尽せんと。六百年に至りて後、九十五種の外道競い起こらん。馬鳴、世に出でて、もろもろの外道を伏せん。七百年の中に、龍樹、世に出でて邪見の幢を摧かん。八百年において、比丘縦逸にして、わずかに一・二、道果を得るものあらん。九百年に至りて、奴を比丘とし、婢を尼とせん。一千年の中に、不浄観を聞かん、瞋恚して欲せじ。千一百年に僧尼嫁娶せん、僧毘尼を毀謗せん。千二百年に、もろもろの僧尼等、ともに子息あらん。千三百年に袈裟変じて白からん。千四百年に四部の弟子、みな猟師のごとし、三宝の物を売らん。ここに曰わく、千五百年に拘[セン01]弥国に二の僧ありて、たがいに是非を起こして遂に殺害せん、仍って教法龍宮に蔵まるなり。『涅槃』の十八、および『仁王』等にまたこの文あり。これらの経文に準ずるに、千五百年の後、戒・定・慧あることなきなり。故に『大集経』の五十一に言わく、我が滅度の後、初の五百年には、もろもろの比丘等、我が正法において解脱堅固ならん。(初に聖果を得るを名づけて解脱とす)。次の五百年には禅定堅固ならん。次の五百年には多聞堅固ならん。次の五百年には造寺堅固ならん。後の五百年には闘諍堅固ならん。白法隠没せんと云云。この意は初の三分の五百年は、次のごとく戒定慧の三法堅固に住することを得ん。すなわち上に引くところの正法五百年、像法一千の二時これなり。造寺已後は並びにこれ末法なり。故に基の『般若会の釈』に云わく、正法五百年、像法一千年、この千五百年の後、正法滅尽せんと。故に知りぬ、已後はこれ末法に属す。KESINDO:SYOZEN2-169,170/-HON-361,362,HOU-472,473-

 〇次千五百年問答答中。大迦葉等七賢等者。問。案附法蔵。馬鳴以前有其十人。謂大迦葉阿難尊者商那和修優婆毬多並提多迦。与弥遮迦仏陀難提仏陀密多。与脇比丘及富那奢比丘是也。云何言為七賢聖乎。答。其数誠爾。今試推之。是応非云七人賢聖。蓋顕其位云登七賢七聖人歟。至六百年九十等者。馬鳴菩薩附法蔵中第十一代之祖師也。即富那奢比丘弟子。今依摩訶摩耶経意。彼経説云。如来滅後六百歳已。九十六種(六種五種是異説也)。諸外道等邪見競起毀滅仏法。有一比丘。名曰馬鳴。善説法要降伏一切諸外道輩。已上。七百年中龍樹等者。龍樹又是附法蔵中比羅比丘弟子。第十三代祖師。亦同経云。如来滅後七百歳已有一比丘。名曰龍樹。善説法要。滅邪見幢。燃正法炬。已上。一千年中開不等者。智者雖説不浄観意。多欲之人著愛境故。不能信受。還起瞋也。但開与聞有其異本。開拠能化教此観意。開演義也。聞約所化聴聞意也。爰曰千五百年等者。本書之中無爰曰字。有異本歟。拘[セン07]弥者。第二之字。或[セン01]。或[セン07]。本有異歟。[セン01]玉篇云。式冉切。暫視貌。広韻云。失染切。暫見。已上。於[セン07]字者。未勘見之。又此国名俗用陜音。旁以[セン06]字可為正乎。次大集経第五十一。安楽集判末法時中聖道難証。依此経文於末法時。無戒定慧三学故也。基般若会釈云等者。問。上出此文重累如何。答。上定正法像法時分。兼示不言末法時代。今前不言末法時分。約法滅尽。但雖法滅非無末法。為顕此義重引用之。所引異故。無其過也。上人此鈔不痛再用。宜為准拠。SYOZEN2-411,412/TAI9-342,343
 〇次に千五百年の問答の答の中に、「大迦葉等七賢」等とは、問う、『附法蔵』を案ずるに、馬鳴以前にその十人あり。謂わく大迦葉、阿難尊者、商那和修、優婆毬多、並びに提多迦と弥遮迦と、仏陀難提、仏陀密多と、脇比丘と、及び富那奢比丘これなり。云何言いて「七賢聖」とするや。答う、その数誠に爾なり。今試みにこれを推するに、これまさに七人の賢聖というにはあらざるべし。けだしその位を顕わして七賢七聖に登る人というか。「至六百年九十」等とは、馬鳴菩薩は『附法蔵』の中には第十一代の祖師なり。即ち富那奢比丘の弟子なり。今『摩訶摩耶経』の意に依るに、彼の経に説きて云わく「如来滅後六百歳已りて、九十六種(六種・五種、これ異説なり)、もろもろに外道等の邪見競い起こりて仏法を毀滅するに、一の比丘あり、名づけて馬鳴という。善く法要を説きて一切の諸の外道の輩を降伏す」已上。「七百年中に龍樹」等とは、龍樹またこれ『附法蔵』の中の比羅比丘の弟子、第十三代の祖師なり。また同じき経に云わく「如来滅後七百歳已わりて一の比丘あり、名づけて龍樹という。善く法要を説きて、邪見の幢を滅し、正法の炬を燃〈とも〉さん」已上。「一千年中開不」等とは、智者は不浄観意を説くといえども、多欲の人は境に著愛するが故に、信受に能わず。還りて瞋を起こすなり。ただし「開」と「聞」とその異本あり。「開」は能化のこの観を教しうる意に拠る。開演の義なり。「聞」は所化に約して聴聞の意なり。「爰曰千五百年」等とは、本書の中に「爰曰」の字なし。異本あるか。「拘[セン07]弥」とは、第二の字は、或いは「[セン01]」、或いは[セン07]、本に異あるか。[セン01]〈せん・たん〉は玉篇に云わく「式冉の切。暫く視る貌なり」。『広韻』に云わく「失染の切。暫く見る」已上。[セン07]の字に於いては、未だこれを勘見せず。またこの国の名俗に陜の音を用う。旁、[セン06]の字を以て正とすべきか。次に『大集経』の第五十一。『安楽集』に末法の時中に聖道の証し難きことを判ずるに、この経文に依る。末法の時に於いて、戒定慧の三学なきが故なり。「基の般若会の釈に云」等とは、問う、上にこの文を出だす。重累すること如何。答う、上には正法・像法の時分を定め、兼て末法の時代をいわざることを示す。今は前に末法の時分をいわざることは法の滅尽に約す。ただし法滅といえども末法なきにあらず。この義を顕わさんが為に重ねてこれを引用す。所引の異なるが故に、その過なきなり。上人はこの鈔に再用を痛まず。よろしく准拠とすべし。SYOZEN2-411,412/TAI9-342,343


 ◎問。若爾者。今世正当何時。答。滅後年代雖有多説。且挙両説。一法上師等依周異説言。仏当第五主穆王満五十一年壬申入滅。若依此説。従其壬申至我延暦二十年辛巳。一千七百五十歳。二費長房等依魯春秋。仏当周第二十主匡王班四年壬子入滅。若依此説。従其壬子至我延暦二十年辛巳。一千四百十歳。故如今時是像法最末時也。彼時行事既同末法。然則於末法中。但有言教而無行証。若有戒法。可有破戒。既無戒法。由破何戒而有破戒。破戒尚無。何況持戒。故大集云。仏涅槃後無戒満州。云云。
 ◎(末法灯明記)問う。もししからば今の世は正しくいずれの時にか当るや。答う。滅後の年代多説ありといえども、しばらく両説を挙ぐ。一には法上師等、『周異』の説に依りて言わく、仏、第五主、穆王満五十一年壬申に当りて入滅したまうと。もしこの説に依らば、その壬申より我が延暦二十年辛巳に至るまで、一千七百五十歳なり。二には費長房等、魯の『春秋』に依らば、仏、周の第二十一主、匡王班四年壬子に当りて入滅したまうと。もしこの説に依らば、その壬子より我が延暦二十年辛巳に至るまで、一千四百十歳なり。故に今の時のごときは、これ最末の時なり。かの時の行事、すでに末法に同ぜり。しかればすなわち末法の中においては、ただ言教のみありて行証なけん。もし戒法あらば破戒あるべし。すでに戒法なし、いずれの戒を破せんに由りてか破戒あらんや。破戒なお無し、いかにいわんや持戒をや。故に『大集』に云わく、仏涅槃の後、無戒、洲に満たんと云云。KESINDO:SYOZEN2-170/-HON-362,HOU-473-

 〇次問答中。仏滅時代挙両説中。可用何耶。答。只挙両説不判殿最。何是何非。難輙用捨。但我聖人依周異記。上云如来涅槃時代。周第五主穆王壬申至我元仁。勘其年記。既結二千百余故也。将又匪啻聖人用之。常途所用大略亦同。次大集文。問。此文唯云仏涅槃後不指時分。何証末法無戒義耶。答。文段前後未広[ケン03]之。山家高覧不可成疑。定於末法説此義歟。只所引文不具而已。SYOZEN2-412,413/TAI9-343
 〇次の問答の中に、仏滅の時代に両説を挙ぐる中に、いずれを用うべきや。答う、ただ両説を挙げて殿最を判ぜず。いずれか是、いずれか非、輙く用捨しがたし。ただし我聖人は『周異記』に依る。上に如来涅槃の時代をいうに、周の第五主穆王壬申より、我が元仁に至るまで、その年記を勘がうるに。既に二千百余と結するが故なり。はたまた、ただ聖人のみこれを用いたまうにあらず。常途の所用は大略また同じ。次に『大集』の文。問う、この文にはただ「仏涅槃の後」といいて時分を指さず。何ぞ末法無戒の義を証するや。答う、文段の前後は、未だ広くこれを[ケン03]べず。山家の高覧、疑を成ずべからず。定んで末法に於いてこの義を説くか。ただ所引の文は具ならざらくのみ。SYOZEN2-412,413/TAI9-343


 ◎問。諸経律中広制破戒不聴入衆。破戒尚爾。何況無戒。而今重論末法無戒。豈無瘡自以傷哉。答。此理不然。正像末法所有行事。広載諸経。内外道俗。誰不披諷。豈貪求自身邪活。隠蔽持国之正法乎。但今所論末法。唯有名字比丘。此名字為世真宝無福田。設末法中有持戒者。既是怪異。如市有虎。此誰可信。
 ◎(末法灯明記)問う、もろもろの経律の中に、広く破戒を制して衆に入ることを聴さず。破戒なお爾なり、いかに況や無戒をやと。しかるにいま重ねて末法を論ずるに、戒なし。あに瘡なきを自らもって傷まんやと。答う、この理しからず。正・像・末法の所有の行事、広く諸経に載せたり。内外の道俗誰か披諷せざらん。あに自身の邪活を貪求して、持国の正法を隠蔽せんや。ただし今論ずるところの末法には、ただ名字の比丘のみあらん。この名字を世の真宝とせん。福田なからんや。たとい末法の中に持戒あらば、すでにこれ怪異なり、市に虎あらんがごとし。これ誰か信ずべきや。KESINDO:SYOZEN2-170,171/-HON-362,HOU-473,474-

 〇次問答下。当云次定破持僧事之文段歟。当段之中問答有四。今其初重也。此問意云。仏教不聴破戒。況無戒哉。而立末法無戒義者。今時僧侶既非世宝不足受供。何表過也。豈無等者。以譬責之。他不加疵豈自傷之。言無益也。今見本書。豈与無中有非一字。本有異歟。対有此字其意易得。但雖無之。読其文点無所違歟。答意趣者。三時行事経説無私。妄存邪活豈枉正理。但受世供。更非虚受。末法之中名字比丘為世宝故非可痛也。SYOZEN2-413/TAI9-358,359
 〇次に問答の下、次に破持僧の事を定むといえる文段に当るか。当段の中、問答に四あり。今その初重なり。この問の意の云わく、仏教は破戒を聴さず。況んや無戒をや。しかるに末法無戒の義を立つるは、今時の僧侶は既に世宝にあらず、供を受くるに足らず。何ぞ過を表するやとなり。「豈無」等とは、譬を以てこれを責む。他の疵を加えざるに、あに自らこれを傷まんや。言は益なきなり。今、本書を見るに、「豈」と「無」との中に「非」の一字あり。本に異あるか。この字あるに対し、その意、得易し。ただしこれなしといえども、その文点を読む、違する所なきか。答の意趣は、三時の行事・経説に私なし。妄に邪活を存して、あに正理を枉〈ま〉げん。ただ世供を受くるは、更に虚受にあらず。末法の中に名字比丘は世宝たるが故に痛むべきにあらずとなり。SYOZEN2-413/TAI9-358,359


 ◎問。正像末事已見衆経。末法名字為世真宝出聖典。答。大集第九云。譬如真金為無価宝。若無真金者。銀為無価宝。若無銀者。鍮石偽宝為無価。若無偽宝。赤白銅鉄白錫鉛為無価。如是一切世間宝。仏法無価。若無仏宝者。縁覚無上。若無縁覚。羅漢無上。若無羅漢。余賢聖衆以無上。若無余賢聖衆。得定凡夫以為無上。若無得定凡夫。浄持戒以為無上。若無浄持戒。漏戒比丘以為無上。若無漏戒。剃除鬚髮身著袈裟名字比丘為無上宝。比余九十五種異道。最為第一応受世供。為物初福田。何以故。破能身衆生。所怖畏故。有護持養育安置是人不久得忍地。已上経文。
 ◎(末法灯明記)問う、正・像・末の事、すでに衆経に見えたり。末法の名字を世の真宝とせんことは、聖典に出でたりや。答う、『大集』の第九に云わく「たとえば真金を無価の宝とせんがごとし。もし真金なくは、銀を無価の宝とす。もし銀なくは、鍮石・偽宝を無価とす。もし偽宝なくは、赤白銅鉄白錫鉛を無価とす。かくのごとき一切世間の宝のうちに、仏法無価なり。もし仏宝なくは、縁覚無上なり。もし縁覚なくは、羅漢無上なり。もし羅漢なくは、余の賢聖衆、もって無上なり。もし余の賢聖衆なくは、得定の凡夫、もって無上とす。もし得定の凡夫なくは、浄持戒をもって無上とす。もし浄持戒なくは、漏戒の比丘をもって無上とす。もし漏戒なくは、剃除鬚髪して身に袈裟を着たる名字比丘を無上の宝とす。余の九十五種の異道に比するに最も第一とす。世の供を受くべし、物のための初の福田なり。何をもっての故に。能身を破る衆生、怖畏するところなるが故に。護持養育してこの人を安置することあらん、久しからずして忍地を得んと。已上経文。KESINDO:SYOZEN2-171/-HON-362,363,HOU-474-

 ◎此文中有八重無価。所謂如来像・縁覚・声聞・及前三果・得定凡夫・持戒・破戒・無戒名字。如其次名為正像末之時無価宝也。初四正法時。次三像法時。後一末法時。由此明知。破戒無戒咸是真宝。
 ◎(末法灯明記)この文の中に八重の無価あり。いわゆる如来像に、縁覚、声聞および前三果、得定の凡夫、持戒、破戒、無戒名字、その次のごとし、名づけて正像末の時の無価の宝とするなり。初の四は正法時、次の三は像法時、後の一は末法時なり。これに由りて明らかに知りぬ、破戒・無戒、ことごとくこれ真宝なりと。KESINDO:SYOZEN2-171/-HON-363,HOU-474-

 〇第二重問。就云前答末法比丘名字為上。問其説也。依之其答出大集経第九巻文。文意可見。SYOZEN2-413/TAI9-364
 〇第二重の問。前の答に末法の比丘名字を上とすというに就きて、その説を問うなり。これに依りてその答に『大集経』の第九巻の文を出だす。文意、見つべし。SYOZEN2-413/TAI9-364


 ◎問。伏観前文。破戒名字莫不真宝。何故涅槃・大集経。国王大臣供破戒僧。国起三災遂生地獄。破戒尚爾。何況無戒。而爾如来於一破戒。或毀或讃。豈一聖之説有両判之失。答。此理不然。涅槃等経且制正法之破戒。非像末代之比丘。其名雖同。而時有異。随時制許。是大聖旨破。於世尊仏両判失。
 ◎(末法灯明記)問う、伏して前の文を観るに、破戒名字、真宝ならざることなし。何がゆえに『涅槃』と『大集経』に、国王・大臣、破戒の僧を供すれば、国に三災起こり、遂に地獄に生ずと。破戒なおしかり、いかに況や無戒をや。しかるに如来一つの破戒において、あるいは毀り、あるいは讃む。あに一聖の説に両判の失あらんや。答う、この理しからず。『涅槃』等の経には、しばらく正法の破戒を制す。像・末代の比丘にはあらず。その名同じといえども、時に異あり。時に随いて制許す、これ大聖の旨破なり。世尊において両判の失ましまさず。KESINDO:SYOZEN2-171/-HON-363,364,HOU-474,475-

 〇第三重問。涅槃経明供破戒僧失現当益。況無戒乎。又引大集雖証可尊名字比丘。同経之中。又有相同涅槃之説。仍問一仏所説之中讃毀異也。答意趣者。制許随時。制破戒者約正法時。許名字者是約像法及末法也。SYOZEN2-413/TAI9-368,369
 〇第三重の問。『涅槃経』には破戒僧を供して現当の益を失することを明かす。いわんや無戒をや。また『大集』を引きて名字の比丘を尊ぶべきことを証すといえども、同じき経の中に、また『涅槃』に相同じき説あり。よって一仏の所説の中に讃・毀の異なることを問うなり。答の意趣は、制許は時に随いて、破戒を制するは正法の時に約し、名字を許すは、これ像法及び末法に約するなり。SYOZEN2-413/TAI9-368,369


 ◎問。若爾以何知。涅槃等経但制止正法所有破戒非像末僧。答。如所引大集所説八重真宝。是其証也。皆為当時無価。故但正法時破戒比丘穢清浄衆。故仏固禁制不入衆。所以然者。涅槃第三云。如来今以無上正法付属諸王大臣宰相比丘比丘尼。乃至。有破戒毀正法者。王及大臣四部衆応当苦治。如是王臣等得無量功徳。乃至。是我弟子。真声聞也。得福無量。乃至。如是制文法。往往衆多。皆是正法所明之制文。非像末教。所以然者。像季末法不行正法。無法可毀。何名毀法。無戒可破。誰名破戒。又其時大王無行而可護。由何出三災及於失戒慧。又像末無証果人。如何明被聴護二聖。故知上所説皆約正法世有持戒時。有破戒故。
 ◎(末法灯明記)問う、もししからば何をもってか知る、『涅槃』等の経は、ただ正法所有の破戒を制止して、像末の僧にあらずとは。答う、引くところの『大集』所説の八重の真宝のごとし、これその証なり。みな時に当たりて無価とするが故に。ただし正法の時の破戒比丘は清浄衆を穢す。故に仏固く禁制して衆に入れず。しかるゆえは『涅槃』の第三に云わく、如来いま無上の正法をもって、諸王・大臣・宰相・比丘・比丘尼に付嘱したまえり。乃至。戒を破り正法を毀る者あらば、王および大臣・四部の衆、当に苦治すべし。かくのごときの王臣等、無量の功徳を得ん。乃至。これ我が弟子なり、真の声聞なり、福を得ること無量ならん。乃至。かくのごときの制文の法、往往衆多なり。みなこれ正法に明かすところの制文なり。像末の教にあらず。しかるゆえは、像季末法には正法を行ぜざれば、法として毀るべきなし。何をか毀法と名づけん。戒として破すべきなし。誰をか破戒と名づけん。またその時の大王の、行として護るべきなし。何に由りてか三災を出だし、および戒慧を失せんや。また像末には証果の人なし。いかんぞ二聖を聴護せらるることを明かさん。故に知りぬ、上の所説はみな正法の世に持戒ある時に約して破戒あるがゆえなり。KESINDO:SYOZEN2-171,172/-HON-364,HOU-475-

 〇第四重問。就前所立問其拠也。答中出証於重重義有其十三。一以前所引大集経説即先為証。二涅槃第三此文之中所略有三。初丘尼下有破之上言乃至者。有二行余。其闕文云。優婆塞優婆夷是諸国王大臣及四部衆。応当勧励諸学人等令得増長上定戒智慧。若有不学是三品法。懈怠有破戒等也。次功徳下是我之上言乃至者。有一行余。其闕文云。当無有小罪。我涅槃後。其方面有持戒比丘護持正法。見壊法者即能駈遣。呵嘖恋治。已上。後無量下如是之上言乃至者。所除文言有六行余。其中前涅槃文残一行余。三大集経文第二十八一行有余。四同二十八二行有余。彼此文云。若善比丘見壊法者置不可嘖。当知是人仏法中怨。又大集経二十八云。若有国王見我法滅捨不擁護。於無量世修施戒慧悉皆滅失。其国内出三種不祥事。乃至命終生地獄。又同経三十一云。仏言大王寧守護如法比丘一人不護無量諸悪比丘。今我唯聴二人賞護。一羅漢具八解脱。二須陀[オン01]人。已上。SYOZEN2-413,414/TAI9-372
 〇第四重の問。前の所立に就きてその拠を問うなり。答の中に証を出だすに、重重の義に於いて、その十三あり。一には以前に引く所の『大集経』の説を即ちまず証とす。二には『涅槃』第三、この文の中に略する所、三あり。初に「丘尼」の下、「有破」の上に「乃至」というは、二行余あり。その闕文に云わく「優婆塞・優婆夷、この諸の国王・大臣及び四部の衆は、まさに諸の学人等を勧励して上の定戒智慧を増長することを得しむべし。もしこの三品の法を学せざることあらば、懈怠して破戒等あるなり」。次に「功徳」の下。「是我」の上に「乃至」というは、一行余あり。その闕文に云わく「まさに小罪あることなし。我が涅槃の後、その方面に持戒の比丘ありて、正法を護持せん。壊法の者を見ては即ち能く駈遣し、呵嘖し恋治せよ」已上。後に「無量」の下、「如是」の上に「乃至」というは、除く所の文言に六行余あり。その中に前の『涅槃』の文の残り一行余なり。三に『大集経』の文、第二十八の一行有余。四に同じき二十八の二行有余。彼此の文に云わく「もし善比丘、法を壊する者を見て置きて嘖すべからず。まさに知るべし、この人は仏法の中の怨なり」。また『大集経』の二十八に云わく「もし国王ありて我が法の滅せんを見て捨てて擁護せず。無量世に於いて修する施と戒と慧と、悉く皆滅失す。その国の内に三種の不祥の事を出だす。乃至命終して地獄に生ぜん」。また同じき経の三十一に云わく「仏の言わく、大王、寧ぞ如法の比丘一人を守護して無量の諸の悪比丘を護らざらん。今我ただ二人の賞護を聴〈ゆる〉す。一には羅漢の八解脱を具する、二には須陀[オン01]の人なり」と已上。SYOZEN2-413,414/TAI9-372


 ◎次像法千年中。初五百年。持戒漸減。破戒漸増雖有戒行而無証果。故涅槃七云。迦葉菩薩白仏言。世尊。如仏所説有四種魔。若魔所説及仏所説。我当云何而得分別。有諸衆生随逐魔行。復有随順仏説者。如是等輩復云何知。仏告迦葉。我涅槃七百歳後。是魔波旬漸起。当頻壊我之正法。譬如猟師身服法衣。魔波旬亦復如是。作比丘像・比丘尼像・優婆塞優婆夷像亦復如是。乃至。聴諸比丘受畜奴僕使牛羊象馬乃至銅鉄釜錫大小銅盤所須之物。耕田種敗売市易儲穀米。如是衆事。仏大悲故。憐愍衆生皆聴畜。如是経律。悉是魔説。云云。既云七百歳後波旬漸起。故知彼時比丘漸貪畜八不浄物作此妄説。即是魔流也。此等経中。明指年代具説行事。不可更疑。其挙一文。余皆準知。
 ◎(末法灯明記)次に像法千年の中に、初の五百年には、持戒ようやく減じ、破戒ようやく増せん。戒行ありといえども、証果なし。故に『涅槃』の七に云わく、迦葉菩薩、仏に白して言さく、世尊、仏の所説のごときは、四種の魔あり。もし魔の所説および仏の所説、我まさにいかんしてか分別することを得べき。もろもろの衆生ありて魔行に随逐せん。また仏説に随順する者あらん。かくのごとき等の輩、またいかんが知らんと。仏、迦葉に告げたまわく、我涅槃して七百歳の後に、これ魔波旬ようやく起こりて、当にしきりに我が正法を壊すべし。たとえば猟師の身に法衣を服るがごとし。魔波旬もまたかくのごとし。比丘像・比丘尼像・優婆塞・優婆夷像と作らんこと、またかくのごとしと。乃至。もろもろの比丘、奴〈奴婢〉・僕使・牛・羊・象・馬、乃至、銅鉄釜錫〈[フク01]〉・大小銅盤、所須の物を受畜し、耕田種・敗売市易して、穀米を儲くることを聴〈ゆる〉すと。かくのごときの衆事、仏、大悲の故に衆生を憐愍して、みな蓄うることを聴さんと。かくのごときの経律は、ことごとくこれ魔説なり」と云云。すでに、七百歳の後に、波旬ようやく起こらんと云えり。故に知りぬ。かの時の比丘、ようやく八不浄物を貪畜せん。この妄説を作せん。すなわちこれ魔の流なり。これらの経の中に、明らかに年代を指して具に行事を説けり。さらに疑うべからず。それ一文を挙ぐ。余はみな準知せよ。KESINDO:SYOZEN2-172,173/-HON-364,365,HOU-475,476-

 〇五涅槃第七。此文之中。如是之下。聴諸之上。言乃至者。所略文言有三行余。其闕文云化作(本書此二字上如是二字不見)須陀[オン01]身乃至化作阿羅漢身及仏色身。魔王以此有漏之形作無漏身壊我正法。是魔波旬。為壊正法当作是言。仏在会衛国祇陀精舎。已上。問。引此経已。解釈中云八不浄物。指何物乎。答。上経之中所言奴婢僕使等歟。奴婢為一。僕使為一。牛羊象馬分而為四。銅鉄雖異釜[フク01]為一。大小雖別。銅盤為一。合八種也。SYOZEN2-414/TAI9-379
 〇五に『涅槃』の第七。この文の中に、「如是」の下、「聴諸」の上に、「乃至」というは、略する所の文言に三行余あり。その闕文に云わく「須陀[オン01]の身を化作し(本書この二字の上に「如是」の二字、見えず)、乃至、阿羅漢の身、及び仏の色身を化作し、魔王はこの有漏の形を以て無漏身と作して我が正法を壊せん。この魔波旬は正法を壊せんが為に、まさにこの言を作す。仏は会衛国祇陀精舎に在りて」已上。問う、この経を引き已わりて、解釈の中に八不浄物をいう、何物を指すや。答う、上の経の中に言う所の「奴婢僕使」等か。奴婢を一とし、僕使を一とし、牛羊象馬を分かちて四とす。銅鉄は異なりといえども、釜[フク01]を一とし、大小は別なりといえども、銅盤を一とす。合して八種なり。SYOZEN2-414/TAI9-379


 ◎次像法後半。持戒減少。破戒巨多。故涅槃六云。乃至。
 ◎(末法灯明記)次に、像法の後〈のち〉半ばは持戒減少し、破戒巨多ならん。故に『涅槃』の六に云く、乃至。KESINDO:SYOZEN2-173/-HON-365,HOU-476-

 〇六同経第六。但挙経名不載言句。其現文云。仏告菩薩言。善男子譬如迦羅林。其樹衆多閼菓乃有九分。是人不識齎来詣市而衒。是林中唯有一樹。名鎮頭迦。是迦羅樹与鎮頭迦樹二菓相似不可分別。其菓熟時。有一女人悉皆拾取。鎮頭迦菓載唯有一分。迦羅迦売之。凡愚小児復不別故。買迦羅迦菓[タン03]已命終。有智人輩。聞是事已即問女人。姉於何処持是菓来。是時女人即示方所。諸人即言。如是方所。有無量迦羅迦樹。唯一根鎮頭迦樹。諸人知之已笑而捨去。善男子大衆之中八不浄法亦復如是。於是衆中多受用如是八法。唯有一人清浄持戒。不受如是八不浄法。而知諸人受畜非法。然而同事不相捨難。如彼林中一鎮頭迦樹。已上。SYOZEN2-,/TAI9-383,
 〇六に同じき経の第六。ただ経名を挙げて言句を載せず。その現文に云わく「仏、菩薩に告げて言わく、善男子、譬えば迦羅林の如し。その樹衆多にして閼菓乃し九分あり。この人識らずして齎〈も〉ち来たりて市に詣て衒〈う〉る。この林の中にただ一樹あり、鎮頭迦と名づく。この迦羅樹と鎮頭迦樹と、二菓は相似して分別すべからず。その菓の熟する時、一の女人ありて悉くみな拾い取る。鎮頭迦の菓は載せてただ一分あり。迦羅迦はこれを売るに、凡愚小児はまた別かたざるが故に、迦羅迦菓を買いて、[タン03]〈く〉い已わりて命終す。智人の輩ありて、この事を聞き已わりて即ち女人に問う。姉はいずれの処にしてこの菓を持ち来たれるぞ。この時に女人は即ち方所を示す。諸人即ちいう、かくの如き方所に、無量の迦羅迦樹ありて、ただ一根の鎮頭迦樹あり。諸人これを知り已わりて笑いて捨て去りぬ。善男子、大衆の中の八不浄法もまたかくの如し。この衆の中に於いて、かくの如きの八法を受用すること多し。ただ一人の清浄持戒なるありて、かくの如きの八不浄法を受けず。しかも諸人の非法を受畜することを知れり。しかれども、事を同じくして相捨難せず。彼の林の中のひとつの鎮頭迦樹の如し」已上。SYOZEN2-,/TAI9-383,


 ◎又十輪言。若依我法出家造作悪行。此非沙門自称沙門。亦非梵行自称梵行。如是比丘。能開示一切天龍夜叉一切善法功徳伏蔵。為衆生善知識。雖不少欲知足。剃除鬚髮被著法服。以是因縁故。能為衆生増長善根。於諸天人開示善道。乃至破戒比丘雖是死人。而戒余才如牛黄。此雖死而人故取之。亦如麝香後有用 云云 既云迦羅林中有一鎭頭迦樹。此喩像運已衰。破戒濁世僅有一二持戒比丘。
 ◎(末法灯明記)また『十輪』にのたまわく、もしわが法によりて出家して悪行を造作せん。これ沙門にあらずして自ら沙門と称し、また梵行にあらずして自ら梵行と称せん。かくのごときの比丘、よく一切の天竜夜叉、一切の善法功徳伏蔵を開示して、衆生の善知識とならん。少欲知足ならずといえども、剃除鬚髪して、法服を被着せん。この因縁をもっての故に、よく衆生のために善根を増長せん。もろもろの天人において善道を開示せん。乃至。破戒の比丘、これ死せる人なりといえども、しかも戒の余才、牛黄のごとし。これ死するといえども、人ことさらにこれを取る。また麝香の後に用あるがごとしと、云云。すでに迦羅林のなかに一の鎮頭迦樹ありといえり。これは像運すでに衰えて、破戒濁世にわずかに一・二の持戒の比丘あるに喩う。KESINDO:SYOZEN2-173/-HON-365,HOU-476,477-

 〇七十輪経文。SYOZEN2-415/TAI9-384
 〇七に『十輪経』の文。SYOZEN2-415/TAI9-384

 ◎又云。破戒比丘雖是死人。猶如麝香死而有用。為衆生善知識。明知。此時漸許破戒為世福田。同前大集。
 ◎(末法灯明記)またいわく、破戒の比丘、これ死せる人なりといえども、なお麝香の死して用あるがごとし。衆生の善知識となると。明らかに知りぬ、この時ようやく破戒を許して世の福田とす。前の『大集』に同じ。KESINDO:SYOZEN2-173/-HON-365,366,HOU-477-

 〇八同経文。SYOZEN2-415/TAI9-384
 〇八に同じき経の文。SYOZEN2-415/TAI9-384


 ◎次像季後。全是無戒。仏知時運。為済末俗讃名字僧為世福田。
 ◎(末法灯明記)次に像季の後、全くこれ戒なし。仏、時運を知ろしめして、末俗を済わんがために、名字の僧を讃めて世の福田としたまえり。KESINDO:SYOZEN2-173/-HON-366,HOU-477


 ◎又大集五十二云。若後末世於我法中剃除鬚髮身著袈裟名字比丘。若有檀越捨於供養得無量福。
 ◎(末法灯明記)また『大集』の五十二に云わく、もし後の末世に、我が法の中において、鬚髪を剃除して、身に袈裟を着たらん名字の比丘、もし檀越ありて供養を捨ては無量の福を得んと。KESINDO:SYOZEN2-173/-HON-366,HOU-477

 〇九大集経文。第五十二。SYOZEN2-415/TAI9-389
 〇九に『大集経』の文、第五十二。SYOZEN2-415/TAI9-389


 ◎又賢愚経言。若檀越将来末世法乗欲尽。正使蓄妻挟子四人以上名字僧衆。応当礼敬如舎利弗大目連等。
 ◎(末法灯明記)また『賢愚経』に言わく、もし檀越、将来の末世に法乗尽きんとせんに、正しく妻を蓄え子を挟〈わきはさ〉ましめん、四人以上の名字の僧衆、まさに礼敬せんこと、舎利弗、大目連等のごとくすべしと。KESINDO:SYOZEN2-173,174/-HON-366,HOU-477

 〇十賢愚経文。SYOZEN2-415/TAI9-390
 〇十に『賢愚経』の文。SYOZEN2-415/TAI9-390


 ◎又云。若打罵破戒無知身著袈裟罪。同出万億仏身血。若有衆生為我法剃除鬚髮被服袈裟。設不持戒。彼等悉已涅槃為印之所印也。乃至。
 ◎(末法灯明記)また云わく(大集経)、もし破戒無知の身に袈裟を着たるを打罵せん罪、万億の仏身より血を出だすに同じからん。もし衆生ありて、我が法のために、鬚髪を剃除し、袈裟を被服せんは、たとい戒を持たずとも、彼等はことごとくすでに涅槃の印のために印せらるるなり。乃至。KESINDO:SYOZEN2-174/-HON-366,HOU-477

 〇十一又同経文。此文之中。所印也下。言乃至者。此経文残有三行余。其終文云。是人猶能為諸人天示涅槃道。是人便已於三宝中。心生敬信。勝於一切九十五種外道。其人必能速入涅槃。勝於一切在家俗人。唯除在家得忍人。是故天人応当供養。已上。SYOZEN2-415/TAI9-391
 〇十一にまた同じき経(大集経)の文。この文の中に「所印也」の下に「乃至」というは、この経文の残り三行余あり。その終の文に云わく「この人なおよく諸の人天のために涅槃の道を示す。この人すなわち已に三宝の中に於いて、心に敬信を生ず。一切の九十五種の外道に勝れたり。その人は必ずよく速かに涅槃に入る。一切の在家の俗人に勝れたり。ただ在家得忍の人を除く。この故に天人はまさに供養すべし」已上。SYOZEN2-415/TAI9-391


 ◎大悲経云。仏告阿難。於将来世法欲滅尽時。当有比丘比丘尼。於我法中得出家。己手牽兒臂而共遊行。彼酒家至酒家。於我法中作非梵行。彼等雖為酒因縁。於此賢劫中当有千仏興出。我為弟子。次後弥勒当補我所。乃至。最後盧至如来。如是次第。汝応当知。阿難。於我法中但使性是沙門行自称沙門。形似沙門尚有被著袈裟者。於賢劫弥勒為首。乃至盧至如来。彼諸沙門。如是仏所。於無余涅槃。次第得入涅槃。無有遺余。何以故。如来一切沙門中。乃至一称仏名一生信者。所作功徳終不虚設。我以仏智惻知法界故云云。乃至。此等諸経皆指年代。将来末世名字比丘為世尊師。若以正法時制文而制末法世名字僧者。教機相乖。人法不合。由此律云。制非制者則断三明。所記説是有罪。此上引経配当已訖。
 ◎(末法灯明記)『大悲経』に云わく、仏、阿難に告げたまわく、将来世において法滅尽せんとせん時、まさに比丘・比丘尼ありて我が法の中において出家を得たらんもの、己が手に児の臂を牽き、共に遊行して、かの酒家より酒家に至らん。我が法の中において非梵行を作さん。彼等、酒の因縁たりといえども、この賢劫の中において、まさに千仏ましまして興出したまわんに、我が弟子となるべし。次に後に弥勒、まさに我が所を補〈つ〉ぐべし。乃至、最後盧至如来まで、かくのごとき次第に、汝まさに知るべし。阿難、我が法の中において、ただ性はこれ沙門の行にして、自ら沙門と称せん、形は沙門に似てひさしく袈裟を被著することあらしむ者は、賢劫において弥勒を首として、乃至、盧至如来まで、かのもろもろの沙門、かくの如きの仏の所にして、無余涅槃において次第に涅槃に入ることを得ん。遺余あることなけん。何をもっての故に。如来〈かくの如く〉一切沙門の中に、乃至、一たび仏の名を称し、一たび信を生ぜん者の所作の功徳、終に虚設ならじ。我、仏智をもって法界を惻知するがゆえなりと云云。乃至。これらの諸経に、みな年代を指して、将来末世の名字比丘を世の尊師とす。もし正法の時の制文をもって、末法世の名字僧を制せば、教と機とあい乖き、人法合せず。これに由りて『律』(四分律)に云わく、非制を制するは、すなわち三明を断ず。記説するところこれ罪ありと。この上に経を引きて配当しおわりぬ。KESINDO:SYOZEN2-174/-HON-366,367,HOU-477,478

 〇次大悲経十二番也。本書所引経名之上有又一字。此経文終法界故下。言乃至者。維摩経文十三番也。経名文言合一行余。其現文云。次維摩経云。仏十号中聞初三号。仏若広説経劫不尽。已上。問。多文之中除此経文。有何故乎。答。上諸文者皆証像末貴名字僧。其義分明。故具引之。今讃仏号。其義聊異。故且略耳。問。如此義者。本書何煩引此文乎。答。上説名字比丘行状。嘆諸沙門一称仏名功徳不虚。此経亦説仏号徳故。為助其義所引用也。SYOZEN2-415/TAI9-394
 〇次に『大悲経』は十二番なり。本書所引の経名の上に「又」の一字あり。この経文の終、「法界故」の下に「乃至」というは、『維摩経』の文、十三番なり。経名・文言、合して一行余なり。その現文に云わく「次に維摩経に云わく、仏の十号の中に初の三号を聞く。仏もし広く説かば劫を経るともきず」已上。問う、多くの文の中にこの経文を除くは、何の故かあるや。答う、上の諸文はみな像末に名字の僧を貴ぶことを証すること、その義分明なり。故に具にこれを引く。今は仏号を讃ず。その義聊か異なる。故に且く略すらくのみ。問う、この義の如くならば、本書に何ぞ煩しくこの文を引くや。答う、上に名字の比丘の行状を説きて、諸の沙門は一たび仏名を称するに功徳の虚しからざることを嘆ず。この経にまた仏号の徳を説くが故に、その義を助けんが為に引用する所なり。SYOZEN2-415/TAI9-394


 ◎後挙教比例者。末法法爾正法毀壊。三業無記。四儀有乖。且如像法決疑経云。乃至。又遺教経云。乃至。又法行経云。乃至。鹿子母経云。乃至。又仁王経云。乃至。已上略抄。
 ◎(末法灯明記)後に教を挙げて比例せば、末法法爾として正法毀壊し、三業記なし、四儀乖くことあらん。しばらく『像法決疑経』に云く、乃至。また『遺教経』に云く、乃至。また『法行経』に云く、乃至。『鹿子母経』に云く、乃至。また『仁王経』に云うがごとしと。乃至。已上略抄。KESINDO:SYOZEN2-174/-HON-367,HOU-478

 〇抑後挙教比例之中。出五経文。但挙経題皆略其文。是依文繁譲本書歟。然而為令後学易見。偏任本書。重牒経名悉以載之。其具文云。且如像法決疑云。若復有人雖造塔寺供養三宝。不生敬重。請僧在寺不供養飲食衣服湯薬。返更乞[X11][タン03]僧食。不問貴賤。一切専欲於衆僧中作不饒益。侵損悩乱。如此人輩永堕三塗。今見俗間盛行此事。時運自爾。非人故。爾檀越既無檀越志。誰得誹僧無僧行。又遺教経云。一日乗車馬除五百日斉。当代行者之罪。何呈持斉之徳。又法行経云。我弟子若受別請。不得国王地上行。不得飲国王地水。五百大鬼常遮其前。五千大鬼常従罵言仏法大賊。鹿母子経云。別請五百羅漢。猶不得名福田。若施一似像悪比丘。得無量福。当代道人已好別請何処殖福。持戒之人豈加之。既不践王地上。亦不許飲王地水。五千大鬼常罵大賊。嗟呼持戒僧罪何於其改過乎。又仁王経言。若我弟子為官所使。非我弟子。立大小僧[エン08]共相摂縛。当爾之時仏法滅没。是為破仏法破国因縁云云。推仁王等。拝僧[エン08]以為破僧之俗。彼大集等。称無戒以為済世之宝。豈留破国之蝗。遂棄保家之宝。須不分二類共喰一味。僧尼不絶跡。鳴鐘不失時。然乃冗末法之教。令有国之道。已上。SYOZEN2-415,416/TAI9-398,399
 〇そもそも後に教を挙げ比例する中に、五経の文を出だす。ただし経題を挙げて、みなその文を略す。これ文繁きに依りて本書に譲るか。しかして後学をして見易からしめんが為に、偏に本書に任せ、重ねて経名を牒して、ことごとく以てこれを載す。その具なる文に云わく「且く『像法決疑』にいうが如し。もしまた人ありて塔寺を造り三宝を供養すといえども、敬重を生ぜず。僧を請じて寺に在〈お〉けども、飲食・衣服・湯薬を供養せず。返りて更に乞[X11]〈=賦?〉にして僧食をくらう。貴賤を問わず、一切専ら衆僧の中に於いて不饒益を作し、侵損し悩乱せんと欲す。かくの如き人の輩は永く三塗に堕す。今、俗間を見るに、盛りにこの事を行ず。時運自ずから爾なり。人にあらざるが故に。しかるに檀越既に檀越の志なし。誰か僧に僧行なしと誹ることを得ん。また『遺教経』に云わく、一日、車馬に乗れば五百日の斉を除く。当代行者の罪、何ぞ持斉の徳を呈〈あらわ〉さん。また『法行経』に云わく、我が弟子、もし別請を受けば、国王の地の上を行くことを得ず、国王の地の水を飲むことを得ず。五百の大鬼は常にその前を遮る。五千の大鬼は常に従いて罵りて仏法の大賊という。『鹿母子経』に云わく、別に五百の羅漢を請ず。なお福田と名づくることを得ず。もしひとりの似像の悪比丘に施すに、無量の福を得。当代の道人は已に別請を好みて、何の処にか福を殖〈う〉えん。持戒の人、あにこれに加せんや。既に王地の上を践〈ふ〉まず、また王地の水を飲むことを許さず。五千の大鬼は常に大賊と罵る。ああ、持戒の僧の罪、何ぞそれに於て過を改めんや。また『仁王経』に言わく、もし我が弟子、官の為に使われば、我が弟子にあらず。大小の僧[エン08]〈統〉を立て、共にあい摂縛せん。その時に当りて仏法滅没しなん。これを仏法を破し国を破する因縁なりとす云云。『仁王』等を推するに、僧[エン08]〈統〉を拝するを以て破僧の俗とす。彼の『大集』等に無戒を称して以て世を済うの宝とす。あに破国の蝗を留めんや。ついに保家の宝を棄てんや。須く二類を分たず、共に一味を喰す。僧尼、跡を絶たずして、鳴鐘、時を失わず。しかれば乃ち末法の教に冗〈かな〉って、国を有〈たも〉つ道を令〈よく〉せん。已上。SYOZEN2-415,416/TAI9-398,399


 ◎顕浄土方便化身土文類 六本

 教行信証六要鈔会本第九